ソンムの戦い|なぜ英軍は初日だけで約5万7千人の死傷者を出したのか

1916年7月1日のソンムで砲撃後の無人地帯を進む英軍歩兵とドイツ軍防御線

1916年7月1日、フランス北部ソンム。午前7時30分、笛を合図にイギリス軍歩兵が塹壕から姿を現した。その日の終わりまでに、イギリス軍は57,470人の死傷・行方不明・捕虜を出し、うち19,240人が戦死した。イギリス陸軍史上、最も血なまぐさい一日として記憶されている。

なぜ、攻撃側はこれほど短時間で壊滅的な損害を受けたのか。よくある説明は「兵士を歩かせてドイツ軍の機関銃へ突っ込ませたから」だ。しかし、それだけではソンム初日の本質を外す。最大の問題は、約1週間の砲撃で敵陣を破壊できたという前提のまま、壊れていない鉄条網、地下壕、機関銃陣地へ歩兵を送り込んだことだった。

ソンム初日5万7千人の答え

ソンム初日の悲劇は、一つの兵器に負けた事件ではない。「敵はもう戦えないはずだ」という作戦上の想定と、7時30分の戦場に残っていた現実が正面衝突した結果だった。

項目1916年7月1日の状況
攻撃開始午前7時30分
イギリス軍の攻撃兵力14個師団が攻撃
イギリス軍損害57,470人
うち戦死19,240人
事前砲撃6月24日から約1週間、約150万発
砲撃の問題榴散弾が多い、不発弾、鉄条網・地下壕の破壊不足
ドイツ軍防御深い地下壕、鉄条網、機関銃、事前照準された砲兵火力
初日の結果南部に局地的成功はあったが、北部・中央の多くで攻撃失敗
目次

ソンムの戦い初日、57,470人という数字は何を意味するのか

57,470人の内訳

ソンムの戦いは、1916年7月1日から11月18日まで続いた英仏連合軍の大攻勢である。もともとはフランス軍が主力となる構想だったが、2月からヴェルダンの戦いでドイツ軍の猛攻を受けたため、フランス軍の投入兵力が縮小され、イギリス軍が攻勢の中心を担うことになった。

午前7時30分、イギリス軍14個師団が一斉に攻撃を開始した。初日だけで57,470人が損害として記録され、その内訳は19,240人戦死、35,493人負傷、2,152人行方不明、585人捕虜とされる。

ここで重要なのは、「5万7千人が死亡した」わけではないことだ。日本語ではソンム初日の数字がしばしば「死者5万7千人」と誤って紹介されるが、57,470人は死傷者などを合計した損害数であり、確認された戦死者は19,240人だった。それでも、一つの軍隊が一日で約2万人を戦死させた事実は異常である。

しかも損害は戦線全体に均等に発生したわけではない。南側ではイギリス軍第30師団がモントーバン方面で目標を達成し、フランス軍も大きく前進した。一方、ティエプヴァル、ボーモン=アメル、ラ・ボワセルなど北部から中央の正面では、部隊によっては攻撃開始直後から激しい機関銃・小銃・砲撃にさらされた。

つまり「ソンムでは攻撃すれば必ず全滅した」のではない。同じ7月1日でも成功した場所と惨敗した場所があった。その差を見ると、なぜ5万7千人もの損害が出たのかがはっきりしてくる。

ソンム事前砲撃で英軍が想定した効果と実際に残ったドイツ軍防御の比較
発射弾数は巨大でも、砲弾の種類・不発・目標の強度が破壊効果を制限した

約150万発の事前砲撃でも、ドイツ軍陣地は壊れていなかった

砲撃が残した三つの問題

イギリス軍は無策で攻撃したわけではない。むしろ、当時としては空前の火力を集めていた。

6月24日から始まった事前砲撃では、約1週間にわたり約150万発の砲弾がドイツ軍陣地へ撃ち込まれた。狙いは明快だった。鉄条網を切断し、第一線塹壕を破壊し、砲兵と機関銃を沈黙させる。歩兵が前進する時点で、ドイツ兵は死傷しているか、少なくとも抵抗できない状態になっているはずだった。

問題は、発射弾数と破壊力が同じではなかったことだ。

National Army Museumによれば、約150万発のうち3分の2ほどが榴散弾だった。榴散弾は露出した兵員には恐ろしい効果を持つが、深い地下壕や強固な掩体を潰す用途には向いていない。さらに、砲弾の最大30%ほどが不発だったとする推定もある。急拡大した軍需生産の品質問題や信管の不具合が重なり、撃った砲弾すべてが予定通り働いたわけではなかった。

結果として、鉄条網は各所に残り、ドイツ軍の地下壕と機関銃陣地も完全には破壊されなかった。

ここがソンム初日の第一の分岐点である。イギリス軍の攻撃計画は「砲撃が成功していること」を前提に組まれていた。しかし実際の戦場では、その前提が場所によって崩れていた。

砲撃が失敗したこと自体も重大だが、もっと致命的だったのは、失敗を十分に修正できないまま歩兵攻撃の時刻が来たことである。

ドイツ兵は「砲撃で全滅」せず、深い地下壕から戻ってきた

ソンム正面のドイツ軍陣地は、単なる浅い塹壕ではなかった。

ドイツ軍は長期間この地域を防御しており、石造建築の地下室や深い掩体壕を利用して防御線を強化していた。イギリス軍総司令官ダグラス・ヘイグの戦後直後の戦況報告にも、通路が地表から最大30フィート、約9メートル下に達する地下施設があったと記されている。

地上では150万発の砲撃が続いていても、その下で生き残れる兵士がいたのである。

そして砲撃が次の目標へ移ると、地下壕に避難していたドイツ兵は地上へ戻った。機関銃を射撃位置に据え、小銃兵が胸壁につき、砲兵も事前に測定していた無人地帯やイギリス軍塹壕へ射撃を再開する。

機関銃が恐ろしかったのは、単に連射速度が高かったからではない。鉄条網や地形と組み合わせ、攻撃兵が通らざるを得ない場所へ射線を集中できたからだ。さらにドイツ軍の陣地は相互に援護できるよう配置され、正面だけでなく側面から撃ち込む射撃も可能だった。

イギリス軍歩兵から見れば、砲撃で沈黙したはずの敵陣へ近づいた瞬間、地面の下から敵が現れ、正面と側面から機関銃弾が飛んでくることになる。

The National Archivesが公開するニューファンドランド連隊の7月1日付戦闘日誌では、同連隊が前進中に機関銃と砲撃を受け、特にイギリス軍側の鉄条網を通過しようとした際に甚大な損害を出したことが記録されている。連隊の攻撃は大損害を受け、午前9時45分には失敗が明らかになっていた。

ここでは「機関銃」が原因というより、破壊されなかった防御システム全体が歩兵を捕まえたと見る方が正確だ。

「全員が横一列で歩いたから全滅した」は単純化しすぎている

ソンムの戦いを語るとき、最も有名なのが「将軍が兵士に歩いて前進するよう命じ、機関銃の的にした」という話である。

確かに、一定の間隔を保ち、秩序だった速度で前進するよう求められた部隊はあった。新編成部隊が多く、指揮統制を保ちながら広い無人地帯を越えさせる必要もあった。重い装備や弾薬、工兵資材を携行した兵士もおり、全員が短距離走のように突撃できたわけではない。

しかし、全戦線の兵士が同じ方法でゆっくり歩いたわけではない。前進開始地点を敵陣近くへ押し出した部隊もあれば、砲撃が終わる前から無人地帯へ進出した部隊もある。被弾すると隊形を崩して走ったり、砲弾孔へ伏せたりした部隊も当然あった。

実際、南部のモントーバン方面では、イギリス軍第30師団が前進用の塹壕を敵側へ近づけ、砲兵支援も比較的よく機能したため、初日の目標を達成している。

私は、ソンム初日を「時代遅れの将軍が兵士を歩かせて機関銃に突っ込ませた」とだけ説明するのは不十分だと思う。歩兵の前進速度は問題の一部ではあったが、それ以前に、進路上の鉄条網が残り、敵機関銃が生き残り、砲兵支援が先へ移ってしまえば、走っても伏せても状況は極めて厳しい。

無人地帯を渡る歩兵にとって致命的だったのは、「遅く歩いたこと」そのものではなく、守備側の火力が生き残っている場所へ、遮蔽物の少ない空間を越えて進まなければならなかったことである。

ソンム初日に歩兵が止まり支援砲撃だけが先へ移った時刻表作戦の失敗
現場の遅れを通信で修正できず、支援砲撃と歩兵の間に守備兵が戻る時間が生まれた

砲撃と歩兵が固定時刻で動き、失敗を途中で修正しにくかった

ソンム初日の作戦には、もう一つ大きな弱点があった。砲兵と歩兵の連携が、現代の感覚でいうリアルタイム連携ではなく、事前に決めた時刻表へ強く依存していたことだ。

砲兵は「歩兵がここまで進んだはず」という予定時刻に合わせて射撃目標を奥へ移していく。ところが歩兵が鉄条網や機関銃火力で止まれば、砲撃だけが先へ進む。すると、今まで砲撃を受けていた第一線のドイツ兵が地上へ戻り、遅れてくるイギリス兵を迎撃できる。

National Army Museumは、多くの部隊が支援砲撃について行けず、砲撃が移動した後にドイツ兵が地下壕から出て射撃を始めたことを、初日の大量損害の直接的な要因としている。

さらに、戦場通信も脆弱だった。電話線は砲撃で切れやすく、無線機はまだ前線部隊が自在に使える装備ではない。伝令は砲弾が降る無人地帯を走らなければならない。攻撃がどこで成功し、どこで止まっているのかを上級司令部が把握するまでに時間がかかった。

一部の正面では、午前7時20分にホーソーン・リッジ地下坑道の巨大地雷が爆発した。歩兵突撃は7時30分であり、10分の間隔がドイツ軍へ攻撃開始を警告する結果になったとNational Army Museumは説明している。これは全戦線の惨敗を説明する単独原因ではないが、「奇襲」よりも予定された大規模攻撃を優先したソンム初日の性格をよく表している。

作戦計画そのものにも緊張があった。ヘイグはより深い突破を望み、第四軍司令官ヘンリー・ローリンソンは比較的限定された目標を段階的に奪う考えを持っていた。最終的な計画には両者の発想が混在し、広い正面で多数の目標を砲撃しながら、歩兵には相当な前進を求める形になった。

砲撃の密度、目標の深さ、歩兵の速度、通信能力。そのどれか一つだけなら吸収できたかもしれない。ソンムでは、それらのズレが同時に発生した。

ソンム初日の英軍北部正面と英仏南部正面の砲兵密度・陣地強度・戦果比較
同じ日の南部の成功は、砲兵密度と陣地条件、歩兵との接近度が結果を変えたことを示す

なぜフランス軍とイギリス軍南部は前進できたのか

南部の成功が示すこと

ソンム初日の原因を考えるうえで最も重要な反証は、同じ日にフランス軍が前進していることだ。

フランス国防省系の戦史資料によれば、フランス軍正面はイギリス軍より狭く、重砲を含む砲兵密度が高かった。砲兵も長い戦争経験を積んでおり、ドイツ軍側もヴェルダンで消耗したフランス軍がソンムで大攻勢に加わるとは十分に見込んでいなかった。このため、フランス軍正面のドイツ陣地はイギリス軍正面ほど強化されていない場所があった。

7月1日正午までに、フランス第20軍団は目標を達成したとされる。イギリス軍側でも、フランス軍と接する南翼の第30師団がモントーバンを攻略した。

この比較は決定的である。

もし「1916年には機関銃が強すぎて、歩兵攻撃そのものが不可能だった」のなら、南部の成功を説明できない。実際には、砲撃が鉄条網と火点をどこまで処理できたか、歩兵が砲撃の直後にどれだけ接近できたか、敵陣の強度がどの程度だったかで結果が大きく変わった。

ソンム初日の大量損害は、攻撃という行為そのものの必然ではない。火力準備の不足した正面へ、成功を前提とする予定表のまま大量の歩兵を投入した場所で、損害が爆発的に増えたのである。

それでもソンム攻勢が止まらなかった理由

初日だけを見れば、攻勢を中止しても不思議ではない。しかしソンムの戦いは11月18日まで141日間続いた。

最大の理由は、ソンムがイギリス軍だけの作戦ではなかったことだ。フランス軍はヴェルダンでドイツ軍の圧力を受け続けており、ソンム攻勢には敵予備兵力と砲兵を引きつける役割があった。実際、初日の南部では前進も生まれていたため、「全正面で完全に失敗した」とその日のうちに判断できる状況でもなかった。

その後のイギリス軍は、初日とまったく同じ戦法を141日繰り返したわけではない。7月14日のバゼンタン・リッジ攻撃では、より集中した砲撃と夜間・早朝の接近を組み合わせて前進に成功した。戦闘を重ねる中で、歩兵を砲撃のすぐ後ろへ追随させる弾幕射撃、対砲兵戦、航空偵察、通信、そして9月にはマークI戦車まで投入されていく。

もちろん、それでソンムが華麗な突破戦になったわけではない。戦い全体でイギリス軍は約42万人の損害を出し、フランス軍とドイツ軍も甚大な被害を受けた。前線の移動は限定的だった。

それでも、1916年7月1日の失敗と、その後の戦術変化を分けて見る必要がある。ソンム初日は「近代火力の時代に歩兵が無力だった日」というより、近代火力を使いこなすための砲兵・歩兵・通信の連携がまだ完成していなかった日だった。

ソンム初日5万7千人の最大原因は「砲撃成功を前提にした攻撃」だった

ソンムの戦い初日にイギリス軍が57,470人もの損害を出した理由を一つだけ選ぶなら、私は「事前砲撃がドイツ軍防御を破壊したという前提の崩壊」を挙げる。

鉄条網が残った。地下壕が残った。機関銃が残った。ドイツ砲兵も完全には沈黙しなかった。それにもかかわらず、歩兵と砲兵は大規模な予定作戦として動き始めた。歩兵が止まっても砲撃は先へ移り、電話線は切れ、現場の失敗が上級司令部へ届くまでに時間がかかる。その間にも次の部隊が攻撃へ入った。

機関銃は5万7千人の損害を生み出した重要な殺傷手段だった。しかし根本原因は、機関銃を生き残らせたまま歩兵攻撃を成立させようとした作戦条件にある。

逆に、砲撃密度が高く、鉄条網と火点の破壊が進み、歩兵が火力支援へ接近できたフランス軍正面やイギリス軍南部では前進が起きた。この差が、ソンム初日の答えを最もはっきり示している。

1916年7月1日は、「勇敢な兵士が無能な将軍に殺された」という一文だけでは理解できない。膨大な砲弾を撃てる工業力を得た軍隊が、その火力を偵察、通信、歩兵の速度まで含めた一つのシステムとして運用しきれなかった。ソンムは、その代償が一日で5万7千人という数字になって現れた戦場だった。

塹壕戦がなぜ長期化したのかをあわせて読むと、ソンム初日の失敗が一戦場だけの問題ではなく、防御火力と攻撃側の通信・補給の速度差から生じたことが見えてくる。

よくある質問

ソンム初日の5万7千人は全員が戦死したのか?

違う。57,470人は戦死・負傷・行方不明・捕虜を合わせたイギリス軍の損害数で、確認された戦死者は19,240人だった。「死者5万7千人」とする説明は正確ではない。

約150万発も砲撃したのに、なぜドイツ軍陣地を破壊できなかった?

榴散弾の比率が高く、深い地下壕や強固な掩体を破壊するには不向きだったうえ、不発弾も多かった。鉄条網、地下壕、機関銃陣地が各所で残り、砲撃が移った後に守備兵が地上へ戻れた。

イギリス兵は全員、横一列でゆっくり歩かされたのか?

全戦線が同じ前進方法だったわけではない。敵陣近くまで事前に進出した部隊や砲撃直後に接近した部隊もあり、南部では目標を達成した。損害の核心は歩く速度だけでなく、守備火力が生き残った正面へ遮蔽物の少ない空間を越えて進んだことにある。

参考資料・主な出典

ヴェルダンの戦い|資料を確認

機関銃|資料を確認

マークI戦車|資料を確認

塹壕戦がなぜ長期化したのか|資料を確認

National Army Museum, Battle of the Somme|資料を確認

National Army Museum, 1916: Year of attrition|資料を確認

blog.nationalarchives.gov.uk|資料を確認

UK Parliament, Casualties at the Somme|資料を確認

cheminsdememoire.gouv.fr|資料を確認

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