百年戦争はなぜ長期化した?英仏の王位争い・兵站・戦術を一気に理解

英仏の指揮官が港、城塞、補給路を示す作戦図を検討する場面

百年戦争が116年も続いた最大の理由は、イングランドとフランスが116年間ずっと戦い続けていたからではない。イングランドはクレシー、ポワティエ、アジャンクールで劇的な勝利を重ねても、広大なフランスを恒久的に占領する力が足りなかった。一方のフランスは国王を捕虜にされ、首都を脅かされても、国土の奥行きと王権を再建する余地が残っていた。

しかも争点は単純な国境線ではなかった。フランス王位を誰が継ぐのか、フランス国内に領地を持つイングランド王はフランス王の臣下なのか、それとも独立した主権者なのか。和平を結んでも、この根本問題が何度も蒸し返された。

長期化した理由

私は、百年戦争の長期化を理解する鍵はロングボウそのものより「占領コスト」にあると考えている。百年戦争で最も高価だったのは勝つことではない。勝った土地に、翌年も自分の旗を立て続けることだった。

時期戦況長期化につながったポイント
1337〜1360年イングランド優勢。クレシー、ポワティエで大勝会戦には勝ててもフランス王国そのものは倒せない
1369〜1389年ごろシャルル5世期にフランスが失地回復フランスが不利な会戦を避け、城塞・都市を奪い返す戦い方へ転換
1389〜1415年長い休戦と英仏双方の国内混乱王位・領土問題は未解決のまま凍結
1415〜1420年代ヘンリー5世が再侵攻。アジャンクール勝利、ノルマンディー征服イングランドはついに本格占領へ進むが、駐屯・統治コストが急増
1429〜1453年フランス反攻。オルレアン、ブルゴーニュ離反、軍制改革、砲兵強化フランスが戦術だけでなく国家の戦争遂行能力そのものを改善
1337年から1453年までの百年戦争の主要局面年表
休戦と条約を挟んでも、王位と主権の争点が解消されず戦争は再開した
目次

百年戦争は「116年間戦い続けた戦争」ではない

116年間の捉え方

百年戦争は1337年から1453年まで、慣例上116年間続いたとされる。

しかし、この数字だけを見ると大きな誤解が生まれる。実態は一つの巨大な戦争ではなく、侵攻、休戦、和平、再戦を何度も繰り返した英仏間の長期抗争だった。

たとえば1360年にはブレティニー条約が結ばれ、大規模な戦闘はいったん止まる。1389年からはさらに長い休戦期に入り、1415年にヘンリー5世がフランスへ侵攻するまで、本格的な英仏戦争は長期間抑えられていた。

その間にも黒死病、農民反乱、王権内部の対立、ブルターニュやカスティーリャをめぐる戦争、フランス国内のアルマニャック派とブルゴーニュ派の争いが絡み合う。

つまり「なぜ116年間も決着しなかったのか」という問いは、「なぜ毎年戦い続けられたのか」ではない。

「なぜ何度休んでも、同じ争点から戦争が再起動したのか」と考えた方が正確だ。

王位争いは火種だったが、燃料はガスコーニュだった

百年戦争の原因として最も有名なのが、イングランド王エドワード3世によるフランス王位請求である。

1328年、フランス王シャルル4世が男子の後継者を残さず死去した。エドワード3世は母イザベラを通じてフランス王フィリップ4世の孫にあたり、血統上の近さを根拠に王位を主張できる立場にあった。

しかしフランスの諸侯が王に選んだのは、父系でカペー家につながるヴァロワ家のフィリップ6世だった。女性自身だけでなく、女性を経由した王位継承を認めるのかが争点になったのである。

ここを単純に「サリカ法によってエドワード3世が排除された」とだけ説明すると少し乱暴だ。14世紀前半の継承判断と、後世に整理されたサリカ法の理屈は完全に同じではない。

さらに重要なのが、イングランド王がフランス南西部のアキテーヌ、特にガスコーニュを領有していたことだ。

イングランドでは国王なのに、フランス領についてはフランス王に臣従する。

この二重構造は、いわば「外国の国王が国内最大級の大領主でもある」という状態だった。フランス王が王権を強化しようとすれば、イングランド王の権益と衝突する。

1337年、フィリップ6世はエドワード3世の封建的義務違反などを理由としてアキテーヌ公領の没収に動いた。これが開戦の直接的な引き金になった。

興味深いのは、エドワード3世のフランス王位請求が単なるロマンではなかったことだ。1340年には正式にフランス王を称したが、この請求権は外交上の巨大なカードにもなった。

実際、1360年の和平では、フランス王位への請求を放棄する代わりに、アキテーヌなどをフランス王の宗主権から切り離し、完全な主権領として確保する構想が出てくる。

王冠そのものを取れなくても、「臣下ではない領主」になれれば大きな勝利だった。

だから百年戦争は、王位継承戦争であると同時に、主権をめぐる戦争でもあった。

クレシーやポワティエで勝っても、なぜフランスは降伏しなかったのか

百年戦争前半だけを見ると、イングランド軍は異様に強い。

1346年のクレシーではフランス軍を撃破し、1356年のポワティエではフランス王ジャン2世まで捕虜にした。1415年のアジャンクールでも、疲労し数で不利だったヘンリー5世軍がフランス軍に大打撃を与えている。

この印象が強すぎるため、「これだけ勝っているのに、なぜ百年戦争は終わらないのか」という疑問が生まれる。

答えは、会戦の勝利と領土の支配が別物だからだ。

イングランド軍の強さは、長弓兵だけで説明できない。長弓兵と下馬した重装兵を組み合わせ、敵が攻めてくる地形を選び、密集したフランス軍に矢を浴びせ、隊形が崩れたところを近接戦で受け止める。クレシーやアジャンクールでは、この組み合わせが強烈に機能した。ロングボウと甲冑の関係も、兵器単体ではなく地形・隊形・補給まで含めて考える必要がある。

長弓があらゆる板金鎧を正面から貫通する「中世のライフル」だったわけではない。馬、鎧の隙間、比較的防御の弱い部位への脅威に加え、矢の集中によって進軍速度や隊形を乱す効果が大きかった。

しかしフランス王が会戦に応じなければ、この強さは発揮しにくい。

イングランド軍はしばしば「シュヴォシェ」と呼ばれる騎行略奪を行った。農村や町を焼き、経済的損害を与え、「自国民すら守れない王」という印象を広げる。そして怒ったフランス王に追撃させ、有利な場所で決戦する。

これは残酷だが、非常に政治的な戦略だった。

それでも一度の会戦でフランス全土は手に入らない。パリを占領し、主要都市を服従させ、何百もの城や要塞を押さえ、現地の貴族と都市から忠誠を取り付けなければならないからだ。

1359〜1360年、エドワード3世は大軍を率いてフランスへ侵攻し、歴代フランス王の戴冠地ランスを狙った。もしそこで自ら戴冠できれば、王位請求は一気に現実味を増す。

だがランスは落ちなかった。攻城は長引き、補給も苦しくなり、エドワードは最終的に作戦を切り上げる。

ポワティエでフランス王を捕虜にするほどの軍隊でも、城壁と冬と食料不足を一度に倒すことはできなかった。

会戦の勝利は和平交渉のレートを上げる。しかし、それだけで地図の色は固定されない。

百年戦争で会戦勝利から占領費増大、戦争再開へ至る流れ
戦場で勝っても、占領地の守備と統治を維持できなければ和平は定着しない

兵站が戦争を引き延ばした|海峡を渡る軍隊は「勝った後」から苦しくなる

イングランド占領軍の負担

イングランド側には、フランスにはない物理的な制約があった。

海だ。

兵士を集め、馬を積み、弓矢、武器、食料、攻城器具、現金を船で海峡の向こうへ運ぶ必要がある。大軍を一度送り込めば終わりではなく、戦役が長引くほど補充兵、矢、給与、食料を追加しなければならない。

後期の英軍がどれほど大量の物資を必要としたかを示す記録がある。1430〜1432年のヘンリー6世のフランス遠征に向けた兵器調達では、6,307張の弓と244,992本の矢が用意されたとされる。

矢は撃てばなくなる。馬は毎日食べる。兵士は給料が遅れれば逃亡や略奪に走る。

そして最大の問題が駐屯地だった。

14世紀のエドワード3世は大規模な騎行と会戦でフランス王権を揺さぶったが、15世紀のヘンリー5世は一段先へ進んだ。1417年以降、ノルマンディーを系統的に征服し、占領地に駐屯軍のネットワークを置いたのである。

これは「勝つ戦争」から「支配する戦争」への転換だった。

ところが支配すればするほど、守る場所も増える。

城を一つ取れば、その城に兵を残さなければならない。町を取れば守備兵に給料を払い、城壁を修理し、食料を入れる必要がある。反乱やフランス軍の反撃に備えれば、さらに兵が必要になる。

百年戦争では、派手な会戦より城や要塞をめぐる攻防の方が日常に近かった。強固な城塞は攻撃側を何週間、何か月も足止めし、その間に遠征軍の食料と金を消費させる。

遠征軍なら帰国できる。

占領軍は帰れない

この違いが、イングランドにとって決定的に重かった。

フランスは「イングランドの得意な戦争」をしないようになった

クレシーとポワティエで大敗したフランスが、その後も同じ方法で突撃を繰り返したわけではない。

シャルル5世の時代になると、フランス側はベルトラン・デュ・ゲクランらを用い、イングランド軍との危険な大会戦をできるだけ避けながら、城塞、都市、補給拠点を一つずつ回収する方向へ進んだ。

これは百年戦争を理解する上で非常に重要な変化だ。

イングランド軍の戦術は、敵が攻撃してくるときに特に強い。

ならば、攻撃しなければいい。

シュヴォシェで農村を焼かれても、王国全体が滅びない限り決戦を拒否する。孤立した守備隊を攻め、補給路を圧迫し、イングランド軍が帰国したあとに土地を取り戻す。

華々しい勝利ではないが、国土回復には効く。

1360年の和平でイングランド側が獲得した広大な権益は、1370年代までに大きく削られていった。

この経験は、「百年戦争でどちらの戦術が優れていたか」という問いにも面白い答えを与える。

会戦だけならイングランド軍は極めて強かった。

しかし戦争全体で重要なのは、敵の得意な会戦を避けても領土を取り返せることだった。

戦術的に勝つ方法と、戦争に勝つ方法は同じではない。

和平を結んでも終わらない|ブレティニー条約とトロワ条約の落とし穴

百年戦争が長期化した理由として、和平そのものの脆さも外せない。

1360年のブレティニー条約は、その典型だ。

ポワティエでフランス王ジャン2世を捕らえたイングランドは、アキテーヌを大幅に拡大し、フランス王の宗主権から独立した領土として得る方向へ進んだ。その代わりエドワード3世はフランス王位請求を放棄することになっていた。

一見すれば、これで長年の争点を交換して終わらせられる。

しかし両王の正式な権利放棄は、予定された形では交換されなかった。

つまり「フランス王はアキテーヌへの宗主権を完全に失ったのか」「イングランド王は本当にフランス王位を捨てたのか」という核心部分に法的余地が残った。

やがてアキテーヌの諸侯がイングランド側の統治に不満を持ち、フランス王へ訴えると、シャルル5世は自分にはなお上級君主として裁く権利があると主張できた。1369年、戦争は再開する。

ここには百年戦争の構造が凝縮されている。

戦場では勝敗がついても、「誰が誰の主君なのか」が終わっていない。

さらに劇的なのが1420年のトロワ条約だ。

アジャンクール以後にノルマンディー征服を進めたヘンリー5世は、フランス王シャルル6世の娘カトリーヌと結婚し、シャルル6世の死後にフランス王位を継ぐ者と認められた。条約は将来、英仏二王国を一人の君主の下に置く構想だった。

一方、王太子シャルル、のちのシャルル7世は継承から排除された。

しかし王太子は降伏していない。フランス南部には彼を支持する勢力と領土が残っている。

つまりトロワ条約は、敵対する王位請求者を消したのではなく、「お前には王位がない」と紙に書いただけだった。

しかも1422年、ヘンリー5世とシャルル6世が相次いで死去する。

その結果、幼いヘンリー6世をフランス王とする英・ブルゴーニュ側と、シャルル7世を王とする勢力が並び立った。

和平条約が、二重王権を固定する装置へ変わってしまったのである。

百年戦争長期化の王位継承、領土主権、兵站占領、国家再建力の四層
王位、領土、兵站、国家能力が重なったため、単一の条約や会戦では終わらなかった

では、なぜ1453年には終われたのか

1453年に終われた理由

百年戦争の終盤をジャンヌ・ダルクだけで説明すると、物語としては分かりやすいが、戦争の終結理由としては足りない。

もちろん1429年のオルレアン解放と、その後のランスでのシャルル7世戴冠は大きかった。

トロワ条約によって「正統な王ではない」とされたシャルルが、歴代フランス王の戴冠地で正式に聖別された意味は軍事以上に大きい。王位争いが戦争の核心だったからこそ、戴冠そのものが政治兵器になった。

だが本当の転換は、その後に続く。

1435年、ブルゴーニュ公フィリップ善良公がアラスの和約でシャルル7世と和解し、イングランドとの同盟から離れた。北フランスを支配するうえで欠かせなかった強力な現地同盟者を、イングランドは失う。

さらにシャルル7世は財政と軍制を立て直した。

1439年には軍制改革を支える恒常的な課税の基盤が強まり、1445年には王権のもとで給与を受ける常備的な騎兵部隊である勅令隊が整備される。1448年にはフラン・ザルシェ制度も導入された。

軍隊を必要なときだけ諸侯から集める王国から、税を取り、兵を維持し、継続的に戦争できる王国へ変わり始めたのである。

そして火砲の発達が、長年の戦争を支えてきた「城壁の時間」を短くしていく。

1450年にフランス軍はノルマンディーを奪回。1453年のカスティヨンの戦いでは、ジャン・ビュローらが整えたフランス砲兵陣地がイングランド軍に壊滅的な打撃を与えた。まもなくボルドーもフランス側へ戻り、イングランドのガスコーニュ支配は崩壊する。

ここで初めて、フランスは「負けても立て直せる国」から「継続的に攻めて占領地を奪い返せる国」になった。

私が百年戦争の最終的な勝敗を分けたと見るのは、この国家能力の差である。

イングランドは早い時期から、精鋭化した遠征軍を作り、会戦で局地的な軍事優位を生み出すことに成功した。

フランスは時間をかけて、税、常備軍、同盟、砲兵を組み合わせ、その局地的優位を戦争全体で無効化する仕組みを作った。

1453年に百年戦争を終わらせたのは、一本の矢でも、一人の英雄でもない。

勝った後も戦争を続けられる国家」をフランスが作り上げたことだった。

よくある質問

百年戦争は本当に100年間だった?

一般的な区分では1337年から1453年までなので、116年間である。ただし戦闘が116年間連続したわけではなく、長期休戦を何度も挟んでいる。

当時の人も「百年戦争」と呼んでいた?

呼んでいない。「百年戦争」というまとまった呼称は後世に成立したもので、14〜15世紀の人々にとっては複数の戦争、遠征、休戦、王位・領土紛争の連続だった。

1453年にイングランドはフランスから完全撤退した?

完全撤退ではない。イングランドはカレーを保持し続け、フランスがカレーを奪回するのは1558年である。またイングランド王はその後も長く「フランス王」の称号を名目上使用した。

出典・参考資料

history.ox.ac.uk|資料を確認

royalarmouries.org|資料を確認

sourcebooks.web.fordham.edu|資料を確認

sourcebooks.web.fordham.edu|資料を確認

cambridge.org|資料を確認

cambridge.org|資料を確認

cambridge.org|資料を確認

encyclopedia.com|資料を確認

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