小沢治三郎とは|山本五十六が本当に機動部隊を任せたかった男は、なぜ最後に「囮」を命じられたのか――空母部隊を発明し、その全てを失った提督の生涯

小沢治三郎とは 記事表紙

小沢治三郎とは、日本海軍が最も遅く見つけた名将だ。

この人は、空母を一つの艦隊に集めて叩きつける「機動部隊」という発想を、日本海軍で最初に形にした提督だった。ところがその機動部隊が真珠湾に向かったとき、指揮官の席にいたのは小沢ではなく、序列で上の南雲忠一だった。小沢が機動部隊を任されたのは、ミッドウェーで空母4隻が沈み、熟練搭乗員の大半が失われた後のことだ。そして小沢が指揮した二つの大海戦、マリアナ沖とレイテ沖は、どちらも日本海軍の空母部隊の終わりを告げる戦いになった。最後には、自分が生んだ空母部隊を「囮」として敵の前に差し出し、4隻すべてを沈めながら任務を果たした。

山本五十六が本当に機動部隊を任せたかったのは小沢だった、と多くの資料が伝える。米海軍の戦史家も、小沢を日本海軍で最も有能な提督の一人と評した。それなのに小沢には、勝った海戦が一つもない。私はこの人を「不運な名将」と呼ぶだけでは足りないと思っている。小沢の生涯は、正しい人間を正しい席に座らせられなかった組織が、最後にその人間をどう使ったかの記録だ。南雲の側から見た同じ物語は南雲忠一とはに、海軍が航空への転換を決めきれなかった構造は日本海軍はなぜ敗れたのかに書いた。

目次

プロフィール

小沢治三郎の肖像。
小沢治三郎の肖像。
写真:Presumed official IJN photographer/出典(Public domain)。掲載用に縮小・圧縮。
項目内容
生没1886年10月2日〜1966年11月9日(80歳)
出身宮崎県高鍋(旧高鍋藩士の家)
学歴海軍兵学校37期(同期に井上成美、草鹿任一)、海軍大学校
専門水雷から出発し、航空戦術の先駆者に
主な役職第一航空戦隊司令官、南遣艦隊司令長官、第三艦隊司令長官、第一機動艦隊司令長官、軍令部次長、連合艦隊司令長官
最終階級海軍中将(大将に昇進しないまま連合艦隊司令長官)
あだ名鬼瓦。いかつい容貌から
旗艦大鳳(マリアナ沖)、瑞鶴(レイテ沖)

年表

年月出来事
1886年宮崎県高鍋に生まれる
1909年海軍兵学校37期卒業
1917年第一次世界大戦で地中海に派遣
1930年代海軍大学校教官、連合艦隊参謀長、海軍大学校長
1940年第一航空戦隊司令官。空母を集中運用する航空艦隊の編成を上申
1941年4月第一航空艦隊が新編。司令長官は序列で南雲忠一に
1941年12月南遣艦隊司令長官としてマレー作戦を指揮。マレー沖海戦
1942年11月南雲の後任として第三艦隊司令長官
1944年3月第一機動艦隊司令長官
1944年6月マリアナ沖海戦。アウトレンジ戦法で大敗
1944年10月レイテ沖海戦。囮艦隊として空母4隻を失う
1945年5月最後の連合艦隊司令長官
1966年11月死去。回顧録は残さず

高鍋の柔道少年、地中海へ

高鍋の柔道少年、地中海へ

第一次世界大戦では、日本が英国の要請で地中海に派遣した第二特務艦隊の駆逐艦に乗り、ドイツ潜水艦を相手に護衛任務を経験した。日本海軍の将校で、実際の対潜戦を若いうちに体験した人物は多くない。水雷畑で駆逐隊司令を歴任し、海軍大学校の教官と校長を務め、戦術家として頭角を現していく。

機動部隊の発明——空母を一つの艦隊に

空母を集中運用する機動部隊の構想。
空母を集中運用する機動部隊の構想。

小沢の名を海軍史に刻んだのは、1940年の上申だった。第一航空戦隊司令官だった小沢は、空母を各艦隊に分散させる従来の編成をやめ、複数の空母を一つの航空艦隊に集中させるべきだと海軍中央に提案した。空母が数隻まとまれば、一度に数百機を発進させ、敵の艦隊も基地も一撃で無力化できる。当時の海軍では、空母は戦艦部隊の補助であり、艦隊決戦の前座と位置づけられていた。小沢の提案は、その常識を逆転させるものだった。

機動部隊の発明——空母を一つの艦隊に

ところが、その第一航空艦隊の司令長官に任じられたのは、小沢ではなく南雲忠一だった。理由は海軍兵学校の卒業年次と序列だ。南雲は36期、小沢は37期。一期の差が、世界初の機動部隊の指揮官を決めた。山本五十六は小沢を望んだと伝えられるが、序列を覆すことはできなかった。航空戦術の先覚者が、自分の設計した艦隊を、航空の経験がない先輩に渡す。私はこの人事を、日本海軍の序列制度が生んだ最も高価な判断だと思っている。真珠湾からミッドウェーまでの半年、小沢は機動部隊の外にいた。

小沢が最後に将旗を掲げた空母が瑞鶴だった。翔鶴型の2番艦で、真珠湾からエンガノ岬沖まで日本の空母戦のすべてに参加した艦を、手元で組むと、機動部隊という発想の大きさが分かる。

マレー作戦——陸軍が信頼した海軍提督

マレー作戦——陸軍が信頼した海軍提督

このとき小沢は、第25軍司令官の山下奉文と緊密に連携し、陸軍から篤い信頼を得た。陸海軍の対立が常態だった帝国陸海軍で、陸軍が名指しで信頼した海軍提督はほとんどいない。1942年のジャワ上陸作戦でも今村均の陸軍部隊を支援し、4月にはインド洋でベンガル湾の英船舶を掃討した。小沢の開戦半年は、南雲機動部隊の華やかな連戦の陰で、陸軍との協同という地味な仕事に費やされた。

第三艦隊——熟練搭乗員が消えた後に受け取った機動部隊

1942年11月、ミッドウェーの敗北と南太平洋海戦を経て、小沢は南雲の後任として第三艦隊司令長官に就いた。ようやく自分が生んだ機動部隊を任されたが、そこにはもう、真珠湾を攻撃した搭乗員はほとんど残っていなかった。空母は翔鶴と瑞鶴が主力で、それすら南太平洋海戦の損傷で修理中だった。

正直に書いておくと、小沢自身も空母での勤務経験がなかった。航空参謀だった田中正臣は戦後、小沢は指揮官として実戦型で満点に近いが、飛行機に関する知識は艦長程度で、訓練や機体性能の意味を十分には理解していなかった、と評している。機動部隊の発明者は、機動部隊の運用の細部を知らないまま、消耗しきった機動部隊を再建する仕事に就いた。1943年、小沢は搭乗員の養成と空母の再編に費やし、その年の11月には虎の子の艦載機をラバウルに投入する「ろ号作戦」で貴重な搭乗員をさらに失った。連合艦隊の命令であり、小沢の判断ではなかったが、機動部隊の再建はここで一年遅れた。

マリアナ沖海戦——アウトレンジという正しい発想の、正しくない結果

敵の届かない距離から撃つ

マリアナ沖海戦——アウトレンジという正しい発想の、正しく

6月19日、小沢は約430機の攻撃隊を出した。結果は、日本側が投入した艦載機の3分の2以上を失い、米側の損害は軽微だった。米艦隊はレーダーで攻撃隊を100海里以上先で捉え、無線誘導されたF6Fの大群が待ち構え、艦隊上空に達した機体はVT信管で撃ち落とされた。長い距離を飛んだ新人搭乗員は、目標に届く前に燃料と集中力を失った。同じ日、小沢の旗艦だった装甲空母大鳳は米潜水艦の魚雷1本を受け、気化した航空燃料が艦内に充満して爆沈した。小沢は重巡羽黒、次いで瑞鶴に将旗を移した。翔鶴も同じ日に沈んだ。

発想が正しくても、道具が違っていた

私はマリアナ沖の小沢を、無能だとは思わない。アウトレンジは、日本の機体と搭乗員が1942年の水準にあれば有効だった戦法だ。しかし1944年の搭乗員は飛行時間200時間前後の新人で、長距離を編隊で飛んで敵艦隊を発見し攻撃する技量がなかった。米軍のレーダーと防空指揮の完成度も、小沢の想定を超えていた。小沢は1942年の道具で使える戦法を、1944年の道具で実行した。それは小沢の判断の誤りであると同時に、日本海軍が電子戦と搭乗員養成で負けていた構造の帰結でもあった。経過の詳細はマリアナ沖海戦に譲る。

小沢は敗戦後、辞任を申し出た。連合艦隊司令長官の豊田副武はこれを退けた。機動部隊の指揮官として、小沢以上の人物がもういなかったからだ。

レイテ沖海戦——自ら囮になった提督

空母4隻、艦載機116機

1944年10月、米軍がレイテ島に上陸する。連合艦隊は栗田健男の第二艦隊をレイテ湾に突入させる計画を立て、小沢の機動部隊には「米機動部隊を北方に誘い出し、栗田艦隊の突入を間接に掩護せよ」と命じた。小沢の空母は瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の4隻。艦載機は台湾沖航空戦に投入されなかった機体をかき集めても116機で、米正規空母1隻分にも満たなかった。

つまり小沢艦隊は、最初から囮だった。空母を持つ艦隊が、空母を沈めさせるために出撃する。小沢はこの任務を受け入れ、出撃前に幕僚に「艦隊は囮であり、生還は期しがたい」という趣旨を伝えたとされる。

ハルゼーを釣り上げた

10月24日、小沢艦隊はルソン島北東で無線を発信し、わずかな艦載機を飛ばして、米第3艦隊の司令官ハルゼーの注意を引いた。ハルゼーは食いついた。高速空母部隊と戦艦部隊をすべて北へ向け、サンベルナルジノ海峡の守りを空けた。25日、エンガノ岬沖で小沢艦隊は米艦載機の波状攻撃を受け、瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の4隻すべてが沈んだ。旗艦瑞鶴が通信不能になると、小沢は幕僚の勧めに従って軽巡大淀に移乗し、残った艦を率いて戦場を離れた。

レイテ沖海戦——自ら囮になった提督

私はこの戦いを、小沢治三郎という人物の要約だと思っている。自分が発明した機動部隊を、自分の手で敵の前に差し出し、それを全部失うことで任務を果たした。そして、その犠牲の上に立つはずだった味方の作戦は、別の指揮官の判断で消えた。小沢はこの後、栗田を非難する言葉を一度も残していない。

最後の連合艦隊司令長官——中将のまま

艦橋で海図を前に情報を整理する海軍士官。
艦橋で海図を前に情報を整理する海軍士官。
最後の連合艦隊司令長官——中将のまま

8月15日の終戦後、小沢は海軍総隊長官として、徹底抗戦を叫んで飛行機からビラを撒いた厚木航空隊の反乱を収拾する側に立った。特攻を命じた大西瀧治郎が自決し、宇垣纏が最後の特攻に出撃した海軍で、小沢は残った部隊を静かに解体する仕事を最後まで引き受けた。

戦後——回顧録を書かなかった男

戦後の小沢は、ほとんど語らなかった。回顧録を書かず、講演も避け、防衛庁の戦史編纂には協力したが、自分の戦いを弁明することはなかった。旧軍人の相互扶助組織である郷友連盟の創設に関わり、同期の草鹿任一とは生涯交流を続けた。1966年11月9日、80歳で死去した。

私は、小沢が語らなかったことを、この人物の評価に含めたい。マリアナ沖でもレイテ沖でも、小沢には弁明できる材料が山ほどあった。搭乗員の技量、連合艦隊の命令、栗田の反転。そのどれも小沢は口にしなかった。敗戦の責任を誰かに向けなかった提督は、日本海軍に多くない。

評価——なぜ日本海軍は小沢を最も遅く見つけたのか

評価——なぜ日本海軍は小沢を最も遅く見つけたのか

私の見立てはこうだ。日本海軍は小沢を、正しい時に使わなかった。1941年に機動部隊を任せていれば、真珠湾の第二撃も、ミッドウェーの兵装転換も、違う判断があった可能性はある。それは断定できない。ただ、序列によって航空の先駆者を外し、航空を知らない先輩を据え、その先輩が艦隊を失ってから先駆者を呼び戻す、という順序が、日本海軍の人事の性格をよく示していることは確かだ。小沢は組織が最も遅く見つけた名将であり、見つけた時にはもう、名将が使う道具が残っていなかった。同じ組織の中で「愚将」と呼ばれた南雲と、「名将」と呼ばれた小沢は、実は同じ序列制度の、別の側面だった。太平洋戦争の指揮官たちの評価は帝国陸軍名将ランキング「愚将」10人を史料で検証でも扱っている。

『失敗の本質』が日本軍の失敗として挙げた「人事の硬直」と「学習の遅れ」を、一人の人生で最も鮮明に体現したのが小沢だと私は思う。組織論として日本海軍を読み直すなら、この本から入るのが近い。

映画・本で知る小沢治三郎

海戦記録と人物評伝を合わせて、小沢の指揮を読み解く。
海戦記録と人物評伝を合わせて、小沢の指揮を読み解く。
作品内容
『連合艦隊』(1981年)レイテ沖の囮作戦と瑞鶴の最期を描く
『男たちの大和』(2005年)1945年4月の戦艦大和の特攻を描く
半藤一利『レイテ沖海戦』囮作戦と栗田反転を日米双方の資料から再構成
『小沢治三郎伝』(元部下らによる伝記)小沢自身が語らなかった生涯を周囲の証言で綴る

『連合艦隊』は瑞鶴が沈むエンガノ岬沖の場面を含み、小沢の囮作戦を映像で追える数少ない作品だ

戦記や評伝を通勤中に耳で聞きたい人には、Audibleに太平洋戦争関連の書籍が揃っている。

まとめ——最も遅く見つけられ、最後に囮になった名将

まとめ——最も遅く見つけられ、最後に囮になった名将

私が小沢に惹かれるのは、この人が最後まで「自分の艦隊」より「任務」を選んだことだ。自分が生んだ空母部隊を囮にして沈めた提督は、世界にそう多くない。日本海軍は小沢を最も遅く見つけた。私たちは、もう少し早く見つけておきたい。

よくある質問

小沢治三郎はなぜ「機動部隊の生みの親」と呼ばれるのか?

1940年に第一航空戦隊司令官として、空母を一つの航空艦隊に集中させる編成を上申し、それが1941年4月の第一航空艦隊の新編として実現したため。世界初の空母機動部隊の発想は小沢に始まる。

なぜ小沢は真珠湾攻撃の機動部隊を指揮しなかったのか?

海軍兵学校の卒業年次による序列のため。南雲忠一が36期、小沢が37期で、一期上の南雲が司令長官に選ばれた。山本五十六は小沢を望んだと伝えられる。

小沢治三郎の「囮作戦」とは?

1944年10月のレイテ沖海戦で、艦載機をほとんど持たない空母4隻で米機動部隊を北へ誘い出し、栗田艦隊のレイテ湾突入を助けた作戦。ハルゼーは釣られ、小沢は空母4隻すべてを失ったが、栗田艦隊は突入を断念した。

マリアナ沖海戦で小沢は何を間違えたのか?

米軍の攻撃圏外から先に攻撃するアウトレンジ戦法を採用したが、新人搭乗員には長距離攻撃の技量がなく、米軍のレーダー防空とVT信管で攻撃隊は壊滅した。発想は正しく、道具と時期が合わなかった。

小沢治三郎は最後の連合艦隊司令長官なのか?

そう。1945年5月に第31代連合艦隊司令長官に就任し、歴代で唯一、中将のまま務めた。終戦後は海軍総隊長官として部隊の解体と厚木航空隊の反乱収拾にあたった。

小沢治三郎はなぜ回顧録を書かなかったのか?

本人が語っていないため理由は不明だが、戦後は弁明も批判も一切残さず、戦史編纂への協力と郷友連盟の設立に関わるにとどめた。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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