豊臣秀長の家臣一覧|秀吉直属の家臣との違いも解説――300石の藤堂高虎から江戸城を建てた大工まで、豊臣の弟の家臣団はなぜ徳川の天下を支えたのか

秀長の家臣団を題材にした特集扉絵

天正4年(1576年)、近江の長浜で、一人の大柄な若者が羽柴秀長に仕えた。知行は300石。それまでに浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と、主君を4人も変えてきた男だった。名を藤堂高虎という。

この男は秀長のもとで手柄を重ね、紀伊の粉河で1万石、九州平定のあとには2万石の身になる。秀長が亡くなり、跡を継いだ甥の秀保も亡くなると、高虎は一度は出家して高野山に入った。けれど秀吉に呼び戻されて伊予の大名になり、のちには徳川家康のもっとも信頼する外様大名として、伊勢の津で32万石を超える大大名になっていく。

秀長の家臣団をたどると、こういう人が次々に出てくる。豊臣の弟に仕えた人たちが、秀長家が絶えたあとは秀吉の直臣になり、やがて関ヶ原では多くが家康の側に立った。秀長のもとにいた大工の棟梁は、のちに江戸城や名古屋城の天守を手がけている。

「秀長の家臣って誰がいたの?」「秀吉の家臣とは何が違うの?」という疑問に、この記事では人名を並べるだけでなく、役割と、いつ誰の部下だったのかという時期で答えていく。

目次

結論|秀長の家臣団を3行で

要点

まず整理|「秀長の家臣」と「秀吉の家臣」はどう違う?

いちばんややこしいのはここなので、先に整理しておく。豊臣政権の武将は、秀吉との関係で大きく四つに分けられる。

秀長の家臣と秀吉直臣の指揮関係
実線は主従、点線は戦場での指揮を表す略図。秀長の軍で戦ったことだけで、秀長の家臣とは呼べない。

よく混同されるのが、四つ目だ。九州平定の根白坂で砦を守った宮部継潤や、四国平定で讃岐方面を受け持った黒田孝高は、秀長の指揮で戦った。けれど、二人とも秀吉から直接領地をもらう直臣で、秀長の家臣ではない。戦場での指揮の関係と、知行をもらう主従の関係は、別のものなのだ。

秀長の家臣は、秀長の領地の中で知行をもらい、秀長の城と国を回すために働いた。だから、秀長の家が絶えたとき、彼らは主君を失うことになる。

秀長の家臣一覧|役割別に見る

秀長の主な家臣を、役割ごとにまとめておく。石高は時期によって変わるので、目安として見てほしい。

家老・内政を回した人たち

名前 主な役割 石高の目安 その後
横浜一庵(良慶) 三家老の一人。家臣でいちばんの高禄。大和の内政、興福寺との取次、普請奉行 5万石 秀保の死後、郡山に入った増田長盛には仕えず、秀吉の直臣に
羽田正親 三家老の一人。和歌山城の普請奉行、熊野の木材の調達。大和の小泉城、のちに宇陀松山城 4万8000石 秀保の死後、秀次の事件に巻き込まれ、家は続かなかった
小川下野守 三家老の一人 3万5000石 詳しい経歴はあまり伝わっていない
小堀正次 紀伊・大和の検地の代官。内政の中心の一人 1000石から5000石へ 秀吉に仕え、関ヶ原では東軍。のちに備中松山1万4000石
宇多頼忠 藤堂高虎に次ぐ家老格とされる 1万3000石(秀長家の断絶後) 秀吉の直臣に。娘が石田三成の妻で、関ヶ原では三成の側に立った
秀長の領国を回した人たち
本文の役割別一覧の見取り図。各人の所属時期や活動の確かさは、本文の注記とあわせて読みたい。

城と国を預かった人たち

名前 主な役割 石高の目安 その後
桑山重晴 但馬の竹田城主、のちに紀伊の和歌山城主 1万石から3万石へ 秀吉の直臣に。関ヶ原では東軍として和歌山城を守る
本多俊政 大和の高取城主。文禄の役では壱岐で補給の海上輸送を担う 1万5000石から2万5000石へ 秀吉の直臣に。関ヶ原では東軍で、高取城を家臣だけで守り抜く
杉若無心 紀伊の田辺を治め、泊山城、のちに上野山城を拠点にする 1万9000石(秀長家の断絶後) 秀吉の直臣に。関ヶ原では西軍につき改易
木下昌利 但馬の有子山城の城代。秀長の一族と伝わる ― ―

戦の働き手

名前 主な役割 石高の目安 その後
藤堂高虎 竹田城の奇襲、三木合戦、賤ヶ岳、紀州攻め、四国・九州平定。和歌山城の普請奉行。秀保の後見役 300石から2万石へ 秀吉の直臣として伊予板島7万石。のちに家康に重用され、伊勢津32万石あまり
桜井家一(佐吉) 賤ヶ岳の戦いで一番槍をあげたとされる 3000石 ―

技術者

名前 主な役割 その後
中井正清 大和の法隆寺の大工の出身。秀長のもとで登用されたとされる のちに家康に仕え、幕府の大工頭として二条城・江戸城・駿府城・名古屋城の天守などを手がける
小堀政一(遠州) 小堀正次の子。秀長のもとで少年時代を過ごしたとされる 徳川の世で作事奉行となり、茶人・作庭家「小堀遠州」として名を残す

地元の国衆と、失脚した者

紀伊の国衆では、玉置直和や湯川光春といった地元の武士が秀長の家臣になっている。大和でも、宇陀郡の沢氏・秋山氏の扱いを秀吉が自ら指示した朱印状が見つかっている(『豊臣秀長の領地はどこ?』で紹介)。征服した土地の武士を家臣団に組み込むことも、秀長の仕事だった。

一方で、紀伊の雑賀の代官だった吉川平介(7000石)は、秀長の命で売った熊野の材木の代金を着服して失脚した。家臣の不始末の責任は、主君の秀長にも及んでいる。

時期で見る|誰が、いつ、誰の部下だったか

秀長の家臣の「所属」は、時期によって変わる。ここを押さえると、人の動きがぐっとわかりやすくなる。

時期 主君 家臣団の動き
1573年ごろ〜1580年(長浜・但馬時代) 秀長 藤堂高虎(1576年)、宇多頼忠(1576年ごろ)らが長浜で秀長に仕える。但馬攻めで高虎が頭角を現す
1580年〜1585年(但馬・播磨時代) 秀長 桑山重晴が1582年ごろ1万石で秀長の配下に移り、竹田城主に。木下昌利が有子山城の城代に
1585年〜1591年(大和・紀伊・和泉時代) 秀長 三家老(横浜・羽田・小川)が大和の内政を担う。桑山が和歌山城、本多が高取城、杉若が紀伊の田辺、藤堂が粉河へ。紀伊・大和の国衆が加わる
1591年〜1595年(秀保時代) 秀保(秀長の養子) 藤堂高虎と桑山重晴が後見役に。文禄の役では高虎が秀保の名代として軍を率い、本多が壱岐で補給を担う
1595年〜(断絶後) 秀吉 秀保が亡くなり大和の豊臣家が絶える。郡山には増田長盛が入る。家臣の多くは秀吉の直臣になる
1600年(関ヶ原) 家康か三成か 藤堂・桑山・本多・小堀は東軍、宇多・杉若は西軍
現在の和歌山城
現在の和歌山城。秀長の紀伊支配と結びついた城で、写真の天守は戦後の再建。 写真:mk_is_here / Wikimedia Commons / CC BY 2.0(縮小・WebP変換)

つまり、同じ人でも、1588年なら「秀長の家臣」、1596年なら「秀吉の直臣」、1601年なら「徳川方の大名」ということになる。藤堂高虎はその典型で、生涯に仕えた主君は7人とも8人ともいわれる。高虎を「主君を何度も変えた男」と見るか、「時代ごとに居場所を見つけた男」と見るかで、評価は大きく変わる。

秀長の家臣団の特徴|転職組と実務家の集まり

一覧を見ると、秀長の家臣団にはいくつかの特徴がある。

一つ目は、もとは別の主君に仕えていた人が多いことだ。藤堂高虎は浅井家の旧臣で、秀長が5人目の主君だった。小堀正次は近江の出で、浅井方の武将・磯野員昌の娘を妻にしている。桑山重晴は、はじめ織田家の丹羽長秀の与力だったらしく、羽柴家と両方に属していた時期があったと見られている。成り上がりの羽柴家には代々の家臣がいない。そこで、近江を中心に、主家を失った人や他家の人材を集めて家臣団をつくった。

二つ目は、実務に強い人がそろっていることだ。検地の代官、普請の奉行、寺社との取次、木材の調達。秀長の家臣の仕事の多くは、戦場の外にある。大和・紀伊・和泉という寺社の強い国々を治めるには、槍の腕より、帳面と交渉の腕が要った。

三つ目は、家臣どうしが縁組でつながっていたことだ。横浜一庵の妻は藤堂高虎の養女だった。大阪歴史博物館の展示も、秀長の家臣たちが姻戚で結びついていたことを紹介している。領国を離れることの多い主君に代わって国を回すには、家臣どうしの結束が欠かせなかった。

秀吉の直臣とはどこが違うのか

では、秀吉の直臣と比べると、秀長の家臣団はどう違うのか。

秀吉の直臣には、大きく二つの顔ぶれがある。一つは、加藤清正や福島正則のように、少年のころから秀吉の手元で育てられた子飼いの武将たち。もう一つは、石田三成、増田長盛、長束正家のような、政権の中枢で働く奉行たちだ。どちらも、秀吉その人に結びついている。

秀長の家臣は、それとは毛色が違う。年齢も経歴もばらばらな転職組で、秀長の領国という「現場」を回すために集められた人たちだった。秀吉の直臣が本社の幹部候補と本社の企画部門なら、秀長の家臣は、大きな事業部の現場を任された管理職と技術者、といったところだろう。

この違いがはっきり表に出たのが、秀保が亡くなった文禄4年(1595年)だった。郡山城には、秀吉の奉行の増田長盛が入る。ところが、秀長家の三家老の筆頭だった横浜一庵は、増田には仕えず、秀吉の直臣になる道を選んだ。秀長の家臣たちにとって、新しい郡山の主は、同じ豊臣の人間でも「別の系統」だったのだ。

秀長の家臣団は、なぜ徳川の天下を支えたのか

ここが、私がこの記事でいちばん書きたかったところだ。

関ヶ原の戦いで、藤堂高虎、桑山重晴、本多俊政、小堀正次は、いずれも家康の東軍についた。高虎は戦後、家康のもとでもっとも重く用いられる外様大名の一人になり、江戸城をはじめ多くの城の普請に関わった。秀長のもとにいたとされる大工の中井正清は、幕府の大工頭として、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城の天守を手がけている。小堀遠州は、徳川の世の作事と茶の湯を代表する人物になった。

豊臣の弟の家臣団が、なぜここまで徳川の側に流れたのか。私は、秀長の家臣が「秀吉その人」ではなく「秀長の領国」に結びついた人たちだったからだと考えている。主君の秀長と秀保がいなくなったあと、彼らには秀吉の子飼いの武将ほど豊臣家に命を懸ける理由がなかった。そして、実務や技術という持ち運べる力を持っていたから、次の天下人のもとでも必要とされた。

投資をやっている身から見ると、これは会社がなくなっても人材は残る、という話に近い。秀長の家は二代で絶えたが、秀長が集めて育てた人材は、秀吉の政権を経て、徳川の世の城と町をつくった。秀長が最後に残した一番大きな資産は、領地でも金銀でもなく、人だったのかもしれない。

ちなみに、秀長が亡くなったあと、その菩提寺だった大和の大光院を京都へ移したのは藤堂高虎だった。主君を何度も変えた男が、最初に大きく取り立ててくれた主君の菩提だけは、手放さなかったのだ。

大日本帝国ファンとして|組織が消えても、技術は残る

大日本帝国ファンとしては、中井正清の話から、どうしても戦艦大和を思い出してしまう。帝国海軍という組織は1945年に消えた。けれど、大和を建造した呉の造船所で培われた溶接やブロック建造、工程管理の技術は、戦後の日本の造船業に引き継がれ、日本を一時は世界一の造船国に押し上げる土台になったとよく言われる。大和そのものについては『戦艦大和とは』で書いた。

主家が滅んでも、職人と技術者は次の時代の建物をつくる。秀長の大工が江戸城の天守を建て、帝国海軍の造船の技術が戦後の巨大タンカーを生んだ。そして、その造船所の流れをくむ会社のいくつかは、いまも自衛隊の艦艇をつくっている。投資家の目で造船会社を並べた『造船重工株ランキング』も、そういう系譜を頭に置いて読むと面白いと思う。

※株式投資は元本割れのリスクがある。銘柄の判断はご自身の責任で行ってほしい。

秀長の家臣ゆかりの城をめぐる

秀長の家臣たちの足跡は、城として各地に残っている。高虎が築城にかかわった和歌山城、本多俊政が治めた大和の高取城跡、桑山重晴が最初に城主になった但馬の竹田城跡。高虎ののちの居城、伊予の今治城と伊勢の津城まで足をのばせば、秀長のもとで身につけた築城の腕が、どう花開いたのかが見えてくる。

藤堂高虎ゆかりの今治城
藤堂高虎ゆかりの今治城。写真は再建天守で、秀長没後の高虎の足跡をたどれる。 写真:ぺ有家音 / Wikimedia Commons / CC0(縮小・WebP変換)

よくある疑問に短く答える

秀長の家臣でいちばん有名なのは?

藤堂高虎だ。300石で秀長に仕え、秀長のもとで大名になり、のちに家康に重く用いられて伊勢津32万石あまりの大名になった。築城の名人としても知られる。

石田三成は秀長の家臣だった?

違う。三成は秀吉の直臣で、奉行として政権の中枢にいた。ただ、三成の妻は、秀長の家臣だった宇多頼忠の娘で、秀長の家臣団とは縁戚でつながっていた。

黒田官兵衛は秀長の家臣?

違う。官兵衛(孝高)は秀吉の直臣だ。四国平定や九州平定では総大将の秀長の指揮のもとで戦ったが、それは戦のときの指揮の関係で、主従の関係ではない。

秀長の家臣は、秀長が死んだあとどうなった?

まず秀長の養子の秀保に仕えた。その秀保が文禄4年(1595年)に亡くなると、多くは秀吉の直臣になった。関ヶ原では、藤堂・桑山・本多・小堀らが東軍、宇多・杉若らが西軍に分かれている。

秀長の「三家老」とは?

横浜一庵(5万石)、羽田正親(4万8000石)、小川下野守(3万5000石)の3人を指す。大和の内政を中心になって担った。

豊臣秀長特集の読み方

この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の1本として書いた。特集の入口は『豊臣秀長は何をした人?』、家臣たちが城を預かった三か国の配置は『豊臣秀長の領地はどこ?』(公開予定)にまとめている。特集の最後は、秀長の死のあと豊臣政権がどう変わったのかを扱う予定だ。

まとめ|秀長が残した一番の資産は「人」だった

秀長の家臣は、秀吉から見れば家臣の家臣、陪臣だった。秀長の軍で戦った黒田孝高や宮部継潤のような秀吉の直臣とは、立場が違う。家臣団は、近江を中心に集めた転職組と、検地や普請、寺社との交渉をこなす実務家、そして大工や作庭の技術者でできていた。

秀長と秀保が亡くなると、家臣たちは秀吉の直臣になり、関ヶ原では多くが家康の側についた。藤堂高虎は徳川の重臣になり、秀長のもとにいた大工は江戸城の天守を建てた。秀長の家は二代で絶えたが、秀長が集めた人たちは、次の時代の城と町をつくった。秀長という人の大きさは、その家臣たちのその後を見ると、いちばんよくわかる。

出典・参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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