小田原征伐はなぜ北条氏の敗北に終わった?包囲網と補給から読む――謙信も信玄も落とせなかった城は、なぜ総攻撃を受けないまま開いたのか

小田原征伐はなぜ北条氏の敗北に終わった?包囲網と補給から読む――謙信も信玄も落とせなかった城は、なぜ総攻撃を受けないまま開いたのか

小田原城は、戦国でいちばん落ちにくい城のひとつだった。永禄4年(1561年)には上杉謙信が大軍で囲み、永禄12年(1569年)には武田信玄が城下まで攻め寄せた。どちらも城を落とせず、引き上げている。北条氏はこの二度の成功で、ひとつの答えを手にしていた。城にこもって待てば、大軍はいずれ兵糧が尽きて帰る、という答えだ。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が20万を超える大軍で関東へ攻め込んだとき、北条氏はその答えどおりに小田原城にこもった。ところが今度は、敵が帰らなかった。秀吉の軍は城のすぐ西の山に石垣の城を築き、茶会を開き、3か月以上も腰をすえた。そのあいだに、関東じゅうの北条方の城が一つずつ落ちていく。7月5日、北条氏直は城を出て降伏した。小田原城そのものは、最後まで総攻撃を受けていない。

この記事では、小田原征伐を「堅い城をどう落としたか」という話ではなく、関東全体の包囲網と、補給と、外交の三つから読んでいく。北条氏は城の強さで負けたのではない。城の外で、すでに負けていた。

目次

結論|北条氏が負けた理由を3行で

要点

小田原城は、本当に堅かった

北条氏の籠城策は、思いつきではない。実績にもとづいていた。

年 攻めた側 結果
永禄4年(1561年) 上杉謙信 大軍で小田原を囲んだが、城を落とせず引き上げた。実際の包囲は10日ほどだったとみられる
永禄12年(1569年) 武田信玄 小田原城を囲んで力を見せたあと退き、帰り道の三増峠で北条軍と戦った
天正18年(1590年) 豊臣秀吉 約3か月の包囲のすえ、北条氏直が降伏。城は総攻撃を受けずに開いた
現在の小田原城天守
現在の小田原城天守。写真の建物は1960年の復興天守で、北条氏時代の天守そのものではない。 写真:Akonnchiroll / Wikimedia Commons / CC BY 4.0(縮小・WebP変換)

しかも北条氏は、豊臣との戦いが近いとみて、天正15年(1587年)ごろから城をさらに固めていた。城下町をまるごと土塁と空堀で囲む「総構(そうがまえ)」で、その長さは約9キロにおよぶ。城だけでなく町ごと要塞にしてしまう発想で、当時としては破格の規模だった。

総構の内側には町があり、長くこもることもできた。北条方の考えはわかりやすい。これだけの城なら力攻めでは落ちない。囲まれても、相手が先に音を上げる。謙信のときも信玄のときも、そうだったのだから。

この読み自体は、間違っていなかったと私は思う。実際、秀吉も小田原城を力で攻め落とそうとはしなかった。間違っていたのは、相手が謙信や信玄と同じだと考えたことだ。

戦いの前に|北条氏は外交で先に囲まれていた

小田原征伐のきっかけは、上野(群馬県)の沼田をめぐる争いだった。北条氏と真田氏が取り合っていた沼田の領地について、秀吉は天正17年(1589年)に裁定を下し、沼田城を北条に、名胡桃城を真田に分けた。北条氏はこの裁定に従い、前当主の氏政が上洛して秀吉に臣従する、というのが話の筋だった。

ところが同じ年の10月下旬、北条方の猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城を奪ってしまう。名胡桃城事件だ。秀吉はこれを、大名どうしの私戦を禁じた自分の命令への違反とみなし、11月24日に北条氏との手切れを諸大名に伝えた。

ここで見ておきたいのは、戦が始まる前の、北条氏をとりまく顔ぶれだ。

勢力 北条氏との関係 1590年の立場
徳川家康 天正10年(1582年)以来の同盟相手。娘の督姫が北条氏直に嫁いでいた 秀吉に臣従ずみ(1586年)。小田原攻めでは東海道の先鋒、約3万
伊達政宗 北関東の佐竹氏をはさんで、北条と手を結ぶ間柄だった 迷ったすえ、包囲の途中で小田原に参陣し、秀吉に従った
佐竹・宇都宮・結城ら北関東の大名 長年北条と争ってきた 秀吉の側について北から攻め込む
真田昌幸 沼田をめぐる北条の敵 北国勢に加わって上野へ

北条氏が「いざとなれば味方してくれる」と期待できた家は、家康と伊達ぐらいしかなかった。その家康は、旭姫を正室に迎え、大政所を人質として預かったすえに、すでに秀吉の義弟になっている(『旭姫はなぜ家康に嫁いだ?』)。舅の家康が、豊臣軍の先鋒として攻めてくる。北条氏は、戦が始まる前から、外交の面で四方を囲まれていた。

氏直は名胡桃城の件について、奪ったのではないと弁明し、家康に取りなしを頼んでいる。けれど家康はちょうど小田原攻めの軍議のために上洛していて、取りなしは実を結ばなかった。

両軍の兵力|関東へ四方から

豊臣方は、ひとつの軍で小田原に向かったのではない。いくつもの方面から、関東を囲むように攻め込んだ。

方面 おもな大将 兵力のめやす 進んだ道
東海道の主力 豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康、織田信雄ら 主力約17万(徳川勢約3万を含む) 駿河から箱根を越えて小田原へ
北国勢 前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら 約3万5000 信濃から碓氷峠を越えて上野・武蔵へ
水軍 長宗我部元親、九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治、毛利水軍ら 約1万、船1000隻あまり 伊豆の沿岸を進み、小田原の海をふさぐ
北関東の大名 佐竹義宣、宇都宮国綱、結城晴朝ら 約1万8000 北から北条の領国へ
小田原包囲の方面別概略
東海道・北国・海上から豊臣方が進み、北条氏の支城も攻略された。距離や細かな経路、軍勢の規模を表したものではない。

豊臣方の総兵力は約21万とされる(記録によって数字には幅がある)。対する北条方は、小田原城に5万余がこもったといわれる。

数の差はたしかに大きい。けれど、この表で大事なのは数よりも矢印の向きだ。西から主力、北西から北国勢、南の海から水軍、北東から北関東の大名。北条の領国である関東は、四方から同時に攻め込まれた。

補給|「大軍は帰る」という前提を崩した20万石

北条氏の籠城策を根っこから崩したのは、補給だった。

包囲を続けるための三つの支え
本文の補給・築城・支城攻略を、長期の包囲を支える働きとして整理した。

謙信も信玄も、小田原を長く囲めなかった。大軍を遠くの敵地に置いておけば、それだけ兵糧がいる。現地で集めるには限りがあり、本国から運ぶにも道が長い。だから引き上げた。北条氏は、豊臣もそうなると読んでいた。

秀吉は、そこを最初からつぶしにかかった。兵糧奉行に任じられた長束正家は、米と雑穀を20万石あまり集め、さらに黄金(天正大判)1万枚で馬や穀物を買い集めたとされる。集めた兵糧は、駿河の江尻の湊(静岡市清水区)に20万石を超えて積み上げられた。

ここから先が、豊臣の補給の肝だ。兵糧は陸の道だけでなく、海からも運ばれた。1000隻をこえる水軍が伊豆の沿岸を押さえ、北条方の下田城を囲み、小田原の沖をふさいだ。海は、豊臣方にとっては兵糧の通り道になり、北条方にとっては外へ出られない壁になった。

技術ファンとして見ると、ここがいちばんおもしろい。20万の軍を3か月以上養うのは、合戦の強さとは別の能力だ。米を集める金、それを積む船、受け取る湊、前線まで運ぶ人と馬。どれか一つが欠けても、大軍は持たない。豊臣政権は、それを全部そろえていた。四国でも九州でも、秀長が大軍を動かしたときに積み上げてきたやり方を、関東でもっと大きな規模でやってのけたわけだ。

北条方から見れば、こうなる。城にこもって待てば相手は帰るはずだった。ところが相手には、帰る理由がない。待てば待つほど、関東の城が一つずつ落ちていく。待つことが、そのまま負けにつながる形になってしまった。

戦いの経過|外側から一つずつ

小田原征伐の経過を、小田原城の外で起きたことを中心にならべるとこうなる。

日付(天正18年) できごと
3月29日 豊臣の主力が箱根に攻め込み、北条方の山中城がその日の午前のうちに落ちる。同じ日に韮山城の包囲が始まる
4月3日〜5日 豊臣の先鋒が小田原に着き、包囲が始まる。秀吉は早雲寺に本陣を置く
4月 石垣山で城の普請が始まる。北国勢が上野の厩橋城(19日)・松井田城(22日)・箕輪城(24日)を落とす。相模の玉縄城(21日)、伊豆の下田城(23日)、江戸城(27日)が開く
5月 下総・常陸の城が次々に開く。武蔵の岩付城が22日までに落ちる
6月 伊達政宗が小田原に参陣。鉢形城が14日に開き、八王子城が23日に1日で落ちる。韮山城が24日に開く
6月26日 石垣山の城がほぼ完成する。築城は約80日
7月5日 北条氏直が城を出て、豊臣方の滝川雄利の陣で降伏する
7月16日 最後まで残った武蔵の忍城が開く
宣戦から小田原の降伏まで
小田原城が包囲された後に、伊達政宗が秀吉に対面した。年月日は当時の日本の暦。

表を見ると、小田原城のまわりではほとんど大きな戦いが起きていないのがわかる。動いているのは、つねに城の外だ。上野、武蔵、相模、伊豆、下総、常陸。北条氏が100年近くかけて関東に広げてきた城のネットワークが、外側から一枚ずつはがされていった。

北条方は、主力を小田原に集めていた。そのぶん、関東各地の城は守りが手薄になっていた。しかも、降った北条方の武将が豊臣方に城の弱点を教えることもあった。八王子城の城主・北条氏照は小田原城にいて留守で、城は城代と、かき集めた領民たちで守られていた。

ここで効いてくるのが、さきほどの外交だ。北の佐竹・宇都宮が北条を押さえ、伊達は動かない。外から助けに来る者がいない。小田原城は堅いまま、しだいに「堅いだけの城」になっていった。

石垣山の城|長期戦を見せつける

小田原の包囲のさなか、秀吉は城のすぐ西の石垣山に、本格的な城を築いた。4月に普請を始め、6月26日ごろに完成している。石垣と櫓を備えた近世の城で、関東で最初に造られた総石垣の城とされる。3万から4万人が動員されたといわれる。

石垣山一夜城歴史公園の遺構
石垣山一夜城歴史公園の遺構。1590年、秀吉は小田原を望む山上に本陣を構えた。 写真・画像:Tak1701d / Wikimedia Commons / Public domain(縮小・WebP変換)

まわりの木を切りはらって、一夜で城が現れたように見せた「一夜城」の話は有名だ。ただ、実際には北条方からも普請の様子は見えていた、あるいはわざと見せていた、という見方が強い。私も見せていたのだと思う。この城の役目は、北条方に「豊臣はいつまででもここにいるぞ」と伝えることにあったからだ。

陣中では、千利休が茶会を開き、秀吉は茶々ら妻たちを呼び寄せ、箱根で湯治もした。のんきに見えるけれど、これも同じ意味を持つ。包囲する側が、戦場を暮らしの場に変えてしまう。城の中から見れば、相手が帰る気配はどこにもない。補給が続いているからこそできる見せ方で、これほど相手の心を折るものもない。

北条氏はなぜ負けたのか

ここまでを、北条の側から三つにまとめる。

一つ目は、籠城策の前提が崩れたこと。謙信と信玄に勝った「待てば相手が帰る」というやり方は、相手の補給が続かないことを前提にしていた。豊臣は20万石の兵糧と水軍の海上輸送で、その前提を消した。

二つ目は、外交で孤立していたこと。同盟相手の家康は秀吉の義弟になり、伊達も最後は秀吉に従った。北関東の大名はもともと北条の敵だった。外から助けが来ない籠城は、いつか終わる。

三つ目は、支城を外から順に落とされたこと。主力を小田原に集めたことで、各地の城は守りが薄くなった。城の網がはがされていくのを、小田原から見ているしかなかった。

城の中で、和睦か籠城かの話し合いがまとまらなかったことから、結論の出ない会議を「小田原評定」と呼ぶようになった。ただ、氏直と氏政の考えを「強硬派と穏健派の対立」と単純に色分けすることには、研究のうえで異論もある。私は、北条の意思決定がとくに鈍かったというより、そもそも決めようのない状況に追い込まれていた、と見る方が近いと思う。決められなかったのではなく、決めても打つ手がなかった。

いまの組織でも、選べる手がなくなってから会議を重ねても、答えは出ない。手が残っているうちに外交と補給で負けないよう手を打つ。北条の負け方は、そういう意味で、戦国でいちばん身につまされる負け方かもしれない。日本軍の組織の失敗を論じた本としては、次の一冊が定番だ。

豊臣秀長は、小田原にいなかった

『豊臣兄弟!』を見ている人には気になるところだと思うので、ふれておく。この小田原攻めに、豊臣秀長は加わっていない。数年前から病がちで、畿内の留守居として残ったからだ。そして小田原が開いた半年ほどあとの天正19年(1591年)1月、大和郡山城で世を去る。

ただ、小田原攻めのやり方には、秀長が積み上げてきたものがはっきり見える。四国平定では、三方から同時に攻め込んで長宗我部の力を分けた。九州平定では、大軍の兵糧を支えながら、敵が救いに来る道に砦を築いて待った。力攻めを避け、包囲と補給で相手の手を一つずつ消していく。小田原は、その完成形と言っていい。秀長が何をした人だったのかは、特集の入口『豊臣秀長は何をした人?』で整理している。

戦いのあと|家康が関東へ

北条氏直は家康の娘婿だったこともあって命を助けられ、高野山に送られた。北条氏政と弟の氏照には切腹が命じられた。100年近く関東を治めた北条氏は、ここで関東の戦国大名としての歴史を閉じる。

北条の旧領には、徳川家康が移された。家康は東海の領国を離れて関東に入り、江戸を本拠にする。家康の元家老だった石川数正が、家康の去った信濃の松本に置かれたのも、この配置替えのひとつだ。

秀吉は、北条を倒したことで関東を手に入れ、そこに家康を置いた。家康を東へ遠ざけたとも、関東の押さえを任せたとも読める。結果から見ると、この関東の地盤が、10年後の関ヶ原で家康の力の源になる。

大日本帝国ファンとして|補給を断たれる側の姿

小田原征伐を補給の目で読むと、どうしても思い浮かぶのが太平洋戦争の日本軍だ。

小田原の北条は、補給を断たれた側だった。海を押さえられ、外から助けが来ず、まわりの拠点が一つずつ落ちていく。ガダルカナルやニューギニアの日本軍が置かれたのも、規模こそ違え、よく似た形だった。日本軍の補給がなぜ崩れたのかは『日本軍の兵站はなぜ崩壊したのか』で書いた。豊臣が兵糧を船で運んで勝ったのに対し、日本軍は船を失って負けた。同じ国の、350年をへだてた裏表だ。

海をふさいで相手を干す、という考え方は世界共通でもある。第一次世界大戦のイギリス海軍は、海戦では大きな損害を出しながらも、ドイツへの海上封鎖を最後まで解かなかった(『ユトランド沖海戦』)。

自衛隊ファンとしては、海から運ぶことの重みにもふれておきたい。南西諸島のように島が多い地域では、部隊や物資の移動に海上輸送が欠かせない。陸海空自衛隊が共同の海上輸送部隊をつくったのも、そのためだ(『自衛隊海上輸送群とは』)。1590年に豊臣水軍が伊豆の沖でやっていたことは、いまもかたちを変えて続いている。

投資家として見ても、北条の負け方はわかりやすい。どれだけ立派な本社ビル(城)を持っていても、取引先(同盟相手)が離れ、資金繰り(補給)を握られ、支店(支城)を一つずつ閉じられたら、会社は持たない。小田原城は最後まで傷ついていなかった。それでも、北条という会社は立ち行かなくなった。

小田原城と石垣山をめぐる

小田原は、戦国の城めぐりにいちばん行きやすい場所のひとつだ。小田原駅から歩いてすぐのところに小田原城があり、復興された天守から相模湾と、西の石垣山が見える。秀吉の陣がどれほど近かったかは、天守から見ると一目でわかる。

石垣山一夜城は、いまは歴史公園になっていて、崩れた石垣が当時のまま残っている。総構の土塁と空堀も、市内の何か所かで歩いて見ることができる。山中城(静岡県三島市)は、北条流の障子堀がよく残る城として知られる。箱根の温泉とあわせて、1泊で回るのがちょうどいい。

よくある疑問に短く答える

小田原征伐はいつ?

天正18年(1590年)だ。3月29日に箱根の山中城を落として攻め込み、4月はじめから小田原城を囲んだ。7月5日に北条氏直が降伏し、7月16日に最後の忍城が開いて終わった。

小田原城は攻め落とされたの?

総攻撃では落ちていない。約3か月の包囲のあいだに関東各地の支城が落ち、外からの助けもなくなったため、氏直が城を出て降伏した。

豊臣と北条の兵力は?

豊臣方は約21万とされる(記録によって幅がある)。北条方は小田原城に5万余がこもったといわれる。

石垣山一夜城は本当に一夜でできたの?

一夜ではない。4月に普請を始め、6月26日ごろに完成するまで約80日かかっている。まわりの木を切って一気に姿を見せた、という話が「一夜城」の名のもとになった。

豊臣秀長は小田原征伐に参加した?

参加していない。病がちで、畿内の留守居として残った。翌年の1月に亡くなっている。

豊臣秀長特集の読み方

この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の追加記事として書いた。秀長が大軍を率いた戦役は『四国平定とは?』『九州平定とは?』、九州の決戦は『根白坂の戦いとは?』、小田原攻めのあとに松本へ移った石川数正については『石川数正はなぜ家康を離れた?』で書いている(順次公開)。戦国の軍団の強さを兵站から比べた『戦国最強の軍団はどこだったのか』、城攻めの定石を世界史で整理した『中世の城はどう落とした?』もあわせてどうぞ。

まとめ|城の外で、すでに負けていた

小田原征伐で北条氏が負けたのは、小田原城が弱かったからではない。城は最後まで堅かった。負けたのは城の外だった。

戦の前に、同盟相手の家康は秀吉の側に回り、伊達も最後は秀吉に従った。戦が始まると、豊臣は四方から関東に攻め込み、支城を外側から一つずつはがしていった。そして、20万石の兵糧と1000隻の水軍で、「大軍は兵糧が尽きて帰る」という北条の前提そのものを消した。謙信にも信玄にも通じた答えが、秀吉には通じなかった。

堅い城を持っていることと、戦に勝てることは別の話だ。外交と補給で囲まれてしまえば、どんなに堅い城も、ただ待つだけの場所になる。小田原は、そのことを戦国でいちばん大きな規模で見せた戦いだったと私は思う。

出典・参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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