戦車はなぜ生まれた?第一次世界大戦のマークIが塹壕戦を変えた理由

鉄条網と塹壕を越えて歩兵を支援する第一次世界大戦のイギリス軍マークI戦車

戦車はなぜ生まれたのか。答えは、敵の戦車と戦うためではない。第一次世界大戦の西部戦線で、鉄条網を踏み潰し、塹壕を越え、機関銃弾を受けながら歩兵の前へ出るために生まれた。

1916年9月15日、イギリス軍のマークIはソンム戦線のフレール=クールスレットで世界初の戦車戦闘に入った。最高速度は約6km/h、最大装甲は12mm。49両が割り当てられたが、出発線へ届いたのは32両、最終的に行動したのは18両とされる。

マークIが戦車を生んだ理由

それでも戦車の歴史はここから始まった。私は、マークIの革命性は大砲の強さより「歩兵を止めていた地形そのものを、機械で踏み越える」という発想にあったと考える。

目次

戦車はなぜ生まれた?塹壕・鉄条網・機関銃が歩兵を止めた

新兵器が同時に解くべき課題

1914年の西部戦線では、ドイツ軍と英仏軍が長大な塹壕線を築き、戦場は急速に膠着した。塹壕戦が終わらなかった理由は一つの兵器に収まらない。鉄条網、塹壕、機関銃、砲兵が重なった防御陣地だった。

歩兵は自軍の塹壕から飛び出し、無人地帯を横切る。鉄条網で足が止まれば機関銃に狙われる。事前砲撃で敵陣を壊そうとすれば、地面には砲弾穴が増え、前進する側にとっても障害物になる。

道そのものが死んでいた

必要だったのは、敵陣へ近づくまで兵士を守る防御力、荒れ地を進む機動力、到着後に機関銃座を潰す火力を同時に持つ兵器である。

私は、戦車の誕生を「装甲車を強くしたかったから」と説明すると核心を外すと思う。道路を速く走る車では足りない。マークIは敵兵だけでなく、歩兵を止めていた“地面そのもの”へ履帯をかける兵器だった。

リトル・ウィリーからマザー、マークI量産、ソンム初陣までの戦車開発年表
一人の発明ではなく、前線の要求、海軍委員会、技術者、製造企業の試作が量産車へ収束した

戦車は誰が発明した?一人の天才より「塹壕を越える仕組み」が先にあった

戦車には、たった一人の発明者を挙げにくい。イギリスでは軍人、政治家、海軍、技術者、企業が別々の役割を担い、新兵器を形にした。

前線を視察したアーネスト・スウィントン中佐は、無限軌道を備えた装甲車両で機関銃陣地を突破する構想を推した。陸軍省の反応は鈍かったが、海軍側ではウィンストン・チャーチルらが「ランドシップ」、つまり陸上戦艦の研究を後押しした。

フォスター社では1915年に試作車リトル・ウィリーが作られた。履帯式車両として前進したものの、幅の広い塹壕を越える能力には限界がある。そこで次の試作車「マザー」は、車体を大きな履帯で包む菱形の姿へ変わった。

発明者は一人に絞れない

マザーは1916年1〜2月の試験を突破し、量産へ進んだ。The Tank Museumによれば、試験成功後に150両が発注され、マークIとして雄型75両、雌型75両が生産された。

なぜ戦車を「タンク」と呼ぶのか

新兵器の開発は極秘だった。National Army Museumによれば、正体を悟られにくい呼称として1915年12月24日に「tank」が採用された。訓練中の兵士も、周辺住民にはロシア向けの水槽を扱っていると説明していた。

偶然の秘匿名称だった「tank」が、そのまま新しい兵器の一般名として残ったのである。

マークIの菱形車体・履帯・装甲・スポンソンが塹壕戦の課題へ答えた設計比較
独特な外形は奇抜さではなく、塹壕越え、鉄条網突破、歩兵防護という要件から生まれた

マークIはなぜ菱形だった?車体そのものが「塹壕越え」の装置だった

マークI雄型の主要値

マークIは現代戦車とまるで違う。回転砲塔はなく、巨大な菱形の車体を履帯が一周し、雄型の57mm砲は左右のスポンソンに収められていた。

形には理由がある。

長い履帯を車体の前後いっぱいまで回せば、前端を障害物へ乗り上げさせやすい。接地長も取れるため、車輪では落ち込む砲弾穴や塹壕を越えやすくなる。履帯で鉄条網を押し潰せば、後続歩兵の通路も作れた。

J・F・C・フラーは1920年の『Tanks in the Great War』で、マークIが幅11フィート6インチ、約3.5mの塹壕をまたぎ、約5フィートの障害物を越えられたと記している。平地での最高速度は3.7mph、約6km/hにすぎないが、塹壕戦で求められたのは最高速より障害物を越えて動き続ける能力だった。

項目マークI(雄型)の目安
イギリス
生産数150両(雄型75両・雌型75両)
乗員8人
重量約28トン
最高速度3.7mph、約6km/h
最大装甲12mm
主武装57mm 6ポンド砲×2
副武装機関銃

雄型は57mm砲と機関銃を持ち、雌型は機関銃を中心に武装した。私がマークIで最も面白いと感じるのは、火力より先に車体の形が戦術を語っていることだ。菱形の輪郭そのものが、塹壕を越えるための兵器だった。

ソンム初陣で49両のマークIが出発線到達と実戦行動まで減少した流れ
配当数ではなく、前線へ届き、動き、歩兵と同時に戦える車両数が実際の戦闘力を決めた

1916年9月15日、マークIはソンムで世界初の戦車戦闘に入った

初陣の車両数は集計基準で異なる

初陣は1916年9月15日、ソンム攻勢のフレール=クールスレットの戦いだった。イギリス軍は49両のマークIを攻撃に割り当て、歩兵の前で鉄条網と機関銃陣地を処理させようとした。

だが出撃前から脱落が始まる。The Tank Museumは32両が出発線に到達し、18両が最終的に行動したとする。National Army Museumは攻撃開始時に無人地帯へ進めた車両を15両と数える。集計基準には差があるが、49両の大半が十分に戦えなかったことは同じだ。

初陣は厳しかった。

それでも動いた車両は、従来の歩兵にはできなかったことを実行した。小銃弾や機関銃弾を装甲で受け、鉄条網を押し潰し、塹壕を越えて進んだ。ドイツ兵の一部には強い心理的衝撃を与え、戦車が歩兵の前進を助けた地点もある。フレールは占領された。

世界で初めて見る巨大な履帯車両が、機関銃火を浴びながら近づいてくる。「撃てば歩兵は止まる」という守備側の常識に、別の答えが現れた瞬間だった。

とはいえ全面突破には届かない。数が少なく、配置は分散し、故障も多かった。戦車単独で戦局を変える段階にはまだ達していなかった。

初陣はなぜ突破に失敗した?マークIの弱点は敵より先に自分を止めた

マークIの最大の敵は、ドイツ軍だけではなかった。機械そのものと、砲撃で荒れた地面だった。

最高速度は約6km/h。実戦では砲弾穴や塹壕を避けながら進むため、さらに遅くなる。フレール=クールスレットでは、敵弾を受ける前に故障した車両や、穴にはまって動けなくなった車両が出た。

機械はまだ幼かった。

乗員の環境も過酷だった。National Army Museumの資料では、車内温度が45℃を超えることがあり、換気不足で排気ガスや火器の煙がこもった。エンジン音は会話を難しくし、乗員は手信号や車体を叩く音で意思疎通した。

運用も手探りだった。戦車を通すため砲撃に隙間を作った場所では、その分だけ敵陣が残った。別の地点では歩兵が低速の戦車を追い越し、機関銃火へさらされた。9月15日付のHeavy Sectionの戦闘日誌にも、C22は有効に働いたが撤退が早すぎたという歩兵側の報告が残る。新兵器を投入しても、砲兵・歩兵・戦車の時間が合わなければ突破力は生まれない。

49両という数字だけでは、戦闘力を語れない。前線へ着き、動き、歩兵と同時に戦える車両を何両そろえられるかが問題だった。

それでもマークIが塹壕戦を変えた理由

フレール=クールスレットだけを成績表にすれば、マークIは華々しい成功作とは呼びにくい。全面突破に失敗し、多くが故障や擱座で消えた。

発想は生き残った

履帯で荒れ地と鉄条網を越える。装甲で機関銃火から乗員を守る。砲と機関銃で敵の火点を潰す。後世の戦車で「機動・防護・火力」と整理される三要素が、一つの車体に結びついたからだ。

初陣後、イギリス軍は戦車を捨てなかった。The Tank Museumによれば、戦闘から数日後にはさらに1,000両を発注する方向が決まった。1917年には改良型マークIVが大量に使われ、カンブレーでは数百両規模の戦車が歩兵や砲兵などと組み合わされる。

私の評価では、ここにマークIの価値がある。初陣の失敗から、故障率、地形、砲撃計画、歩兵との速度差、部隊編制という「次に直すべき問題」が一気に見えた。戦車は完成後に固定された兵器というより、実戦で修正される兵器体系として走り始めた。

戦車は塹壕戦を終わらせたのか?マークIの本当の功績

1916年のマークIだけで塹壕戦が終わったわけではない。その後の突破には、戦車の改良と数の増加に加え、砲兵の射撃法、歩兵戦術、航空偵察、通信、補給、そして各兵科を同じ計画で動かす能力が必要だった。

連携が必要だった。

マークIの最大の功績は、1916年9月15日にドイツ戦線を一気に破ったことではない。「履帯で地形を越え、装甲で火力に耐え、武器を敵陣へ持ち込む」という突破の仕組みを、実際の戦場へ持ち込んだことにある。

それまで攻撃側の歩兵は、砲撃が終われば自分の足で無人地帯へ出るしかなかった。マークIは、その危険な空間へ装甲と火力を連れていく選択肢を作った。遅く、暑く、壊れやすい28トンの機械だったが、戦場の「通れない」を兵器設計で解く発想は残った。

1917年のカンブレーでは戦車が数百両規模で投入され、1918年には歩兵・砲兵・航空との連携の中へ組み込まれていく。マークIが変えたのは、一日の戦果よりも、塹壕をどう突破するかという戦争の答えそのものだった。

マークIが登場した戦場をほかの大規模会戦と比較する場合は、第一次世界大戦の激戦地ランキングもあわせて読むと全体像をつかみやすい。

よくある質問

世界で最初の戦車はマークIですか?

実戦へ投入された世界初の戦車はマークIである。ただし、その前にリトル・ウィリーやマザーなどの試作車があり、マークIは複数の軍人・技術者・企業が試行錯誤を重ねた量産型だった。

マークIは初陣で何両が戦えたのですか?

集計基準で数字が異なる。The Tank Museumは49両が割り当てられ、32両が出発線へ到達し、18両が最終的に行動したとする。National Army Museumは攻撃開始時に無人地帯へ進んだ車両を15両と数えている。

マークIだけで塹壕戦を終わらせたのですか?

終わらせてはいない。マークIは突破手段の可能性を示したが、決定的な前進には改良型戦車、砲兵、歩兵、航空、工兵、通信、補給を同じ計画で動かす必要があった。

参考資料・主な出典

塹壕戦が終わらなかった理由|資料を確認

ソンム攻勢|資料を確認

第一次世界大戦の激戦地ランキング|資料を確認

National Army Museum, Attack of the tanks|資料を確認

ww1.nam.ac.uk|資料を確認

National Army Museum, Mark I tank "War Baby"|資料を確認

The Tank Museum, Mark I|資料を確認

The Tank Museum, Tanks at Flers|資料を確認

tankmuseum.org|資料を確認

gutenberg.org|資料を確認

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