
岩本徹三とは、日中戦争から太平洋戦争終結まで戦い抜いた日本海軍の戦闘機搭乗員である。「零戦虎徹」の異名と202機撃墜という数字で知られる一方、その戦果には約80機という別の推定もあり、現在まで議論が続いている。
岩本を理解する鍵は、最大の数字を選ぶことではない。本人が残したノート、部隊記録、連合軍側の損失、海軍航空隊の戦果確認制度を別々に見たうえで、どこまで確かめられるかを考える必要がある。
- 岩本徹三とは、日中戦争から太平洋戦争終結まで戦い抜いた日本海軍の戦闘機搭乗員である
- 「零戦虎徹」の異名と202機撃墜という数字で知られる一方、その戦果には約80機という別の推定もあり、現在まで議論が続いている
- 岩本を理解する鍵は、最大の数字を選ぶことではない
- 本人が残したノート、部隊記録、連合軍側の損失、海軍航空隊の戦果確認制度を別々に見たうえで、どこまで確かめられるかを考える必要がある
本記事では岩本徹三の生涯をたどり、零戦撃墜王と呼ばれた戦果、日記とされる三冊のノート、202機と約80機の差、空戦技術、特攻への態度、戦後の最期までを整理する。結論を先にいえば、岩本の価値は202という数字だけにない。零戦の優位が崩れた後も戦い方を変え、最後まで生還した点にこそ、彼の実像がある。

岩本徹三とはどのような人物か
- 岩本徹三は1916年6月14日、樺太に生まれた
- 父は警察官で、少年期には家族とともに島根県益田へ移っている
- 1934年に海軍へ入り、整備や艦上勤務を経て操縦員の道を選んだ
- 1936年に第34期操縦練習生を修了し、戦闘機搭乗員として部隊勤務を始めたとされる
岩本徹三は1916年6月14日、樺太に生まれた。父は警察官で、少年期には家族とともに島根県益田へ移っている。1934年に海軍へ入り、整備や艦上勤務を経て操縦員の道を選んだ。1936年に第34期操縦練習生を修了し、戦闘機搭乗員として部隊勤務を始めたとされる。[^1]
その軍歴は、日本海軍航空隊の盛衰とほぼ重なる。
| 時期 | 主な所属・戦場 | 岩本徹三の位置づけ |
|---|---|---|
| 1938年 | 中国戦線 | 初陣で戦果を挙げ、撃墜王への出発点となる |
| 1941年 | 空母瑞鶴戦闘機隊 | 真珠湾攻撃時に機動部隊上空を直衛 |
| 1942年 | 珊瑚海海戦 | 瑞鶴の防空戦闘に従事 |
| 1943~1944年 | ラバウル、トラック島方面 | 劣勢下で一撃離脱と奇襲を重視し戦果を重ねる |
| 1944~1945年 | フィリピン、本土防空、沖縄方面 | 熟練者として迎撃戦を継続 |
| 1945年以後 | 民間生活 | 病気と生活苦の中で軍歴をノートにまとめる |
後世の岩本像には、「豪胆な撃墜王」という装飾がつきまとった。しかし本人の戦い方は、正面から腕比べを挑む剣豪型とは少し違う。優位な高度を取り、敵の死角へ入り、短い射撃で離脱する。勝てない条件では深追いを避ける。私は、岩本を単なる勇猛なエースとして描くより、損得を冷静に計算した職人的パイロットとして見る方が実像に近いと考える。
中国戦線の初陣と14機撃墜
- 岩本が実戦に出たのは1938年、中国戦線である
- 日本海軍航空隊は南京攻略後も中国空軍や支援に入った外国人搭乗員と戦っており、戦闘機隊には長距離進攻と都市上空での空戦が求められた
- 岩本は初出撃から複数機を撃墜したと報告され、その後も戦果を重ねた
- 本人の記録や後年の伝記では、中国戦線での戦果は14機と整理されている
岩本が実戦に出たのは1938年、中国戦線である。日本海軍航空隊は南京攻略後も中国空軍や支援に入った外国人搭乗員と戦っており、戦闘機隊には長距離進攻と都市上空での空戦が求められた。
岩本は初出撃から複数機を撃墜したと報告され、その後も戦果を重ねた。本人の記録や後年の伝記では、中国戦線での戦果は14機と整理されている。1940年には功績により功五級金鵄勲章を受けたとされ、若手搭乗員の中でも高い評価を得た。[^2]
もっとも、この14機も現代のスポーツ記録のように一件ずつ完全照合された数字ではない。空戦では複数の味方が同じ敵機を攻撃し、炎や煙を見て撃墜と判断しても、敵機が雲中へ逃げ込む場合がある。海上なら墜落地点を確認しにくく、陸上でも敵側記録が失われれば照合は難しい。
それでも中国戦線の経験が岩本の基礎を作ったことは疑いにくい。射撃の距離、敵の見失い方、編隊から離れる危険、燃料と弾薬の配分を、彼は太平洋戦争前に実戦で学んでいた。開戦時の日本海軍には中国戦線を経験した熟練者が多く、その蓄積が零戦の性能と結びついて初期の優勢を生んだのである。

瑞鶴戦闘機隊として真珠湾攻撃と珊瑚海海戦へ
- 1941年、岩本は新鋭空母瑞鶴の戦闘機隊に配属された
- 12月8日の真珠湾攻撃では、攻撃隊としてハワイ上空へ向かったのではなく、機動部隊の上空直衛を担当した
- 空母を守る戦闘空中哨戒は、敵機が現れなければ撃墜戦果が残らない
- しかし母艦を失えば攻撃隊は帰る場所を失うため、機動部隊にとって不可欠な任務である
1941年、岩本は新鋭空母瑞鶴の戦闘機隊に配属された。12月8日の真珠湾攻撃では、攻撃隊としてハワイ上空へ向かったのではなく、機動部隊の上空直衛を担当した。空母を守る戦闘空中哨戒は、敵機が現れなければ撃墜戦果が残らない。しかし母艦を失えば攻撃隊は帰る場所を失うため、機動部隊にとって不可欠な任務である。
この点は、岩本の軍歴を数字だけで見る危うさを示す。撃墜数が増えない任務でも、戦争全体では大きな意味を持つ。真珠湾攻撃の作戦全体については、内部リンク先 target_slug: pearl-harbor-attack-guide で扱う。
1942年5月の珊瑚海海戦では、岩本は瑞鶴の防空に参加した。珊瑚海海戦は、日米の空母部隊が相手の艦隊を直接視認しないまま航空隊を送り合った史上初の空母決戦である。日本側は空母レキシントンを沈めたが、祥鳳を失い、翔鶴は損傷、瑞鶴航空隊も消耗した。その結果、翔鶴と瑞鶴は翌月のミッドウェー海戦に参加できなかった。米海軍歴史部門も、この海戦を日本軍の南方進出を初めて阻止した戦略的転機と位置づけている。[^3]
岩本個人の役割は母艦上空で来襲機を迎撃することだった。攻撃隊のエースが敵艦上空で戦果を競う姿に比べれば地味に見えるが、空母戦では防空戦闘機が最後の盾となる。私は、この珊瑚海での経験が、後の岩本に「敵を落とすこと」と「味方を生かすこと」は同じではないと理解させた可能性が高いと見る。
ラバウルで「零戦虎徹」と呼ばれた理由
- 岩本が伝説的な戦果を重ねたとされる中心舞台はラバウルである
- 1943年11月ごろ、彼は南東方面へ進出した
- だが、この時期のラバウルは1942年前半の攻勢拠点ではない
- 連合軍はブーゲンビル島へ上陸し、米機動部隊と陸上航空隊がラバウルを連続攻撃していた
岩本が伝説的な戦果を重ねたとされる中心舞台はラバウルである。1943年11月ごろ、彼は南東方面へ進出した。だが、この時期のラバウルは1942年前半の攻勢拠点ではない。連合軍はブーゲンビル島へ上陸し、米機動部隊と陸上航空隊がラバウルを連続攻撃していた。米海軍の公式写真記録にも、1943年11月上旬の激しい空襲が残る。[^4]
日本側では機体、部品、燃料、熟練整備員が不足し、長期間の戦闘で搭乗員の練度も低下していた。米海兵隊の公刊戦史は、1943年末に近づくにつれてラバウル航空兵力の稼働率と整備能力が落ち、熟練要員が減少していた状況を記している。[^5]
岩本は、日本側の条件が悪化した時期に最前線へ入った。だからこそ、彼の戦い方には初期の零戦隊とは異なる現実主義が見える。
高度差を利用した一撃離脱
岩本は敵編隊より高い位置を取り、太陽や雲を利用して死角から接近し、一度の攻撃で離脱する方法を重視した。敵機の後方下側へ回り込む攻撃は「送り狼」とも表現される。敵が気づかない位置から短く撃ち、反撃される前に速度と高度を回復する発想である。
零戦は低速旋回に優れるが、後期のF6FヘルキャットやF4Uコルセアは速度、急降下、上昇力、耐弾性で強みを持った。旋回戦へ誘い込める状況は減り、集団で相互援護する米軍編隊へ単機で絡めば包囲されやすい。岩本は機体の長所だけを信じず、敵の弱点が生じる瞬間を待った。
零戦が魔法の翼でなくなった後に、魔法のように見える戦果を生んだのは、機体ではなく判断の積み重ねだった。この点が、岩本徹三を零戦撃墜王たらしめた核心である。
三号爆弾による対編隊攻撃
岩本の回想には、空対空爆弾である三号爆弾を敵の爆撃機編隊へ投下した記述も登場する。時限信管で空中炸裂させ、破片によって複数機を損傷させる兵器だった。大編隊に対する一撃としては魅力的だが、投下高度、速度、信管設定が合わなければ効果は薄い。
本人のノートには大きな戦果を挙げたとする場面があるものの、個々の損失を連合軍側記録と結びつけるのは難しい。三号爆弾の逸話は岩本の工夫を示す一方、撃墜数の膨張要因になり得る部分でもある。本文では「使ったこと」と「申告された全戦果が確認済みであること」を分けて考えるべきだろう。
トラック島空襲と絶対的劣勢下の戦闘
- ラバウルから後退した岩本は、トラック島方面でも戦った
- 1944年2月17~18日、米機動部隊はトラック島へ大規模空襲を実施した
- 米海軍の公式記録によれば、空母航空隊は二日間に多数の攻撃を行い、日本側の艦船と航空機、基地施設へ大きな損害を与えた
- トラック島は「太平洋のジブラルタル」と呼ばれた日本海軍の大拠点だったが、米軍の空母機動部隊に対して十分な防空態勢を整えられなかった
ラバウルから後退した岩本は、トラック島方面でも戦った。1944年2月17~18日、米機動部隊はトラック島へ大規模空襲を実施した。米海軍の公式記録によれば、空母航空隊は二日間に多数の攻撃を行い、日本側の艦船と航空機、基地施設へ大きな損害を与えた。[^6]
トラック島は「太平洋のジブラルタル」と呼ばれた日本海軍の大拠点だったが、米軍の空母機動部隊に対して十分な防空態勢を整えられなかった。日本機は離陸直後や着陸時を狙われ、飛行場も繰り返し攻撃された。こうした状況では、個人の技量だけで戦局を変えることはできない。
岩本は待ち伏せと奇襲を続け、生き残った。ここで重要なのは、彼が「零戦なら格闘戦で勝てる」という古い成功体験に固執しなかった点である。敵が強くなれば戦い方を変える。燃料が少なければ深追いしない。僚機を失えば単機での生還を優先する。勇敢さを無謀さと混同しなかったことが、長い軍歴を可能にした。

岩本徹三の撃墜数は202機か約80機か
- 岩本徹三を語るうえで最大の論点が撃墜数である
- 本人が残したノートの集計では、撃墜202機、協同撃墜を含めるとさらに多い数字が記されている
- 1972年に刊行された『零戦撃墜王』は、この記録を広く知らしめた
- 国立国会図書館の書誌では、同書は岩本徹三著、今日の話題社刊、324ページとして登録されている
岩本徹三を語るうえで最大の論点が撃墜数である。本人が残したノートの集計では、撃墜202機、協同撃墜を含めるとさらに多い数字が記されている。1972年に刊行された『零戦撃墜王』は、この記録を広く知らしめた。国立国会図書館の書誌では、同書は岩本徹三著、今日の話題社刊、324ページとして登録されている。[^7]
一方、戦後に部隊記録や戦闘日誌を整理した研究では、岩本の戦果を日中戦争14機、太平洋戦争66機、合計約80機とする数字が知られている。これは秦郁彦・伊沢保穂らの研究に基づく整理として海外の日本海軍航空隊研究サイトにも掲載された。[^8]
ここで注意したいのは、202機と約80機が「どちらも同じ基準で数えた公式記録」ではないことである。
| 数字 | 性格 | 読み方 |
|---|---|---|
| 202機 | 岩本本人がノート末尾にまとめた自己記録 | 本人が自らの戦果をどう認識していたかを示す一次資料 |
| 約80機 | 戦後研究が部隊資料などから整理した推定 | 比較的確認可能な戦果を慎重に積み上げた研究値 |
| 海軍の公式個人撃墜数 | 一貫した確定値は存在しない | 日本海軍は戦争全期間を通じた個人別公認制度を整備しなかった |
私は、202機をそのまま確定値として掲げるのは慎重であるべきだと考える。同時に、約80機だけを唯一の正解として、岩本のノートを誇張の一語で捨てるのも適切ではない。202機は現代的な照合作業を通過したスコアではないが、本人が戦後まで保持していた記憶と戦果認識を伝える史料だからである。
撃墜数が増減する五つの理由
第一は、共同撃墜の扱いである。複数機が一機の敵を攻撃した場合、部隊戦果は一機でも、各搭乗員が自分の戦果として記憶することがある。
第二は、撃墜確実、撃墜不確実、撃破の区別である。黒煙を吐いて急降下した敵機が基地へ帰還すれば、攻撃側には撃墜に見えても敵側では損傷機となる。
第三は、重複申告である。混戦では別方向から攻撃した味方同士が同じ敵機を見ていない。各自が撃墜を申告すれば、部隊全体の申告数が敵側損失を上回る。
第四は、記録の欠落である。部隊日誌、個人飛行記録、敵側損失記録のすべてが残っている戦闘は少ない。ラバウルやトラック島では基地施設が空襲を受け、終戦時には文書焼却も行われた。
第五は、回想の時期である。岩本の三冊のノートは、戦闘当日に毎日書き続けた完全な日誌ではなく、戦後、病床を含む時期に軍歴を整理した回想的性格を持つ。記憶の混同や後から得た情報が入り込む余地はある。
こうして見ると、202機と約80機の差は、岩本一人の誠実さだけで説明できない。確認制度、空戦の観測限界、資料喪失、戦後編集が重なった結果である。「本当は何機か」という問いに一つの整数で答えるより、数字が作られた過程を説明する方が歴史に忠実だ。
岩本徹三の日記はどこまで信頼できるのか
- 一般に「岩本徹三の日記」と呼ばれる資料は、三冊の大学ノートを中心とする
- 内容は中国戦線の初陣、真珠湾攻撃時の直衛、珊瑚海、ラバウル、トラック島、本土迎撃、沖縄方面、敗戦、軍歴、撃墜集計など広範囲に及ぶ
- 昭和館デジタルアーカイブが所蔵情報を公開する新版『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』の目次からも、その構成を確認できる
- このノートは価値が高い
一般に「岩本徹三の日記」と呼ばれる資料は、三冊の大学ノートを中心とする。内容は中国戦線の初陣、真珠湾攻撃時の直衛、珊瑚海、ラバウル、トラック島、本土迎撃、沖縄方面、敗戦、軍歴、撃墜集計など広範囲に及ぶ。昭和館デジタルアーカイブが所蔵情報を公開する新版『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』の目次からも、その構成を確認できる。[^9]
このノートは価値が高い。搭乗員本人が、どのような位置から敵へ接近し、何を危険と考え、僚機や上官をどう見たかを伝えるからだ。部隊命令書や戦闘詳報は作戦全体を記すが、操縦席から見えた瞬間の判断までは残さない。
ただし、史料として使うときは三つの層を分ける必要がある。
一つ目は、本人しか書けない体験である。飛行中の恐怖、射撃距離の感覚、敵編隊の見え方、上官への評価などが該当する。これはノートの強みである。
二つ目は、本人が見た戦果である。敵機が炎上、降下、雲中消失したという観察は重要だが、それだけで墜落を確定できない。
三つ目は、戦後にまとめた総数と評価である。202機という集計や個別戦闘の意味づけは、部隊記録と敵側記録を突き合わせて検証する必要がある。
つまり、日記は「正しいか、嘘か」の二択で読む資料ではない。どの部分が直接観察で、どの部分が記憶による再構成かを見極める資料である。私には、岩本のノートは撃墜数の証明書というより、職業軍人が敗戦後に自分の戦争へ秩序を与えようとした記録に見える。
岩本徹三の実像は合理的な生存主義者だった
- 「零戦虎徹」という呼び名は、岩本の剛勇を強調する
- 愛機の胴体に桜の撃墜標識を描いた姿も有名で、模型や戦記では華やかな象徴となった
- しかし、実際の岩本は撃墜標識の多さを誇示するだけの人物ではなかった
- 彼は敵を見つけても、位置が悪ければ攻撃しなかった
「零戦虎徹」という呼び名は、岩本の剛勇を強調する。愛機の胴体に桜の撃墜標識を描いた姿も有名で、模型や戦記では華やかな象徴となった。しかし、実際の岩本は撃墜標識の多さを誇示するだけの人物ではなかった。
彼は敵を見つけても、位置が悪ければ攻撃しなかった。味方が不利な高度にいれば、上昇してやり直した。敵機を損傷させても、僚機や燃料の状況が悪ければ追跡を打ち切った。戦場で生き残るための判断を積み重ねている。
この慎重さは臆病ではない。戦闘機搭乗員は、帰還して初めて次の迎撃へ出られる。熟練者が一度の無謀な攻撃で失われれば、部隊全体の戦力が落ちる。日本海軍航空隊は長期戦に必要な搭乗員養成と補充の仕組みが弱く、1943年以後は古参一人の損失が重くなった。
私が岩本を最も高く評価するのは、多数撃墜の申告ではなく、戦争の条件が変わった後も生還する方法を更新し続けた点である。初期の成功を繰り返すのではなく、敵の速度、編隊戦術、火力、防弾性能に合わせて自分の戦法を変えた。これは撃墜王というより、現場で学習を止めなかった技術者の姿に近い。

特攻に反対した岩本徹三
戦争末期、日本軍は神風特別攻撃隊を拡大した。熟練搭乗員にも特攻や直掩が求められ、通常の迎撃戦闘を続ける余力は急速に失われていく。
岩本の回想には、戦闘機搭乗員を一度きりの体当たりで失うことへの強い反発が表れている。彼は、戦闘機乗りは敵機を落とし、帰還し、再び戦うべきだという職業観を持っていた。WEB歴史街道が紹介するノートにも、特攻という方法への批判的な考えが記されている。[^2]
この態度を現代の反戦思想と同一視するのは正確ではない。岩本は最後まで日本の勝利を望み、軍人として敵と戦い続けた。そのうえで、訓練に時間のかかる搭乗員と航空機を使い捨てる戦法を、軍事的に非効率だと見ていたのである。
合理性と軍人精神は、岩本の中で対立していなかった。生きて帰り、次の戦闘で再び敵を落とすことが任務への忠実さだった。特攻を拒む姿勢も、命を惜しんだというより、戦力を浪費しないという一貫した戦闘観から理解できる。
終戦後の生活と38歳で迎えた最期
1945年8月、日本は降伏し、海軍航空隊は消滅した。長年を飛行と戦闘に費やした搭乗員に、戦後社会で同じ技能を生かせる場所はほとんどなかった。岩本も職を転々とし、生活は安定しなかったとされる。
さらに病気が重なった。手術と療養を続ける中で、岩本は三冊のノートへ自らの軍歴を書き残した。そこには戦闘の記憶だけでなく、撃墜集計、部隊の仲間、敗戦への思いが収められた。1955年、岩本は38歳で病没した。著書『零戦撃墜王』が刊行されたのは死後17年を経た1972年である。[^7]
戦後の岩本は、生前から全国的な英雄として扱われたわけではない。零戦撃墜王としての名声は、遺稿の出版、戦記雑誌、研究書、模型文化を通じて後から形成された部分が大きい。だからこそ、伝説と本人の記録を分けて読む必要がある。
彼の人生には、勝者の凱旋よりも、国家が必要とした技能を敗戦と同時に手放した冷たさが見える。撃墜標識を重ねた機体が消えた後、残ったのは病床のノートだった。そのノートが、今日まで岩本の名をつないでいる。
坂井三郎や西澤廣義との違い
岩本徹三、坂井三郎、西澤廣義は、いずれも日本海軍を代表する撃墜王として並べられる。ただし、三人の経歴と後世の知られ方は異なる。
坂井三郎は負傷から復帰し、戦後は『大空のサムライ』を通じて国際的にも著名になった。西澤廣義はラバウルの精鋭として知られたが、1944年に輸送機搭乗中に戦死した。岩本は日中戦争から終戦まで戦い抜き、戦後に残したノートによって巨大な撃墜数が知られるようになった。
三人を単純に撃墜数で順位づけすると、史料基準の違いを見落とす。比較を目的とする場合は target_slug: japan-flying-aces-ranking、零戦そのものの性能や21型・52型の違いは target_slug: zero-sen-legend で扱う。本記事の範囲は、岩本個人の記録と実像である。
よくある質問
岩本徹三の撃墜数は結局何機なのか
本人のノートでは202機、戦後研究では約80機とされる。202機は本人の自己集計、約80機は資料から再構成した推定であり、日本海軍による統一的な公式認定数ではない。
岩本徹三の日記は戦時中に毎日書かれたのか
一般に<span class="swl-marker mark_orange">日記</span>と呼ばれるが、現存する三冊のノートは戦後に軍歴を整理した回想の性格が強い。戦闘時の記録や記憶を基礎にしている一方、全記述が当日作成されたわけではない。
「零戦虎徹」は本人の正式な異名なのか
後世の戦記や模型文化で定着した呼称である。桜の撃墜標識を描いた愛機と岩本の高い戦果を、名刀虎徹になぞらえた表現として広まった。
岩本徹三は真珠湾を攻撃したのか
真珠湾攻撃には参加したが、岩本の任務は瑞鶴を含む機動部隊の上空直衛であり、ハワイの基地や艦艇を攻撃した第一次・第二次攻撃隊ではなかった。
岩本徹三は特攻隊員だったのか
特攻隊員ではない。戦争末期にも迎撃戦闘を続け、回想では熟練搭乗員を一度きりで失う特攻戦法に批判的な考えを示した。
まとめ:岩本徹三の本当の戦果は数字だけでは測れない
岩本徹三は、中国戦線で初陣を経験し、瑞鶴戦闘機隊として真珠湾攻撃と珊瑚海海戦に参加し、ラバウル、トラック島、フィリピン、本土防空、沖縄方面まで戦い抜いた零戦搭乗員である。
撃墜数には、本人のノートに記された202機と、戦後研究による約80機という大きな差がある。202機を確定値と断言することも、約80機だけを公式認定と呼ぶことも正確ではない。前者は本人の自己記録、後者は残存資料から組み立てた研究上の推定である。
日記と呼ばれる三冊のノートは、撃墜証明書ではない。しかし、劣勢下で敵の死角を探し、勝てない条件では離れ、帰還して再び戦うという岩本の思考を伝える貴重な一次資料である。
岩本徹三の本当の戦果は、202という数字ではなく、零戦の優位が崩れたあとも戦い方を変えて生き残ったことにある。撃墜王の伝説を数字から解き放ったとき、そこに現れるのは無敵の英雄ではない。状況を観察し、技術を修正し、最後まで操縦席から帰る道を探した一人の職業軍人である。
主要参考資料
[^1]: 赤井照久『撃墜王岩本徹三零戦空戦記 二〇二機を撃墜した「虎徹」』潮書房光人新社、2025年。国立国会図書館書誌情報。 [^2]: WEB歴史街道「岩本徹三~最強戦闘機パイロットの矜持とその後」。岩本家に残されたノートと生涯を紹介する記事。 [^3]: Naval History and Heritage Command, “Battle of the Coral Sea.” 珊瑚海海戦の公式概説。 [^4]: Naval History and Heritage Command, “Rabaul Strikes Imagery.” 1943年11月のラバウル空襲写真記録。 [^5]: U.S. Marine Corps Historical Monograph / HyperWar, ラバウル孤立化に関する公刊戦史。 [^6]: Naval History and Heritage Command, “Air Raids on Truk Island, 17–18 February 1944.” トラック島空襲の公式記録。 [^7]: 岩本徹三『零戦撃墜王』今日の話題社、1972年、324頁。国立国会図書館書誌ID 000001213355。 [^8]: I. Hata and Y. Izawa, Japanese Naval Aces and Fighter Units in World War II, Naval Institute Press, 1989. 同研究を基礎とする日本海軍エース一覧では岩本を日中戦争14機、太平洋戦争66機として整理。 [^9]: 昭和館デジタルアーカイブ『零戦撃墜王 空戦八年の回顧』所蔵情報、資料番号000030796。
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