戦国最強の軍団はどこだったのか|武田・上杉・織田・島津…合戦の勝ち方と兵站で選ぶTOP10

戦国最強の軍団はどこだったのか|武田・上杉・織田・島津…合戦の勝ち方と兵站で選ぶTOP10

「戦国最強は誰か」という話になると、だいたい武田信玄か上杉謙信の名前が出る。騎馬隊、川中島、風林火山。たしかに絵になる。

でも、軍事ブログを書いている人間として、私はいつも少しひっかかる。強い軍団とは、合戦で派手に勝つ軍団のことなのだろうか。

太平洋戦争の日本軍の記事を書いていると、何度も同じ結論にたどり着く。戦争の勝ち負けを最後に決めるのは、戦場の勇敢さよりも、兵站、つまり兵と食料と武器をどれだけ集めて、どれだけ遠くまで届け続けられるかだ。どれほど強い兵がいても、腹が減れば戦えない。

同じ物差しで、古代世界最強軍隊ランキングや中世ヨーロッパ最強騎士団ランキングも書いてきた。どの時代でも、最後に勝つのは兵站の強い軍隊だった。

だからこのランキングでは、合戦の勝ち方だけでなく、兵站と動員力、つまり「戦争を続ける力」を重く見て、戦国の大名の軍団を10個選んでみた。その結果、1位はたぶん多くの人の予想と違うところに来た。

先に断っておくと、戦国時代の軍団の強さを、一つの物差しで正確に比べることはできない。時代も、敵も、土地の広さも違う。これは、一人の戦史好きが、自分なりの物差しで並べてみた「議論のたたき台」だと思って読んでほしい。異論は大歓迎だ。好きな武将が低い順位にいても、どうか怒らずに最後まで読んでほしい。

目次

評価の物差し:5つの軸

火縄銃、槍、弓。それぞれの装備を部隊としてどう使うかが問われた。
火縄銃、槍、弓。それぞれの装備を部隊としてどう使うかが問われた。

このランキングでは、次の5つの軸で各軍団を見た。

軸 見るポイント
戦術 合戦での勝ち方、戦い方の工夫
兵站・動員力 どれだけの兵を集め、食わせ、遠くへ送れたか
経済力 戦争を支える金・米・交易の力
組織・指揮 家臣団のまとまり、指揮系統、世代を超えた持続性
実績 強い相手に勝ったか、領国を守り広げたか
要点

戦国の兵站の基本:兵1人が1日に食べる米

兵糧と運搬の仕組みが、大軍の行動範囲を支えた。
兵糧と運搬の仕組みが、大軍の行動範囲を支えた。

ランキングに入る前に、戦国の兵站がどれくらい大変だったのかを、数字で感じておきたい。

戦国時代の兵は、1人が1日に米を6合ほど食べたと言われる。今の茶碗でいえば、1日に10杯以上だ。重い鎧を着て、何十キロも歩き、戦う。それだけのカロリーが必要だった。

これを軍団の規模に当てはめると、1万人の軍なら、1日に6万合、つまり60石の米が要る。米1石は大人1人が1年に食べる量とされるので、1万人の軍は、1日で60人分の1年分の米を食べてしまう計算になる。さらに、馬の飼料、塩、味噌、水、そして武器や弾薬も運ばなければならない。

ひと月戦えば1,800石。20万人の大軍なら、1日に1,200石。戦国の大名にとって、合戦とは、この膨大な米を集めて運び続ける巨大な物流事業でもあった。どの大名がこの物流をうまく回せたかが、ランキングの大きな分かれ目になる。

TOP10一覧

順位 軍団 代表的な当主 ひとことで言うと
1 豊臣(羽柴)軍団 豊臣秀吉 戦う前に勝つ、兵站の怪物
2 織田軍団 織田信長 金と鉄砲で戦い方を変えた革新者
3 武田軍団 武田信玄 戦国最強の「野戦軍」
4 島津軍団 島津義久・義弘 少ない兵で大軍を破る、九州の戦闘集団
5 上杉軍団 上杉謙信 一人の天才が率いた、負けない軍団
6 徳川軍団 徳川家康 粘り強さで天下を取った三河武士
7 北条軍団 北条氏康 信玄も謙信も跳ね返した守りの名手
8 毛利軍団 毛利元就 知略と水軍で中国地方を制した
9 長宗我部軍団 長宗我部元親 半農半兵で四国を駆け抜けた
10 伊達軍団 伊達政宗 奥州を一代で切り取った若き覇者

5つの軸での、私なりの評価も表にしておく。5点満点で、あくまで主観の目安だ。

軍団 戦術 兵站・動員 経済力 組織・指揮 実績 合計
豊臣 4 5 5 4 5 23
織田 4 4 5 4 5 22
武田 5 3 4 4 4 20
島津 5 3 3 5 4 20
上杉 5 3 3 3 5 19
徳川 3 4 3 5 4 19
北条 3 4 4 4 3 18
毛利 4 3 5 3 3 18
長宗我部 3 3 2 3 3 14
伊達 4 3 2 3 2 14

武田と島津、上杉と徳川のように合計点が並んでいるところは、順位を決めるのに迷った。武田を島津より上にしたのは、甲斐という山国から複数の国を支配下に置いた拡大の実績を、上杉より徳川を下にしたのは、合戦での強さそのものを重く見たからだ。

ここから、10位から順番に見ていく。

10位:伊達軍団――奥州を一代で切り取った若き覇者

要点

ただ、政宗が奥州を固めたのは、豊臣秀吉が天下統一を目前にしていた時期だった。秀吉の小田原攻めに遅れて参陣した政宗は、せっかく手に入れた会津を取り上げられてしまう。軍団としての勢いはあったが、天下の流れに乗り遅れた。生まれるのがあと20年早ければ、と言われるゆえんだ。それでも政宗は、天下人の秀吉、そして家康の時代を生き抜き、仙台藩の基礎を築いた。家臣の支倉常長をヨーロッパに送り出し、スペインやローマ教皇と直接交渉させるという、戦国の大名としては破格のスケールの外交まで試みている。戦の腕前だけでなく、世界を見る目を持った大名だった。

10位にしたのは、戦術と勢いは十分だが、全国規模の強豪と正面から戦った実績が少ないからだ。

9位:長宗我部軍団――半農半兵で四国を駆け抜けた

この軍団を支えたのが、「一領具足」と呼ばれる兵たちだった。ふだんは田畑を耕す農民でありながら、いざ戦となれば、田んぼのあぜに置いてある具足(鎧)と槍を手にすぐ駆けつける。半農半兵の兵を素早く大量に動員できたことが、長宗我部の急速な拡大を支えた。

一方で、この仕組みには弱点もあった。兵が農民でもあるので、農作業の忙しい時期には長く戦えない。遠くまで遠征を続けるのも難しい。四国をまとめかけたところで、豊臣秀吉の大軍が四国に押し寄せ、元親は降伏することになる。

動員の素早さは一級品。でも、兵農が分かれていないぶん、長期戦と遠征に弱かった。そこが9位の理由だ。

8位:毛利軍団――知略と水軍で中国地方を制した

元就の名を一躍高めたのが、1555年の厳島の戦いだ。数で大きく上回る陶晴賢の軍を、狭い厳島に誘い込み、嵐の夜に奇襲をかけて打ち破った。地形と天候と敵の油断を、すべて味方につけた戦いだった。

毛利軍団の強みは、謀略と外交、そして水軍だ。元就が3人の息子に、1本の矢は簡単に折れるが、3本束ねれば折れにくい、と結束を説いた「三本の矢」の話はよく知られている。これも後世につくられた逸話とする見方が強いが、毛利家が兄弟の結束で大きくなったことは確かだ。次男と三男が、それぞれ吉川家と小早川家を継いで本家を支える「毛利両川」の体制は、毛利軍団の組織の強さの土台になった。瀬戸内海の村上水軍などを味方につけ、海の力で勢力を広げた。のちに織田信長と戦ったときも、毛利の水軍は、大坂の本願寺に兵糧を運び込む織田方の海上封鎖を一度は打ち破っている。

さらに、毛利には石見銀山という巨大な財源があった。この時代、世界の銀の産出量のかなりの部分を日本が占めていたと言われ、その中心が石見銀山だった。経済力という点では、毛利は戦国でもトップクラスだったと思う。

それでも8位なのは、元就の死後、信長・秀吉という全国規模の勢力との戦いで、じわじわと押し込まれていったからだ。

7位:北条軍団――信玄も謙信も跳ね返した守りの名手

北条の本拠地、小田原城は、上杉謙信と武田信玄という戦国を代表する2人の名将に、それぞれ包囲されている。1561年には謙信が10万ともいわれる大軍で攻め寄せ、1569年には信玄が攻めてきた。北条はそのどちらも、城に籠もって耐え抜き、相手を引き揚げさせた。

北条の強さは、城そのものよりも、領国全体の仕組みにあった。本城の小田原を中心に、関東の各地に支城をめぐらせ、それぞれが連絡を取り合って守るネットワークをつくった。さらに、検地をして年貢を整え、領民の負担を抑えることで、領国の経済と民心を安定させた。こうした内政の確かさが、長い籠城を支えたのだ。

最後は、豊臣秀吉の20万を超えるといわれる大軍に小田原城を包囲され、降伏する。どんな守りも、圧倒的な兵站の前には限界があった。その話は、1位のところでもう一度出てくる。

6位:徳川軍団――粘り強さで天下を取った三河武士

徳川軍団の強さは、三河武士と呼ばれる家臣団の忠誠心と粘り強さにあった。負けても崩れない。それを一番よく表しているのが、1573年の三方ヶ原の戦いだ。家康は武田信玄の大軍に挑んで大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰った。それでも徳川の家臣団はばらばらにならず、家康を支え続けた。

1584年の小牧・長久手の戦いでは、天下人になりつつあった豊臣秀吉の大軍を相手に、局地戦で勝ちをおさめている。秀吉と戦って負けなかった数少ない大名の一人だ。

それでも6位にしたのは、家康の本当の強さが、合戦の強さより、待つ力と政治力にあったからだ。軍団として見ると、武田や島津のような圧倒的な戦闘力を持っていたわけではない。もちろん、1600年の関ヶ原の戦いで東軍を率いて勝ち、1614年と1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼしたのは徳川の軍団だ。最後に戦場に立っていたのは徳川だった、という事実は重い。ただ、関ヶ原の勝利も、合戦そのものより、事前に西軍の大名たちを味方に引き込んでいた家康の調略の力によるところが大きかったと言われる。

天下を取ったのは軍団の強さというより、家康という人の「長く生きて、最後に勝つ」戦略の勝利だったと私は思う。

5位:上杉軍団――一人の天才が率いた、負けない軍団

武田信玄との川中島の戦いは5回にわたったとされ、なかでも1561年の第4次合戦は、戦国最大級の激戦として知られる。武田軍が別働隊で上杉軍の背後を突こうとした「啄木鳥戦法」を謙信が見抜き、先手を取って武田の本陣に攻めかかったという話は有名だ。もっとも、この話の多くは、江戸時代に武田家の軍学書としてまとめられた『甲陽軍鑑』に頼っていて、細かい経過には今も議論がある。1577年の手取川の戦いでは、織田信長の家臣・柴田勝家らの軍を打ち破っている。謙信は、生涯で70回ほど戦い、ほとんど負けなかったとも言われる。

謙信の軍団は、謙信自身の圧倒的な指揮能力に支えられていた。どこで攻め、どこで退くか、その判断が抜群だった。毘沙門天の化身を名乗り、自らを律する姿勢は、家臣たちの結束も生んだ。宿敵の信玄の領国が塩の不足に苦しんだとき、謙信が塩を送ったという「敵に塩を送る」の逸話も、謙信の義の人としての評判をよく表している。ただ、この話がどこまで史実なのかははっきりしておらず、後の時代につくられた美談だとする見方もある。

ただ、謙信は、戦には強かったが、領土を大きく広げることには、あまり熱心ではなかった。関東に何度も出兵しても、その土地を長く支配することは少なかった。そして、謙信が急死すると、跡継ぎをめぐって上杉家は内乱に陥る。一人の天才に頼りすぎた軍団の弱さが、そこに出てしまった。

合戦の強さだけなら、上杉軍団は間違いなくトップ3に入る。でも「戦争を続ける力」の物差しでは、5位が妥当だと思う。

4位:島津軍団――少ない兵で大軍を破る、九州の戦闘集団

島津の代名詞が「釣り野伏せ」と呼ばれる戦法だ。まず少数の部隊が敵とぶつかり、わざと負けたふりをして退く。追いかけてきた敵を、左右に伏せておいた部隊が挟み撃ちにする。言葉にすると単純だが、退く部隊が本当に崩れずに退き、伏兵が絶妙のタイミングで飛び出すには、兵一人ひとりの規律と、部隊同士の息の合った連携がいる。

島津はこの戦い方で、1578年の耳川の戦いで大友氏を、1584年の沖田畷の戦いで龍造寺氏を破り、九州の強豪を次々に倒した。1586年の戸次川の戦いでは、豊臣秀吉が送り込んだ四国の大名たちの軍まで打ち破っている。

そして島津の名を不滅にしたのが、1600年の関ヶ原の戦いだ。西軍が総崩れになる中、島津義弘の部隊は、退路をふさぐ東軍の大軍の真ん中を突っ切って戦場を離脱した。「島津の退き口」と呼ばれるこの敵中突破は、兵の多くを失いながらも当主の義弘を薩摩へ帰還させた。この戦いぶりが、のちに島津家が改易をまぬがれる一因にもなったと言われる。

島津の軍団は、戦術と兵の強さでは、戦国の頂点の一つだ。ただ、九州の外に出て全国規模の兵站を回す力は、豊臣の大軍の前に届かなかった。

3位:武田軍団――戦国最強の「野戦軍」

武田信玄は、甲斐という山国から、信濃、駿河、さらには遠江や三河の一部、上野の西部まで勢力を広げた。その軍団は、戦国最強の野戦軍と恐れられた。1573年の三方ヶ原の戦いでは、徳川家康の軍を一方的に打ち破っている。

武田と言えば騎馬隊が有名だ。ただ、最近の研究では、馬に乗った武士だけを集めた「騎馬隊」という部隊が本当にあったのか、疑問視する見方も強い。当時の馬は今のサラブレッドより小さく、合戦では馬から降りて戦うことも多かったと考えられている。武田の強さは、騎馬隊という一つの兵種ではなく、よく訓練された軍団全体の練度にあったと見るほうがいいと思う。

そして、信玄は戦だけの人ではなかった。「甲州法度之次第」という分国法で家臣団と領国を治め、釜無川に「信玄堤」と呼ばれる堤防を築いて水害を防ぎ、甲斐の金山から採れる金で領国の経済を支えた。内政と軍事が一体になっていたことが、武田の強さの本当の土台だった。兵站の面でも、信玄は甲斐から信濃へ兵を素早く送るための軍用道路を整えたと伝えられ、「信玄の棒道」と呼ばれるその道の跡は今も八ヶ岳のふもとに残っている。山国の不利を、道づくりで補おうとしていたのだ。

ちなみに、武田の軍旗に書かれた「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」、いわゆる風林火山は、中国の兵法書『孫子』の一節から取られたものだ。信玄が孫子を深く学んでいたことがよくわかる。武田の強さの源を知りたいなら、原典の孫子を読んでみるのも面白い。

それでも3位にしたのは、武田が信玄の死後、急速に弱っていったからだ。息子の勝頼の代、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、1582年には滅亡する。山国の甲斐には海がなく、交易で富を蓄える道が限られていたことも、長い目で見ると不利だった。信玄という巨大な柱を失ったあと、軍団を支え続ける仕組みが足りなかった。

2位:織田軍団――金と鉄砲で戦い方を変えた革新者

じつは、信長の地元である尾張の兵は、昔から「弱い」と言われていた。豊かな土地で、命がけで戦う理由が少なかったからだ。信長は、その弱い兵で天下を取りかけた。どうやったのか。答えは、金と鉄砲と組織だ。

まず金。尾張は交易が盛んで、信長は津島や熱田の港、のちには堺のような商業都市を押さえて、莫大な富を手に入れた。関所を廃止し、市場での自由な商売を認める「楽市楽座」の政策で、商業をさらに活発にした。この金で、信長は大量の鉄砲と弾薬をそろえることができた。

次に鉄砲。1575年の長篠の戦いで、信長は大量の鉄砲を使って武田勝頼の軍を破った。有名な「3,000丁の鉄砲による三段撃ち」の話は、今では誇張だとする見方が強く、実際の数や撃ち方には諸説ある。ただ、馬防柵を築いて陣地を固め、そこに大量の鉄砲を集中させるという発想そのものは、戦国の戦い方を大きく変えた。

そして組織。信長は、家臣たちに方面ごとの軍団を任せ、柴田勝家は北陸、羽柴秀吉は中国地方、というように、複数の戦線を同時に動かした。一人の大名が一つの軍を率いる、という戦国の常識を超えた仕組みだ。

よく「信長は兵農分離を進めて、一年中戦える専業の兵士の軍団をつくった」と言われる。長宗我部の一領具足とは正反対の仕組みだ。ただ、この兵農分離をどこまで信長が意図的に進めたのかについては、研究者のあいだでも議論がある。本格的に進んだのは、むしろ秀吉の刀狩や太閤検地の時代だ、という見方も強い。いずれにしても、農作業に縛られずに長く遠くまで戦える兵がいたことは、織田・豊臣の軍団の大きな強みだった。

鉄砲が日本に伝わったのは、1543年に種子島に漂着した船からだとされる。それからわずか数十年で、日本は世界でも有数の鉄砲の生産国になった。堺や近江の国友といった鍛冶の町が、刀鍛冶の技術を生かして、次々に鉄砲を国産化していったのだ。新しい技術を素早く取り込み、自分たちで作れるようにする。この力は、明治の日本が西洋の軍艦や大砲を学んでいったときにも、そっくり繰り返されることになる。

技術好きとして付け加えると、鉄砲の大量運用には、火薬の原料である硝石が欠かせない。当時の日本では硝石がほとんど採れず、多くを海外からの輸入に頼っていた。堺のような貿易港を押さえていたことが、信長の鉄砲戦術を支えていたのだ。兵器の性能だけでなく、その原料をどこから調達するかまで含めて考えていたところに、信長の本当の革新性がある。

それでも1位でないのは、信長自身が1582年、本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれ、天下統一を目前にして倒れてしまったからだ。組織は強かったが、その組織の内側から崩れた。

1位:豊臣(羽柴)軍団――戦う前に勝つ、兵站の怪物

秀吉の軍団が派手な合戦で知られているかというと、実はそうでもない。むしろ秀吉は、できるだけ戦わずに勝つことを好んだ。その武器が、兵站だった。

中国大返し:200キロを10日ほどで

秀吉の兵站の凄さを一番よく表しているのが、1582年の「中国大返し」だ。

本能寺の変が起きたとき、秀吉は備中(今の岡山県)で毛利軍と対峙していた。信長の死を知った秀吉は、すぐに毛利と和睦し、全軍を京都に向けて引き返させた。およそ200キロの道のりを、大軍を率いて10日ほどで駆け抜け、山崎の戦いで明智光秀を破ったのだ。

大軍がこれだけの速さで移動するには、途中の食料、休む場所、道の確保が欠かせない。秀吉は、行く先々で兵に食事を用意させ、休ませながら進んだと言われる。兵站の準備がなければ、大軍は途中で疲れ果てて崩れていたはずだ。

兵糧攻め:城を「飢え」で落とす

秀吉は、城攻めでも兵站を武器にした。1581年の鳥取城の攻めでは、周辺の米を事前に高値で買い占めて城に入る兵糧を減らし、そのうえで城を囲んで補給を断った。城の中は深刻な飢えに陥り、城は降伏した。

正面から攻めれば、多くの兵が死ぬ。でも、相手の食べ物を断てば、戦わずに城を落とせる。冷酷な戦い方ではあるが、軍事の合理性という点では、戦国でもっとも徹底していた。

小田原攻め:20万の大軍を、何か月も食わせる

そして1590年の小田原攻め。秀吉は、20万を超えるといわれる大軍で、北条の小田原城を囲んだ。

驚くべきは、その大軍を何か月も包囲させ続けたことだ。全国から集めた兵に、毎日、食料を届け続けなければならない。秀吉は、船を使った大量輸送で米を運び込み、包囲中の陣地に石垣の城まで築いた。一夜で城が現れたように見せかけたと伝わる石垣山城だ。

信玄も謙信も跳ね返した小田原城が、秀吉の前ではついに降伏した。北条の守りが弱かったわけではない。秀吉の兵站が、それを上回っただけだ。

太閤検地:国全体を一つの兵站基地に

秀吉は、全国で土地の調査、いわゆる太閤検地を行い、どこでどれだけの米が取れるかを把握した。これによって、全国の大名にどれだけの兵と兵糧を出させられるかが、数字ではっきりわかるようになった。日本全体を一つの兵站の仕組みとして動かせるようにしたのだ。

さらに1588年には刀狩令を出して、農民から刀や槍、鉄砲を取り上げた。これで、戦う人と耕す人がはっきり分かれ、一揆が起きにくくなった。戦う人は戦いに専念し、耕す人は米づくりに専念する。その米を、検地で把握した数字にもとづいて集め、戦う人に届ける。秀吉は、合戦の勝ち方だけでなく、国全体を「戦争を続けられる形」につくり変えてしまったのだ。

ここまでやった大名は、戦国でほかにいない。個々の兵の強さや、合戦での華やかさで言えば、武田や島津や上杉のほうが上かもしれない。でも、戦争を「始めて、続けて、勝ち切る」力で比べれば、秀吉の軍団が頭一つ抜けていると私は思う。

秀吉の限界:海を越えた兵站

ただ、その秀吉の兵站にも限界があった。晩年に行われた朝鮮への出兵だ。

海を越えて大軍を送り込み、異国の地で戦い続けるには、日本国内とは比べものにならない兵站の力が要る。朝鮮の水軍に海上の補給路を脅かされ、明の大軍も加わって、日本軍は苦しい戦いを強いられた。国内では無敵だった兵站の怪物も、海の向こうでは思うように力を発揮できなかったのだ。

この話は、のちの日本軍の歴史とも重なって見える。国内や近い戦場では強くても、遠い海の向こうで補給を続けることには、いつも苦しんだ。兵站の大切さについて深く知りたいなら、この本がいい。戦争の勝敗が、兵站でどう決まってきたかを、ヨーロッパの歴史を通して教えてくれる。

ランキングから外した有力候補

10の枠にはどうしても入りきらなかった軍団も、いくつか挙げておく。

今川義元の今川軍団は、駿河・遠江・三河を治める東海道の大大名で、桶狭間で討たれるまでは「海道一の弓取り」と呼ばれた。内政や軍の組織は整っていて、決して弱い軍団ではなかった。ただ、当主が討たれたあとの崩れ方があまりにも早かったため、外した。

九州の大友宗麟の大友軍団は、一時は九州の北半分を支配し、南蛮貿易で富を蓄え、大砲まで手に入れていた。それでも、耳川の戦いで島津に大敗してから急速に衰えた。

浅井・朝倉の軍団は、織田信長を何度も苦しめたが、最後は信長に滅ぼされた。龍造寺隆信は「肥前の熊」と恐れられたが、沖田畷で島津に討たれた。畿内を一時支配した三好軍団も、強大だったが長続きしなかった。

そして、大名ではないが、戦国の軍事を語るうえで外せないのが、一向一揆と、鉄砲の傭兵集団として知られた雑賀衆だ。大坂の本願寺は、信長を相手に10年にわたって戦い続けた。信仰で結ばれた人々の粘り強さは、どの大名の軍団にも劣らなかった。

番外編:真田――少数精鋭の極み

ランキングには入れなかったが、どうしても触れておきたいのが真田家だ。

真田は、信濃の小さな国衆にすぎず、大名と呼ぶには規模が小さすぎる。だから軍団の総合力ではTOP10に入らない。でも、少ない兵で大軍を破る戦術の切れ味では、戦国でも指折りだ。

1585年と1600年の2度にわたる上田合戦で、真田昌幸は、数で大きく勝る徳川の軍を、上田城で2度とも退けている。そして昌幸の次男、真田信繁(幸村)は、1615年の大坂夏の陣で、徳川家康の本陣にまで迫る突撃を見せた。

大名の物差しでは測れない、局地戦の天才。番外編として名前を挙げておきたい。

大日本帝国ファンとして:桶狭間の「奇襲」が残したもの

ここで少し、時代を飛ばした話をさせてほしい。

1560年の桶狭間の戦いは、織田信長が少ない兵で今川義元の大軍を破った戦いとして知られている。長いあいだ、信長が山の裏を回り込んで今川の本陣を奇襲した、という話が定説とされてきた。

この「迂回奇襲」の話を広めたのは、明治時代に陸軍の参謀本部がまとめた『日本戦史』だったと言われる。ところが、今の研究では、信長は迂回したのではなく、正面から攻めかかった可能性が高いとする見方が強くなっている。

なぜこの話が大事なのか。少ない兵で大軍を奇襲して打ち破る、という桶狭間の物語は、その後の日本陸軍の発想に影響を与えた、と見る研究者がいるからだ。寡兵で大軍を破る奇襲への憧れは、兵站や物量を軽く見る考え方とも結びつきやすい。

太平洋戦争で日本軍の兵站がどう崩れていったかは、日本軍の兵站はなぜ崩壊したのかの記事で詳しく書いた。

秀吉の軍団が教えてくれるのは、その真逆だ。勝つ軍団は、奇跡のような奇襲ではなく、圧倒的な兵站と準備で勝つ。戦国の歴史から何を学ぶか。それは、のちの日本の戦争の歩みにも関わってくる問いだと私は思っている。

戦国の軍団と、いまの自衛隊

最後に、自衛隊ファンとして一言だけ書いておく。

戦国の軍団を兵站の目で見直してみると、今の自衛隊が直面している課題と、驚くほど重なるところがある。弾薬や燃料をどれだけ備えておけるか。離れた島々に、どうやって兵と物資を届け続けるか。民間の船や輸送力をどう使うか。

秀吉が小田原攻めで船を使って大量の米を運んだように、今の自衛隊も、南西諸島への輸送で民間のフェリーや船を活用する仕組みを整えようとしている。自衛隊自身も、島々への輸送を担う部隊を新しくつくっている。そのあたりは自衛隊海上輸送群の解説で書いた。武器の性能よりも、それを届け続ける力が勝敗を分ける、という戦国の教訓は、450年たっても変わっていない。

よくある疑問に短く答える

結局、戦国最強の「武将」は誰なのか

このランキングは軍団の強さを比べたもので、武将個人の強さとは別だ。個人の合戦の腕前なら、上杉謙信や島津義弘、真田信繁の名前がよく挙がる。槍一本の武勇なら、本多忠勝のような猛将もいる。軍団を動かす力と、一人の武将の強さは、必ずしも一致しない。

武田信玄と織田信長が全面対決したら、どちらが勝ったのか

これは戦国ファンが一番盛り上がる「もしも」の一つだ。信玄は1573年、西へ向けて大軍を進め、三方ヶ原で徳川を破ったところで病に倒れ、そのまま亡くなった。信長との本格的な決戦は、ついに実現しなかった。私の考えでは、短い野戦なら武田が有利、長い戦いになれば経済力と動員力で上回る織田が有利だったと思う。まさに、このランキングの物差しの違いが、そのまま勝敗の予想に表れる。

一番強い「兵」がいたのはどこか

兵一人ひとりの強さで言えば、薩摩の島津の兵を挙げる人が多い。厳しい土地で鍛えられ、退くときにも崩れない規律があった。関ヶ原の退き口は、その象徴だ。逆に、豊かな尾張の兵は弱いと言われながら、信長はその兵で天下を取りかけた。兵の強さと軍団の強さは、やはり別物なのだ。

戦国の軍団ゆかりの城を訪ねる

山道と石垣、門を組み合わせた城の防御。
山道と石垣、門を組み合わせた城の防御。

ランキングを読んで、実際に城や古戦場を歩いてみたくなった人もいると思う。

北条の小田原城は、天守が復元され、城下町とあわせて歩ける。信玄と謙信を跳ね返した巨大な城の雰囲気を、今も感じられる場所だ。甲府には武田神社があり、信玄の館の跡に建てられている。新潟県上越市の春日山城跡は、謙信の居城として知られる山城だ。長篠の戦いの舞台となった愛知県の設楽原には、馬防柵が再現されている。そして大阪城は、秀吉の天下統一の象徴だ。

城巡りは、一日に何か所も回ろうとすると、移動だけで疲れてしまう。気になる城の近くに一泊して、朝早くからゆっくり歩くのが私のおすすめだ。

もっと深く知りたい人へ

書籍と地図を広げた読書机
回想録と別の記録を読み比べ、情報が届いた過程と使われた過程を分けて考える。

戦国時代の本はたくさんあるが、合戦の一つひとつを深く知りたいなら、新しい研究を踏まえた本を選ぶのがいい。桶狭間の迂回奇襲や、長篠の三段撃ちのように、昔の定説が見直されている話がとても多いからだ。

長い本を読む時間がないなら、耳で聴くのもいい。戦国の合戦や武将の話は、物語として聴くのにも向いている。

侍そのものの強さが気になる人は、騎士と侍の比較やロングソードと日本刀の比較もどうぞ。城攻めの定石については中世の城の攻め方で、ヨーロッパの例をもとに書いている。

このランキングをハブにして、これから桶狭間、長篠、関ヶ原といった合戦の記事も書いていくつもりだ。あなたの思う戦国最強の軍団はどこだろうか。私の1位に異論がある人は、ぜひ自分なりの物差しで考えてみてほしい。それが、戦史を読む一番の楽しみだと思う。

出典・参考資料

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軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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