ワーテルローの戦い|ナポレオンはなぜ最後の一日に敗れたのか

雨上がりのワーテルローで稜線へ進むフランス軍と迎え撃つ英蘭連合軍

1815年6月18日のワーテルローの戦いで、ナポレオンは単に「ウェリントンに戦術で負けた」のではない。最大の敗因は、ベルギー戦役の目的だった英蘭連合軍とプロイセン軍の分断に失敗し、ウェリントンを倒す前にブリュッヘルの軍勢が戦場へ到着するという最悪の形を許したことにある。

しかも、その日のフランス軍は最初から圧倒的劣勢だったわけではない。ナポレオンはワーテルローに約7万2,000人と246門の砲を集め、ウェリントンの英蘭連合軍は約6万8,000人と156門。正面だけを見れば、フランス軍には十分に勝機があった。問題は、泥濘、堅固な前哨拠点、失敗した歩兵攻撃、騎兵突撃、そしてプロイセン軍の接近が、ナポレオンに残された時間を一つずつ削っていったことだった。

ワーテルロー敗北の核心

ワーテルローは「天才が突然凡将になった日」ではない。私はむしろ、ナポレオンが得意としてきた各個撃破の条件を作れないまま、刻一刻と閉じる包囲網の中で戦わされた一日だったと見る。

敗因戦場で起きたこと決定的だった理由
リニーでプロイセン軍を壊し切れなかった敗走したプロイセン軍が東ではなく北のワーヴルへ退却ウェリントンとの連携を維持できた
雨と泥濘砲撃効果と騎兵の運動を妨げ、攻撃開始は11時30分頃プロイセン軍到着までの猶予を消費した
ウェリントンの逆斜面陣地主力を稜線の裏に置き、砲撃から隠したフランス軍は敵の配置を把握しにくかった
ウーグモンとラ・エー・サント前哨拠点がフランス軍の兵力と時間を吸収正面突破のテンポが落ちた
デュルロン軍団の攻撃失敗稜線を越えた歩兵が迎撃され、英重騎兵の反撃を受けた午後の主攻が崩れた
ネイの大規模騎兵突撃連合軍歩兵が方陣を組み、騎兵だけでは突破できず精鋭騎兵を消耗しながら決定打を得られなかった
プロイセン軍の到着フランス軍右翼・プランスノワ方面へ圧力ナポレオンは予備兵力を正面ではなく側面へ回さざるを得なかった
近衛軍の攻撃失敗最後の予備がウェリントンの中央を破れず後退フランス軍全体の士気崩壊につながった
目次

ワーテルローの敗北は18日朝に始まったのではない

6月16日に残った作戦上の負債

ナポレオンがエルバ島を脱出してフランスへ復帰した「百日天下」で、彼に長期戦の余裕はなかった。イギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアなどが再び対仏大同盟を組みつつあり、各国軍が集結すればフランスは物量で押し潰される。そこでナポレオンは敵軍が完全に合流する前にベルギーへ攻め込み、ウェリントン軍とブリュッヘル軍の間へ割って入った。

この戦役に参加した各国軍の強みと弱みは、ナポレオン戦争最強軍隊ランキングTOP10で横断的に比較している。

狙い自体は、いかにもナポレオンらしい。敵が二つの軍に分かれているなら、一方を叩き、反転してもう一方を叩く。問題は6月16日のリニーの戦いで、プロイセン軍に勝利しながら撃滅まではできなかったことだ。

同じ日、ネイ元帥はカトル・ブラでウェリントン軍と交戦していた。ここで第1軍団のデュルロン軍団は、リニーとカトル・ブラの間を命令変更によって行き来し、結局どちらの戦場でも決定的な働きをできなかった。もしリニーでより大きな兵力を投入してプロイセン軍の退路を断てていれば、18日の状況は違っていた可能性がある。

さらに重要なのは、敗れたプロイセン軍がナポレオンの期待した方向へ消えなかったことだ。ブリュッヘル軍は東へ遠ざかるのではなく、北のワーヴル方面へ退き、ウェリントンとの連絡を保った。ナポレオンは約3万3,000人をグルーシー元帥に与えて追撃させたが、プロイセン軍そのものをワーテルローから遠ざけることには失敗する。

つまり、18日の朝にナポレオンが見ていたのはウェリントン一人ではなかった。まだ視界の外にいるブリュッヘルとの競争が、すでに始まっていた。

リニーからワーテルローまでの1815年6月16日から18日の時系列
リニーの未完の勝利からプロイセン軍到着まで、フランス軍の猶予は二日間で縮み続けた

雨と11時30分の攻撃開始は、ナポレオンから最も貴重な資源を奪った

6月17日夜から18日にかけて戦場には激しい雨が降り、地面はぬかるんだ。ナポレオン軍は朝一番ではなく、午前11時30分頃から本格的な戦闘を開始したとされる。

「地面が乾くのを待った数時間が敗因だった」という説明は有名だが、それだけでワーテルローを説明するのは単純すぎる。早朝に攻撃していれば必ず勝てた、とは史料から確定できない。それでも、時間の価値がフランス軍と連合軍でまったく違っていた点は見逃せない。

ウェリントンはプロイセン軍が来るまで持ちこたえればよい。一方のナポレオンは、プロイセン軍が来る前にウェリントンを崩さなければならない。昼に近い攻撃開始は、それだけでフランス側の勝利条件を厳しくした。

泥濘は火力面でも厄介だった。当時の砲兵は、硬い地面を跳ねながら兵列を薙ぐ実体弾の効果が大きい。湿った地面では砲弾が食い込みやすく、通常なら一発が複数列を荒らす跳弾効果が落ちる。騎兵もぬかるんだ斜面で速度と隊形を維持しにくい。

ワーテルローの雨は「ナポレオンを負けさせた天候」ではない。しかし、砲兵と騎兵というフランス軍の強みを鈍らせながら、同時に時計の針まで進めた。これが痛かった。

フランス軍と連合軍で異なるワーテルローの勝利条件と時間の価値
ウェリントンは持ちこたえればよく、ナポレオンは援軍到着前に突破しなければならなかった

ウェリントンの逆斜面陣地がフランス砲兵の強みを薄めた

ウェリントンが時間を買った防御構造

ウェリントンはモン・サン・ジャンの稜線に主力を配置した。ただし、兵を稜線の頂上に並べてフランス軍へ見せたわけではない。多くを稜線の裏側、つまりフランス側から見えにくい逆斜面へ置いた。

この配置は、半島戦争でフランス軍と何度も戦ったウェリントンが使い慣れたものだった。敵の砲兵から兵を隠し、フランス歩兵が稜線を登ってきたところで近距離から迎え撃つ。ナポレオン軍からすれば、砲撃で敵を崩したつもりでも、その先にどれだけ兵が残っているのか見えにくい。

さらに稜線の前には三つの重要拠点があった。西のウーグモン館、中央前方のラ・エー・サント農場、東のパプロットである。

ナポレオンはまずウーグモンを攻撃し、ウェリントンに増援を投入させて中央を薄くするつもりだった。しかしウーグモンは一日中持ちこたえ、フランス軍は攻撃を繰り返すことになった。陽動は、本来なら敵の兵力を吸い込むためのものだ。ところがワーテルローでは、攻める側もまたその拠点に拘束された。

中央のラ・エー・サントも同じだった。幹線道路に面したこの農場が連合軍の手にある限り、フランス軍は中央へ安全に火力を寄せにくい。地図で見ると小さな農場だが、実際の戦場では数時間を買う「時間の要塞」だった。

デュルロン第1軍団は稜線を越えた瞬間に止められた

午後1時30分頃、フランス軍は連合軍左中央へ大規模な歩兵攻撃を仕掛けた。主力となったのはデュルロン伯爵の第1軍団である。

フランス歩兵は前進してオランダ・ベルギー部隊を押し戻し、稜線へ迫った。一見すると、ナポレオン軍が正面をこじ開ける瞬間だった。しかし稜線を越えたところで待っていた英軍歩兵の射撃を受け、さらに英重騎兵が反撃に出た。

有名なスコッツ・グレイズを含む重騎兵はフランス歩兵へ突入し、部隊を混乱させ、軍旗まで奪った。もっとも、この反撃も完璧ではない。勢いに乗った英騎兵は追撃しすぎ、今度はフランス騎兵の反撃を受けて大きな損害を出した。

ここで重要なのは、どちらの騎兵が強かったかではない。ナポレオンが午後の早い段階で投入した主攻が、ウェリントンの戦線を破壊できなかったことである。

歩兵が戻り、騎兵が消耗し、砲兵は再び敵の逆斜面へ火を浴びせる。フランス軍はまだ戦える。しかし「次の攻撃」に使える時間は確実に短くなった。

ネイの大規模騎兵突撃は、勇敢でも勝利条件を満たせなかった

午後、ウェリントン軍の一部に後退するような動きが見えたことで、ネイ元帥は敵が崩れ始めたと判断したとされる。フランス騎兵が稜線へ殺到し、やがて多数の騎兵部隊が攻撃に加わった。

ここはワーテルローで最も映像映えする場面だ。胸甲騎兵や槍騎兵が斜面を登り、その前で連合軍歩兵が四角形の方陣を組む。だが騎兵にとって、銃剣を外へ向けて密集した健全な方陣は極めて厄介な目標だった。

騎兵は歩兵を追撃するときには恐ろしい。崩れた隊列に突っ込めば、逃げる兵を大量に倒せる。しかし方陣を正面から踏み潰すには、馬そのものが銃剣の壁へ飛び込まなければならない。そこへ継続的な歩兵攻撃や至近距離の砲撃が十分に組み合わされなければ、方陣を崩すのは難しい。

だから「フランス騎兵は何もできなかった」とするのも正確ではない。連合軍歩兵を方陣に縛りつけ、何度も圧力を加えた。ただ、ナポレオンが必要としていたのは敵を疲れさせることではなく、プロイセン軍が来る前に戦線を破ることだった。

勇敢な突撃を何度繰り返しても、中央が崩れないなら時計だけが進む。この場面ほど、ワーテルローにおけるフランス軍の苦しさを象徴するものはない。

ラ・エー・サントはついに落ちた。だが18時では遅すぎた

夕方6時頃、フランス軍はようやくラ・エー・サントを奪取した。守備兵は激戦の末に弾薬不足へ追い込まれ、中央前方の重要拠点がフランス側へ渡る。

ここで初めて、ウェリントンの中央は本当に危険になった。フランス軍は農場周辺まで砲を前進させ、より近い距離から連合軍中央へ火力を集中できる。ネイはこの好機に追加の歩兵を求めた。

もしワーテルローを一つの瞬間だけ切り取るなら、私はここをナポレオン最後の最大の勝機と見る。ウェリントン軍は損耗し、中央は圧迫され、重要拠点も失った。朝から続いた攻撃がようやく効き始めた瞬間だった。

ところが、ナポレオンはその予備兵力を中央だけに注ぎ込めなかった。

東からプロイセン軍が現れ、プランスノワ方面へ攻撃を始めていたからである。ナポレオンはロバウ軍団や近衛部隊の一部を右翼へ回し、背後を脅かすプロイセン軍を止める必要に迫られた。中央でウェリントンをあと一押ししたい時間に、軍を二方向へ向けなければならない。

ここで6月16日の未完の勝利が、6月18日の戦場へ戻ってきた

グルーシーは本当にワーテルロー敗北の「戦犯」だったのか

グルーシー個人だけを戦犯にできない理由

ワーテルローの敗因として最も名前を挙げられやすいのが、グルーシー元帥である。彼は約3万3,000人を率いてプロイセン軍を追跡し、ワーテルローへ姿を見せなかった。砲声が聞こえたなら「大砲の音へ向かって進めばよかった」という批判も有名だ。

しかし、グルーシー一人へ全責任を押し付ける説明には無理がある。

彼に与えられた任務は、敗走したプロイセン軍を追跡することだった。プロイセン軍の所在を探りながら道路を進む数万の軍団を、砲声を聞いた瞬間に方向転換させ、泥濘の中を横断して都合よくナポレオンの右翼へ到着させるのは、地図上で矢印を引くほど簡単ではない。実際、グルーシー軍はワーヴルでプロイセン軍の一部と戦っている。

それでも、作戦全体で見れば彼の任務は失敗した。追撃の目的はプロイセン軍を追い回すことではなく、ウェリントンとの合流を阻止することだったからだ。ブリュッヘルは約4万8,000人規模の兵力を再編し、複数軍団をワーテルロー方面へ送り込むことに成功した。

私はグルーシー個人の「命令違反か忠実な服従か」より、ナポレオン側がプロイセン軍の退却方向と再集結能力を読み違えたことの方が重いと考える。戦術命令に従っていても、作戦目的を達成できなければ戦役は負ける。ワーテルローはその典型だ。

雨の遅延から近衛軍敗退までワーテルローの突破失敗が連鎖した流れ
個別の失敗は孤立せず、攻撃の遅延と予備兵力の分散を通じて最後の攻撃へ累積した

近衛軍の最後の攻撃が崩れ、ナポレオンは何に負けたのか

夕刻、ナポレオンは最後の切り札を投入した。皇帝近衛軍である。

近衛軍は単なる精鋭歩兵ではなかった。ナポレオン軍にとって「最後まで崩れない部隊」という象徴そのものだった。その部隊が前進すれば、周囲の兵もまだ勝てると感じる。だからこそ、最後の攻撃に投入する価値があった。

近衛軍はウーグモンとラ・エー・サントの間から稜線へ進んだ。しかしウェリントンはまだ戦線を維持していた。英近衛部隊や軽歩兵などの射撃を受け、フランス近衛軍の攻撃は止まり、やがて後退する。

戦場の東ではプロイセン軍が圧力を強め、プランスノワをめぐる戦闘も激化していた。正面にはウェリントン、側面と背後にはプロイセン軍。そのうえ「最後の予備」まで後退した。

ここで敗北は単なる部隊の後退から軍全体の崩壊へ変わった。ウェリントンは全線に前進を命じ、プロイセン軍も敗走するフランス軍を追撃した。ナポレオンは戦場を離れ、百日天下は終局へ向かう。6月22日、彼は再び退位した。

史料から強く言えるのは、ナポレオンの基本構想だった「ウェリントンとブリュッヘルを分断して各個撃破する」という条件が、18日までに崩れていたことだ。リニーでプロイセン軍を壊滅させられず、追撃でも連携を断ち切れなかった結果、ワーテルローはフランス軍対ウェリントン軍の一騎打ちではなくなった。

そのうえ18日の戦場では、雨で湿った地面、逆斜面陣地、ウーグモンとラ・エー・サント、デュルロン軍団の失敗、騎兵の消耗が時間を奪った。ラ・エー・サントを攻略してウェリントン中央が危機に陥った頃には、すでにプロイセン軍がナポレオンの右翼を攻撃していた。

結論を一つに絞るなら、ワーテルロー最大の敗因は「グルーシーが来なかったこと」でも「雨が降ったこと」でもない。敵二軍の合流を許したまま、時間制限付きの正面突破を強いられたことだ。個々の戦術的失敗は、その制限時間を削る形で連鎖した。

戦術的な損害交換と戦略目的が一致しないという点では、後世のユトランド沖海戦にも通じる。戦場の一部で優位を得ても、戦役全体の勝利条件を満たせなければ最終結果は覆らない。

もちろん、朝早く攻撃していたら、ネイが騎兵を温存していたら、グルーシーが別の進路を取っていたら、という反実仮想に確定的な答えはない。実際、ラ・エー・サント陥落後のウェリントン中央は危険な状態にあり、ナポレオンに勝機が完全になかったわけでもない。

だからこそワーテルローは面白い。同じナポレオン戦争でも、兵力差を局地的な優勢へ変えたトラファルガー海戦とは対照的に、ナポレオンは敵二軍を分断できないまま時間切れへ追い込まれた。最後の敗北は、天才の魔法が突然解けた瞬間ではなく、数日前から積み重なった判断と遅延が、18日の夕方に一斉に請求書となって届いた戦いだった

よくある質問

ワーテルローの戦いはどこで起きた?

現在のベルギーで、ブリュッセルの南方にあるワーテルロー村周辺で行われた。主戦場は村そのものより南側のモン・サン・ジャン周辺で、ラ・エー・サント、ウーグモン、プランスノワなどが重要地点になった。

ウェリントン軍はイギリス軍だけだった?

違う。ウェリントンが率いたのはイギリス軍だけではなく、オランダ、ベルギー、ハノーファー、ブラウンシュヴァイク、ナッサウなどを含む多国籍の英蘭連合軍だった。そこへ別系統のプロイセン軍が合流したことで、ナポレオンは二つの連合軍を同時に相手にする形になった。

ワーテルローで負けた直後、ナポレオンはどうなった?

ナポレオンは敗戦後にパリへ戻り、6月22日に再び退位した。その後はアメリカへの逃亡も模索したが実現せず、最終的にイギリス側へ身を委ね、南大西洋のセントヘレナ島へ送られた。1821年に同島で死去している。

参考資料・主な出典

ナポレオン戦争最強軍隊ランキングTOP10|資料を確認

ユトランド沖海戦|資料を確認

トラファルガー海戦|資料を確認

National Army Museum「Battle of Waterloo」|資料を確認

The Gazette「The Battle of Waterloo」|資料を確認

napoleon.org|資料を確認

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