旅順攻囲戦とは何だったのか|日本軍はなぜ6万人の死傷者を出してまで203高地を獲りにいったのか――「1日で落ちた要塞」の罠、28cm榴弾砲、白襷隊、水師営、そして10年後の塹壕戦

旅順攻囲戦 記事表紙
要点

だから今回は、旅順攻囲戦を戦そのものとして書く。乃木が愚将かどうかは脇に置く。なぜ日本陸軍は、あんな要塞を、あんな時間で、あれだけの犠牲を払って落とさなければならなかったのか。何が起きて、何が効いて、世界はそこから何を学び、何を学び損ねたのか。技術の話、兵站の話、金の話、そして今の自衛隊に何が残っているかまで、私の全部の視点で書く。

目次

30秒でわかる旅順攻囲戦

日露戦争当時の旅順港を描いた図(1904年)
日露戦争当時の旅順港を描いた図(1904年)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
30秒でわかる旅順攻囲戦

日本側の目的は二つ。港内に籠るロシア太平洋艦隊を、港ごと潰すこと。そして本国から来るバルチック艦隊と合流させないこと。つまり旅順は陸軍の戦いだが、動機は海軍の都合だった。もう一つ付け加えるなら、旅順を放置したまま満州の主戦場へ北上すれば、背後に敵の要塞と艦隊を残すことになる。陸軍としても、落とさずに済ませる選択肢はなかった。

日本軍は8月、10月、11月と三度の総攻撃を仕掛け、いずれも要塞の主防御線を破れず、莫大な死傷者を出した。転機は11月末から12月初めの203高地攻防戦で、ここを奪って港内を見下ろす観測所を得た日本軍は、28cm榴弾砲で港内の艦隊を叩き潰した。その後、坑道爆破で主要堡塁を一つずつ落とし、1905年1月1日にステッセルが降伏を申し入れ、1月5日に水師営で乃木とステッセルが会見して終わる。

日本側の死傷者は約6万人。ロシア側は死傷約2万から3万、捕虜約3万。

数字だけ見れば、日本は「勝った」。だが、勝ち方があまりにも重かった。

先に年表を置いておく。あとの本文はこの順番で進む。

  • 1904年2月8日:旅順口奇襲。日露戦争開戦
  • 5月26日:南山の戦い。乃木の長男・勝典が戦死
  • 8月10日:黄海海戦。旅順艦隊の脱出失敗
  • 8月19〜24日:第一回総攻撃。死傷約1万5,800
  • 9月〜:正攻法(対壕・坑道)へ転換。28cm榴弾砲の据付開始
  • 10月26〜30日:第二回総攻撃。前進陣地のみ確保
  • 11月26日:第三回総攻撃開始。白襷隊の夜襲失敗
  • 11月27日〜12月5日:203高地攻防。11月30日に次男・保典戦死。12月1日に児玉源太郎到着
  • 12月6日〜:203高地の観測所から港内砲撃。艦隊壊滅
  • 12月15日:コンドラチェンコ戦死
  • 12月18日/28日/31日:東鶏冠山北堡塁・二龍山・松樹山を坑道爆破で奪取
  • 1905年1月1日:ステッセル降伏申し入れ。1月5日、水師営の会見

なぜ旅順だったのか――海軍の都合と陸軍の血

旅順に停泊するロシア防護巡洋艦アスコルド(1904年)
旅順に停泊するロシア防護巡洋艦アスコルド(1904年)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

そもそもなぜ旅順を、陸から、それも急いで落とす必要があったのか。

旅順はロシアが1898年に清から租借した不凍港で、ロシア太平洋艦隊の根拠地だった。日露戦争は、この艦隊を日本海軍が最初に殴りに行くところから始まる。開戦劈頭の旅順口奇襲、閉塞船を沈めて港口を塞ごうとした旅順港閉塞作戦、機雷で戦艦を沈め合った春の攻防。だが決定打がない。艦隊は港の奥にいて、要塞の海岸砲に守られ、出てこない。

8月10日の黄海海戦で、脱出を図った太平洋艦隊を東郷の連合艦隊が追い返した。ただし撃滅はできず、艦隊の大部分は旅順に戻った。そして海軍は知っていた。バルト海からもう一つの大艦隊が来る。旅順の艦隊と合流されたら、連合艦隊は数で負ける。だから海軍は陸軍に言った。港内の艦隊を、陸から潰してくれ。それも、バルチック艦隊が来る前に。

ここで陸軍が「わかった、じゃあ3か月で」と言えなかったところに、この戦いの悲劇がある。海軍のスケジュールが、陸軍に強襲を強いた。日本海海戦の記事で書いた「対馬での完勝」は、旅順で流れた血の上に成立している。

陸軍が来る前に、海軍は何をしていたのか

陸軍が来る前に、海軍は何をしていたのか

2月の奇襲で戦艦2隻と巡洋艦1隻に損傷を与えたものの、艦隊は港内に残った。そこで海軍は、古い商船に石を積んで港口で自沈させ、出入口を塞ぐ閉塞作戦を三度試みる。3月27日の第二次閉塞作戦で、広瀬武夫少佐が行方不明の部下を探して船内を回り、退去中に砲弾を受けて戦死した。「軍神広瀬」として教科書に載った人だ。閉塞作戦そのものは、三度とも港口を完全には塞げず失敗している。

4月13日には、ロシア側にとっての大事件が起きた。太平洋艦隊司令長官マカロフ中将が乗る戦艦ペトロパヴロフスクが、日本が敷設した機雷に触れて数分で沈没し、マカロフが戦死した。マカロフはロシア海軍で最も有能と言われた提督で、彼が生きていれば旅順艦隊はもっと積極的に出てきたはずだ。この死で、艦隊は港に籠る方針に傾いた。

ただし機雷は日本にも牙を剥いた。5月15日、ロシアの機雷で戦艦初瀬と八島が同じ日に沈んでいる。日本海軍の戦艦は6隻しかない。その3分の1が、砲撃戦ではなく機雷で一日に消えた。この日、東郷が対馬まで4隻で戦う運命が決まったとも言える。

陸軍が来る前に、海軍は何をしていたのか

「1日で落ちた要塞」という記憶の罠

旅順攻囲戦を理解する上で、私が一番大事だと思うのは、10年前の記憶だ。

1894年、日清戦争で日本軍は旅順を攻めている。このときの旅順は清国が要塞化していて、立派な砲台も備えていた。ところが日本軍は、たった1日で落とした。11月21日の朝に攻撃を始めて、その日のうちに主要な砲台を占領している。このとき、歩兵第一旅団長として先陣を切った一人が、少将だった乃木希典だ。

つまり、日本陸軍にとって旅順は「落とせる場所」だった。乃木自身が落とした場所だった。

だが1898年にロシアが租借してから、旅順はまったく別の要塞に生まれ変わっていた。日本側が持っていた要塞の情報は日清戦争時のもので、ロシアが6年かけて築いた新しい防御線をほとんど把握していなかった。「前に1日で落ちた」「今回も強襲で行ける」という判断が、第一回総攻撃の惨劇を生む。成功体験が組織を殺す、というのは私が日本海海戦の記事でも書いたことだが、旅順はその逆パターンで、古い成功体験が新しい現実を見えなくした。

ロシアが6年で造ったもの――技術で見る旅順要塞

旅順防衛に用いられたロシア軍の6インチ榴弾砲陣地
旅順防衛に用いられたロシア軍の6インチ榴弾砲陣地。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
ロシアが6年で造ったもの――技術で見る旅順要塞

要塞の核は、旅順市街と港を東・北・西から半円状に囲む永久堡塁の列だ。東鶏冠山北堡塁、二龍山堡塁、松樹山堡塁が主要な三つで、その間を砲台と歩兵陣地がつなぎ、後方に望台などの砲兵陣地が控えている。

堡塁の壁は「ベトン」、つまりコンクリートで、厚さは数メートル。当時の日本軍の野砲では傷一つつかない。堡塁の周囲には深さ数メートルの外壕が掘られ、壕の中には「側防窖室」と呼ばれる小室が壁に埋め込まれていて、壕に降りた敵兵を横から機関銃で掃射する。壕の手前には何重もの鉄条網。夜には探照灯が斜面を照らし、照らされた歩兵を機関銃が刈る。

この機関銃がマキシム式で、旅順はマキシム機関銃が本格的に防御に使われた最初の戦場の一つだ。1分間に数百発を、遮蔽された小室から、あらかじめ測った射線に沿って撃つ。これに対して日本の歩兵は、三八式の前身である三十年式歩兵銃と、銃剣と、勇気で登っていく。結果は想像がつく。

もう一つ大事なのは、203高地が、実は主防御線の外にあったことだ。要塞の西側に位置する203高地は、開戦後にロシアが急いで陣地化した場所で、永久堡塁ではない。だから日本軍にとって「主防御線の堡塁より落としやすい」高地であり、しかも港内を見渡せる。この地形的な意味が、後で効いてくる。

コンドラチェンコという敵

旅順の陸上防衛を指揮したロマン・コンドラチェンコ
旅順の陸上防衛を指揮したロマン・コンドラチェンコ。
資料:не указан/ unknown/出典・利用条件(Public domain)

旅順を語るとき、日本側の視点だけだと片手落ちになる。この要塞には、日本軍にとって最悪の敵がいた。ロマン・コンドラチェンコ少将だ。

工兵出身の技術将校で、開戦時に旅順の陸上防御を任された。ロシア本国から見れば要塞は「まだ未完成」で、実際に予算も資材も足りていなかった。コンドラチェンコは足りない分を現場の工夫で埋めた。未完成の堡塁の隙間に臨時陣地を組み、海軍の艦から機関銃や速射砲を降ろして陸に据え、艦の魚雷の弾頭を改造して即席の地雷や投擲弾にした。203高地の陣地化を急いだのも彼だ。

そして何より、兵と一緒に前線にいた。堡塁を歩き回り、崩れた壁を夜のうちに直し、士気が落ちれば自分で出てきた。ステッセルが司令官で、スミルノフが要塞司令官だが、守備隊が本当に信じていたのはコンドラチェンコだった。

彼が12月15日に東鶏冠山北堡塁で戦死したあと、要塞は2週間で崩れた。私は、旅順攻囲戦の「勝敗を分けた一人」を挙げろと言われたら、乃木でも児玉でもなく、この人の死だと思っている。敵ながら、というのは軍事史を書いていて何度も使う言葉だが、旅順ではとくにそう思う。

第一回総攻撃――6日間で1万5,000人

1904年8月19日、第三軍は要塞の東北正面に対して総攻撃を開始した。方針は強襲。砲兵が撃ち、歩兵が突撃し、一気に突破する。日清戦争の再現だ。

結果は、6日間で死傷者およそ1万5,800人。占領できたのは盤龍山の陣地くらいで、主要堡塁にはまったく取り付けなかった。歩兵は鉄条網の前で機関銃に薙ぎ倒され、壕に降りた者は側防窖室から撃たれ、夜襲は探照灯で照らされた。連隊が半日で消えるような損害を出した部隊もある。

私は、この第一回総攻撃の数字を最初に見たとき、日本海海戦の日本側戦死者117人という数字と並べて、しばらく黙った。同じ戦争で、同じ国の軍隊が、片方は117人で勝ち、片方は6日で1万5,000人を失っている。海と陸で、技術の非対称がこれほど違う形で現れた戦争は珍しい。

正攻法への転換と、28cm榴弾砲

旅順に砲撃する日本軍の28cm榴弾砲
旅順に砲撃する日本軍の28cm榴弾砲。
資料:Image credit is "Copyright 1905 by Underwood & Underwood N.Y."/出典・利用条件(Public domain)

強襲で落ちないなら、正攻法しかない。第三軍は、要塞に向かって塹壕を掘り進める「対壕」と、堡塁の真下まで坑道を掘って爆破する「坑道戦」に切り替えた。これは中世以来の攻城戦の定石で、中世の城はどう落としたかの記事で書いた「土を掘って近づく」戦法が、20世紀の初めにコンクリートと機関銃を相手にそのまま復活したわけだ。

そして、日本から28cm榴弾砲が届く

これはもともと東京湾や大阪湾の海岸要塞に据えてあった沿岸砲で、敵艦を港に近づけないための固定砲だ。砲身だけで10トン以上ある代物を分解して船で運び、大連で陸揚げして、人力と軽便鉄道で前線まで引きずり上げた。有坂成章など砲兵畑の技術者が「これを持っていけ」と押し切ったと伝えられる。最終的に18門が旅順に据えられた。

据付は簡単ではない。1門を分解して運び、コンクリートの砲床を打ち、組み立てて射撃できるまで、1門あたり1週間から10日かかったと伝えられる。しかも最初の6門が据わったのは9月末で、第一回総攻撃には間に合っていない。要塞戦に本当に必要な砲が、必要な時期に前線にない。これは兵站の問題であり、あとでもう一度触れる。

28cm榴弾砲の砲弾は200キロを超え、大仰角で撃ち上げて上から落ちる。ベトンの堡塁でも天井を叩けば効く。そして何より、港内に停泊する軍艦を上から叩ける。ただし、条件がある。着弾を見て修正する観測所が、港を見下ろせる位置に必要だ。それが203高地だった。

第二回総攻撃は10月26日から30日にかけて行われ、前進陣地は取れたが主防御線は破れず、ここでもおよそ3,800人の死傷者を出している。

塹壕の中の日常――寒さ、脚気、補充兵

総攻撃と総攻撃の間、第三軍の兵士はずっと塹壕にいた。ここもあまり語られないが、旅順の死傷者の少なくない部分は、戦闘ではなく病気で出ている。

日本陸軍は白米中心の給食にこだわり、脚気で大量の病人を出した。海軍が麦飯で脚気をほぼ根絶していたのに、陸軍は戦争が終わるまで方針を変えなかった。旅順でも脚気患者が後送され続けている。加えて、11月以降の遼東半島は氷点下で、塹壕は凍り、負傷者は放置されれば凍死する。

損害の穴を埋める補充兵は、訓練の浅い予備役や後備役で、部隊の練度は総攻撃のたびに落ちていった。第三回総攻撃のころには、開戦時の第三軍とは別の軍隊になっていたと言っていい。それでも最後に203高地を落としたのは、本土から送られてきた最後の現役師団、旭川の第七師団だった。

一方で、現場の工夫も生まれた。堡塁の壕に投げ込むための即席の手榴弾、砲身を短く切って近距離で榴弾を撃ち上げる迫撃砲の原型、鉄条網を切るための鋏や爆薬。第一次世界大戦で「塹壕戦の標準装備」になるものの多くが、旅順の塹壕で、兵士の手作りから始まっている。技術史というのは、研究所ではなく泥の中で始まることが多い。

第三回総攻撃と白襷隊

11月26日、第三回総攻撃が始まる。ここで投入されたのが白襷隊だ。各師団から選抜した約3,100人の決死隊で、夜間に識別できるよう白い襷を掛け、松樹山と二龍山の間を夜襲で突破しようとした。

結果は失敗だった。探照灯に照らされ、機関銃と砲撃で叩かれ、半数近くが死傷して撤退した。白襷隊は、日本陸軍が「精神力で機関銃陣地を抜ける」と本気で考えていたことの証明であり、同時にその考えが間違っていたことの証明でもある。ただ、私はこの隊を笑う気にはなれない。彼らは、上が考えた作戦の中で、できることをやりきった。愚かだったのは作戦であって、登った人間ではない。

この第三回総攻撃の失敗を受けて、第三軍は攻撃の主目標を、東北正面の主防御線から、西側の203高地に切り替える。

203高地――12月5日までの9日間

203高地から見た旅順港(1904年12月)
203高地から見た旅順港(1904年12月)。
資料:Imperial Japanese Navy General Staff/出典・利用条件(Public domain)

11月27日から、203高地をめぐる戦いが始まった。標高203メートル。今の写真で見ると緑に覆われた小さな丘だが、当時は砲撃で植生が吹き飛び、岩と土だけの禿山だった。

日本軍は登っては押し返され、夜に取り返し、朝には失う。ロシア側も、コンドラチェンコが「ここを失えば港内の艦隊が終わる」とわかっていて、予備兵力を惜しみなく投入した。頂上は何度も持ち主が変わり、斜面には両軍の遺体が積み重なった。

12月1日、満州軍総参謀長の児玉源太郎が旅順に来る。司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、児玉が乃木から指揮権を事実上取り上げ、28cm砲の移動を怒鳴りつけて強行し、203高地を落とした、という筋になっている。これは今では脚色が強いとされていて、203高地への主目標転換は児玉到着前に第三軍で決まっていたし、砲の移動も進んでいた。ただ、児玉が砲兵の運用と各部隊の連携を締め直し、攻撃に勢いを与えたのは事実だと思う。ここは乃木の記事で書いたので繰り返さない。

11月30日、203高地の攻防の中で乃木の次男・保典が戦死している。長男の勝典は5月の南山で戦死していた。乃木は二人の息子をこの戦争で失った。

12月5日、日本軍はついに203高地を確保した。すぐに観測所を設け、翌日から28cm榴弾砲による港内砲撃が始まる。戦艦ポルターワ、レトヴィザン、ペレスヴェート、ポベーダ、巡洋艦パルラーダ、バヤーンが次々に被弾し、着底した。戦艦セヴァストーポリだけが港外に逃れて、日本の水雷艇の夜襲を何日も耐えたあと、自沈した。旅順のロシア太平洋艦隊は、これで海軍としては消滅した。

乃木は後に、この高地を「爾霊山」と名付けた。「にれいさん」。二百三の音に、爾の霊の山、という字を当てた。私はこの命名を、乃木という人の全部が出ていると思っている。

堡塁の爆破と、1月1日の降伏

旅順の降伏後に会見した乃木希典とステッセル
旅順の降伏後に会見した乃木希典とステッセル。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

203高地が落ちても、要塞の主防御線はまだ生きていた。日本軍は東北正面で坑道を掘り続け、堡塁の真下に爆薬を仕掛けていく。

12月15日、東鶏冠山北堡塁の指揮所に28cm砲弾が命中し、コンドラチェンコが戦死した。旅順防衛の頭脳であり、士気の柱だった。ここから守備隊は目に見えて崩れていく。

12月18日、東鶏冠山北堡塁を坑道爆破で奪取。12月28日、二龍山堡塁。12月31日、松樹山堡塁。年が明けた1月1日、望台が落ちる。

同じ日、ステッセルは降伏を申し入れた。1月2日に水師営で開城規約が結ばれ、1月5日に乃木とステッセルが会見した。乃木はロシア側の将校に帯剣を許し、写真撮影も敵味方が並んだ一枚だけにした。唱歌「水師営の会見」で歌われる、庭に一本の棗の木、というあの場面だ。

ちなみにステッセルは帰国後、まだ食糧も弾薬も残っているのに降伏したとして軍法会議で死刑判決を受けている(のちに減刑)。日本海海戦で降伏したネボガトフとまったく同じ運命で、ロシア帝国は「負けた指揮官」に容赦がなかった。

旅順は日本国内で何を起こしていたか

戦場の外の話も書いておく。旅順の総攻撃が失敗するたびに、戦死者の名前が新聞に載り、全国の町に公報が届いた。第一回総攻撃の直後から、東京の乃木邸には投石があり、「乃木を代えろ」という声が新聞にも議会にも広がった。明治天皇が乃木の更迭論を退けた、という話が伝わるのはこの時期だ。

そして外債の話。日本は戦費をロンドンとニューヨークで借りていた。旅順が落ちないというニュースは、日本国債の値段に直撃する。逆に、1月1日の旅順陥落の報は、海外市場で日本債を押し上げた。旅順攻囲戦は、第三軍の兵士だけでなく、日本政府の財布と信用がかかった戦いでもあった。この構図は日本海海戦の記事でも書いたが、旅順のほうが期間が長いぶん、市場が日本を疑っていた時間も長い。

数字で見る旅順

旅順攻囲戦の日本側の損害は、死傷者およそ5万9,000人。うち戦死が約1万5,400人。第三軍の投入兵力は延べ13万人前後なので、投入した兵員の半分近くが死ぬか傷ついた計算になる。

ロシア側は守備兵力およそ4万から5万、死傷者は諸説あって2万から3万、降伏時の捕虜が約3万2,000。

攻める側が守る側の倍以上の損害を出すのは、要塞戦では珍しくない。むしろ普通だ。だが、それにしても重かった。この数字は、日本の全国の町や村に届いた。旅順攻囲戦は、日本人が初めて「近代戦の死傷者」というものを、統計ではなく身内の名前として知った戦いだった。

世界はここから何を学び、何を学び損ねたのか

降伏後の旅順港に残されたロシア艦艇(1905年)
降伏後の旅順港に残されたロシア艦艇(1905年)。
資料:Imperial Japanese Navy General Staff/出典・利用条件(Public domain)

旅順には、欧米各国の観戦武官が張り付いていた。彼らが本国に送った報告は、10年後の第一次世界大戦を予告するものばかりだった。

コンクリートの堡塁と機関銃と鉄条網の組み合わせは、正面からの歩兵突撃を無意味にする。砲兵の集中と、坑道と対壕による接近と、重砲による堡塁の破壊しか、要塞を落とす手段はない。夜襲は探照灯で無効化される。手榴弾や迫撃砲のような塹壕用の兵器が必要になる。これらは全部、旅順で証明されている。

ところが、欧州の軍隊はこれを学び損ねた。「日本兵は精神力で機関銃陣地を抜いた」という部分だけを見て、「我が軍の兵士も気迫があれば抜ける」と結論したのだ。その結果が1916年のソンムであり、塹壕戦はなぜ終わらなかったのかで書いた4年間の膠着だった。旅順で答えは出ていたのに、その答えを機械で解決する戦車の誕生まで、欧州はさらに12年と数百万人を必要とした。

技術屋として言えば、旅順は「防御技術が攻撃技術を一時的に完全に追い越した」戦場だ。こういう瞬間は、軍事史に何度かある。そのたびに攻める側は血で払い、やがて新しい技術(戦車、航空機、精密誘導兵器)が均衡を戻す。今のウクライナでドローンと地雷原が同じことを起こしているのを見ると、旅順は120年前の話ではなく、周期的に戻ってくる現象なのだと思う。

乃木は愚将だったのか、という問いへの短い答え

長くは書かない。乃木希典の記事で一本使ったからだ。

ただ一つだけ。攻城戦で攻撃側が守備側の数倍の損害を出すのは通例で、たとえば1942年のドイツ軍によるセヴァストポリ包囲戦は、当時最強と言われたドイツ軍が世界最大の列車砲まで持ち込んで、それでも8か月かかっている。レニングラード包囲戦に至っては、ドイツ軍は900日近く包囲して、ついに落とせなかった。要塞は、そういうものだ。守る側が地形と時間を味方につけた要塞は、攻める側の技術が一段上がるまで、血でしか落ちない。乃木の第三軍が5か月で旅順を落としたことを「遅い」「無能」と断じる人は、他の攻城戦の数字を見ていない。

古典の話をするなら、孫子は2500年前に言い切っている。上策は敵の謀を破ること、次は外交、次は野戦、最下策は城を攻めることだ、と。攻城は最下策。それでも攻めなければならないときがあり、旅順はそういう戦いだった。私は戦史を読むとき、いつも孫子に戻ってくる。

兵站で見る旅順――砲弾が足りなかった戦争

旅順で私が一番「なるほど」と思ったのは、砲弾の話だ。

第三軍は砲弾を撃ち尽くしている。第一回総攻撃の準備砲撃も、本来必要な量の何分の一かしか撃てていない。日本の砲弾生産能力は、大阪砲兵工廠と東京砲兵工廠を合わせても、要塞戦の消費にまったく追いつかなかった。日露戦争の途中で、日本は砲弾も火薬も海外から緊急輸入している。

28cm榴弾砲の話も同じで、あの砲は「新兵器」ではなく、「手元にあった一番重い砲」だった。海岸要塞から引き抜いたということは、その間、東京湾の防御が薄くなったということでもある。日本はギリギリのやりくりで旅順を攻めていた。

戦争は、兵器の性能ではなく、兵器を戦場に届け続ける力で決まる。旅順は、それを日本陸軍が初めて痛感した戦場だ。この視点で戦史を読み直したい人には、ロジスティクスの古典が一冊あるといい。

投資家メモ――旅順が生んだ「国産化」と防衛産業の原点

投資家として旅順を見ると、これは「輸入依存の限界を思い知った戦い」でもある。

日露戦争の戦費は、大半を外債で賄った。砲弾も火薬も、足りない分は輸入した。戦争には勝ったが、「自分で造れないものは、いざというとき手に入らない」という教訓が、明治の政府と軍に刻まれた。戦後の1907年、英国のヴィッカースとアームストロングが出資して室蘭に日本製鋼所が設立されたのは、この文脈だ。大砲と装甲を自前で造る。同じ流れで、造船も火薬も製鋼も国産化が進み、それが戦後の重工業と、今の日本の防衛産業の遠い祖先になっている。

今、防衛費の増額で防衛関連株が注目され、砲弾や誘導弾の国内生産能力の増強に予算が付いている。「継戦能力」という言葉が防衛白書に出てくるようになった。これは要するに、旅順で砲弾が足りなかった話と同じ問題を、120年ぶりに国が真面目に考え始めた、ということだと私は見ている。防衛関連銘柄の投資ガイドで個別企業は整理してあるので、興味があれば。

ただし、ここに書いたのは私個人の見方であり、投資を勧めるものではない。防衛関連株は政策や地政学の変化で大きく動くし、国策相場は終わるときも早い。投資判断はご自身の責任で、必要なら専門家に相談してほしい。私はNISA口座で、長期で、少しずつ、というやり方にしている。

自衛隊に旅順は残っているのか

海自ファンの私が、陸自のこともたまには書く。

陸上自衛隊は、旅順のような攻城戦をやる軍隊ではない。専守防衛だから、要塞を攻める側ではなく、島を守る側だ。だが、だからこそ旅順は今の陸自に直接関係する。ロシア軍は4万から5万の守備兵力で、13万の日本軍を5か月止め、6万人の損害を強いた。守る側は、準備さえしてあれば、数で劣っていても長く持つ。これは南西諸島の防衛を考えるとき、一番大事な数字だと思う。

陸自の施設科(工兵)が、障害構築や陣地構築や爆破処理を今も基幹の技術として持っているのは、旅順でロシア軍がやったことの、守る側からの継承だ。そして陸自の教育で、旅順の戦訓は今も研究材料になっている。「突撃で機関銃陣地は抜けない」という当たり前を、日本陸軍は旅順で学んだはずなのに、40年後にまた忘れた。その忘れ方まで含めて、教材になっている。

海の側で言えば、旅順の艦隊が28cm砲で港内で沈められた光景は、「港に籠った艦隊は要塞ごと落とされる」という教訓として海軍に残った。日本海軍が艦隊を港に置きたがらず、決戦を求め続けた理由の一つは、実は旅順の記憶だ。それが40年後に何をもたらしたかは、別の記事で書いた。

旅順に行く

旅順は現在、中国遼寧省大連市の旅順口区にある。長く外国人の立ち入りが制限されていた軍港地区も、主要な戦跡は今は観光地として整備されていて、大連から日帰りで回れる。私はまだ行けていない。行った人の話を聞くと、必ず「思ったより小さい」と言う。203高地は、麓から20分ほど歩けば頂上に着く。その20分の斜面を登るのに、日本軍は9日と数千人を費やした。

主な戦跡は、203高地(山頂に乃木が建てた砲弾型の「爾霊山」の碑がある)、東鶏冠山北堡塁(コンドラチェンコが戦死した堡塁で、ベトンの壁と壕がそのまま残っている)、水師営会見所(復元されたもの)、白玉山(日本が建てた表忠塔がある)。大連発の日本語ガイド付きツアーが複数あって、203高地・東鶏冠山・旅順博物館を1日で回る形が定番のようだ。『坂の上の雲』を読んで行った、という日本人の感想が多い。

一点、中国への渡航は情勢で変わる。出発前に外務省の海外安全情報を必ず確認して、現地の写真撮影の制限(軍港周辺は今も撮影禁止区域がある)には従ってほしい。宿は大連市街に取って、旅順は日帰りで、というのが現実的な組み方だ。

もっと深く知るための本と映像

旅順を「読む」なら、やはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』だ。旅順攻囲戦は第4巻から第5巻あたりで、司馬の乃木批判が最も激しい部分でもある。今の研究水準では司馬の乃木評は一方的とされるので、鵜呑みにはしないほうがいい。だが、あの巻を読んだあとで203高地の写真を見ると、まったく違う場所に見える。

文庫で全8巻あるので、私はオーディオブックで移動中に聴いた。旅順のくだりは、聴いていて胸が詰まる。

映像なら1980年の映画『二百三高地』。仲代達矢の乃木、丹波哲郎の児玉、そして一兵卒たちの目線で描かれた旅順は、今見ても迫力がある。さだまさしの主題歌が流れる場面で泣かない日本人はあまりいないと思う。

よくある疑問に、私なりに答えておく

「旅順攻囲戦」「旅順攻略戦」「旅順要塞攻防戦」は同じものか

同じ戦いだ。日本側の陸軍公刊戦史では「旅順攻囲戦」、戦後の一般書では「旅順攻略戦」「旅順要塞の戦い」、ロシア側から見れば「旅順防衛戦」になる。英語では Siege of Port Arthur。ポート・アーサーは旅順の英語名で、19世紀に英国の測量士官の名を取ったものだ。ちなみに1894年の日清戦争の旅順の戦いは、これとは別の戦いなので、検索するときは年で区別したほうがいい。

203高地は本当に「鍵」だったのか

半分は本当で、半分は神話だ。203高地を取って港内砲撃ができるようになり、艦隊が沈んだのは事実で、これで海軍の目的は達した。だが要塞そのものは、203高地が落ちてもまだ1か月近く持ちこたえている。要塞を落としたのは坑道爆破と、コンドラチェンコの戦死だ。また、港内の艦隊は黄海海戦以降ほとんど戦闘力を失っていて、203高地陥落前から半ば浮かぶ標的だった、という見方もある。「203高地を取って旅順が落ちた」は、話としてわかりやすいから広まった面がある。

白襷隊は何のためにあったのか

主防御線の中央を夜襲で突破して、一気に要塞の内側に入る、という狙いだった。成功すれば要塞戦を一晩で終わらせられる。失敗すれば決死隊が消える。結果は後者で、これが203高地への転換のきっかけになった。無謀だが、無意味ではなかった、というのが私の評価だ。

なぜロシアは弾薬が残っているのに降伏したのか

主要堡塁が落ち、コンドラチェンコを失い、守備隊には壊血病や赤痢が蔓延していた。ステッセルは「これ以上は虐殺になる」と判断した。ロシア本国はそれを許さなかったが、旅順の守備兵約3万人が生きて帰ったのは、この判断のおかげでもある。日本海海戦のネボガトフと同じで、私は「負けを認められた指揮官」を、それだけで責める気にはなれない。

旅順と真珠湾は関係あるのか

ある。「港に籠った艦隊は港ごと潰される」という旅順の教訓は、日本海軍に深く刻まれた。だから日本海軍は開戦劈頭に敵の艦隊を港で叩くことを何度も考えた。旅順口奇襲は真珠湾の遠い原型で、旅順の陸戦も、「港内の艦隊を陸から潰す」という発想の実証だった。日本海軍のDNAの中に、旅順は確実に入っている。

旅順攻囲戦が今の私たちに残したもの

旅順攻囲戦は、勇敢さの話ではない。技術と兵站と情報で負けていた側が、それでも落とさなければならない要塞を、時間と血で落とした話だ。

ロシアが6年かけて造ったコンクリートと機関銃の要塞に対して、日本は10年前の成功体験と歩兵の突撃で挑み、1万5,000人を6日で失った。そこから正攻法に転じ、海岸砲を引き抜いて運び、203高地から港内の艦隊を沈め、坑道で堡塁を崩し、5か月で落とした。世界はそれを見ていて、しかし正しく学ばなかった。10年後のヨーロッパで、同じことがもっと大きな規模で繰り返された。

そして今、砲弾の生産能力と、島を守る側の陣地構築と、要塞化された相手をどう崩すかというテーマが、120年ぶりに現実の問題として日本に戻ってきている。旅順は終わった戦いではない。

大連に行く機会があれば、203高地に登ってほしい。20分の斜面を、9日かけて登った人たちのことを考えながら。

基本情報の参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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