ヴェルダンの戦い|ドイツ軍の消耗戦はなぜフランスを屈服させられなかったのか

砲撃で荒廃した1916年ヴェルダンの要塞・塹壕・補給路と仏独両軍

ヴェルダンの戦いは、「ドイツ軍がフランス軍を消耗させ、国家ごと屈服させようとした戦い」として知られている。1916年2月21日から12月18日まで約300日にわたって戦闘が続き、フランス軍とドイツ軍を合わせた損失は約70万人に達した。

それでもフランスは講和を求めなかった。むしろ10月にはドゥオモン要塞を奪回し、11月にはドイツ軍がヴォー要塞を放棄する。ドイツ軍が狙ったはずの「フランスだけを先に消耗させる戦場」は、最後にはドイツ軍自身をほぼ同じ規模で削る戦場へ変わっていた。

ヴェルダンで消耗戦が破綻した理由

ヴェルダンで失敗したのは、単なる攻城戦ではない。敵より有利な交換比率を作り続けなければ成立しない消耗戦そのものだった。

ドイツ軍の想定ヴェルダンで実際に起きたこと
フランスはヴェルダンを見捨てられないその読み自体は当たったが、フランスは部隊を交代させながら防衛した
フランス側は補給が難しい「聖なる道」を使った自動車輸送で大量の兵員・弾薬が流入した
重砲火力で一方的な損害を与えられるフランス砲兵も反撃し、ドイツ軍歩兵も大損害を受けた
限定攻撃ならドイツ側の負担を抑えられる戦線はムーズ川両岸へ拡大し、攻撃側の消耗も増えた
フランスが先に限界へ達する損失差は決定的にならず、ソンムなど他戦線の圧力がドイツへ加わった
ファルケンハインが想定したヴェルダン消耗戦の構想と破綻までの流れ
象徴的要地へフランス軍を拘束する読みは当たったが、補給遮断と有利な交換比率は実現しなかった
目次

なぜドイツ軍はヴェルダンを狙ったのか

クリスマス覚書を読む注意点

1915年末、ドイツ参謀総長エーリヒ・フォン・ファルケンハインは難しい状況に置かれていた。

西部戦線では塹壕線を突破して敵軍を一気に包囲することが難しく、東部戦線でロシア軍に大打撃を与えても戦争から脱落させることはできなかった。ドイツは複数の大国を相手に長期戦を続けており、どこか一国を脱落させなければ戦略的な出口が見えない。

そこで標的となったのがフランスだった。

ファルケンハインが戦後に公表した、いわゆる「クリスマス覚書」では、フランス軍が絶対に守らざるを得ない地点を攻撃すれば、フランスは最後の兵士まで投入し、「出血死」すると説明されている。候補にはベルフォールとヴェルダンが挙げられ、最終的にヴェルダンが選ばれた。

ヴェルダンは前線へ突き出した突出部で、ドイツ側には発達した鉄道網があった。一方、フランス側の補給路は限られている。周辺の高地を奪って重砲を据えれば、フランス軍が送り込む増援を砲撃で削れると期待できた。

ただし、「最初からフランス軍を出血死させることだけが目的だった」と断定するのは危険だ

根拠とされる覚書の原本は確認されておらず、ファルケンハインが1920年に刊行した回想録で提示した文章である。敗北した作戦を戦後に説明するため再構成された可能性は、現在も研究上の論点になっている。

私はここを、ヴェルダンを理解するうえで外せない点だと思う。

現地のドイツ第5軍は実際に高地と要塞を奪い、ヴェルダンへ迫る作戦を進めた。重要なのはファルケンハインが頭の中で何と呼んでいたかだけではない。戦場で本当に「敵だけを削る仕組み」が成立したかどうかである。

2月21日の猛砲撃とドゥオモン陥落|最初の4日間はドイツ軍が圧倒した

1916年2月21日午前7時15分、約1,200門のドイツ軍砲兵が火を開いた。

砲撃はムーズ川右岸のフランス軍陣地を深さ約5kmにわたって破壊し、同日だけでも約35万発の砲弾が撃ち込まれたとヴェルダン記念館はまとめている。森は倒木と砲弾孔に変わり、塹壕や交通壕も寸断された。

その後をドイツ歩兵が前進する。フランス第30軍団はカウルの森などで抵抗したが、ドイツ軍は4日間で約6km進み、2月25日にはドゥオモン要塞をほとんど戦闘なしで奪った。

ここだけを切り取れば、ファルケンハインの選択は成功しかけていた。

ところが、砲兵が作った荒野は攻撃側にとっても障害だった。前線が南へ動くほど歩兵は砲弾孔と破壊された地形を越え、砲兵観測や弾薬輸送も難しくなる。

さらに当初の主攻がムーズ川右岸に偏ったため、対岸のフランス砲兵がドイツ軍の移動を側面から撃った。ドイツ軍はこの砲兵を黙らせるため、3月6日から左岸にも攻撃を拡大する。

そこで待っていたのが、ル・モール=オムと304高地だった。

高地を取らなければ右岸の攻撃が危険になる。しかし高地を取ろうとすれば、そこへ歩兵と砲兵を追加投入しなければならない。限定された戦場でフランスだけを削るはずの戦闘は、ムーズ川両岸で高地を奪い合う巨大戦へ膨らんでいった。

聖なる道が毎週運んだ兵員・物資と部隊交代を示すヴェルダン兵站図
道路、車両、補修、交通管制、部隊交代が一体となり、突出部の防御を維持した

フランス軍を救ったのは要塞より「聖なる道」と部隊交代だった

聖なる道を支えた数字

ドゥオモン陥落と同じ2月25日、フィリップ・ペタンがヴェルダン防衛を担う第2軍の指揮を任された。

ペタンが直面した最大の問題は、勇気より物流だった。

ドイツ側には攻撃正面へ通じる多数の鉄道路線があり、重砲と弾薬を集中できた。一方、フランス側で後方とヴェルダンを結ぶ主要交通路は脆弱だった。通常軌の鉄道は敵砲火の影響を受け、地方鉄道の輸送力だけでは足りない。

そこで生命線となったのが、バル=ル=デュックからヴェルダンへ続く約67kmの道路だった。後に「ヴォワ・サクレ」、日本語では「聖なる道」と呼ばれる。

フランス国防省系資料では、約3,500台のトラックがこの道路を使用し、平均して毎週約9万人と5万トンの物資を輸送した。交通量は毎時約300台に達する。道路は常時補修され、故障車が流れを止めれば路肩へ排除してでも車列を通した。

ヴェルダンは確かに補給しにくい突出部だった。だが「補給しにくい」と「補給できない」は同じではない

ヴェルダンを救ったのは、分厚いコンクリートだけではない。故障した一台のトラックのために車列を止めないという、交通管制と補給組織だった。

さらにフランス軍は、前線部隊を次々に交代させる「ノリア」を進めた。最終的にはフランス陸軍の約4分の3が何らかの形でヴェルダンを経験したとされる。

これは損害が軽かったという意味ではない。部隊を入れ替えることで、一つの師団が完全に壊れるまで前線へ固定される事態を避け、損失を陸軍全体へ分散したのである。

ファルケンハインが期待したのは、フランス軍がヴェルダンという一点へ拘束され、そこで再起不能になることだった。実際にはフランス軍は、その一点へ全国規模で部隊を循環させる仕組みを作った。

ヴェルダンにおけるフランス軍とドイツ軍の損失・補給・戦略負担の比較
フランス側の損失は重かったが、ドイツ自身も約33万人を失い決定的な交換比率を作れなかった

消耗戦はなぜ「相互消耗」に変わったのか

一方的消耗にならなかった理由

消耗戦では、敵に大損害を与えただけでは勝ちにならない。

重要なのは、自軍よりはるかに速い速度で敵を削ることである

ヴェルダン記念館の集計では、フランス軍の損失は死者・行方不明約16万3,000人、負傷約21万6,000人で合計約37万9,000人。ドイツ軍は死者・行方不明約14万3,000人、負傷約19万人で合計約33万3,000人とされる。

フランス軍の方が多い。しかし差は約4万6,000人で、比率にすればおよそ1.14対1にすぎない。

フランスを戦争から脱落させるほどの消耗戦を狙ったと考えるなら、決定的な交換比率ではない。しかもドイツはフランス一国だけと戦っていたわけではなく、イギリスやロシアを含む協商国との戦争全体を続けなければならなかった。

交換比率を悪化させたのが、戦線の拡大である。

左岸ではル・モール=オムと304高地、右岸ではヴォー村とヴォー要塞をめぐって、砲撃、突撃、反撃が繰り返された。6月7日にドイツ軍はヴォー要塞を落としたが、それでもフランス軍は崩れない。

6月23日の大攻勢ではフルーリー周辺まで進み、7月11~12日にはスーヴィル要塞付近まで到達した。ヴェルダン市街まで約3kmに迫ったが、最後の突破には至らなかった。

第一次世界大戦の防御は、一つの石造要塞だけで成立していたわけではない。塹壕、砲兵陣地、機関銃陣地、予備隊、道路、後方拠点が重なっている。ドゥオモンやヴォーを取っても、防御体系全体が消えるわけではなかった。

しかもドイツ軍が前へ進むほど、開戦時に準備した砲兵配置から離れ、フランス側の砲兵や予備隊へ接近する。

ファルケンハインが想定したのが「敵を砲火の前へ誘い出す戦い」だったとしても、実際の第5軍は陣地を奪うために突撃し、奪った陣地を守るために砲撃を受け、次の高地を取るためにまた攻撃した。

敵を削る装置だったはずの戦場に、自分の歩兵まで投入し続けたのである。

ソンムとブルシーロフ攻勢がドイツ軍から時間を奪った

ドイツ軍にとってさらに悪かったのは、連合国がヴェルダンだけを見ていたわけではないことだ。

1916年6月4日、ロシア軍は東部戦線でブルシーロフ攻勢を開始した。オーストリア=ハンガリー軍は大きな打撃を受け、ドイツにも東方への対応が必要になる。

そして7月1日、英仏軍がソンムで大攻勢を開始した。

ソンム攻勢そのものも恐るべき損害を出したが、ヴェルダンだけを見れば効果は明確だった。ドイツ軍はソンム正面を支えるため、ヴェルダンから兵力、火砲、航空戦力を引き抜かざるを得なくなる。

ファルケンハインの構想には、フランスが苦境に陥ればイギリスが救援攻勢を行い、そこでもドイツ軍が敵を消耗させるという発想が含まれていた。

しかし現実には、ドイツ自身がヴェルダン、ソンム、東部戦線へ同時に対応する側になった。

7月11~12日のスーヴィル方面への攻撃を最後に、ヴェルダンでの大規模なドイツ攻勢は事実上終息する。8月29日にはファルケンハインが参謀総長を解任され、ヒンデンブルクとルーデンドルフの体制へ移った。

フランス軍は秋から反撃に転じ、10月24日にドゥオモン要塞を奪回。11月初旬にはドイツ軍がヴォー要塞を撤収し、12月15~18日の攻勢で右岸の前線をさらに押し戻した。

すべての土地が2月以前の状態へ戻ったわけではない。左岸の304高地やル・モール=オム周辺では、その後も戦闘が続いた。

それでも、フランスを先に限界へ追い込むための時間は失われた。

結論|ヴェルダンで敗れたのは「フランスだけを削れる」という戦場設計だった

ドイツ軍の消耗戦がフランスを屈服させられなかった理由は、五つに整理できる。

第一に、フランス軍の補給を遮断できなかった。聖なる道を使った自動車輸送が兵員と弾薬を流し続けた。

第二に、部隊交代によって損害が分散された。同じ師団を壊れるまで固定せず、フランス陸軍全体で戦場を支えた。

第三に、損害交換比率が十分に開かなかった。約37万9,000対約33万3,000という損失はフランス側が重いが、ドイツ自身も数十万規模で削られた。

第四に、限定的な戦いがムーズ川両岸の地形争奪戦へ広がった。ドイツ軍は敵の反撃を待つ側ではなく、自ら歩兵を投入して攻め続ける側になった。

第五に、ブルシーロフ攻勢とソンム攻勢によって、ドイツは他戦線へ兵力を回さなければならなくなった。

この五つの中で、私は「聖なる道」と「交換比率」が最も重要だと考える。

フランスを逃げられない場所へ縛りつけるという発想は成功した。だが、縛りつけた相手へ補給と交代兵が絶えず届き、自軍もほぼ同じ速度で血を流すなら、それは罠ではない。

ただの相互消耗戦である

史料から強く言えるのは、ドイツ軍がフランス軍を屈服させることに失敗したという点だ。フランス軍は莫大な損失を受けながら戦線を維持し、年末までにドゥオモンとヴォーという重要拠点を取り戻した。

その意味でヴェルダンは、フランスの防御的・戦略的勝利と評価できる。

ただし、「フランス軍がドイツ軍を撃破して決戦に勝った」という意味ではない。フランス自身の損害も巨大で、ヴェルダンだけでドイツの戦争遂行能力が崩壊したわけでもなかった。

そして研究上なお確定しきれないのが、ファルケンハインの最初の意図である。「クリスマス覚書」を文字どおり受け取るか、戦後の再構成とみるかで評価は分かれる。

それでも最終結果は変わらない。

ヴェルダンで敗れたのは、ドイツ兵の勇気でも重砲の性能でもなく、「フランスだけを先に消耗させられる」という戦場設計だった。

その前提を壊したのは精神論ではない。道路を流れるトラック、前線から下がる疲弊した師団、対岸から撃ち込む砲兵、そして7月1日に別の戦場で始まったソンム攻勢だった。

同時期の巨大戦を損失規模と戦局への影響から見比べる場合は、第一次世界大戦の激戦地ランキングも参照してほしい。

よくある質問

ヴェルダンの戦いで最終的に勝ったのはどちらですか?

一般にはフランス側の防御的・戦略的勝利と評価できる。ドイツ軍はヴェルダンを攻略できず、フランスを講和へ追い込むことにも失敗した。ただし両軍の損害は非常に大きく、前線を決定的に崩壊させた会戦ではない。

ファルケンハインは本当に最初から「フランスを出血死させる」つもりだったのですか?

ファルケンハイン自身は戦後の回想録でその趣旨を述べている。しかし根拠とされる「クリスマス覚書」の原本は確認されておらず、戦後の正当化ではないかという研究上の議論がある。消耗という発想自体は彼の戦略に存在したとみられるが、「最初から土地の占領に関心がない純粋な消耗戦だった」と断定するのは慎重であるべきだ。

ヴェルダンは第一次世界大戦で最も死者が多い戦いだったのですか?

必ずしもそうではない。ヴェルダンの象徴性は死傷者数だけで決まったものではなく、約300日続いたこと、フランス軍の広い範囲が投入されたこと、ドゥオモンやヴォーをめぐる攻防が国民的記憶になったことが大きい。

参考資料・主な出典

塹壕線を突破|資料を確認

ソンムで大攻勢|資料を確認

第一次世界大戦の激戦地ランキング|資料を確認

ghdi.ghi-dc.org|資料を確認

Mémorial de Verdun, La bataille de Verdun|資料を確認

Chemins de mémoire, Verdun 1916-2016|資料を確認

cheminsdememoire.gouv.fr|資料を確認

1914-1918 Online, Falkenhayn, Erich von|資料を確認

1914-1918 Online, Western Front|資料を確認

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