天正14年(1586年)、京で秀吉の新しい城、聚楽第の普請が進んでいた。そのそばに、臣従したばかりの徳川家康の屋敷を建てる仕事があった。担当の作事奉行に命じられたのは、秀長の家臣の藤堂高虎だった。
高虎は、渡された図面のままでは屋敷の守りが弱いと見た。そこで自分の判断で設計を変え、増えた費用は自分の懐から出した。家康はこの気づかいに深く感謝したと伝わる。
のちに高虎は、関ヶ原の前後から家康のもっとも信頼する外様大名になり、伊勢の津で32万石を超える大名になる。その縁の始まりをたどると、秀長が高虎に任せた一軒の屋敷の普請に行き着く。
藤堂高虎といえば「主君を7度変えた武将」「世渡り上手」という言われ方がつきまとう。司馬遼太郎にも世渡り上手と評された。けれど、その生涯でいちばん長く一人の主家に仕えたのは、秀長と、その跡を継いだ秀保の家だった。21歳から40歳まで、約20年。この記事では、高虎の生涯をひと通りなぞるのではなく、秀長に仕えた時期に何を任され、どう評価されたのかに絞って書く。
結論|高虎と秀長の関係を3行で
- 高虎は天正4年(1576年)、21歳のとき300石で秀長に仕え、秀長の死後も跡継ぎの秀保に仕えて、文禄4年(1595年)に家が絶えるまでの約20年を秀長の家で過ごした
- 秀長が高虎に任せたのは、槍働きだけではない。竹田城の奇襲、一揆の鎮圧、鉄砲隊の指揮、そして和歌山城や家康の屋敷の普請。高虎の「築城の名人」としての出発点は、秀長の家臣時代にある
- 300石から2万石へ。秀長は高虎を家臣団の柱に育て、死後は秀保の後見役と名代を任された。高虎は主家が絶えたあと、秀長の菩提寺を京都へ移している。「世渡り上手」だけでは説明できない関係だった
高虎と秀長の20年|年表

並べてみると、高虎の出世の階段は、ほとんどすべて秀長の家の中にある。
秀長に仕えるまで|5人目の主君
高虎は弘治2年(1556年)、近江の生まれだ。秀長に仕える前に、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と、すでに4人の主君を渡り歩いていた。浅井家が滅んだあと、主家を失った近江の武士が新しい奉公先を探すのは、当時は珍しいことではなかった。こうした人たちは「渡り奉公人」と呼ばれ、大きな町には大勢いたとされる。
秀長の側から見れば、高虎のような人は、まさに欲しい人材だった。成り上がりの羽柴家には、代々の家臣がいない。長浜の城を預かる秀長は、近江で主家を失った腕の立つ武士を集めて、自分の家臣団をつくる必要があった。高虎の300石は、そうした「中途採用」の一人としての出発だった。
秀長が任せた仕事①|但馬で「一番槍」から「鉄砲大将」へ
高虎が最初に名をあげたのは、秀長が受け持った但馬攻めだった。天正5年(1577年)、地元の武士の案内で竹田城に奇襲をかけて成功させ、1000石を加増されて足軽大将になる。
天正9年(1581年)には、但馬の小代一揆の鎮圧に回された。このときは股に傷を負って退く苦しい戦いもあったが、土豪を討った功で3000石を加増され、鉄砲大将になっている。
ここで注目したいのは、足軽大将、鉄砲大将という役目だ。どちらも、個人の武勇より、兵の集団をまとめて動かす力が問われる。秀長は、高虎を一人の暴れ者としてではなく、部隊の指揮官として使い始めていた。賤ヶ岳の戦いでは、高虎の隊が柴田方の佐久間盛政の軍を鉄砲で撃って退け、勝利のきっかけをつくったとされる。
秀長が任せた仕事②|和歌山城|築城の名人の出発点
高虎の名を後世に残したのは、何より城づくりだ。今治城、宇和島城、津城、伊賀上野城、そして江戸城の改修。その出発点が、秀長の家臣時代にある。

天正13年(1585年)の紀州攻めのあと、高虎は紀伊の粉河に1万石を与えられ、猿岡山城の普請を担った。同じころ、秀長の紀伊の拠点となる和歌山城の普請奉行も務めている。和歌山城の城地は秀吉が自ら選び、高虎が普請を受け持ち、秀長の家臣の羽田正親と横浜一庵が補佐した。これが高虎の最初の築城とされる。
秀長は、なぜ高虎に城を任せたのか。私は、高虎が戦場で積んだ経験と関係があると思っている。竹田城を奇襲で落とし、三木城の包囲に加わり、一揆の拠点を攻めた。城を落とす側に立った者は、城のどこが弱いかを体で知っている。攻める者の目で守りを設計する。高虎の城の強さは、そこから来ていたのではないか。
大日本帝国ファンとしては、ここで旅順を思い出す。日露戦争で日本軍は、ロシアが近代の技術で固めた旅順の要塞に挑み、大きな犠牲を払った。要塞の強さは、攻める側がどこを突いてくるかを、守る側がどこまで読み切ったかで決まる。その攻防は『旅順攻囲戦とは何だったのか』で書いた。高虎の城の高い石垣と広い堀も、攻め手の目で読み切った守りだったのだと思う。
秀長が任せた仕事③|家康の屋敷|のちの縁の始まり
冒頭の、聚楽第の家康屋敷の話に戻ろう。天正14年(1586年)、秀長は高虎を家康の屋敷の作事奉行に命じた。この年の10月、家康は大坂に上って秀吉に臣従し、そのとき泊まったのも秀長の屋敷だった。秀長は、家康を豊臣政権に迎え入れる窓口を務めていた。その流れの中で、家康の京の屋敷を建てる仕事が、秀長の家臣に回ってきたのだ。
高虎は、警備の上で問題があると見て設計を変え、増えた費用を自分で負担した。命じられたことをそのままやるのではなく、住む人の身になって守りを固める。家康がこれを恩に着たという話は、のちの二人の深い結びつきを考えると、よくできすぎた逸話にも聞こえる。けれど、秀長の家臣としての高虎が、家康と直接に接する立場にあったことは確かだ。
秀長が家康との窓口だったからこそ、高虎は家康と出会えた。そう考えると、高虎ののちの出世の道筋は、秀長の外交の役割の延長線上にあったとも言える。
秀長が任せた仕事④|四国・九州と、紀伊の山
四国平定では戦功をあげて加増を受け、九州平定では、根白坂の戦いに後詰めとして駆けつけた。島津の大軍の夜襲を受けて砦を守っていた宮部継潤を救い、その功で2万石になり、佐渡守に任じられている。根白坂は九州平定の戦局を決めた一戦だった。秀長の軍の要の場面に、高虎の名がある。
一方で、高虎には厳しい顔もある。天正17年(1589年)、紀伊の山深い北山で一揆が起きると、高虎は鎮圧の拠点として赤木城を築いた。この鎮圧では、多くの地元の人々が罪に問われたと伝わり、いまもその厳しさを伝える歌が地元に残っている。秀長の領国の山の民を力で抑えた側に、高虎は立っていた。築城の名人と、領国の治安を力で守る役。その両方を秀長は高虎に任せていた。
家臣団の中の高虎|いちばんの高禄ではなかった
ここで一つ、意外な事実を押さえておきたい。高虎は秀長の家臣の中で、いちばん石高の多い家臣ではなかった。
| 家臣 | 主な役目 | 石高の目安 |
|---|---|---|
| 横浜一庵 | 三家老の一人。大和の内政、興福寺との取次 | 5万石 |
| 羽田正親 | 三家老の一人。普請奉行、熊野の木材の調達 | 4万8000石 |
| 小川下野守 | 三家老の一人 | 3万5000石 |
| 桑山重晴 | 和歌山城の城主 | 3万石 |
| 藤堂高虎 | 戦場の指揮、城の普請、一揆の鎮圧 | 2万石 |

秀長の家で上に立っていたのは、大和の内政を回す家老たちだった。寺社の強い大和・紀伊・和泉を治めるには、帳面と交渉の腕が欠かせない。高虎は、その家老たちの下で、戦と普請と治安という「現場」を受け持つ実働部隊の長だった。
けれど、秀長の家が絶えたあとに大きく伸びたのは、その現場の人だった。家老たちが仕えたのは、大和の豊臣家という一つの家の仕組みだ。家がなくなれば、その仕組みの中の役目もなくなる。一方、高虎の城を築く腕と兵を率いる腕は、どの大名家に移っても通じた。秀長の家での序列と、その後の出世の序列が逆になったところに、高虎という人の強みがよく表れている。
秀長の死後|後見役と名代、そして出家
天正19年(1591年)に秀長が亡くなると、高虎は跡を継いだ秀保に仕え、桑山重晴とともに後見役になった。翌年の文禄の役では、海を渡らなかった秀保の名代として、大和豊臣家の軍を率いて朝鮮へ渡っている。
秀長の家には、高虎とのもう一つの縁があった。秀長が先に養子にしていた丹羽長秀の子・仙丸は、秀保が跡継ぎに立てられたことで外され、高虎の養子になった。藤堂高吉である。秀長の家の跡継ぎ候補だった少年を、高虎が引き受けたことになる。
文禄4年(1595年)に秀保が亡くなり、大和豊臣家が絶えると、高虎は高野山に上って出家した。主家が絶えたことを受けての出家だ。秀吉は使者を送って高虎を説き伏せ、山から呼び戻した。高虎は還俗し、5万石を加増されて伊予板島7万石の大名になる。秀長の家臣から、秀吉の直臣の大名へ。ここで初めて、高虎は秀長の家を離れた。
そして、秀長の菩提寺だった大和の大光院を京都へ移したのも、高虎だったと伝わる。主家が絶えたあとも、高虎は秀長の弔いを手放さなかった。
「世渡り上手」は正しい評価なのか
高虎は、生涯に7人の主君に仕えたとされ、江戸時代の武士の道徳の目からは、長く低く見られてきた。主君を変えるのは不忠だ、という見方だ。
けれど、秀長との関係を見ると、その評価には大事なところが抜けている。高虎が主君を何度も変えたのは、秀長に出会う前、主家の浅井家が滅んで近江をさまよっていた時期と、秀長の家が絶えてからのことだ。秀長と秀保の家には、21歳から40歳まで、約20年間仕え続けた。家が絶えて主君がいなくなったから、次の主君を探した。それを「世渡り上手」と呼ぶのは、少し酷だと私は思う。
私は、高虎を「世渡り上手」というより、自分の技能で生きた職業人だったと見ている。戦場の指揮、城の普請、領国の治安。どれも、主君が替わっても持ち運べる力だ。秀長は、その力をいちばん早く見抜いて育てた主君だった。だからこそ、主家が絶えたあとも、秀吉にも家康にも必要とされたのだ。秀長の家臣団全体がその後どうなったのかは、特集の『豊臣秀長の家臣一覧』で整理している。
自衛隊ファンとして|持ち運べる技能
自衛隊の世界にも、高虎の生き方とよく似た話がある。自衛官は、多くが50代で定年を迎え、そこから第二の仕事に移る。そのとき強いのは、組織の中の肩書きより、外でも通じる資格と技能を持っている人だ。整備、電気、施設の工事、船の運航。自衛隊で身につけた技術が、次の職場でそのまま生きる。そのあたりは『元自衛官の資格転職』で整理している。
高虎の築城の腕も、まさにそういう技能だった。秀長のもとで和歌山城と猿岡山城を手がけ、のちに今治城や津城、江戸城の改修へと腕を広げていく。主君が替わっても、石垣の積み方と縄張りの腕は消えない。400年前の「転職のプロ」は、技能を磨いた者が組織を渡っていけることを、身をもって示した人でもあった。
高虎と秀長ゆかりの城をめぐる
高虎と秀長の20年は、城をたどると見えてくる。高虎が初めて手柄を立てた但馬の竹田城跡(兵庫県朝来市)、普請奉行を務めた和歌山城、北山一揆の鎮圧の拠点として築いた三重県熊野市の赤木城跡(国の史跡)。そして秀長の家を離れたあとの今治城(愛媛県)と津城(三重県)。高石垣で知られるのちの城と見比べると、秀長のもとで身につけた腕が、どう花開いていったのかがよくわかる。

よくある疑問に短く答える
藤堂高虎は秀長の家臣だった?
そうだ。天正4年(1576年)に300石で秀長に仕え、秀長の死後は跡継ぎの秀保に仕えた。文禄4年(1595年)に秀保が亡くなるまで、約20年を秀長の家で過ごしている。
高虎は秀長のもとで何をした?
但馬攻めの竹田城の奇襲や一揆の鎮圧、鉄砲大将としての指揮、賤ヶ岳・四国・九州での戦い、和歌山城や聚楽第の家康屋敷の普請、紀伊の北山一揆の鎮圧などだ。秀長の死後は秀保の後見役と、文禄の役の名代を務めた。
高虎は秀長からどれくらいの石高をもらった?
300石から始まり、紀州攻めのあとに1万石、九州平定のあとに2万石まで加増された。
高虎は秀長の家臣でいちばん偉かった?
石高では違う。横浜一庵(5万石)ら三家老や、和歌山城主の桑山重晴(3万石)のほうが上だった。高虎(2万石)は、戦場の指揮と城の普請を受け持つ実働の長で、秀長の死後に後見役と名代を任されたことで、家の中での重みが増した。
高虎は本当に主君を7回変えた?
生涯に7人の主君に仕えたとされる。ただ、そのうち秀長と秀保の家には約20年仕え続けていて、主君を変えたのは、主家が滅んだり絶えたりしたあとのことが多い。
高虎と家康の縁はいつから?
秀長の家臣だった天正14年(1586年)に、聚楽第の家康屋敷の作事奉行を務めたことが、家康と接した早い例として知られる。秀長が家康との窓口だったことが、その縁の背景にある。
豊臣秀長特集の読み方
この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の追加記事として書いた。特集の入口は『豊臣秀長は何をした人?』だ。高虎が戦った四国・九州の戦い、秀長の家臣団全体、高虎が後見した秀保の生涯も、特集の各記事で扱っている(順次公開)。
まとめ|秀長は高虎の「最初の本当の主君」だった
藤堂高虎は、主君を何度も変えた武将として知られる。けれど、そのいちばん長い奉公先は秀長の家で、21歳から40歳までの約20年を過ごした。300石の新参者は、秀長のもとで足軽大将、鉄砲大将、城の普請奉行と役目を広げ、2万石の大名になり、秀長の死後は跡継ぎの後見と名代を任された。
和歌山城の普請は築城の名人の出発点になり、家康の屋敷の普請は、のちの家康との深い縁の始まりになった。秀長が任せた仕事の一つひとつが、高虎のその後の生き方の土台になっている。「世渡り上手」の一言で片づける前に、秀長の家での20年を見てほしい。そこには、自分の腕で生きる職業人と、その腕を見抜いた主君の姿がある。







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