四国平定とは?秀長と長宗我部元親の戦いを地図で解説――10万の三方面上陸を受けた元親は、なぜ一度も決戦できずに降ったのか

四国平定を題材にした特集扉絵

天正13年(1585年)6月16日、羽柴秀長の軍が紀伊・和泉から海へ出た。淡路の洲本を経て、福良で甥の秀次の軍と合流し、鳴門の海峡を越えて阿波の土佐泊に上陸する。同じころ、備前からは宇喜多秀家らが讃岐へ、安芸からは毛利の軍が伊予へ向かっていた。

三つの方面から、ほぼ同時に海を渡る。合わせて10万を超える軍勢だった。迎え撃つ長宗我部元親は、四国のまん中にある阿波の白地城に陣を構えていた。ところが元親は、この戦いで一度も大きな決戦を挑めないまま、2か月足らずで降伏する。

四国平定は、秀長が総大将として率いた最大の戦いだ。秀長というと「調整役」「温厚な補佐役」の顔がよく知られているが、この戦いの秀長は、船を集め、三方面の軍を動かし、城を一つずつ落としていく、れっきとした軍の指揮官だった。この記事では、四国平定を戦史として、地図とともに追っていく。

目次

結論|四国平定を3行で

要点

年表|四国平定の2か月

日付(天正13年) 出来事
5月 秀吉、秀長に和泉・紀伊の船を調べさせる
6月3日 秀吉の出陣予定。病などで取りやめ、秀長が総大将に
6月16日 秀長が出陣。秀吉は岸和田城にとどまる
6月下旬ごろ 秀長・秀次の軍が阿波の土佐泊に上陸。宇喜多勢が讃岐の屋島に上陸
6月27日 小早川隆景の軍が伊予の今治に上陸
7月3日ごろ 秀吉が自ら渡海しようとする。秀長が書状で延期を求める
7月5日 阿波の木津城が開城
7月11日 秀吉が関白になる
7月17日 伊予の高尾城が落ちる
7月中旬〜下旬 阿波の一宮城が開城。岩倉城・脇城も落ちる
7月25日 秀長が停戦の条件を示す
8月6日 講和が成立。元親は土佐一国に
8月23日 秀長が大坂へ戻る
閏8月 四国の国分け。秀長は大和を与えられる

戦いの前|なぜ秀吉と元親は戦うことになったのか

長宗我部元親は、土佐の国人から身を起こし、阿波・讃岐・伊予へと勢力を広げた大名だ。天正13年の春には、伊予の河野氏も従え、四国をほぼ手中にしていたとされる。ただし、阿波や讃岐には落ちていない城も残っていて、完全に四国を統一していたかどうかは研究者のあいだでも見方が分かれている。

元親と中央の関係がこじれたのは、信長の時代にさかのぼる。信長は当初、元親に「四国は切り取り次第」と認めていたとされるが、のちに阿波の南半分と土佐だけにせよと方針を変えた。元親はこれを拒み、信長は三男の信孝を総大将に四国攻めを計画する。その渡海の直前に起きたのが、天正10年(1582年)の本能寺の変だった。

信長の死後、元親は小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と手を結び、秀吉に対抗した。秀吉との和睦の話も出たが、まとまらなかった。黒田基樹氏によれば、元親は阿波と讃岐を差し出すかわりに、土佐と伊予を認めてほしいと申し出た。けれど秀吉は、すでに伊予を毛利家の小早川隆景に与えると約束していた。秀吉が元親に認められたのは、土佐一国だけだった。

ここが大事なところだ。四国攻めは、豊臣と長宗我部の戦いであると同時に、伊予をめぐる毛利との約束を果たすための戦いでもあった。

豊臣軍の編成|三方面・10万超の大軍

方面 主な大将 兵力 出発地と上陸地
阿波 羽柴秀長(総大将) 3万(大和・和泉・紀伊の兵) 紀伊・堺から洲本を経て阿波の土佐泊へ
阿波 羽柴秀次(副将) 3万(摂津・近江・丹波の兵) 播磨の明石から淡路へ渡り、福良で秀長と合流
讃岐 宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久 2万3000(1万5000とも) 備前から讃岐の屋島へ
伊予 小早川隆景、吉川元長(毛利勢) 3万〜4万(2万5000とも) 安芸から伊予の今治へ
四国平定における豊臣軍の三方面の進軍方向
阿波・讃岐・伊予へ分かれて進んだ豊臣方。矢印は方面を示す概略で、個々の船の航路ではない。

船は、大小あわせて800艘あまりとも、大船600艘・小船300艘ともいわれる。

この大船団を用意する仕事も、秀長の手にあった。出陣前の5月、秀吉は秀長に、和泉と紀伊の船を調べさせている。紀州攻めで手に入れたばかりの国々の港と船が、そのまま四国への足になったわけだ。秀長の領地が「南の海の門」だったことは『豊臣秀長の領地はどこ?』で書いたが、四国攻めはその門が初めて開かれた戦いだった。

一方の長宗我部軍は、土佐の兵を中心に2万から4万を動員したとされる。数の上でも、豊臣軍の半分以下だった。

総大将はなぜ秀長だったのか|「当座の恥辱」の書状

もともと、四国攻めは秀吉が自ら率いるはずだった。6月3日の出陣が予定されていたが、北陸の佐々成政の動きと、秀吉自身の病で取りやめになり、秀長が総大将、秀次が副将となった。秀吉は和泉の岸和田城にとどまったまま、諸将を送り出している。

病から回復した秀吉は、7月3日に大坂を出て、自ら四国へ渡ろうとした。このとき、阿波で木津城を攻め落とす直前だった秀長は、兄に書状を送って出陣の延期を求めている。いま兄に来られては、私の力が足りなかったことになる。それは「当座の恥辱」だ、と。秀吉は出陣を7月10日に延ばし、のちに取りやめた。

この経緯は黒田基樹氏が紹介しているもので、私は秀長という人を考えるうえで、いちばん大事な一通だと思っている。総大将としての面子をかけて、兄の手を借りずに戦を終わらせると言い切ったのだ。ちなみに、秀吉が関白になったのは、この戦いのさなかの7月11日だった。弟が四国で城を攻めているあいだに、兄は位人臣を極めていた。

阿波方面|秀長の本隊が城を一つずつ落とす

秀長が受け持った阿波は、四国攻めの主戦場だった。進み方を順に追う。

城 守将 経過
木津城(鳴門市) 東条関兵衛 8昼夜の攻撃のあと、水の手を断たれる。豊臣方についた叔父の説得で開城(7月5日)
牛岐城(阿南市)・渭山城(徳島市) 香宗我部親泰、吉田康俊 木津城が落ちたと聞いて、城を捨てて退く
一宮城(徳島市) 谷忠澄、江村親俊 5万ともいわれる大軍が囲む。兵糧を断ち、坑道を掘り、水の手を断って7月中旬〜下旬に開城
岩倉城・脇城(美馬市) 比江山親興、長宗我部親吉 秀次・黒田・蜂須賀の軍に攻められ、7月中に落ちる
阿波方面での城の攻略の流れ
秀長・秀次の阿波方面では、城を一つずつ押さえる戦いが続いた。位置や距離を表した図ではない。

この表を見ると、秀長の攻め方の特徴がよくわかる。正面からの力攻めで兵を失うより、城の水を断ち、兵糧を断ち、身内のつてを使って城を開かせる。木津城では、城将の叔父が豊臣方にいたことを使った。一宮城では、地下に坑道を掘り、水の手を断った。

なかでも一宮城は、元親が阿波の要として重んじた城で、守りも固かった。城にこもった兵は9000とも5000ともいわれる。囲んだ側には、筒井定次、藤堂高虎、増田長盛らの名が見える。のちに秀長の領地に関わる者や、秀長の家臣が、この城の下に集まっていた。山の上の城に向けて、寄せ手は地面を掘り進め、城の水を断ち、兵糧が尽きるのを待った。城兵から見れば、敵が攻めてこないまま、水と米だけが減っていく日々だったはずだ。7月19日付で秀長が伊予の小早川隆景に送った書状には、一宮城と脇城を攻めている様子が報告されている。阿波の総大将が、伊予の味方と書状で連絡を取りながら、全体の動きを見ていたことがわかる。

一宮城が落ち、脇城と岩倉城も落ちると、白地城の元親の目の前まで、豊臣の大軍が迫ることになった。

讃岐方面|黒田孝高は堅い城を「飛ばした」

讃岐では、宇喜多秀家らの軍が屋島に上陸した。喜岡城を落とし、香西城や牟礼城を攻め取っていく。

ここで面白い判断があった。長宗我部方の戸波親武が守る植田城を見た黒田孝高は、この城は堅く、攻めれば時間がかかると見た。そこで植田城の攻略を後回しにし、軍を阿波へ回して秀長の本隊と合流すべきだと主張した。諸将もこれに同意し、讃岐の軍は大坂峠を越えて阿波へ入った。

元親の側から見ると、植田城で敵を足止めするつもりが、敵が城を素通りして主戦場に来てしまったことになる。歴史学者の山本大氏は、これを元親の防衛策の失敗と見ている。堅い城を無理に攻めず、決めるべき場所に兵を集める。現代の言葉で言えば、敵の拠点を迂回して重心を突く「蛙飛び」の発想だ。太平洋戦争で米軍が日本軍の守る島を飛ばして進んだのと、考え方は同じだった。

伊予方面|毛利が自分の取り分のために戦う

伊予では、6月27日に小早川隆景の軍が今治の浦に上陸し、7月5日には吉川元長らの第二陣が続いた。

長宗我部方の金子元宅が守る高尾城は、7月15日から囲まれ、17日に落ちた。続いて高峠城も攻め落とされている。伊予の東部では激しい戦いになり、地元では「天正の陣」と呼ばれて語り継がれている。最後まで抵抗した河野通直の湯築城は、8月の末に隆景の勧めで開かれた。

伊予の戦いで目を引くのは、毛利の本気ぶりだ。伊予は、戦いのあとで小早川隆景に与えられることが決まっていた国だった。投資の世界で言えば、成功報酬つきの契約に近い。勝てば自分の領地になるのだから、毛利が手を抜く理由はない。秀吉は、同盟軍にいちばん働いてほしい方面を、その同盟軍の取り分にしていた。三方面の作戦が噛み合ったのは、こうした動機の設計があったからでもある。

元親はなぜ決戦できなかったのか|内線の利が消えた理由

ここが、この戦いでいちばん考えてみたいところだ。

四国平定の方面別兵力と長宗我部方全軍の目安
本文の兵数を、概数と幅を保って比べた。青は方面ごと、赤は長宗我部方の全軍で、同じ単位の編成ではない。

元親が本陣を置いた白地城は、阿波の西の端、いまの徳島県三好市にあった。地図で見ると、讃岐にも、伊予にも、土佐にも道が通じる、四国のちょうどへそのような場所だ。軍事の理屈で言えば、これは「内線」の位置にあたる。敵が三方から来ても、中央にいる側は近い道で素早く兵を動かせる。うまくやれば、敵の一方面に兵を集めてたたき、次の方面へ回って、またたたくことができる。ナポレオンが得意とした戦い方だ。

ところが四国では、この内線の利が働かなかった。理由は単純で、豊臣軍の一つの方面だけで、長宗我部軍の全軍と同じか、それより大きかったからだ。讃岐の2万3000、伊予の3万、阿波の6万。元親が2万から4万の兵をどこかに集めても、その方面の敵を打ち破れるとは限らない。そして一方面に兵を集めれば、ほかの二方面ががら空きになる。

内線の戦い方は、敵の一つひとつの縦隊が、こちらの全力より弱いときにだけ成り立つ。秀吉と秀長は、どの縦隊も単独で元親と渡り合えるだけの兵を、三方面すべてに用意した。だから元親は、どこにも決戦を挑めなかった。決戦を挑めない守り手にできるのは、城にこもって時間を稼ぐことだけだ。その城を、秀長は水の手と兵糧と調略で一つずつ開かせていった。

もう一つ、元親の軍の性格もある。長宗我部の強さを支えた「一領具足」は、ふだんは田畑を耕し、いざとなれば槍を取って集まる半農半兵の兵だった。素早く集まるのは得意だが、長く国を離れて戦い続けるのは難しい。長宗我部軍の強さと弱さは『戦国最強の軍団はどこだったのか』でも書いたが、10万の大軍に囲まれて長い籠城戦になった時点で、元親の兵の持ち味は生かしにくくなっていた。

元親に勝ち目はあったのか

では、元親にほかの道はなかったのか。後知恵になるが、考えてみたい。

一つは、上陸の直後をたたくことだ。海から上がったばかりの軍は、陣も組めず補給も届いておらず、いちばん弱い。もし元親が、阿波の土佐泊に秀長の軍が上がった瞬間に全力をぶつけていれば、秀長の本隊に大きな傷を負わせられたかもしれない。けれど、豊臣軍は讃岐と伊予にも同時に上がっている。阿波に全軍を向ければ、讃岐と伊予から背中を突かれる。元親は、三方面のどこが本命なのかを見きわめる前に、兵を城に分けて待つしかなかった。

もう一つは、讃岐の植田城のように、堅い城で敵を引きつけて時間を稼ぐことだ。元親は実際にこの手を考えていたと見られている。けれど黒田孝高は、その城を相手にしなかった。時間を稼ぐ城は、敵が攻めてくれて初めて意味を持つ。

結局、元親に必要だったのは、豊臣軍の一方面よりも大きな兵力か、豊臣軍の背後を脅かしてくれる味方だった。その味方になりえた家康は、海の向こうの三河にいて、四国に兵を送る手立てを持たなかった。戦う前の外交の段階で、勝負の大半はついていたと私は思う。

降伏|「一度も戦わずに降るのは恥だ」

一宮城を守っていた谷忠澄は、開城のあと白地城に戻り、元親に降伏を勧めた。上方の軍は装備も兵糧も比べものにならない、と。軍記によれば、元親は「一度も決戦をせずに降るのは恥だ」と退け、忠澄を罵ったという。それでも重臣たちの説得で、最後には折れた。

秀長は7月25日付で停戦の条件を示し、元親はこれを受け入れた。蜂須賀正勝の仲立ちで、8月6日に講和が成った。降伏の時期を7月25日とする史料と、8月とする史料があるのはこのためだ。

条件 内容
領地 土佐一国だけを認める
軍役 戦のときは、当主が毎回3000の兵を率いて加わる
人質 元親の子を差し出す(三男の津野親忠が人質になった)
外交 徳川家康との同盟を禁じる
阿波の一宮城が置かれた山
阿波の一宮城が置かれた山。平地の背後に山地が迫る立地に注目したい。 写真:Dokudami / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(縮小・WebP変換)

最後の条件に注目したい。家康と組むな、という一文だ。天正13年の夏、家康はまだ秀吉に従っていなかった。四国攻めは、家康の味方を一人減らす戦いでもあった。

その年の10月、元親は大坂へ出向いて秀吉に会った。このとき付き添って取り次いだのも秀長だった。戦場で降した相手を、政権の中に迎え入れるところまでが、総大将の仕事だった。

戦後の国分け|四国はどう分けられたか

国 新しい領主 補足
土佐 長宗我部元親 一国だけを安堵
阿波 蜂須賀家政 父の正勝が辞退し、子の家政が入る。一部に赤松則房
讃岐 仙石秀久 山田郡2万石は十河存保
伊予 小早川隆景 一部に小早川秀包、安国寺恵瓊、来島通総、得居通幸
淡路 脇坂安治、加藤嘉明 渡海の中継地を秀吉の子飼いの将で固める

秀長は8月23日に大坂へ戻り、閏8月には四国平定の功で大和を与えられて、大和・紀伊・和泉の大名になった。四国の国分けと秀長の大和入りは、ひと続きの出来事だったのだ。

四国で秀長が手にした経験は、2年後の九州で生きる。九州平定でも、豊臣の軍は秀吉の本隊と秀長の軍の二手に分かれ、西と東から島津の領国へ迫った。大軍をいくつもの方面に分けて同時に動かし、総大将の一人を秀長が務める。四国は、その形の最初の成功例だった。

ここで選ばれた大名の顔ぶれも見ておきたい。阿波の蜂須賀、淡路の脇坂・加藤は、いずれも秀吉が若いころから育ててきた家臣だ。四国の東の玄関、つまり大坂から見て海の向こうの入口を、子飼いの将で固めたことになる。

現代の目で見る|着上陸作戦としての四国攻め

四国攻めは、いまの軍事の言葉で言えば、海を渡って敵の土地に上がる「着上陸作戦」だった。しかも、陸の軍と海を渡る船を一つの作戦にまとめて動かしている。現代の自衛隊が言う統合運用の考え方に近い。

自衛隊では、離島への上陸を受け持つ部隊として水陸機動団がつくられている。その任務や編成は『水陸機動団とは』で整理した。海を渡って上がるという作戦は、上陸の瞬間がいちばん弱い。船から降りたばかりの兵は、陣も組めず、補給も届いていない。だからこそ、どこに上がるかを敵に読ませず、何か所にも同時に上がる。

複数の地点に同時に上がって、守り手の予備の兵力を迷わせる。この考え方は、1944年のノルマンディー上陸作戦にも通じる。連合軍は5つの海岸に同時に上陸し、さらにドイツ軍に上陸地点を読み違えさせる欺瞞作戦まで重ねた。その全体像は『ノルマンディー上陸作戦とは』で書いている。もちろん規模も技術もまるで違うが、「同時に何か所も上がれば、守る側は一か所に兵を集められない」という理屈は、天正の四国でも昭和の欧州でも変わらない。

大日本帝国ファンとして|多点上陸の系譜

大日本帝国ファンとしては、もう一つ思い出す戦いがある。昭和16年(1941年)12月8日、山下奉文の第25軍がマレー半島に上陸した作戦だ。日本軍はイギリス領のコタバルと、タイ領のシンゴラやパタニなど、何か所にも分かれて同時に上陸し、そこからシンガポールを目指して南へ駆け下った。

海を渡り、複数の地点から同時に上がって、守る側に兵を集めさせない。360年近くをへだてて、日本の軍は同じ形の作戦を選んでいたことになる。そして、どちらの作戦も、上陸そのものより、そのあとの補給をどうつなぐかが勝負だった。四国では秀長の領国の港と船がそれを支えた。マレーでも、上陸のあとの進撃を支えたのは、自転車と鉄道と、徹底した速さだった。

山下奉文の人物と、その後の運命は『山下奉文とは』で書いている。

四国平定の舞台をめぐる

四国平定の舞台は、いまも徳島を中心にたどることができる。鳴門の土佐泊と木津城跡、徳島市の一宮城跡、美馬市の脇城跡、そして元親が本陣を置いた三好市の白地城跡。白地城の跡に立つと、讃岐・伊予・土佐へ道が分かれていく「四国のへそ」の地形がよくわかる。高知まで足をのばせば、元親の居城だった岡豊城跡もある。秀長の側から攻め、元親の側から守りを見る。両方の目で歩くと、この戦いはぐっと立体的になる。

一宮城跡の石垣
一宮城跡の石垣。現在の遺構には、四国平定後の改修も重なっている。 写真:投稿者が撮影 / Wikimedia Commons / Public domain(縮小・WebP変換)

よくある疑問に短く答える

四国平定はいつ?どれくらいかかった?

天正13年(1585年)の6月16日に秀長が出陣し、8月6日に講和が成った。2か月足らずの戦いだった。秀長は8月23日に大坂へ戻っている。

秀吉は四国に行かなかったの?

行っていない。病のため秀長を総大将に立て、自分は和泉の岸和田城にとどまった。回復後に渡海しようとしたが、秀長が書状で延期を求め、最後には取りやめた。

長宗我部元親はどうなった?

土佐一国だけを認められ、豊臣政権の大名として生き残った。翌年には九州へ兵を出すことになり、豊臣の軍役を背負う立場になった。九州での戦いは、特集の次の記事で取り上げる。

黒田官兵衛は四国攻めで何をした?

讃岐方面の大将の一人として戦い、堅い植田城を後回しにして阿波の本隊に合流すべきだと主張した。秀長の総大将としての戦いを、横から支えた形だ。

四国平定と四国攻めは同じ?

同じ戦いを指す。「四国攻め」「四国征伐」「四国平定」などと呼ばれる。どれも豊臣の側から見た呼び方で、長宗我部の側から見れば、四国の大半を失って土佐一国へ押し戻された戦いだった。

豊臣秀長特集の読み方

この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の1本として書いた。特集の入口は『豊臣秀長は何をした人?』、秀長の領地と港の話は『豊臣秀長の領地はどこ?』(公開予定)にまとめている。秀長がもう一度総大将を務めた九州平定は、次の記事で追う。

まとめ|秀長は「調整役」である前に、総大将だった

四国平定は、秀長が総大将として10万を超える軍を動かした戦いだった。紀伊・和泉の港と船を使って三方面から同時に海を渡り、元親の兵を分散させた。どの方面も元親の全軍と渡り合える兵を備えていたから、白地城の元親は内線の利を生かせず、一度も決戦を挑めなかった。

城を力攻めにせず、水と兵糧を断ち、身内のつてで開かせる。戦が終われば、降した相手を大坂へ連れて行って取り次ぐ。兄の出陣を「恥辱」と断ったのは、この戦いを最初から最後まで自分の手で仕上げるという、指揮官の意地だったと私は思う。「温厚な補佐役」の秀長しか知らない人にこそ、四国の夏の秀長を知ってほしい。

出典・参考資料

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

コメント

コメントする

目次