赤男爵リヒトホーフェンとは|WWⅠ最強の80機撃墜の伝説を徹底解説

リヒトホーフェンとは

赤男爵(der Rote Baron)とは、第一次世界大戦でドイツ帝国陸軍航空隊に所属し、公式記録で80機撃墜という大戦最多のエースとなったマンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵(1892–1918)のことである。愛機を真紅に塗った貴族出身の撃墜王として、敵味方双方から畏怖された。

空戦史というものは、このたった25歳で散った一人の男を抜きには語れない。後に続くエーリッヒ・ハルトマンの352機も、日本海軍の岩本徹三の200機超も、すべては赤男爵が1916年から1918年のわずか19ヶ月で叩き出した80機という鋼の記録の「後を追う」形で刻まれた。空の覇者という概念そのものを彼が作ったのだ。

本稿では、プロイセン貴族の後継者から「空の狩人」へと変貌したリヒトホーフェンの生涯、愛機フォッカーDr.I三葉機の伝説、そして今もなお我々を魅了してやまない彼の遺産について、徹底的に掘り下げていく。

目次

赤男爵マンフレート・フォン・リヒトホーフェンとは

基本プロフィール

項目内容
本名マンフレート・アルブレヒト・フライヘア・フォン・リヒトホーフェン
異名赤男爵(der Rote Baron) / 赤い悪魔 / 赤い騎士 / Le Petit Rouge
生年月日1892年5月2日
出生地プロイセン領シレジア・ブレスラウ(現ポーランド・ヴロツワフ)
没年月日1918年4月21日(享年25)
戦死地フランス北部ソンム近郊
階級騎兵大尉(Rittmeister)
所属ドイツ帝国陸軍航空隊(Luftstreitkräfte)
指揮部隊Jasta 11 → Jagdgeschwader I(フライング・サーカス)
公式撃墜数80機(大戦最多)
愛機アルバトロスD.II / D.III / D.V、フォッカーDr.I
最高勲章プール・ル・メリット(ブルーマックス)

80機という数字は、連合軍最高のルネ・フォンク(フランス、75機)、ビリー・ビショップ(カナダ、72機)を引き離し、第二次世界大戦が始まるまで27年間も空戦史の絶対王者として君臨し続けた。未確認撃墜を含めれば100機に迫るという研究もある。

プロイセン貴族の名門に生まれて

リヒトホーフェン家はシレジア地方に根を張る下級貴族で、「フライヘア(Freiherr)」は男爵に相当する爵位である。父アルブレヒトは陸軍少佐、プロイセン軍人の伝統を背負う家系だった。

若きマンフレートは11歳で軍幼年学校ヴァールシュタットに入れられ、さらにリヒターフェルデ王立士官学校へ進む。学業成績は振るわなかったが、乗馬と狩猟は幼少期から一流の腕前を誇った。この「獲物を追う」本能と冷静な射撃眼こそが、後に空戦で彼を「空の狩人」たらしめる源泉となる。

1911年、19歳でプロイセン陸軍第1ウーラン槍騎兵連隊「アレクサンドル3世」に少尉として任官。馬上で敵を刺し貫く時代遅れの騎兵科であり、機関銃と塹壕が支配する1914年の戦場では、彼の槍はほとんど無意味だった。

リヒトホーフェンの戦歴|騎兵から空の王者へ

リヒトホーフェンが撃墜する様子

退屈な塹壕戦から航空隊への転科

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、リヒトホーフェンは東部戦線と西部戦線の両方で騎兵偵察将校として従軍する。しかし戦線が塹壕で固着し、騎兵の出番は皆無となった。伝令や電話線修理といった雑用ばかりをあてがわれ、彼は軍に対し有名な抗議書簡を送ったと伝えられる——「戦争のためにここへ来たのであって、チーズと卵のためではない」。

1915年5月、リヒトホーフェンはドイツ帝国陸軍航空隊(Luftstreitkräfte)へ転属する。当初は偵察機の観測員だったが、飛行機そのものの魅力に取り憑かれ、パイロット訓練を志願した。

意外な事実がある。赤男爵は最初、とんでもなく下手なパイロットだった。初ソロ飛行で機体を破壊し、訓練生仲間の笑い物になったという逸話が残っている。天性の才能というよりは、執念と射撃の正確性で戦闘機乗りへと変貌していった男なのだ。

師匠オスヴァルト・ベルケとの出会い

1915年10月、リヒトホーフェンの人生を決定づける出会いが訪れる。ドイツ最高のエースにして戦闘機戦術の創始者、オスヴァルト・ベルケ大尉である。ベルケは新たな戦闘機中隊(Jagdstaffel)編成のため才能あるパイロットを探しており、若き騎兵の眼光に何かを感じた。

リヒトホーフェンは1916年、ドイツ空軍史に残る精鋭部隊Jagdstaffel 2(ベルケ中隊)に招かれる。そこで彼が学んだのが、空戦の教科書「ベルケのディクタ(Dicta Boelcke)」——太陽を背に高高度から攻撃せよ、至近距離まで引きつけて撃て、決して深追いするな、常に複数で連携せよ、という8箇条の鉄則である。

1916年10月28日、リヒトホーフェンの目の前で悲劇が起こる。空中戦中、ベルケが僚機と接触事故を起こし、墜落死したのだ。師を失った赤男爵は、ベルケの戦術を最高度に研ぎ澄ませていくことを自らに課す。師が40機の撃墜王だったなら、弟子はそれを倍にするしかない——そう決意した男の眼光は、この時点でもう常人のものではなかった。

戦闘機エースの系譜に興味があるなら、ヴィットマンやクニスペルを扱ったWW2戦車エースランキングや、シモ・ヘイヘなど狙撃の鬼才を網羅したWW2スナイパーランキングもあわせて読むと、「空・陸・狙撃」それぞれの極点を比較できて面白い。

Jasta 11指揮官、そして真紅への目覚め

1917年1月、リヒトホーフェンは自らの部隊Jagdstaffel 11(Jasta 11)の指揮官に任命される。この時すでに16機を撃墜し、プロイセン軍最高勲章プール・ル・メリット(通称ブルーマックス)を受章していた。

そしてこの年、空戦史上もっとも有名な塗装が誕生する。リヒトホーフェンは自機アルバトロスD.IIIを血のように赤く塗らせたのだ。敵に見つかりやすいリスクなど承知の上で、彼は選んだ。部下が味方機を識別しやすくするため、そしておそらくは——敵にこう知らしめるためである。「俺がここにいる。逃げられると思うな」。

英軍パイロットたちは、太陽から降ってくる血の色の一筋を見て凍りついた。その瞬間、赤男爵の伝説は完成した。

愛機フォッカーDr.Iと「赤く塗られた」理由

アルバトロスD.IIIからフォッカーDr.Iへ

赤男爵が最初に名を挙げたのは、実は三葉機ではなくアルバトロスD.III・D.Vという複葉戦闘機である。流線型の胴体と高出力メルセデスエンジンを持ち、機首に2丁のシュパンダウ機関銃を備えたこの機体は、1917年前半のドイツ空軍の主力だった。

しかし英軍の新型機ソッピース・トライプレーンやS.E.5aが登場すると、ドイツ側は苦境に陥る。そこでアントン・フォッカー技師が英機の三葉配置を参考に生み出したのが、フォッカーDr.I三葉戦闘機である。

Dr.Iのスペックを見ると、直線速度は決して速くない(最高185km/h程度)。しかし三枚の翼が生む驚異的な上昇力と旋回性能、そしてずんぐりした機首に詰め込まれた100馬力オーベルウルゼル回転式エンジン——この組み合わせは、一対一のドッグファイトにおいて当時最強クラスだった。

「速度では勝てないが、旋回で勝つ」この機体哲学は、後のドイツ空軍にも受け継がれていく。戦闘機の歴史そのものに興味がある読者は、第二次世界大戦ドイツ戦闘機ランキング第二次世界大戦最強戦闘機ランキングを読むと、Bf109やMe262の源流にリヒトホーフェンのDr.Iがあることがよくわかる。

80機中わずか19機しかDr.Iで撃墜していない

ここで意外な事実を押さえておきたい。「赤男爵=真紅の三葉機フォッカーDr.I」という鉄板イメージは、映像作品やスヌーピーの漫画で強化された後付けのシンボルにすぎない。

公式記録上、リヒトホーフェンが80機中に撃墜したうち、フォッカーDr.Iで挙げた戦果はわずか19機程度。残り60機以上はアルバトロスD.IIやD.III、D.Vによるものだ。

それでも三葉機が彼の象徴となったのは、Dr.Iこそが彼の最期の愛機であり、彼の戦死と共に空に散った機体だからである。伝説とは、最後の一枚の絵の強さで決まるのだ。

模型で「真紅のDr.I」を手に取って、その三枚翼の異様なシルエットと、コックピットに座る男爵の覚悟を再現してほしい。モンモデル(MENG)の1/24フォッカーDr.Iは部品点数が多いがディテール再現が圧巻で、完成時は全長243mm・翼幅300mmという迫力ある存在感になる。中級者なら、エデュアルド(Eduard)の1/48プロフィパックがエッチングパーツ付き・デカール6種で真紅の仕上がりの完成度が段違いだ。初心者は1,000円台で入手できるドイツレベル1/72から入るのもいい。どの縮尺を選んでも、手元に「伝説」が舞い降りる。

フライング・サーカスと80機撃墜の記録

1917年6月:「フライング・サーカス」誕生

リヒトホーフェンの指揮統率能力が評価され、1917年6月26日、ドイツ空軍初の戦闘機連隊Jagdgeschwader I(JG I)が正式編成される。Jasta 4・6・10・11の4個中隊を束ねた機動打撃部隊であり、前線のどこで戦闘が激化しようと列車で機材ごと急行する戦略予備戦力だった。

所属機は部隊識別のためド派手に塗装された。赤男爵の真紅を筆頭に、青・黄・白・緑、縞模様、水玉模様——敵英軍パイロットはこの異様な集団を「フライング・サーカス(Flying Circus、空飛ぶサーカス団)」と呼び、やがてドイツ国民もそれを誇らしげに使うようになる。

JG Iの戦術はシンプルかつ冷徹だった。高高度で編隊を保ち、太陽を背にして獲物を見極め、急降下で一撃離脱。敵が立ち直る前に離脱する。これは赤男爵が師ベルケから受け継ぎ、極限まで洗練させた教科書通りの空戦原則である。赤男爵は部下にこう訓示した——「複座機を狙うなら、まず後部座席の機銃手を黙らせろ。話はそれからだ」。

「血の4月」1917年:空戦史上最悪の月

1917年4月、英本土上空では「ブラッディ・エイプリル(Bloody April、血の4月)」と呼ばれる惨劇が展開した。この1ヶ月間だけで、英王立航空隊(RFC)は245機を失い、211名のパイロットが戦死または捕虜となった。

そしてその中心にいたのがリヒトホーフェンである。彼は4月の1ヶ月でなんと22機を撃墜。通算撃墜数は52機に達した。英軍にとって、赤い機影が視界に入ることは死の宣告に等しかった。

この時期、赤男爵は自らの戦果を祝うため、ドイツの宝石店に小さな銀杯を特注している。1機撃墜するごとに日付と機種を刻印した杯を1個ずつ増やすという趣味である。まるで狩猟の戦利品のように——。少年時代に狩りの獲物を数えた少年の感覚を、彼は25歳になってもそのまま空へ持ち込んでいたのだ。

頭部負傷と「別人」への変貌

1917年7月6日、ヴェルヴィク(ベルギー)近郊の戦闘で、英王立航空隊No.20飛行隊のFE2d双座戦闘機から放たれた一発の機銃弾が、リヒトホーフェンの頭部を掠った。頭蓋骨骨折の重傷である。

意識朦朧と視界不明の中、彼は自機を何とか不時着させた。この時は命を拾ったが、この負傷こそが赤男爵という男を静かに変えていくターニングポイントとなる。

数度にわたる骨片摘出手術、続く激しい頭痛、そして性格の明らかな変化——傷の後遺症は死ぬまで消えなかった。医師の制止を振り切って10月には戦場復帰、それから半年間でさらに18機を撃墜するが、かつての陽気で社交的な貴族士官は、もう戻ってこなかった。

不遇にも最期まで戦い続けた軍人の系譜に興味があるなら、超有能だったのに上層部に殺された不遇の天才軍人ランキングや、砂漠の狐と呼ばれたエルヴィン・ロンメル完全解説も合わせて読みたい。優れた軍人が戦場と組織の狭間で潰れていく悲劇は、赤男爵にも重なる。

リヒトホーフェンの最期|1918年4月21日の真相

80機目、そして翌日の戦死

1918年4月20日、リヒトホーフェンは第79機と第80機を撃墜する。第一次世界大戦を通じた最多撃墜数の樹立である。

翌21日午前11時頃、ソンム河畔上空。赤男爵はカナダ人新米パイロットのソッピース・キャメル機を深追いしていた。この追撃行動そのものが、彼が自ら定めた「決して深追いするな」というベルケのディクタに反するものだった。頭部負傷以降の判断力低下の影響とも指摘される。

低高度で機体を晒した瞬間、彼は胸部に一発の弾丸を受けた。右胸から入り、右肺と心臓を貫通し、左胸から抜けた致命傷。それでも彼は愛機を不時着させ、静かに息を引き取った。享年25。

遺体に駆け寄った連合軍兵士たちは、遺留品を土産物にしようと機体を解体した。機銃はオーストラリア戦争記念館(キャンベラ)へ、コックピットの操縦桿とフライング・ブーツも同館に残る。フランスの小村の墓地で、リヒトホーフェンは敵である英連邦軍により、将校待遇の軍葬で葬られた。プロペラの一枚が、彼の墓標となった。

撃墜した犯人は誰か|Brown大尉 vs Popkin軍曹

「赤男爵を仕留めたのは誰か?」——これは航空史最大級のミステリーの一つである。

当初、英王立空軍(RAF)はカナダ人のアーサー・ロイ・ブラウン大尉が撃墜したと公式に認定した。彼はリヒトホーフェンが追っていた新米パイロットを救援するため、上空から攻撃していた。

しかし戦後の弾道学的検証と遺体の射創分析から、現在では別の説が有力視されている。地上の第24機関銃中隊(オーストラリア帝国軍)所属のセドリック・ポプキン軍曹が、真紅の三葉機が左旋回した瞬間、ヴィッカース機関銃で掃射した一弾——これが致命傷ではないか、という説である。弾丸が右側面から入り心臓を貫通した軌道は、上空からの射撃では説明しにくく、地上からの側方射撃と一致する。

ポプキン軍曹に何の勲章も授与されなかったこと、ブラウン大尉も約束されたヴィクトリア十字章ではなく殊勲十字章(DFC)追加受章に留まったことも、当時から曖昧だった戦果判定を物語っている。

結局のところ、「空の王」を地上から無名の機関銃兵が撃ち落とした——という救いのない結末こそが、おそらく真相に近い。英雄は、常にロマンチックに死ねるわけではないのだ。

ドイツ空軍の源流|彼が残した遺産

ルフトヴァッフェと「リヒトホーフェン飛行隊」

第一次世界大戦はドイツの敗戦で終わり、ヴェルサイユ条約は軍用機の保有を禁じた。しかし1935年、ナチスドイツが再軍備宣言と共に空軍(Luftwaffe)を公式に発足させると、真っ先に編成された精鋭部隊の名は——Jagdgeschwader 132 “Richthofen”、通称リヒトホーフェン飛行隊である。

後継部隊Jagdgeschwader 2 “Richthofen”は第二次世界大戦を通じて戦い、戦後の西ドイツ空軍Jagdgeschwader 71、そして現在の統一ドイツ空軍に至るまで、「リヒトホーフェン」の名を冠する戦闘航空団が脈々と継承されている。

つまり、ドイツ空軍そのものが赤男爵を精神的源流として今なお存続しているのである。この「英雄を軍の名称として継承する」文化は、敗戦国ドイツが持つ武の記憶の扱い方として、我々日本人が興味を持つべきものの一つではないか。零戦や紫電改と並んで世界が記憶するエース文化を、第二次世界大戦エースパイロットランキングで日本人エースの岩本徹三や坂井三郎と比較してみるのも面白い読み方である。

後継者エーリッヒ・ハルトマンへ

第二次世界大戦で352機を撃墜し、史上最多撃墜王となったエーリッヒ・ハルトマンは、しばしば「赤男爵の正統な後継者」と評される。ベルケからリヒトホーフェンへ、リヒトホーフェンからハルトマンへ——ドイツ空軍戦闘機パイロットの系譜には、明確な「師承の線」が存在する。

ドイツ空軍の戦術教義「太陽を背に、高高度から、至近距離で」は、Bf109やFw190が駆け抜けた第二次世界大戦の空でも、そのまま有効だった。さらに言えば、米F-86セイバーやソ連MiG-15が戦った朝鮮戦争、ベトナム戦争のファントムとMiGの死闘、そして現代のF-35によるBVR(視程外射程)戦闘に至るまで、基本哲学は変わらない。

リヒトホーフェンは戦術を発明したわけではないが、戦術を「伝説に昇華させ、空戦とは何かの原型を固定した」人物である。戦争の帰趨を決める英雄の人類史的インパクトを俯瞰したいなら、独裁者犠牲者ランキング世界戦争死者数ランキングもあわせてどうぞ。一人の男の記録がどれだけの意味を持つかが見えてくる。

現代に蘇る赤男爵|プラモデル・書籍・映画

フォッカーDr.Iを手元で再現する

模型趣味者にとって、赤男爵の愛機フォッカーDr.Iは「人生で一度は作るべき機体」の筆頭格だ。スケール別に選び方を整理する。

1/24スケールは、モンモデル(MENG)の「QS-003 フォッカー Dr.I」が新定番である。1/24という大スケールでエッチングパーツ・クリアパーツも付属し、完成時の迫力は部屋のインテリアとして機能するレベル。三葉翼の張り線工作まで挑戦したいコアモデラー向けだ。

1/48スケールなら、エデュアルド「プロフィパック フォッカー Dr.I」が定番。プラスチックパーツの精度、塗装済みエッチング、6種のデカール、マスキングシートまで同梱されるプレミアム仕様で、塗り分けの楽しさが段違い。同ブランドの「ウィークエンドエディション」は装備簡略版で価格を抑えた入門者向けだ。

1/72スケールはドイツレベル「1/72 フォッカー Dr.1」が1,200円前後と手軽。シェルフ(棚)の隅に置いて「赤男爵の機影」を味わうには十分なコレクターズアイテムである。

最高峰を狙うならハセガワの1/8ミュージアムモデルシリーズ「フォッカー Dr.I」が存在する。部品点数857点、完成時の全長約72cm・全幅約84cmという巨大スケールで、既に新品入手は困難だが中古市場でも依然として値段が付くプレミアキットだ。模型趣味を極めた読者の最終目標に相応しい。

赤男爵を「読む」

リヒトホーフェン本人が1917年に書いた自伝『Der Rote Kampfflieger(赤い戦闘機乗り)』は、英訳版『The Red Battle Flyer』として長く読まれてきた。25歳で戦死した若者が、自らの空戦哲学と狩りの愉悦を冷静に語る筆致は、今読んでも衝撃的である。日本語訳も複数出版されており、Amazon等で入手可能だ。

また、英国人歴史家ピーター・キルダフの『The Illustrated Red Baron』や、ノーマン・フランクスら『Under the Guns of the Red Baron』は、80機の被撃墜者一人一人の身元まで追跡した学術的労作で、赤男爵を神話から歴史的事実へと引き戻した名著として評価が高い。

映画『レッド・バロン』(2008年)

独仏合作の戦争映画『レッド・バロン』(原題:Der rote Baron、2008年)は、リヒトホーフェンの戦歴と悲恋、そして戦争の虚無を正面から描いた本格作品である。コックピット目線の空戦シーンは実機CGと実物大モックアップを併用し、フライング・サーカスの塗装が乱舞する空はミリオタ必見の映像美に仕上がっている。

U-NEXTやAmazon Primeで配信されることが多いので、プラモを作りながら流し観するのに最適だ。米独英ソの名作を横断的に押さえたいなら戦争映画おすすめランキングTOP30も参考になる。

そしてもちろん——スヌーピー。チャールズ・シュルツの『ピーナッツ』でスヌーピーが犬小屋の屋根に跨り「レッド・バロン!」と叫んで戦うあの場面は、米国人にとっての赤男爵イメージを今も形作っている。戦後60年以上が経った今も、漫画の中で赤男爵と戦い続けているビーグル犬がいる。これ以上の名誉があるだろうか。

よくある質問(FAQ)

Q1. 赤男爵の撃墜数80機は本当に信頼できるのか?

戦後、プロパガンダで水増しされたのではという疑念は長く残ったが、1998年のノーマン・フランクスらによる詳細な検証で、80機中73機が英軍の損失記録と正確に一致することが確認されている。当時の戦果確認は実は非常に厳格で、地上部隊や僚機の目視確認が必要だった。むしろ未確認撃墜を含めれば100機前後が妥当とする研究者もいる。

Q2. 赤男爵の死因は誰が与えたのか?

現在最も有力とされるのは、オーストラリア帝国軍第24機関銃中隊のセドリック・ポプキン軍曹の地上射撃説である。当時の公式認定はカナダ人のアーサー・ロイ・ブラウン大尉(英王立空軍)だったが、弾道学的検証から地上射撃のほうが致命傷の射入角と一致する。ただし断定は困難で、今後も議論は続くだろう。

Q3. なぜ機体を赤く塗ったのか?

主な理由は3つとされる。(1)僚機がリーダー機を識別しやすくするため、(2)プロイセン騎兵連隊のシンボルカラーを継承する貴族の誇りから、(3)敵への心理的威圧。本人は自伝で「最初は悪戯心だった」と謙遜しているが、結果として赤は空戦史に残る最強のブランドとなった。

Q4. 兄弟にも有名なパイロットがいたのか?

いる。弟のロタール・フォン・リヒトホーフェンは兄に続いて航空隊に志願し、第一次世界大戦で40機を撃墜したドイツ空軍屈指のエースとなった。兄が冷静沈着な狩人型なら、弟は派手で攻撃的な戦士型。英国の伝説的エース、アルバート・ボール大尉を撃墜したのは兄ではなくロタールだったとされる。戦後も生き延びたが、1922年に民間機墜落事故で没した。

Q5. フォッカーDr.Iで80機撃墜というのは本当か?

これはよくある誤解である。80機中フォッカーDr.Iで挙げた戦果はわずか19機で、残り60機以上はアルバトロスD.II・D.III・D.Vによるもの。三葉機が彼のアイコンとなったのは、最期の搭乗機であり死の瞬間を共にした機体だったからである。

まとめ

赤男爵マンフレート・フォン・リヒトホーフェンは、わずか19ヶ月で80機を撃墜し、25歳でソンムの空に散ったドイツ帝国の英雄である。プロイセン貴族の血と騎兵の誇り、狩人の冷徹さと師ベルケから受け継いだ空戦理論を融合させ、「空の王者」という概念そのものを歴史に刻み込んだ男だった。

彼が残したものは、単なる撃墜記録ではない。現代ドイツ空軍の戦闘航空団にまで継承される「リヒトホーフェン」の名、第二次世界大戦でハルトマンや坂井三郎へと引き継がれたエース文化、そして今なお世界中のモデラーが真紅に塗り続けるフォッカーDr.Iの三枚翼——赤男爵の影は、空戦が存在する限り消えない。

1/24でも1/48でも1/72でもいい。書店で自伝を手に取るのでもいい。映画を観て、「もしあの時、赤男爵が深追いしなければ…」と想像するのでもいい。伝説に触れる入口は、いくつもある。そして一度触れてしまえば、あなたも赤い三葉機が太陽から降ってくる幻影に、永遠に囚われることになるだろう。

空を支配した男、25歳の大尉、赤男爵——彼の物語は、今日もまだ語り継がれている。

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