石原莞爾|満州事変を起こした男は、なぜ日中戦争に反対し、東條を「上等兵」と呼び、東京裁判で「ペリーを裁け」と言えたのか――天才か、破滅の設計者か

石原莞爾 記事表紙

石原莞爾ほど、評価が真っ二つに割れる日本の軍人はいない。

一方の評価はこうだ。陸軍大学校を次席で出た天才で、1931年に満州事変を仕掛けて日本の10倍の兵力の中国軍を追い払い、日中戦争には「これ以上戦線を広げれば日本は滅びる」と反対し、東條英機を「東條上等兵」と呼んで対立し、予備役に追われ、戦後の東京裁判では戦犯にならず、証人として「戦争責任を遡るならペリーを裁け」と言い放った。もし石原が東條に勝っていれば、太平洋戦争は起きなかったかもしれない。

もう一方の評価はこうだ。満州事変は石原が起こした。国家の命令なしに軍が他国の領土を奪い、それが成功して咎められなかったことで、日本陸軍は「勝てば事後承認される」ことを学んだ。日中戦争の拡大に石原が反対したとき、部下は「あなたのやったことを見習っているだけだ」と言い返し、石原は反論できなかった。日本を破滅に導いた下剋上の設計者は、石原自身だった。

私はこの二つの評価を、どちらかに決めるつもりはない。両方が事実だからだ。この記事は、天才と設計者が同じ一人の人間の中でどうつながっていたかを、生涯の順序で追う。満州事変から太平洋戦争に至る日本の敗因の全体像は太平洋戦争で日本はなぜ負けたのかに、石原が去った後の関東軍が招いた敗北はノモンハン事件に譲る。

目次

プロフィール

石原莞爾の肖像。
石原莞爾の肖像。
写真:撮影者不詳/出典(Public domain)。掲載用に縮小・圧縮。
項目内容
生没1889年1月18日〜1949年8月15日(60歳)
出身山形県鶴岡(庄内藩士の家)
学歴陸軍士官学校21期、陸軍大学校30期次席
思想日蓮主義(国柱会)、『世界最終戦論』、東亜連盟
主な役職関東軍作戦主任参謀、参謀本部作戦課長・作戦部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官、第16師団長
最終階級陸軍中将。1941年に予備役
東京裁判戦犯指定を免れ、証人として酒田の出張法廷に出廷
最期山形県の西山農場で、同志と共同生活の末に病死

年表

出来事
1889年山形県鶴岡に生まれる
1909年陸軍士官学校21期卒業
1918年陸軍大学校30期を次席で卒業
1920年日蓮主義の国柱会に入信
1922〜24年ドイツ留学。戦史と戦争哲学を研究
1928年関東軍作戦主任参謀として満州へ
1931年9月板垣征四郎と柳条湖事件を起こし、満州事変へ
1935年参謀本部作戦課長
1936年二・二六事件で反乱軍の鎮圧にあたる
1937年参謀本部作戦部長。盧溝橋事件後、日中戦争の不拡大を主張して敗れる
1937年9月関東軍参謀副長。参謀長の東條英機と対立
1938年舞鶴要塞司令官へ左遷
1939年第16師団長(京都)
1940年『世界最終戦論』を講演・出版
1941年3月予備役編入
1947年東京裁判の証人として酒田の出張法廷に出廷
1949年8月15日死去

庄内の秀才、日蓮に出会う

庄内の秀才、日蓮に出会う

石原の思想の核は、1920年に入信した日蓮主義の団体、国柱会にある。田中智学が説いた「日本が世界を統一する使命を持つ」という国家主義的な日蓮解釈は、石原の戦争観の骨格になった。1922年からのドイツ留学では、第一次世界大戦の戦史とフリードリヒ大王、ナポレオンの戦争を研究し、「戦争の歴史は決戦戦争と持久戦争が交互に現れる」という独自の史観を組み立てた。日蓮の預言と戦史の法則を重ね合わせたものが、後の『世界最終戦論』になる。

庄内の秀才、日蓮に出会う

『世界最終戦論』——日米が最後に戦う、という預言

石原の思想を一冊にすると『世界最終戦論』になる。1940年の講演をもとに出版されたこの本の要旨はこうだ。世界の戦争は東洋の代表と西洋の代表による最終戦争に向かって収斂し、その戦争は日本と米国の間で、数十年後に、航空機と決戦兵器によって一気に決着する。日本はそれまでに東亜を一つにまとめ、国力を蓄え、決戦に備えなければならない。そのためには、満州を日本の勢力圏として確保し、中国とは戦わず、資源と時間を蓄えるべきだ。

この論理から、石原の行動は一貫して説明できる。満州事変を起こしたのは、最終戦争に備える資源と基地が要るからだ。日中戦争に反対したのは、中国との戦争は持久戦になり、最終戦争の前に国力を消耗するからだ。東條と対立したのは、東條が満州を日本の植民地として扱い、石原が構想した「五族協和」の独立国家像を理解しなかったからだ。石原の中では、すべてが一つの預言につながっていた。

問題は、この預言が石原個人のものだったことだ。陸軍の大半は最終戦争論を共有しておらず、石原の「満州は取るが中国は取らない」という線引きは、他の将校には理解できなかった。

満州事変——1万人で20万人を追い払った「成功」

満州の鉄道と沿線の街は、軍事と経済の両方に関わっていた。
満州の鉄道と沿線の街は、軍事と経済の両方に関わっていた。
満州事変——1万人で20万人を追い払った「成功」

1931年9月18日夜、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆破された。関東軍は中国軍の仕業だと発表し、直ちに攻撃を開始した。爆破は関東軍自身の工作だったことが、戦後に明らかになっている。石原と板垣は東京の陸軍中央と政府の不拡大方針を無視して作戦を拡大し、数か月で満州の主要都市を制圧した。翌1932年、満州国が建国される。

この事変は「成功」した。中国軍は本格的な反撃をせず、国際連盟は非難したが軍事介入はなく、日本政府は事後承認し、石原と板垣は処罰されるどころか英雄になった。私はこの「成功」こそが、石原の生涯で最も重い結果だと思っている。出先の軍が独断で戦争を始め、勝てば中央が追認する。この前例を、石原が日本陸軍に教えた。

日中戦争——「あなたの真似をしているだけだ」

日中戦争——「あなたの真似をしているだけだ」

しかし陸軍の大勢は拡大に傾いた。中国を一撃すれば屈服する、という「一撃論」が中央を支配し、石原は孤立する。このとき、拡大派の中心にいた作戦課長の武藤章が石原に言ったとされる言葉が残っている。自分たちは、石原さんが満州事変でやったことを見習っているだけだ、と。石原は反論できなかった。

満州事変で出先の独断を正当化した人物が、盧溝橋で出先の独断を止めようとして、自分の前例を突きつけられた。私はこの場面を、日本陸軍の下剋上の構造が一人の人間の中で完結した瞬間として読んでいる。石原の不拡大論は正しかった。中国との戦争は8年続き、100万人以上の日本軍を大陸に縛りつけ、太平洋戦争の敗因の一つになった。しかし、その正しい主張を通す力を、石原は自分の過去の行動によって失っていた。

東條との対立——「東條上等兵」

東條との対立——「東條上等兵」

結果は東條の勝ちだった。1938年、石原は舞鶴要塞司令官に左遷され、翌年に第16師団長として京都へ移り、1941年3月、東條が陸軍大臣だった時期に予備役に編入された。52歳だった。以後、石原は立命館大学の講師として学生に世界最終戦論を講じ、東亜連盟の運動を続けたが、太平洋戦争の開戦を止める力はもうなかった。

戦後、東條との確執を問われた石原は、こう答えたと伝えられる。自分には些細ながら思想がある、東條には思想がまったくない、だから対立のしようがない。私はこの言葉に、石原の魅力と限界の両方を見る。思想で人を裁く人間は、思想を共有しない組織の中で、必ず孤立する。

東京裁判——「ペリーを裁け」

1945年の敗戦後、石原は戦犯に指定されなかった。満州事変の首謀者でありながら、東條と対立して予備役に追われていたこと、病気で重態だったこと、そして検察側が同姓の別人と混同したためとも言われる。1947年5月、石原は病を押して山形県酒田の出張法廷に証人として出廷した。

東京裁判——「ペリーを裁け」

ただし、ここにも二つの評価がある。石原は後に「満州事変の責任は自分にある、私を裁け」と述べたと語り、そのように書かれることが多い。しかし実際の宣誓供述書では、満州国の建国は軍事行動とは別に生まれたもので、自分が建国を目的として事変を起こしたのではない、と述べている。自分を戦犯から遠ざけ、板垣征四郎らの弁護につながる内容だった。板垣は絞首刑になり、石原は裁かれなかった。私はこの事実を、石原を貶めるためではなく、彼の言葉と行動の間にあった距離を示すために書いておく。

西山農場——最期の4年

庄内の田畑と農家。石原が晩年に向き合った農村の暮らし。
庄内の田畑と農家。石原が晩年に向き合った農村の暮らし。
西山農場——最期の4年

1949年8月15日、石原は西山農場で病死した。60歳。日付は、4年前の敗戦の日と同じだった。遺書は「新日本の進路」と題され、占領軍と日本国民に向けた提言の形をとっている。墓は山形県遊佐町の海岸近くにあり、同志たちが並んで眠っている。

評価——天才か、破滅の設計者か

石原莞爾の評価を、私はこう整理する。

評価根拠
戦略家としての天才陸大次席。1万人で満州を制圧。日中戦争の泥沼化と対米戦の敗北を正確に予見した
下剋上の設計者中央の命令なく満州事変を起こし、成功して咎められず、陸軍に「勝てば追認される」前例を作った
思想家『世界最終戦論』と東亜連盟。日蓮主義に基づく独自の世界観
組織人としての失敗東條との対立で孤立し、正しい主張を通す力を失った
戦後の変節か発展か最終戦争論を修正し、憲法第9条による平和を説いた

石原が予見した通り、中国との戦争は日本を消耗させ、米国との戦争は日本を敗北させた。その意味で石原の戦略眼は正しかった。しかし、その戦争に日本を引きずり込んだ最初の一歩は、石原自身が満州で踏み出したものだった。天才と設計者は矛盾しない。同じ人間が、同じ思想で、両方をやった。

近年、石原を「東條と対立した反戦の天才」として再評価する論調に対し、「満州事変は彼が起こした」と釘を刺す議論が出ている。私はその議論を支持する。太平洋戦争の指揮官たちの中での位置づけは帝国陸軍名将ランキング「愚将」10人を史料で検証でも扱っている。石原を天才として讃えるなら、その天才が日本に何を教えたかを、同じ重さで書かなければならない。陸大で2期上の山下奉文が組織に翻弄された将軍だったとすれば、石原は組織を翻弄した将校であり、その翻弄が組織の性格を変えた。

評価——天才か、破滅の設計者か

庄内を訪ねる——鶴岡と遊佐

庄内を訪ねる——鶴岡と遊佐

本で知る石原莞爾

石原の著作と当時の記録を、時系列を確かめながら読む。
石原の著作と当時の記録を、時系列を確かめながら読む。
作品内容
石原莞爾『世界最終戦論』本人の思想を一冊で読める。中公文庫などで入手可能
阿部博行『石原莞爾 生涯とその時代』最も詳細な評伝の一つ
川田稔『石原莞爾の世界戦略構想』満州事変から東亜連盟までの構想を体系的に整理
筒井清忠『石原莞爾』「反東條の天才」像への批判を含む近年の評価
半藤一利『昭和史』満州事変と日中戦争の流れの中で石原を位置づける

石原本人の『世界最終戦論』は短く、彼の論理がどこから来てどこへ向かったかを本人の言葉で確かめられる。評伝や昭和史を通勤中に耳で聞きたい人には、Audibleに関連書籍が揃っている。

まとめ——正しい予見と、間違った一歩

まとめ——正しい予見と、間違った一歩

私がこの人物に感じるのは、憧れでも憤りでもなく、恐れに近いものだ。正しい予見を持つ人間が、その予見のために間違った一歩を踏み出し、組織はその一歩だけを学んで、予見の方を捨てた。石原莞爾を読むことは、天才が組織に何を残し、何を残せなかったかを読むことだと思う。

よくある質問

石原莞爾は何をした人か?

関東軍の作戦主任参謀として1931年に板垣征四郎と満州事変を起こした首謀者であり、同時に日中戦争の拡大に反対し、東條英機と対立して予備役に追われた陸軍中将。『世界最終戦論』で知られる軍事思想家でもある。

『世界最終戦論』とは?

世界の戦争は東洋と西洋の代表による最終戦争に収斂し、それは日本と米国の間で航空機による決戦として起きるという石原の理論。満州の確保と中国との不戦は、この最終戦争への準備として位置づけられた。

石原莞爾はなぜ日中戦争に反対したのか?

中国との戦争は持久戦になり、最終戦争の前に国力を消耗すると考えたため。しかし拡大派の武藤章に「満州事変でのあなたの行動を見習っているだけだ」と言われ、反論できなかったと伝えられる。

石原莞爾と東條英機の関係は?

1937年から関東軍で参謀長と参謀副長として対立し、石原は東條を「東條上等兵」と呼んで軽蔑した。1938年に左遷され、1941年に東條が陸相の時期に予備役となった。

石原莞爾はなぜ東京裁判で戦犯にならなかったのか?

東條と対立して予備役に追われていたこと、病気で重態だったこと、検察側の混同などが理由とされる。証人として酒田の出張法廷に出廷し、「戦争責任を遡るならペリーを裁け」と述べた。

石原莞爾の評価は?

対米戦の敗北を予見した戦略の天才という評価と、満州事変で陸軍に下剋上の前例を作った破滅の設計者という評価が並立する。近年は「反東條の天才」像への批判も出ている。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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