「難攻不落の要塞」は、どのようにドイツ軍を250日間も釘付けにしたのか
1-1. クリミア半島の真珠──セヴァストポリとは何か
黒海に突き出たクリミア半島。その南端に位置する軍港都市セヴァストポリは、18世紀から続くロシア海軍の聖地だった。
温暖な気候、天然の良港、そして何より──数十年にわたって構築されてきた地下要塞網。この都市は文字通り「難攻不落の要塞」として、ソ連の誇りそのものだった。
1941年6月22日、ドイツ軍がバルバロッサ作戦を発動してソ連に侵攻したとき、ヒトラーと参謀本部はクリミア半島の重要性を十分に理解していた。
なぜなら──
黒海艦隊の本拠地:ソ連の南方海域を支配する艦隊の心臓部 ルーマニア油田への脅威:クリミアから発進する航空機は、ドイツの生命線であるプロイェシュティ油田を爆撃できる 地政学的要衝:黒海からコーカサス、さらには中東への足がかり
だからこそ、ドイツ軍はクリミア半島を制圧し、セヴァストポリを陥落させる必要があった。
しかし──この「必要性」が、ドイツ第11軍を250日間も釘付けにし、本来の主目標であるスターリングラード攻略を遅らせる結果となった。
僕たち日本人にとって、セヴァストポリ包囲戦はあまり馴染みのない戦いかもしれない。でも実は、この戦いには日本軍の硫黄島の戦いや沖縄戦と共通する要素がたくさんあるんだ。
地下要塞での徹底抗戦、民間人を巻き込んだ総力戦、そして最後まで降伏しない防衛側の意志──。
この記事では、人類史上最も長期間にわたる包囲戦の一つ、セヴァストポリ攻防戦を、戦術、兵器、人間ドラマの側面から徹底的に解説していく。
1-2. この記事で伝えたいこと
セヴァストポリ包囲戦は、単なる「ドイツ軍の勝利」として片付けられる戦いではない。
確かにドイツ軍は最終的に要塞を陥落させた。しかしその代償はあまりにも大きく、戦略的には「勝って負けた」戦いだったとも言える。
この記事を通じて、僕が伝えたいのは:
- 要塞戦の凄まじさ:近代戦における要塞攻略がいかに困難で血みどろの戦いになるか
- 兵器技術の極致:世界最大の列車砲「ドーラ」をはじめとする超重砲の実態
- 人間の限界と可能性:極限状況下で戦い抜いた兵士たちの姿
- 戦略の落とし穴:局地的勝利が全体的敗北につながるパラドックス
そして何より──同じ時代、太平洋で戦った日本軍の要塞戦(硫黄島、沖縄)との比較を通じて、戦争の普遍的な真実を見つめ直したい。
それでは、1941年秋のクリミア半島へ時間を巻き戻そう。
2. 要塞都市セヴァストポリ──18世紀から築かれた「黒海のジブラルタル」
2-1. セヴァストポリの歴史的背景
セヴァストポリの歴史は、1783年、エカチェリーナ2世がクリミア半島を併合したところから始まる。
ロシア帝国は、念願の黒海への出口を手に入れた。そして温暖な気候と天然の良港を持つこの地に、黒海艦隊の基地を建設することを決めた。
「セヴァストポリ」という名前自体が、ギリシャ語で「崇高な都市」「威厳ある都市」を意味する。まさにロシアの野心を体現した名前だった。
19世紀半ば、セヴァストポリはクリミア戦争(1853-1856年)の舞台となった。イギリス、フランス、オスマン帝国の連合軍に包囲され、349日間の籠城戦の末に陥落した。
この経験が、ソ連に「二度と陥落させない」という決意を生んだ。
1920年代から1930年代にかけて、ソ連はセヴァストポリを「要塞化された海軍基地」として再構築した。
2-2. 要塞としての構造──コンクリートと岩盤の迷宮
セヴァストポリの防御力は、以下の要素によって構成されていた:
地形的優位性
- 三方を海に囲まれた半島
- 陸側は起伏の激しい丘陵地帯
- 天然の湾(セヴァストポリ湾)による港湾防御
人工的防御施設
- 外郭防御線:市街地から10-15km離れた丘陵地帯に構築された塹壕、トーチカ、対戦車壕
- 沿岸砲台:最大口径305mmの巨砲を備えた砲台群
- 地下施設:岩盤をくり抜いた地下弾薬庫、指揮所、病院、兵舎
- 対空防御:高射砲陣地と早期警戒レーダー
特に驚異的だったのが地下施設だ。
セヴァストポリの地下には、総延長数十キロメートルに及ぶトンネルと洞窟が張り巡らされていた。これらは天然の石灰岩洞窟を拡張したものと、人工的に掘削されたものが組み合わさっていた。
最も有名なのが「35番砲台」だ。
これは地下30メートルに建設された巨大な砲台で、2基の連装305mm砲塔(戦艦の主砲と同じ)を備えていた。砲塔は厚さ数メートルのコンクリートで覆われ、通常の爆弾では破壊不可能だった。
そして何より──これらの要塞には、黒海艦隊の精鋭水兵と、沿岸防衛軍が配備されていた。彼らは何年もかけて要塞での戦闘を訓練されており、地下施設の隅々まで知り尽くしていた。
ドイツ軍がクリミア半島に迫ったとき、セヴァストポリには約10万名の守備隊がいた。
彼らは、この要塞を死守する覚悟を決めていた。
2-3. 黒海艦隊──ソ連海軍の誇り
セヴァストポリが単なる要塞ではなく「聖地」だった理由は、ここが黒海艦隊の母港だったからだ。
黒海艦隊は、帝政ロシア時代から続く伝統ある艦隊で、ソ連海軍の中でも特別な地位を占めていた。
1941年当時、黒海艦隊は以下の艦艇を保有していた:
- 戦艦1隻(パリジスカヤ・コムーナ)
- 巡洋艦6隻
- 駆逐艦17隻
- 潜水艦47隻
- その他、掃海艇、魚雷艇など多数
開戦当初、黒海艦隊はルーマニアのコンスタンツァ港を砲撃し、ドイツ軍の補給を妨害した。また、沿岸部でのドイツ軍進撃に対して艦砲射撃支援を行った。
しかし──ドイツ空軍の爆撃により、徐々に行動が制限されるようになった。それでも黒海艦隊の存在は、ドイツ軍にとって常に脅威であり続けた。
セヴァストポリ包囲戦中も、黒海艦隊の艦艇は海上から要塞への補給を続け、また艦砲射撃でドイツ軍を攻撃し続けた。
守備隊にとって、港に停泊する軍艦は「海からの援軍」であり、希望の象徴だった。
3. クリミア半島侵攻──マンシュタインの登場

3-1. 第11軍司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン

1941年9月、クリミア半島攻略の任務を与えられたのが、ドイツ第11軍司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン大将だった。
マンシュタインは、ドイツ国防軍史上最も優れた戦略家の一人として知られている。フランス侵攻時の「鎌の一撃」作戦を立案したのも彼だった。
背が高く、知的で、冷静沈着──彼は「戦略の天才」と呼ばれた。
しかし同時に、彼は傲慢で妥協を知らない性格でもあった。ヒトラーや参謀本部と何度も衝突し、自分の信念を曲げなかった。
マンシュタインがクリミア半島に到着したとき、状況は芳しくなかった。
第11軍は7個師団しか持っておらず、しかもそのうち2個師団はルーマニア軍だった。装備も不十分で、重砲も少なかった。
一方、ソ連軍はクリミア半島全体で約20万名の兵力を持ち、セヴァストポリだけでも10万名が立てこもっていた。
数の上では、ドイツ軍は完全に不利だった。
しかしマンシュタインは、「機動と集中」の原則に従って作戦を立てた。敵の弱点を突き、各個撃破する──これが彼の戦術だった。
3-2. クリミア半島突入──ペレコープ地峡の突破
クリミア半島は、わずか幅7キロメートルのペレコープ地峡で本土とつながっているだけだ。
ソ連軍はこの地峡に、第一次世界大戦以来の塹壕線を構築していた。「タタールの堀」と呼ばれる古い防塁もあった。
1941年9月24日、マンシュタインはペレコープ地峡への攻撃を開始した。
しかし──最初の攻撃は失敗した。ソ連軍の防御は予想以上に強固で、ドイツ軍は大きな損害を出して撃退された。
マンシュタインは戦術を変更した。
正面攻撃ではなく、東側のシヴァシ湾(浅い塩水湖)を渡河して側面から攻撃する作戦を立てた。
シヴァシ湾は「渡れない」と考えられていた。しかし偵察の結果、干潮時には水深が腰の高さまで下がることが判明した。
10月18日早朝、ドイツ軍は夜陰に乗じてシヴァシ湾を渡河。ソ連軍の防御線を側面から突破した。
ソ連軍は崩壊し、クリミア半島へ退却した。
マンシュタインは追撃を命じ、11月16日までにクリミア半島のほぼ全域を制圧した。
残ったのは──セヴァストポリだけだった。
3-3. 最初の攻撃と失敗──1941年11月
マンシュタインは、セヴァストポリを「電撃的に占領できる」と考えていた。
彼は11月下旬、準備が不十分なまま攻撃を開始した。
しかし──セヴァストポリの守備隊は、予想をはるかに超える抵抗を見せた。
ドイツ軍は外郭陣地すら突破できず、大きな損害を出して撤退を余儀なくされた。
マンシュタインはこのとき初めて、セヴァストポリの攻略が「長期戦」になることを悟った。
そして彼は、超重砲の投入を要請した。
4. 包囲戦の本格化──1941年12月から1942年5月
4-1. ソ連軍の反撃──ケルチ半島上陸作戦
1941年12月、セヴァストポリ包囲が膠着状態に入った頃、ソ連軍は大胆な作戦を実行した。
クリミア半島東端のケルチ半島に、大規模な上陸作戦を敢行したのだ。
目的は明確だった──マンシュタインの第11軍を背後から脅かし、セヴァストポリへの包囲を解除させること。
ソ連軍は約4万名の兵力を上陸させ、ケルチ半島を占領した。
マンシュタインは窮地に陥った。
前方にはセヴァストポリの要塞があり、後方にはケルチ半島のソ連軍がいる──完全な挟撃状態だった。
しかし──マンシュタインは冷静だった。
彼はセヴァストポリへの攻撃を一時中止し、全兵力をケルチ半島に向けることを決断した。
1942年5月8日、マンシュタインはトラッペンヤクト作戦(狩猟作戦)を発動。
わずか10日間で、ケルチ半島のソ連軍を壊滅させた。ソ連軍は約17万名の損害(戦死・捕虜)を出し、残存部隊は黒海を渡って撤退した。
これは見事な作戦勝利だった。マンシュタインの戦術的天才が光った瞬間だった。
しかし──この「勝利」が、皮肉にも彼を罠にはめた。
なぜならヒトラーは、「マンシュタインならセヴァストポリも落とせる」と確信し、徹底的な攻略を命じたからだ。
4-2. 第二次攻撃の準備──超重砲の集結
ケルチ半島の戦いが終わると、マンシュタインは再びセヴァストポリに向き合った。
しかし今度は、十分な準備をする時間があった。
ドイツ軍は、ヨーロッパ中から重砲を集結させた。
その中には──人類史上最大の火砲も含まれていた。
集結した超重砲の一覧
- 80cm列車砲「グスタフ」(通称:ドーラ):口径800mm、砲弾重量4.8〜7トン
- 60cm臼砲「カール」:口径600mm、砲弾重量2.2トン
- 35.5cm榴弾砲「ガンマ」:通常の重砲の倍以上の破壊力
- 42cm榴弾砲「ビッグ・ベルタ」:第一次世界大戦で使用された超重砲の改良型
これらの超重砲は、通常の要塞なら一撃で破壊できる威力を持っていた。
マンシュタインは、これらの砲を使って、セヴァストポリの防御施設を一つずつ破壊していく計画を立てた。
また、航空支援も強化された。
第8航空軍団がクリミアに展開し、連日セヴァストポリを爆撃した。
ドイツ軍の中には、「これだけの火力があれば、要塞は数日で陥落する」と楽観的に考える者もいた。
しかし──現実は、そう甘くはなかった。
4-3. セヴァストポリ守備隊の準備

一方、セヴァストポリの守備隊も、次の攻撃に備えていた。
司令官はF・S・オクチャブリスキー中将(黒海艦隊司令官)とI・E・ペトロフ少将(沿岸軍司令官)の二人体制だった。
彼らは、外郭防御線を強化し、地雷原を拡大し、トーチカを増設した。
また、黒海艦隊は夜間に潜水艦や高速艇を使って補給を続けた。弾薬、食料、医薬品、そして増援部隊──。
包囲下でも、セヴァストポリは戦い続けるための資源を確保していた。
守備隊の士気は高かった。
彼らは、「セヴァストポリは絶対に落ちない」と信じていた。クリミア戦争でも、セヴァストポリは349日間持ちこたえた。今回も、必ず援軍が来る──。
しかし──その希望は、次第に裏切られることになる。
5. 第三次攻撃──「ドーラ」が火を噴く日
5-1. 1942年6月2日──史上最大の砲撃戦
1942年6月2日午前3時30分。
突然、セヴァストポリの夜空が閃光で照らされた。
ドイツ軍の砲撃が始まったのだ。
投入された火砲
- 大口径火砲:約1,300門
- 迫撃砲:約720門
- ロケット砲:多数
- 航空機:約600機
この砲撃は、5日間続いた。
1日あたり約5万発の砲弾と、2,000トン以上の爆弾が、セヴァストポリに降り注いだ。
地面は揺れ続け、空気は爆煙で真っ黒になり、太陽すら見えなくなった。
守備隊の兵士たちは、地下壕に身を潜めるしかなかった。地上にいれば、間違いなく死ぬ。
それでも──多くの砲台や陣地は、この砲撃を耐え抜いた。
なぜならコンクリートの厚さが数メートルもあり、しかも地下深くに埋められていたからだ。
5-2. 80cm列車砲「ドーラ」の投入

そして──人類史上最大の火砲が、ついに咆哮した。
80cm列車砲「グスタフ」(通称:ドーラ)
正式名称「Schwerer Gustav(重グスタフ)」。兵士たちの間では「ドーラ」と呼ばれた。
スペック
- 口径:800mm(人類史上最大)
- 砲身長:32.5メートル
- 総重量:約1,350トン
- 砲弾重量:通常弾4.8トン、装甲貫徹弾7トン
- 射程:最大47km
- 運用人員:約1,400名(組み立て・運用・警備含む)
- 発射速度:1時間に約3発
この巨砲は、クルップ社が3年かけて開発した超兵器だった。
当初はフランスのマジノ線を破壊するために作られたが、フランスがあまりにも早く降伏したため、使われずじまいだった。
セヴァストポリが、この巨砲の実戦デビューの場となった。
「ドーラ」の砲弾は、通常の爆弾とは桁違いの破壊力を持っていた。
7トンの装甲貫徹弾は、厚さ7メートルのコンクリートを貫通するか、30メートルの地中に潜って爆発することができた。
つまり──どんな地下壕も、この砲弾からは逃れられなかった。
5-3. 「ドーラ」の戦果──地下弾薬庫の大爆発
6月5日、「ドーラ」はセヴァストポリ北部の地下弾薬庫を目標にした。
この弾薬庫は、海岸近くの岩盤の下、深さ30メートルに建設されており、「絶対に破壊できない」と考えられていた。
「ドーラ」は、この目標に向けて7トンの装甲貫徹弾を発射した。
砲弾は音速の約2倍の速度で飛翔し、岩盤を貫通して地下弾薬庫の真上で炸裂した。
次の瞬間──。
セヴァストポリ全体を揺るがす大爆発が起きた。
地下弾薬庫に保管されていた数千トンの弾薬が誘爆し、直径100メートル以上のクレーターができた。
爆発の衝撃波は数キロ先まで届き、窓ガラスが割れ、建物が倒壊した。
この一撃で、守備隊の弾薬備蓄は大きく減少した。
また、「ドーラ」は他にも複数の目標を破壊した:
- 35番砲台の装甲砲塔(305mm連装砲)に直撃弾を与え、砲塔を使用不能にした
- 沿岸砲台「マクシム・ゴーリキーI」を破壊
- 複数の指揮所と通信施設を破壊
「ドーラ」は計48発の砲弾を発射し、そのうち約30発が目標に命中したとされる。
これは驚異的な命中率だった。
しかし──「ドーラ」には致命的な欠点があった。
「ドーラ」の問題点
- 移動不可能:一度設置したら、専用の二重線路が必要で、簡単に移動できない
- 整備の複雑さ:15発撃つごとに砲身交換が必要
- コスト:1発の砲弾が約30万ライヒスマルク(現代価値で数億円)
- 脆弱性:航空攻撃に対して無防備
実際、ソ連空軍は何度も「ドーラ」を爆撃しようと試みた。しかしドイツ空軍の厚い防空網に阻まれ、成功しなかった。
結局、「ドーラ」はセヴァストポリ攻略に一定の貢献をしたが、その費用対効果は疑問視されている。
後にマンシュタイン自身も回顧録で「確かに印象的な兵器だったが、通常の重砲で十分だった」と述べている。
5-4. 地獄の市街戦──一歩ずつの前進
砲撃が終わると、ドイツ歩兵部隊が前進を開始した。
しかし──セヴァストポリの守備隊は、まだ健在だった。
地下壕から這い出た兵士たちは、瓦礫の中で機関銃を構え、ドイツ軍を迎え撃った。
ドイツ軍の前進は、信じられないほど遅かった。
1日に数百メートル進めれば良い方だった。
なぜなら──
- トーチカの連鎖防御:一つのトーチカを制圧しても、別のトーチカから側面射撃を受ける
- 地雷原:いたるところに地雷が埋められ、工兵が処理するのに時間がかかる
- 狙撃兵:瓦礫の中に隠れたソ連狙撃兵が、ドイツ兵を一人ずつ狙い撃ちする
- 反撃:夜になると、ソ連軍が逆襲してきて、昼間に奪った陣地を奪い返される
この戦いは、スターリングラードの市街戦にも似ていた。
いや──セヴァストポリの方が先だった。セヴァストポリの経験が、後のスターリングラードで活かされたのだ。
ドイツ兵の一人は、日記にこう書いている:
「我々は毎日、地獄を這っている。百メートル前進するのに、何人の仲間が死ぬか分からない。塹壕を一つ奪うのに、丸一日かかることもある。そしてその塹壕には、前の晩に死んだ仲間の死体が横たわっている。」
6. 最終局面──1942年6月下旬から7月初旬
6-1. 内郭防御線の突破
6月中旬、ドイツ軍はついに外郭防御線を突破し、市街地に迫った。
しかしセヴァストポリには、まだ内郭防御線があった。
ソ連軍は市街地のあらゆる建物を要塞化していた。学校、工場、アパート──すべてが射撃陣地になっていた。
ドイツ軍は、火炎放射器、手榴弾、工兵の爆薬──ありとあらゆる手段を使って、建物を一つずつ制圧していった。
6月17日、ドイツ軍は市街地中心部に突入した。
しかし戦いは終わらなかった。
6-2. 最後の抵抗──へルソネス岬の悲劇
6月末、セヴァストポリの守備隊は市街地南部のヘルソネス岬に追い詰められた。
ここは、クリミア半島の最南端で、背後は断崖と海しかない。
ソ連軍の兵士、水兵、そして民間人──合計約8万名が、この狭い地域に押し込められた。
黒海艦隊は、夜間に駆逐艦や潜水艦を派遣して、可能な限り人員を撤退させようとした。
しかし──ドイツ空軍の爆撃と、沿岸砲台の砲撃で、多くの船が沈められた。
7月1日、ドイツ軍はヘルソネス岬への最終攻撃を開始した。
守備隊は最後の弾薬を使い果たすまで抵抗した。
しかし──もはや組織的な抵抗は不可能だった。
7月4日午前、セヴァストポリは陥落した。
6-3. マンシュタインの勝利宣言
7月4日、マンシュタインはヒトラーに電報を送った:
「セヴァストポリ要塞、陥落せり。第11軍、任務完遂。」
ヒトラーは大喜びし、マンシュタインを元帥に昇進させた。
ドイツのプロパガンダは、この勝利を大々的に宣伝した。「難攻不落の要塞」を陥落させたドイツ国防軍の強さを誇示した。
しかし──その陰で、誰も語らなかった事実があった。
セヴァストポリ攻略の代償
- 戦闘期間:250日間(1941年10月30日〜1942年7月4日)
- ドイツ・ルーマニア軍損害:約7万5000名(戦死・負傷)
- ソ連軍損害:約15万名(戦死・捕虜)+民間人約3万名
- 消費した弾薬:通常砲弾約460万発、航空爆弾約12万5000トン
これは、想定をはるかに超える損害だった。
そして何より──時間を失った。
スターリングラード攻略作戦は、セヴァストポリ攻略の遅れにより、数週間遅れた。
もしセヴァストポリがもっと早く陥落していたら、ドイツ軍はスターリングラードを夏のうちに占領できたかもしれない。
でも──歴史に「もし」はない。
マンシュタインは勝った。しかしその勝利は、戦略的には敗北の始まりだった。
7. 地下要塞での最後の抵抗──「ネズミたちの戦争」
7-1. 降伏を拒んだ兵士たち
セヴァストポリが正式に陥落した後も、戦いは続いた。
数千名のソ連兵が、地下要塞に立てこもり、抵抗を続けたのだ。
彼らは、地下トンネルの奥深くに隠れ、夜になるとドイツ軍の後方を襲撃した。
ドイツ軍は、地下要塞の入口を爆破して封鎖しようとした。しかし地下トンネルは複雑に入り組んでおり、別の出口から兵士たちが現れた。
この戦いは「ネズミたちの戦争」と呼ばれた。
ドイツ兵の間では、「セヴァストポリの地下には幽霊がいる」という噂が流れた。
7-2. 地下要塞の掃討作戦
ドイツ軍は、工兵部隊と化学兵器を投入して、地下要塞の掃討を試みた。
トンネルに毒ガスを流し込み、爆薬で出口を塞ぎ、火炎放射器で焼き払った。
それでも──何週間も抵抗が続いた。
最後の抵抗は、7月末まで続いたと言われている。
多くのソ連兵は、弾薬が尽き、食料が尽き、水が尽きても降伏しなかった。
彼らは地下で死んだ。
現代でも、セヴァストポリの地下要塞には、発見されていない遺体が残っていると言われている。
7-3. 捕虜の運命
セヴァストポリで捕虜になったソ連兵は、約9万5000名とされている。
しかし──彼らの運命は過酷だった。
ドイツ軍は、捕虜を強制労働に使った。道路建設、地雷除去、要塞の解体──危険で過酷な作業に従事させられた。
多くの捕虜が、栄養失調、疫病、処刑で命を落とした。
戦後、ソ連に帰還できた元捕虜は、わずか数千名だった。
そして悲劇的なことに──帰還した元捕虜たちは、ソ連当局から「裏切り者」として扱われた。
スターリンは「捕虜になるくらいなら死ぬべきだった」と考えていた。多くの元捕虜が、帰国後にシベリアの強制収容所(グラーグ)に送られた。
セヴァストポリで戦った兵士たちは──敵からも、祖国からも、報われることはなかった。
8. 戦略的影響──「勝って負けた」戦い
8-1. なぜセヴァストポリ攻略は「失敗」だったのか
ドイツ軍は確かにセヴァストポリを占領した。しかしこの勝利は、戦略的には大失敗だった。
なぜか?
理由1:時間の浪費
セヴァストポリ攻略に250日間かかった。この間、第11軍はクリミア半島に釘付けにされ、他の戦線に投入できなかった。
もしこの兵力がスターリングラードやコーカサスに投入されていたら、戦局は変わっていたかもしれない。
理由2:損害の大きさ
約7万5000名の損害は、第11軍の戦力を大きく削いだ。特に、経験豊富な下士官や将校の損失は、後の戦闘に深刻な影響を与えた。
理由3:戦略目標の未達成
そもそも、なぜドイツはセヴァストポリを占領したかったのか?
- 黒海艦隊を無力化するため
- ルーマニア油田への空襲を防ぐため
- コーカサス攻略の足がかりにするため
しかし──これらの目標は、ほとんど達成されなかった。
黒海艦隊は、セヴァストポリ陥落後も他の港を拠点に活動を続けた。
ルーマニア油田への空襲も、コーカサス方面のソ連空軍が続けた。
そしてコーカサス攻略は、スターリングラードの敗北によって頓挫した。
結局、セヴァストポリは「占領しても意味がない要塞」だった。
8-2. もしマンシュタインが撤退していたら?
歴史に「もし」はない。でも──考えずにはいられない。
もしマンシュタインが、1942年初頭に「セヴァストポリ攻略は不可能」と判断して、兵力を他の戦線に転用していたら?
スターリングラードはもっと早く攻略できたかもしれない。
コーカサスの油田地帯を占領できたかもしれない。
でも──彼はそうしなかった。
なぜか?
マンシュタインは回顧録で、「セヴァストポリを背後に残したまま前進することは、補給線への脅威になる」と説明している。
しかしもう一つの理由があったと僕は思う。
それは──「意地」だ。
マンシュタインは、自分が負けることを許せなかった。セヴァストポリという「難攻不落の要塞」を攻略することで、自分の天才を証明したかった。
ヒトラーもまた、「ソ連に勝っている」という象徴的な勝利を欲していた。
こうして──戦略的には無意味な戦いが、250日間も続いた。
これは、日本軍の「ガダルカナル」や「インパール作戦」とも共通する失敗だ。
局地的な勝利への執着が、全体的な敗北を招く──これが戦争の皮肉だ。
9. セヴァストポリと硫黄島──要塞戦の比較
9-1. 共通点──地下要塞での徹底抗戦
セヴァストポリ包囲戦を学んでいると、僕たち日本人は必然的に「硫黄島の戦い」を思い出す。
1945年2月から3月にかけて戦われた硫黄島の戦いは、まさに太平洋版のセヴァストポリだった。
共通点
| 要素 | セヴァストポリ | 硫黄島 |
|---|---|---|
| 地下要塞 | 総延長数十km | 総延長18km以上 |
| 防御側指揮官 | オクチャブリスキー、ペトロフ | 栗林忠道中将 |
| 戦術 | 徹底抗戦、地下での持久戦 | 徹底抗戦、水際防御放棄 |
| 結果 | 陥落したが大損害を与えた | 陥落したが大損害を与えた |
| 戦後 | 捕虜は冷遇された | 捕虜はほとんどいなかった |
硫黄島の栗林中将は、セヴァストポリの教訓を知っていたかもしれない。
彼は従来の「水際防御」を放棄し、地下要塞での持久戦を選択した。これはセヴァストポリの戦術と酷似している。
そして──両方の戦いで、防御側は最後まで降伏しなかった。
9-2. 相違点──戦略的意義
しかし、セヴァストポリと硫黄島には決定的な違いもある。
硫黄島は、戦略的に重要だった。
硫黄島を占領することで、アメリカ軍は:
- B-29爆撃機の中継基地を確保
- 日本本土爆撃の効率を大幅に向上
- 損傷した爆撃機の不時着場所を確保
つまり、硫黄島の占領は、アメリカの戦略目標達成に直結していた。
一方、セヴァストポリは──占領しても、ドイツの戦略目標達成には大きく貢献しなかった。
この違いは、重要だ。
戦争では、「勝つべき戦い」と「避けるべき戦い」を見極めることが重要だ。
ドイツはセヴァストポリで「避けるべき戦い」に突入してしまった。
日本は硫黄島で「勝てない戦い」を強いられた。
どちらも悲劇だが──性質が異なる。
10. 戦後のセヴァストポリ──「英雄都市」の称号

10-1. ソ連による再占領
セヴァストポリは、ドイツ占領下で2年間を過ごした。
1944年5月、ソ連軍はクリミア半島奪還作戦を開始。ドイツ軍は抵抗したが、もはや1941年の強さはなかった。
5月9日、セヴァストポリは解放された。
しかし──市街地の85%が破壊されており、人口は戦前の4分の1に減少していた。
スターリンは、セヴァストポリに「英雄都市」の称号を授与した。
これは、第二次世界大戦で特に勇敢に戦った都市に与えられる最高の栄誉だった。
10-2. 現代のセヴァストポリ
戦後、セヴァストポリは再建され、再び黒海艦隊の母港となった。
冷戦時代、セヴァストポリはソ連海軍の重要拠点として、外国人の立ち入りが厳しく制限された。
1991年のソ連崩壊後、セヴァストポリはウクライナ領となったが、ロシアは租借という形で黒海艦隊の基地を維持した。
そして2014年──クリミア危機が起きた。
ロシアはクリミア半島を併合し、セヴァストポリは再びロシアの支配下に入った。
この併合は国際的には認められていないが、ロシアにとってセヴァストポリは「絶対に手放せない聖地」なのだ。
なぜなら──セヴァストポリなしでは、黒海における海軍力を維持できないからだ。
歴史は繰り返す──。
1941年にドイツが占領しようとし、2014年にロシアが奪還した。
セヴァストポリは、今も変わらず「争奪の対象」であり続けている。
10-3. 戦場の痕跡──今も残る要塞
現代のセヴァストポリには、今も第二次世界大戦の痕跡が残っている。
- 35番砲台博物館:地下30メートルの巨大砲台が博物館として公開されている
- マラホフ・クルガンの丘:クリミア戦争と第二次世界大戦、両方の戦場となった歴史的な場所
- ディオラマ博物館:セヴァストポリ攻防戦を描いた巨大な絵画が展示されている
これらの場所を訪れると──戦争の凄まじさを実感できる。
コンクリートの壁に残る弾痕、曲がった鉄筋、爆撃で崩れた石壁──。
歴史は、ここでは「過去」ではなく「現在」だ。
11. 教訓──僕たちが学ぶべきこと
11-1. 要塞戦の本質
セヴァストポリ包囲戦が教えてくれるのは、「要塞戦は常に攻撃側に不利」ということだ。
防御側は:
- 地の利を持っている
- 補給線が短い
- 地下要塞という安全な避難所がある
- 士気が高い(祖国防衛という大義)
一方、攻撃側は:
- 補給線が長い
- 常に敵の射撃にさらされる
- 地形を知らない
- 損害が大きい
だからこそ、古今東西、要塞攻略は「避けるべき戦い」とされてきた。
迂回する、包囲して兵糧攻めにする、外交で降伏させる──賢い将軍は、正面攻撃を避ける。
しかしマンシュタインは──そしてヒトラーは──正面攻撃を選んだ。
その結果、250日間と7万5000名の命を失った。
11-2. 戦略的判断の重要性
セヴァストポリ包囲戦のもう一つの教訓は、「戦略的に無意味な勝利は、実質的に敗北である」ということだ。
ドイツ軍は勝った。しかし──
- 時間を失った
- 兵力を失った
- 戦略目標は達成できなかった
これは「戦術的勝利、戦略的敗北」の典型例だ。
日本軍もまた、同じ過ちを犯した。
ガダルカナル島──戦略的に重要性が低い島に、何万もの兵力を投入し続けた。
インパール作戦──補給の見通しがないまま、無謀な攻勢を続けた。
沖縄戦──本土決戦のための「時間稼ぎ」という名目で、何万もの命を失った。
局地的勝利への執着が、全体的敗北を招く──これは、あらゆる戦争に共通する教訓だ。
11-3. 人間の限界と可能性
最後に──セヴァストポリ包囲戦は、人間の限界と可能性の両方を示している。
守備隊は、250日間、圧倒的な火力の前で戦い続けた。
水も食料も弾薬も尽きかけても、降伏しなかった。
これは──人間の「意志」の強さを示している。
しかし同時に──この「意志」が、何万もの命を奪った。
もし守備隊が早期に降伏していたら、多くの命が救われたかもしれない。
でも──彼らは降伏しなかった。
なぜなら、祖国を守るという信念があったから。そしてスターリンが「一歩も退くな」と命じたから。
この複雑さ──勇気と愚かさ、犠牲と無駄──これが戦争の本質だ。
僕たちは、この複雑さを理解し、戦争を美化することなく、しかし戦った人々を忘れることもなく、歴史と向き合わなければならない。
12. おすすめ書籍・映画・プラモデル
12-1. 書籍
セヴァストポリ包囲戦について、日本語で読める書籍は少ないが、以下がおすすめだ:
『失われた勝利』エーリヒ・フォン・マンシュタイン著
マンシュタイン自身の回顧録。セヴァストポリ攻略戦の詳細な記録が含まれている。戦略家としての彼の思考プロセスが理解できる。
『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』大木毅著
日本人研究者による独ソ戦の決定版。セヴァストポリ包囲戦についても詳しく解説されている。
『第二次世界大戦 1939-45』アントニー・ビーヴァー著
第二次世界大戦全体を俯瞰する大著。セヴァストポリについても触れられている。
12-2. 映画・ドキュメンタリー
残念ながら、セヴァストポリ包囲戦を主題にした大作映画は少ない。
しかし以下の作品では、独ソ戦の他の戦場が描かれており、セヴァストポリの雰囲気を感じ取れる:
『ヨーロッパの解放』(1972年、ソ連)
独ソ戦全体を描いた大作。セヴァストポリのシーンもある。
『スターリングラード』(2001年、ドイツ)
市街戦の凄惨さを描いた名作。セヴァストポリの市街戦も似たようなものだった。
12-3. プラモデル・ミリタリーグッズ
セヴァストポリ攻防戦をプラモデルで再現したいなら、以下がおすすめ:
タミヤ 1/35 ドイツ重戦車 ティーガーI 初期生産型
セヴァストポリ攻略戦に投入されたティーガー戦車。精密な作りで定評のあるタミヤ製。
ドラゴン 1/35 ドイツ 60cm自走臼砲カール
セヴァストポリで使われた超重砲。迫力満点のキットで上級者向け。
トランペッター 1/35 ソ連 T-34/76 1942年型
セヴァストポリ防衛に使われたT-34戦車。ソ連戦車の傑作機。
書籍:『ドイツ超重砲と列車砲』
「ドーラ」を含む、ドイツの超重砲を解説した写真集。マニア必携。
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13. おわりに──記憶を繋ぐということ
250日間──。
これは、約8ヶ月という時間だ。
その間、セヴァストポリでは毎日、誰かが死んだ。
ドイツ兵も、ソ連兵も、民間人も──。
砲弾の破片で、銃弾で、爆撃で、飢えで、病気で、寒さで──。
様々な形で、何万もの命が失われた。
彼らは、敵味方を問わず、誰かの息子であり、父であり、夫であり、兄弟だった。
戦争を美化してはいけない。
でも──そこで戦った人々を忘れてもいけない。
セヴァストポリ包囲戦は、「遠い国の昔の戦争」ではない。
僕たちの祖父や曾祖父の世代が生きた時代に、地球の反対側で起きた現実だ。
そして──同じ時代、太平洋で日本軍も戦っていた。
同盟国ドイツがセヴァストポリで苦戦していた頃、日本軍はガダルカナルで飢えていた。
ドイツがスターリングラードで包囲された頃、日本はミッドウェーで敗北していた。
歴史は繋がっている。
僕たち日本人がこの戦争を学ぶ意味は、ここにある。
「なぜ負けたのか」を知ること。
「同じ過ちを繰り返さない」こと。
そして──「戦争とは何か」を、次の世代に伝えること。
セヴァストポリの地下要塞は、今も残っている。
コンクリートの壁に残る弾痕は、80年以上前の戦いの痕跡だ。
歴史は──忘れない限り、生き続ける。
僕たちが記憶を繋ぐことで、歴史は未来へと続いていく。
最後まで読んでくれて、本当にありがとう。
もしこの記事が面白かったら、ぜひ他の記事も読んでみてほしい。
そして──あなたの周りの人にも、この歴史を伝えてほしい。
記憶を繋ぐことが、未来を守ることだから。


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