『豊臣兄弟!』を見ていると、途中から呼び名がややこしくなる。秀吉は「羽柴筑前守」と呼ばれていたのに、いつのまにか「豊臣秀吉」になる。秀長も「羽柴秀長」と書かれた本があれば、「豊臣秀長」と書かれた本もある。ドラマのタイトルは『豊臣兄弟!』なのに、時代考証を担う柴裕之氏の評伝は『羽柴秀長』だ。
結局、羽柴なのか、豊臣なのか。答えは「どちらも正しい。ただし種類の違う名前だ」になる。羽柴は苗字、豊臣は氏。秀吉は羽柴を捨てて豊臣になったのではなく、二つを同時に持っていた。
この記事では、羽柴と豊臣がどう違うのかを、名前の変遷と、苗字と氏の違いから整理する。読み終えるころには、「豊臣秀吉」と「羽柴秀吉」がなぜ両方あるのか、すっきり分かるはずだ。
結論|羽柴と豊臣の違いを3行で
- 羽柴は苗字(みょうじ)。家の名前で、自分で名乗るもの。秀吉は元亀4年(1573年)ごろから羽柴を名乗った
- 豊臣は氏(うじ)。朝廷から与えられる公式の一族の名前で、源・平・藤原と同じ種類のもの。秀吉は天正14年(1586年)に朝廷から豊臣の氏を受けた
- 秀吉は羽柴を豊臣に「改めた」のではない。苗字の羽柴と、氏の豊臣を、生涯あわせて持っていた。だから「羽柴秀吉」も「豊臣秀吉」も間違いではない

名前の変遷|木下・羽柴・藤原・豊臣
秀吉の名前は、出世とともに何度も変わった。まず流れを表にしておく。

表を見ると、変わっているものが二種類あるのが分かる。木下から羽柴へ、は苗字の変更。平から藤原へ、藤原から豊臣へ、は氏の変更だ。この二つは別のものなので、羽柴から豊臣へ「変わった」という言い方は正確ではない。
なお、豊臣の氏を受けた時期については、天正13年(1585年)9月とする文書もある。ただしこの文書は日付を後から仕立てたものとみられていて、通説は天正14年だ。
苗字と氏は、何が違うのか
ここがいちばん大事なところだ。戦国時代の武士の名前は、いまの「名字+名前」よりずっと複雑で、いくつもの層が重なっていた。
| 層 | 読み | 秀吉の場合 | 徳川家康の場合 | 何を表すか |
|---|---|---|---|---|
| 苗字 | みょうじ | 羽柴 | 徳川 | 家の名前。住む土地や家筋から自分で名乗る。私的なもの |
| 通称・官途名 | つうしょう・かんとめい | 藤吉郎、筑前守 | 次郎三郎、三河守 | ふだんの呼び名。役職にちなむことも多い |
| 氏 | うじ | 豊臣(その前は平、藤原) | 源(その前は藤原) | 朝廷に認められた一族の名前。公的なもの |
| 姓 | かばね | 朝臣 | 朝臣 | 氏につく身分の称号 |
| 諱 | いみな | 秀吉 | 家康 | 実名。目上の人以外が呼ぶのは失礼とされた |
ふだんの暮らしや手紙では、苗字と通称・官途名を使う。「羽柴筑前守」「羽柴藤吉郎」という呼び方だ。一方、朝廷から位や官職を受けるときの正式な文書では、氏と姓と諱を使う。「豊臣朝臣秀吉」という書き方になる。官位の文書では、両方を並べて「関白羽柴内大臣豊臣朝臣秀吉」のように書かれたとも考えられている。
いまの言葉でたとえるなら、苗字はふだん名乗っている屋号、氏は朝廷に登録された正式な家の名前、といったところだ。会社でいえば、店の看板に出している名前と、登記簿に載っている正式な社名の違いに近い。同じ人が両方を持っていて、場面によって使い分ける。
「とよとみの」と「の」が入る理由
この違いは、読み方にもあらわれる。
氏には「の」をつけて読むのが本来の読み方だ。源頼朝は「みなもとのよりとも」、平清盛は「たいらのきよもり」、藤原道長は「ふじわらのみちなが」。豊臣も氏なので、本来は「とよとみのひでよし」と読む。
苗字には「の」をつけない。織田信長は「おだのぶなが」、徳川家康は「とくがわいえやす」、羽柴秀吉は「はしばひでよし」。
学校で「とよとみひでよし」と習った人が多いと思うが、氏であることを意識するなら「とよとみの」と読むほうが筋が通る。逆に言えば、「の」が入るか入らないかで、その名前が氏なのか苗字なのか見分けられる。覚えておくと便利なものさしだ。
羽柴はどこから来たのか
羽柴という苗字の由来には、有名な説がある。信長の重臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらって「羽柴」にした、というものだ。江戸時代の初めにまとめられた『豊鑑』という書物に出てくる話で、のちの研究者の多くもこの説を受け入れてきた。
ただ、この話には疑問も出されている。『豊鑑』はこの改名を永禄6年(1563年)より前のこととして書いているが、秀吉は永禄11年(1568年)の書状でまだ「木下藤吉郎」と署名している。明治から昭和にかけての評論家・徳富蘇峰は、この矛盾を挙げて丹羽・柴田説を強く退けた。
とはいえ、羽柴を名乗り始めたのが元亀4年(1573年)ごろで、丹羽と柴田が織田家の宿老として重きをなしていた時期と重なるのは確かだ。新参の秀吉が、先輩の重臣の名を借りて自分の苗字にしたとすれば、出世のための気配りとしてはよくできている。真偽は決められないが、話としては筋が通っている。
秀吉はなぜ「豊臣」という新しい氏をつくったのか
羽柴は苗字だから、自分で決めて名乗ればいい。けれど氏は違う。朝廷が認めなければ名乗れない。しかも、源・平・藤原・橘のような古い氏は、どれも何百年も前から続くもので、新しい氏がつくられることはまずなかった。秀吉は、なぜわざわざ新しい氏を求めたのか。

鍵は関白の職にある。関白は、藤原氏の中でも近衛・九条などの五摂家の人しかなれない、というのが長いあいだの決まりだった。そこで秀吉は、天正13年(1585年)に近衛前久の猶子になって藤原の氏を得て、関白に就いた。
けれど、藤原の氏を借りたままでは、秀吉の家はいつまでも「藤原氏の中の一家」でしかない。関白の職も、いずれは藤原の五摂家に戻っていく。秀吉は、自分の家を源・平・藤原と並ぶ一つの氏として立て、関白を代々継げる家にしようとしたと考えられている。翌天正14年、朝廷は新しい氏「豊臣」を認めた。実際、天正19年(1591年)に甥の秀次が関白を継いだとき、秀次は「豊氏長者」、つまり豊臣氏の長に任じられている。
羽柴と豊臣を大名に配る|名前で束ねる政権
羽柴と豊臣には、もう一つ大事な役目があった。秀吉は、この二つの名前を大名たちに配ったのだ。
| 名前 | 誰に与えたか | 例 |
|---|---|---|
| 羽柴(苗字) | 一門、かつての織田家の同僚、臣従させた有力大名、晩年には直臣にも | 堀秀政(天正10年・1582年、最初の例とされる)、徳川家康、細川忠興、島津家久、池田輝政、福島正則など |
| 豊臣(氏) | 位や官職を受けた者に広く | 加藤清正、池田輝政、山内一豊など。羽柴よりはるかに範囲が広い |
羽柴の苗字をもらうということは、秀吉の家の「一門」に準じる扱いを受けるということだ。豊臣の氏をもらうということは、朝廷の秩序の中で、秀吉と同じ一族に連なるということだ。秀吉は、もとは織田家の同僚だった大名や、戦って降した大名を、名前でつなぎ止めようとした。
軍事ブログ的に言えば、これは組織の結束の仕組みだ。いまの自衛隊でも、名前には意味がある。海上自衛隊の護衛艦は旧海軍の艦名を受け継ぐことが多く、もがみ型の「もがみ」は、かつての重巡洋艦「最上」の名を継いでいる(『最上型重巡洋艦とは?』)。名前を継ぐことで、組織は歴史と誇りを受け継ぐ。航空自衛隊を「航空宇宙自衛隊」に改める案が議論されるのも、名前が任務と組織の姿を表すからだ(『航空宇宙自衛隊構想とは』)。秀吉は、名前の持つその力をよく知っていた。
秀長は「羽柴秀長」か「豊臣秀長」か
この特集の主役、秀長の場合も同じだ。苗字は羽柴、氏は豊臣。どちらで呼んでも間違いではない。
ただ、近年の研究者は「羽柴」を使うことが多い。柴裕之氏の評伝は『羽柴秀長』、黒田基樹氏の本も『羽柴秀吉とその一族』だ。理由は、当時の人がふだん使っていた名前が苗字のほうだったからだ。秀長は、同時代の記録ではたいてい「羽柴美濃守」や「大和大納言」と呼ばれている。「豊臣秀長」と書かれることは、ほとんどなかった。
一方で、「豊臣秀長」「豊臣秀吉」という呼び方は、江戸時代以降に広く定着した。一般の読者にはこちらのほうが通りがいい。大河ドラマのタイトルが『豊臣兄弟!』なのも、その分かりやすさを取ったのだろう。軍研ノートの特集でも、検索されやすさを考えて「豊臣秀長」を使っている。当時の呼び方に寄せるなら羽柴、なじみやすさを取るなら豊臣。どちらを選ぶかは、書き手の立場の違いだ。
秀長の生涯と仕事は、特集の入口『豊臣秀長は何をした人?』で整理している。ちなみに秀長が治めた大和の国の名は、のちに帝国海軍の戦艦の名にもなった(『戦艦大和』)。大和大納言と戦艦大和は、名前だけでつながる遠い縁だ。
豊臣兄弟の一族|当時の呼び名早見表
ドラマに出てくる一族が、当時どう呼ばれていたかもまとめておく。いま一般に使われる名前と、同時代の記録での呼び名がずれている人が多い。
| いま一般に使われる名前 | 苗字・氏 | 同時代の呼ばれ方の例 | ひとこと |
|---|---|---|---|
| 豊臣秀吉 | 羽柴・豊臣 | 羽柴筑前守、関白殿下、太閤 | 天下人になってからは官職名で呼ばれることがほとんど |
| 豊臣秀長 | 羽柴・豊臣 | 羽柴美濃守、大和大納言 | 「大和大納言」は領国と官職を合わせた呼び名 |
| 豊臣秀次 | 羽柴・豊臣 | 羽柴孫七郎、近江中納言、関白 | 秀吉の甥。のちに関白を継ぐ |
| 豊臣秀保 | 羽柴・豊臣 | 大和中納言 | 秀長の跡継ぎ。秀次の弟 |
| 豊臣秀頼 | 羽柴・豊臣 | 秀頼様、右大臣 | 羽柴の宗家として大坂城に残る |
| ねね(おね) | 苗字は木下(実家)、のちに豊臣の氏で位を受ける | 北政所、高台院 | 呼び名は住まいや院号から |
| 大政所 | ― | 大政所、天瑞院 | 関白の母の呼び名がそのまま定着した |

こうして見ると、当時の人は苗字や氏よりも、官職や領国、住まいで人を呼んでいたことがよく分かる。「豊臣」という言葉が日常でほとんど使われなかったのも、そのためだ。
羽柴と豊臣のその後
羽柴と豊臣の名は、豊臣政権が終わると急速に消えていく。
慶長8年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍になるにあたり、羽柴と豊臣の使用をやめ、「源朝臣家康」として将軍の宣下を受けた。将軍は源氏がなるもの、という考え方に合わせたのだ。一方で、同じ年に「豊臣朝臣」として位を受けた大名もいて、すぐに一斉に消えたわけではない。
決定的だったのは、慶長20年(1615年)の大坂の陣だ。羽柴の宗家だった秀頼の家が滅ぶと、大名たちは一斉に羽柴と豊臣を名乗るのをやめた。福島正則の家は羽柴から福島に戻している。
それでも、豊臣の氏が完全に絶えたわけではない。秀吉の正室ねね(高台院)の実家の系統である木下家は、苗字を羽柴から木下に戻しながら、豊臣の氏は名乗り続けた。備中足守と豊後日出の木下家は、江戸時代を通じて大名として続いている。
いまの「氏」はどこから来たのか
最後に、いまの私たちの名前の話につなげておく。
いまの戸籍や民法では、名字のことを「氏」と呼ぶ。けれど、ここまで見てきたように、もともと苗字と氏は別のものだった。二つが一つになったのは、明治の初めだ。
明治政府は、明治3年(1870年)に平民にも苗字を名乗ることを許し、明治4年(1871年)には公文書で氏と姓(かばね)を使わず、苗字と実名だけを使うよう定めた。そして明治8年(1875年)には、すべての国民に苗字を名乗ることを義務づけた。こうして、家の名前である苗字が、法律上の「氏」になった。
つまり、いまの私たちの「氏」は、戦国の言葉でいえば苗字にあたる。秀吉の時代の「氏」にあたるもの、つまり源・平・藤原・豊臣のような一族の名前は、いまの制度にはもうない。羽柴と豊臣の違いは、日本人の名前の仕組みが大きく変わる前の、最後の大きな名残だとも言える。
よくある疑問に短く答える
羽柴と豊臣、どちらが正しい?
どちらも正しい。羽柴は苗字、豊臣は氏で、秀吉は両方を持っていた。当時の人がふだん使ったのは羽柴、朝廷の正式な文書で使ったのは豊臣だ。
秀吉はいつ羽柴から豊臣になった?
羽柴から豊臣に「変わった」のではない。羽柴を名乗り始めたのは元亀4年(1573年)ごろ、豊臣の氏を受けたのは天正14年(1586年)で、そのあとも羽柴の苗字はそのまま持っていた。
「豊臣秀吉」はなぜ「とよとみの」と読むの?
豊臣は源・平・藤原と同じ「氏」だからだ。氏には「の」をつけて読むのが本来の読み方で、苗字の羽柴には「の」がつかない。
羽柴の由来は?
信長の重臣・丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ取ったとする説が有名だが、年代が合わないとして疑う見方もある。
豊臣の名前は大坂の陣で消えたの?
大名たちは大坂の陣のあとに一斉に羽柴と豊臣の使用をやめた。ただし、ねねの実家の木下家は豊臣の氏を名乗り続け、大名として江戸時代を生き抜いた。
豊臣秀長特集の読み方
この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の追加記事として書いた。羽柴の苗字を与えられた大名の筆頭格が徳川家康だ。その家康を豊臣政権に迎え入れた和睦の流れは『旭姫はなぜ家康に嫁いだ?』『大政所はなぜ家康のもとへ?』で、秀長の跡継ぎで「羽柴大和中納言」と呼ばれた甥については『豊臣秀保とは?』で書いている(順次公開)。
まとめ|二つの名前は、二つの世界の名前だった
羽柴と豊臣は、種類の違う名前だった。羽柴は、武士たちがふだん使う苗字。豊臣は、朝廷から与えられる氏。秀吉は羽柴を捨てて豊臣になったのではなく、二つを生涯あわせて持っていた。
この二つは、秀吉が生きた二つの世界をそのまま表している。羽柴は、尾張の農村から出て、織田家の家臣として出世していった武士の世界の名前だ。豊臣は、関白・太政大臣として朝廷の頂点に立った、公家の世界の名前だ。秀吉は二つの世界の両方で頂点に立とうとし、そのために二つの名前を使い分けた。
ドラマを見ていて「羽柴なの?豊臣なの?」と迷ったら、場面がどちらの世界かを考えてみるといい。武士たちが戦場や城で呼び合うなら羽柴、朝廷の儀式や正式な文書なら豊臣。そう見ていくと、名前の使い分けそのものが、豊臣兄弟の出世の物語になって見えてくると私は思う。







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