天正15年(1587年)5月8日、薩摩の川内にある泰平寺。秀吉の本陣に、頭を丸めた一人の男が現れた。島津義久である。2日前に鹿児島を出て、途中の寺で剃髪し、「龍伯」と名を改めていた。
島津は、九州でいちばん強い家だった。耳川の戦いで大友を破り、沖田畷の戦いで龍造寺を破り、前の年の暮れには、豊臣方の先遣軍まで戸次川で打ち負かしている。その島津が、秀吉が大坂を出陣した3月1日から数えて、わずか2か月あまりで降った。
しかも、島津が最初に和睦を申し入れた相手は、秀吉ではなかった。4月21日、義久は重臣を人質に立てて、秀吉の弟・秀長に和睦を願い出ている。九州の東側を攻め下っていたのが、秀長の軍だったからだ。
この記事では、九州平定を一つひとつの合戦ではなく、戦役の全体として整理する。豊臣の大軍はどう分かれて進み、どこで戦局が変わり、島津はなぜ降ったのか。地図とともに追っていく。
結論|九州平定を3行で
- 天正15年(1587年)、秀吉と秀長が合わせて約20万の軍を二手に分けて九州に入り、島津氏を降伏させた戦役。前年からの先遣軍の戦いを含めて、九州征伐、九州の役とも呼ばれる
- 秀吉は西側(筑前・筑後・肥後)から、秀長は東側(豊後・日向)から薩摩を目指した。戦局を決めたのは、日向で島津の主力を受け止めた秀長の根白坂の勝利と、その間に西側を一気に駆け下った秀吉の進撃だった
- 島津は薩摩・大隅と日向の一部に押し戻され、九州の残りは豊臣方の大名に分けられた
年表|九州平定の流れ
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 天正13年(1585年)10月 | 秀吉、島津と大友に停戦を命じる |
| 天正14年(1586年)3月 | 秀吉の国分け案を、島津が拒む |
| 天正14年4月5日 | 大友宗麟が大坂城を訪れ、秀吉に助けを求める |
| 天正14年8月〜10月 | 毛利勢と黒田孝高が豊前に入る。10月4日に小倉城が落ちる |
| 天正14年12月1日 | 秀吉、30万人の1年分の兵糧米と、馬2万匹分の飼料の調達を命じる |
| 天正14年12月12日 | 戸次川の戦い。四国勢を中心とする豊臣の先遣軍が島津家久に大敗 |
| 天正15年(1587年)1月1日 | 九州出兵の軍令が出る |
| 天正15年2月10日 | 秀長が出陣 |
| 天正15年3月1日 | 秀吉が大坂を出陣 |
| 天正15年3月29日 | 秀長、日向の松尾城を落とす |
| 天正15年4月3日 | 筑前の秋月種実が秀吉に降る |
| 天正15年4月6日 | 秀長、耳川を渡って高城を囲む |
| 天正15年4月16日 | 秀吉、肥後の隈本に入る |
| 天正15年4月17日 | 根白坂の戦い。島津の主力が秀長の砦を攻めて敗れる |
| 天正15年4月21日 | 島津義久、人質を立てて秀長に和睦を申し入れる |
| 天正15年5月3日 | 秀吉、薩摩の泰平寺に本陣を置く |
| 天正15年5月8日 | 島津義久が泰平寺で秀吉に降伏 |
| 天正15年5月22日 | 島津義弘が降伏 |
| 天正15年6月7日 | 秀吉、筑前の箱崎に着き、九州の国分けを行う |

なぜ秀吉は島津と戦ったのか
きっかけは、秀吉が出した停戦の命令だった。天正13年10月、関白になった秀吉は、朝廷の権威を背に、争っていた島津と大友に戦をやめるよう命じた。大友はすぐに受けた。島津も、家中で議論したすえに一度は受け入れている。
ところが翌天正14年3月、秀吉が示した国分けの案は、島津がそれまでに勝ち取った土地の多くを大友に返させる中身だった。島津はこれを拒む。義久は、もとは身分の低い秀吉を「成り上がり者」と見て、礼を尽くす相手ではないと考えていたとも伝わる。
4月には大友宗麟が自ら大坂城まで出向き、島津の脅威を取り除いてほしいと秀吉に頼んだ。このとき宗麟が、秀長について「公儀の事は宰相(秀長)」と書き残したことは、特集の入口の『豊臣秀長は何をした人?』で紹介した。秀吉は東の家康との和睦を急ぎ、西の島津へ向かう準備を進めていく。
前哨戦|戸次川の敗北が教えたこと
本隊が出る前の天正14年、豊臣方はまず先遣の軍を送った。豊前には毛利勢と黒田孝高が入り、10月には小倉城を落としている。豊後には、仙石秀久を軍監に、長宗我部元親・信親の親子や十河存保ら四国の大名が送り込まれた。前の年に秀長に降ったばかりの元親が、今度は豊臣の兵として九州に渡ったわけだ。四国平定の経緯は『四国平定とは?』で書いた。
12月12日、豊後の戸次川で、この四国勢が島津家久の軍に大敗する。仙石秀久が無理に川を渡らせたところを、島津の軍に襲われた。豊臣方は大きな損害を出した。
この敗北は、豊臣方に一つのことをはっきりと教えた。島津と、島津の得意な形の野戦で戦ってはいけない、ということだ。島津は、わざと退いて敵を誘い込み、伏せておいた兵で囲んでたたく「釣り野伏せ」を得意としていた。島津の戦い方の強さは『戦国最強の軍団はどこだったのか』でも取り上げている。この教訓は、翌年の秀長の戦い方にそのまま生きる。
準備|30万人分の兵糧という「兵站の怪物」
天正14年12月1日、秀吉は奉行の小西隆佐らに、30万人の1年分の兵糧米と、馬2万匹分の飼料を集めるよう命じた。兵糧奉行には石田三成・大谷吉継・長束正家があたり、摂津の尼崎が主な積み出しの港になった。小西隆佐は船を集めて、10万石分の米を関門海峡の赤間関まで運ばせている。
実際に動いた兵は約20万とされる。戦国の大名が数万の軍を動かすのがやっとだった時代に、この規模の軍を、海を越えた九州で何か月も食べさせる。九州平定は、合戦の前に、まず補給の段取りで勝負がついていた戦いだったとも言える。
二手の進軍|秀吉は西、秀長は東
豊臣の大軍は、九州に入ると二手に分かれた。
| 秀吉の本隊(西) | 秀長の軍(東) | |
|---|---|---|
| 出陣 | 3月1日に大坂を出る | 2月10日に出る |
| 九州への入口 | 3月25日に赤間関、28日に小倉 | 3月上旬に小倉 |
| 通った国 | 豊前 → 筑前 → 筑後 → 肥後 → 薩摩 | 豊前 → 豊後 → 日向 |
| 主な出来事 | 4月1日 岩石城を落とす/4月3日 秋月種実が降る/4月16日 隈本/4月19日 八代 | 3月29日 松尾城を落とす/4月6日 高城を囲む/4月17日 根白坂の戦い |
| 到達点 | 5月3日 薩摩の泰平寺に本陣 | 日向の佐土原・都於郡の方面まで |
| 受け止めた相手 | 筑前・肥後の国衆、薩摩北部の城 | 島津の主力(義久・義弘・家久) |

この表を見ると、二つの軍の役割の違いがはっきりする。秀吉の本隊は、九州の西側の大名や国衆を次々に従わせながら、薩摩へ向けて南下した。秀長の軍は、島津の主力そのものとぶつかる東側を受け持った。いちばん手ごわい相手を、弟の軍が引き受けていたのだ。
戦局の転換①|秀長の南下で、島津は豊後を捨てた
戦役が始まった時点で、島津の軍は豊後の奥深くまで入り込んでいた。戸次川で勝った家久や義弘の軍が、大友の領国を荒らしていたのだ。
ところが、秀長の大軍が豊後に入ってくると、島津はこの地を保てなくなる。3月中旬、義弘や家久は豊後から退き、日向へ引き上げた。退く島津の軍を、大友方の佐伯惟定が追ってたたいている。豊臣の本隊が到着したことで、前の年に島津が奪った土地は、ほとんど戦わずに取り戻された。
秀長はそのまま日向へ攻め込み、3月29日に松尾城を落とした。4月6日には耳川を渡り、島津方の山田有信が守る高城を囲んだ。耳川は、9年前に島津が大友の大軍を破った因縁の川だ。その川を、今度は豊臣の大軍が渡って南へ進んだ。
戦局の転換②|根白坂、戸次川の教訓が生きた夜
高城を囲んだ秀長は、島津が城を救いに来ると読んだ。そこで高城の南西の根白坂に砦を築き、宮部継潤に守らせた。砦の前には深い空堀が掘られた。

4月17日、島津義久・義弘・家久らの軍、約2万がこの砦に攻めかかった。砦の兵は持ちこたえ、藤堂高虎、黒田孝高、小早川隆景らの軍が後詰めに駆けつける。島津の軍は砦を破れず、大きな損害を出して退いた。この戦いの細かな経過は、特集の入口の記事でも触れている。
ここで大事なのは、秀長の戦い方だ。戦役全体としては、豊臣方が攻めている。けれど根白坂の一戦では、秀長は島津に攻めさせ、自分は砦と堀で守った。攻めの戦略の中で、決戦の場面だけは守りの戦術を選ぶ。戸次川で、島津の得意な野戦に引き込まれて負けた教訓を、秀長はそのまま生かしたのだ。島津に「釣り野伏せ」をさせる余地を与えず、こちらが用意した場所に来させて、こちらの形で戦った。
根白坂の敗北で、島津の野戦の主力は大きく傷ついた。義久と義弘は都於郡城へ、家久は佐土原城へ引き、もう豊臣の大軍と正面から戦う力は残っていなかった。
島津の側から見ると|なぜ砦に攻めかかったのか
ここで、島津の側に立って考えてみたい。島津は野戦の名手だった。なのに、なぜ砦と堀で固めた根白坂に、自分から攻めかかったのか。
理由は、高城を見捨てられなかったからだと私は考えている。高城は、島津が日向を押さえるための要の城で、耳川の戦いでも大友の大軍を食い止めた城だった。ここを見殺しにすれば、日向の国衆は一斉に豊臣へなびき、島津の家中にも動揺が走る。城を救うには、城を囲む敵を追い払うしかない。そして秀長は、その救援の通り道に砦を置いて待っていた。
つまり秀長は、島津が「来ざるをえない場所」を選んで砦を築いたことになる。敵に攻めさせたいなら、敵が守らなければならないものを押さえればいい。高城を囲むこと自体が、島津の主力を根白坂へ呼び寄せる罠になっていた。戸次川では島津に誘い込まれた豊臣方が、根白坂では島津を誘い込んだのだ。
もう一つ、島津には時間がなかった。西からは秀吉の本隊が肥後を下ってきている。東の秀長の軍を早く打ち破らなければ、二方面から挟まれる。待てば待つほど不利になる側は、無理を承知で攻めるしかない。根白坂の夜襲は、追い詰められた側の賭けだった。
皮肉なことに、9年前の耳川の戦いも、大友の大軍に囲まれた高城を島津が救いに来たところから始まっている。あのときは、城を囲んだ大友が島津に敗れた。同じ城、同じ形の戦いで、今度は城を囲んだ側が勝った。違ったのは、囲んだ側が救援の来る道に砦を築いて待っていたかどうかだ。
戦局の転換③|西の秀吉は、ほとんど抵抗を受けずに進んだ
秀長が東で島津の主力を受け止めているあいだ、西の秀吉はすさまじい速さで南へ進んでいた。4月1日に豊前の岩石城を激しく攻め落とすと、筑前の秋月種実は、そのわずか2日後に降った。4月16日には肥後の隈本、19日には八代。肥後の国衆の多くは、戦わずに秀吉に従った。
島津の主力が日向で秀長と向き合っている以上、西側の肥後や薩摩の北部を守る大きな兵はいなかった。秀吉の軍は4月の末には薩摩に入り、5月3日には川内の泰平寺に本陣を置いた。島津の本拠の鹿児島は、もう目と鼻の先だ。
東では主力が敗れ、西では本拠のすぐ近くまで敵が来ている。島津には、両方を同時に防ぐ手立てがなかった。
分かれて進み、合わせて撃つ|九州平定の理屈
九州平定の進み方は、軍事の言葉でいう「分進合撃」に近い。大軍を一本の道で進ませるのではなく、いくつもの方面に分けて進ませ、最後に敵のところで合わせて撃つ。19世紀のプロイセンの参謀総長モルトケが体系だてた考え方で、1866年の普墺戦争では、分かれて進んだプロイセン軍がケーニヒグレーツでオーストリア軍を挟み撃ちにした。
分かれて進むことには利点がある。一本の道に大軍を詰め込むと、補給も移動も詰まってしまう。道を分ければ、それぞれの軍が自分の道で食べながら進める。そして、敵は二つの方向から迫られ、どちらに主力を向けるかで迷う。
ただし、分かれて進む軍には弱点もある。分かれた一方が、敵の主力に各個撃破されるおそれだ。九州平定でその危険を負ったのが、島津の主力と向き合った秀長の軍だった。秀長は、砦と堀で守りを固めることで、その危険を封じた。分進合撃が成り立ったのは、敵の主力を受け止める側の指揮官が崩れなかったからだ。私はここに、九州平定での秀長のいちばんの功があると思っている。
島津の降伏|最初の窓口は秀長だった
根白坂のあと、島津は和睦へと動く。もともと、かつての将軍・足利義昭の使者が、和睦を取り持とうとしていた。4月21日、義久は重臣の伊集院忠棟と平田増宗を人質に立てて、秀長に和睦を申し入れた。高城も4月の末に開かれた。
5月6日、義久は鹿児島を出て剃髪し、龍伯と名を改める。そして5月8日、泰平寺で秀吉に会い、降伏して許された。弟の義弘は、なおしばらく抵抗の構えを見せたが、兄に説かれて5月22日に降った。最後まで豊臣に従わない姿勢を見せたのは、もともと和平を説いていた歳久だったと伝わる。
島津が和睦の最初の窓口に秀長を選んだのは、戦場で向き合っていたのが秀長だったからでもあり、秀長なら話が通じると見ていたからでもあるだろう。大名たちが秀吉と直接向き合う前に、まず秀長に話を通す。四国でも九州でも、秀長はその役を担っていた。
九州の国分け|誰がどこを得たか
6月7日、筑前の箱崎に入った秀吉は、九州の国分けを行った。主なところを整理しておく。
| 国・地域 | 新しい領主 | 補足 |
|---|---|---|
| 薩摩 | 島津義久 | 一国を安堵 |
| 大隅・日向の諸県郡 | 島津義弘 | 一部は秀吉の直轄地などを除く |
| 豊後 | 大友義統 | 豊前の宇佐郡の半分も |
| 筑前・筑後の一部・肥前の一部 | 小早川隆景 | 約37万石 |
| 筑後の柳川 | 立花宗茂 | 13万2000石 |
| 豊前の6郡ほど | 黒田孝高 | 約12万5000石 |
| 肥後の大半 | 佐々成政 | 翌年、国衆の一揆で失脚 |
| 日向の縣・宮崎 | 高橋元種 | |
| 日向の飫肥ほか | 伊東祐兵 |
島津は、九州をほぼ手中にしかけていたところから、薩摩・大隅と日向の一部に押し戻された。それでも家は残された。四国の長宗我部と同じく、降った相手は滅ぼさずに大名として使う。それが豊臣のやり方だった。
国分けのあと、九州ではいくつも波乱が続いた。博多では町の立て直しが始まり、6月19日には箱崎でバテレン追放令が出される。肥後では、検地を急いだ佐々成政に国衆が反発し、大きな一揆が起きた。九州平定は、戦が終わってからのほうが難しかったとも言える。
大日本帝国ファンとして|参謀本部が研究した「九州の役」
九州平定には、「九州の役」という呼び方もある。これは、明治の陸軍参謀本部がまとめた『日本戦史』に由来するものだ。近代の日本陸軍は、ドイツ式の参謀教育を取り入れる一方で、戦国の戦いを自国の戦史として研究した。大軍の動員、海を越える輸送、二方面からの進撃という九州の役は、教材としてうってつけだったはずだ。
ただ、昭和の日本軍が太平洋の島々で直面したのは、まさにその「海を越えた補給」の崩壊だった。秀吉が30万人の1年分の米を集めてから軍を出したのに対して、昭和の軍は補給の見通しの立たないまま、遠い島へ兵を送り続けた。その結末は『日本軍の兵站はなぜ崩壊したのか』で書いた。九州の役を研究した国の軍が、なぜ補給で崩れたのか。私はこの問いに、いまも答えを出しきれずにいる。
いまの九州と「大軍を集める場所」
九州は、秀吉の時代から「大軍を集める場所」だった。九州平定から数年後、秀吉は肥前の名護屋に城を築き、朝鮮への出兵の拠点にした。そして現代の九州も、南西諸島の防衛を支える自衛隊の拠点が集まる土地になっている。九州の陸海空の配置は『九州の自衛隊基地・駐屯地一覧』で整理した。遠い前線を支えるには、手前に大きな後方の拠点がいる。その地理の理屈は、400年たっても変わらない。
九州平定の舞台をめぐる
九州平定の舞台は、いまも九州の各地に残っている。秀長が囲んだ宮崎県木城町の高城跡と根白坂、家久がこもった佐土原、秀吉が本陣を置いた鹿児島県薩摩川内市の泰平寺、戸次川の古戦場がある大分市。

2026年7月からは、豊臣兄弟ゆかりの九州の4つの城(大分の高崎山、宮崎の高城と都於郡、佐賀の名護屋)で、並べると九州の形になる御城印めぐりの企画も行われている(2027年8月31日まで)。秀長が攻め下った東の道と、秀吉が駆け下った西の道を、実際に車で走ってみると、九州の広さと、二手に分けた理由が体でわかると思う。
よくある疑問に短く答える
九州平定はいつ?
本隊の戦いは天正15年(1587年)の3月から5月で、島津義久が5月8日に降伏した。前の年の天正14年に始まった先遣軍の戦いを含めて、九州平定と呼ぶことも多い。
九州平定の兵力は?
秀吉と秀長の軍を合わせて約20万とされる。秀吉は、30万人の1年分の兵糧米を用意させていた。迎え撃った島津は、根白坂の戦いで約2万を動かしている。
秀長は九州平定で何をした?
東側の総大将として豊後から日向へ攻め下り、島津の主力を引き受けた。根白坂で島津の攻撃を退けて戦局を決め、島津が最初に和睦を申し入れた相手にもなった。
島津はなぜ滅ぼされなかった?
降った相手を滅ぼさず、大名として残して使うのが豊臣のやり方だったからだ。島津は薩摩・大隅などに押し戻されたが、家は残り、のちの関ヶ原、そして幕末まで続いていく。
九州平定と九州征伐は同じ?
同じ戦いを指す。九州征伐、島津攻め、九州の役などとも呼ばれる。「征伐」は、停戦を受けた島津がのちに国分けの案を拒んだことへの、秀吉側の呼び方だと見る研究者もいる。
豊臣秀長特集の読み方
この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の1本として書いた。特集の入口は『豊臣秀長は何をした人?』、秀長が先に総大将を務めた戦いは『四国平定とは?』で追っている。秀長の領地や、秀長の家臣たちを扱う記事も順次公開していく予定だ。
まとめ|分けて進み、弟が主力を受け止めた
九州平定は、秀吉と秀長が約20万の軍を二手に分け、西と東から島津の本拠に迫った戦役だった。30万人の1年分の兵糧を先に集め、海を越えて大軍を食べさせ続けたこと自体が、豊臣の最大の武器だった。
戦局を決めたのは、東で島津の主力を受け止めた秀長の根白坂と、西を一気に駆け下った秀吉の進撃だ。戸次川で学んだ教訓を生かし、島津の得意な野戦をさせずに砦で受け止めた秀長がいたから、分かれて進む危うさは表に出なかった。島津がまず秀長に和睦を願い出たのは、九州の戦場でいちばん重い役を担っていたのが誰だったかを、よく表している。







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