〖完全保存版〗第一次世界大戦エースパイロットランキングTOP15|仏独加米の空の英雄を徹底解説

第一次世界大戦のエースパイロットランキング、その第1位は80機撃墜のマンフレート・フォン・リヒトホーフェン(ドイツ、赤男爵)である。連合軍側トップはフランスのルネ・フォンク(75機)、それに続くのがカナダのビリー・ビショップ(72機)。「エース」という言葉そのものがこの大戦で生まれ、空戦という戦い方が人類史に登場した——その最初の頂点に立った15人を、本稿では公式撃墜数と戦歴の両面から徹底解説する。

1914年、塹壕に閉じ込められた陸戦が泥沼化する一方で、空は「騎士の一騎討ちが再来する最後のロマンチックな戦場」になった。そしてその空に現れた「エース」たちは、国民的英雄として祭り上げられ、戦後も映画・小説・漫画のキャラクターとして語り継がれる存在となる。スヌーピーが犬小屋から「レッド・バロン!」と叫ぶあの光景、あれは第一次世界大戦の空戦が生み出した文化そのものなのだ。

目次

エース(Ace)とは何か|選定基準を明示する

5機撃墜が「エース」の国際基準

エース(flying ace)という用語は、1915年にフランスの新聞が5機を撃墜したアドルフ・ペグー中尉を「l’as(エース)」と呼んだのが始まりである。やがて米航空隊の「5機撃墜で公式エース」という基準が国際標準として定着した。

一方、ドイツ帝国陸軍航空隊はより厳格で、開戦初期は8機、大戦後期には16機撃墜でプール・ル・メリット勲章(ブルーマックス)の対象となった。イギリスは公式のエース認定を避け、殊勲十字章(DFC)を8機撃墜で授与する実務運用だった。

本ランキングの評価基準

本稿では以下の基準で15名を選定・順位付けした。

  • 公式撃墜数(第一基準):各国空軍が戦後に確定させた公式数を優先
  • 戦果確認の厳格性:ドイツ軍の記録が最も厳格(地上確認または独立証人必須)、英仏は「driven down(敵陣に追い落とす)」を含むやや緩い認定
  • 戦闘の質:一対一の正面撃墜か、編隊戦術での撃墜か
  • 戦術的影響:後続世代の空戦ドクトリンへの影響
  • 戦死か生還か:生き残りも評価の一要素として言及

なお、一部のエースは戦後の研究で数字が修正されている。英マノックの公式73機は現在61機程度が有力、加ビショップの72機にも一部に疑義があるなど、数字には「時代と立場による揺れ」がつきまとう。この点は各項で明記する。

戦争という極限環境で記録された数字の重みを俯瞰したいなら、第二次世界大戦の後継者たちを扱った第二次世界大戦エースパイロットランキングTOP15と併せて読むと、空戦の進化が見えて面白い。

第15位:オスヴァルト・ベルケ(ドイツ)40機|空戦の父

項目内容
ドイツ帝国
公式撃墜数40機
生没年1891–1916
最期空中衝突事故による戦死(25歳)
主要搭乗機フォッカーE.III、アルバトロスD.II
勲章プール・ル・メリット(第3号受章)

オスヴァルト・ベルケ大尉は撃墜数だけで見れば15位だが、戦術体系への貢献は本ランキング全員の「師匠」と呼べる格を持つ。彼が1916年にまとめた「ベルケのディクタ(Dicta Boelcke)」8箇条——太陽を背に高高度から攻撃せよ、至近距離で撃て、後方から奇襲せよ、決して深追いするな——は、今なお現代戦闘機パイロットの教範に生きている。

ベルケはマックス・インメルマンと並びドイツ最初のエース世代を築き、戦闘機中隊Jagdstaffel 2を創設。ここに後の赤男爵リヒトホーフェンを見出して鍛え上げた。しかし1916年10月28日、戦闘中に僚機と翼端を接触させて墜落死。25歳の若さだった。

弟子リヒトホーフェンはベルケの戦術を極限まで研ぎ澄まし、80機撃墜で師を倍する戦果を残す。その赤男爵の生涯は赤男爵リヒトホーフェン単独解説で詳述している。ベルケという男がいなければ、空戦史はまったく違う形で進んだだろう。撃墜数よりも「型」を残した男——だからこそ15位の定位置に置きたい。

第14位:シャルル・ヌンジェセール(フランス)43機|不死身の伊達男

項目内容
フランス
公式撃墜数43機
生没年1892–1927
最期大西洋横断飛行中に消息不明
主要搭乗機ニューポール17、SPAD S.XIII

シャルル・ヌンジェセールは「不死身のフランス人」と呼ばれた伊達男である。大戦中に彼が負った骨折・銃創の数は実に17回以上。顎、顔、両脚、肋骨、頭蓋骨——体のあらゆる部位を砕かれながら、その都度、松葉杖で戦線に戻ってきた男だった。機体側面には棺桶・髑髏・燭台・黒いハートを組み合わせた「死のドクロ」のマーキングを描き、敵味方から畏怖された。

ルネ・フォンクと並ぶフランス空軍の看板役者でありながら、フォンクが冷徹な職人型だったのに対し、ヌンジェセールは派手な社交界の伊達男で女性にも大いにモテた。戦後の1927年、彼はフランソワ・コリと共に複葉機「ロワゾー・ブラン(白い鳥)」でパリ―ニューヨーク大西洋横断飛行に挑み、大西洋上空で消息を絶った。享年35。遺骸も機体も発見されず、彼は文字通り「空に溶けて消えた」。この劇的な最期が、フランス国民にとってのヌンジェセール伝説を完成させた。

第13位:アルバート・ボール(イギリス)44機|英国初の国民的英雄

項目内容
イギリス
公式撃墜数44機
生没年1896–1917
最期西部戦線で撃墜・戦死(20歳)
主要搭乗機ニューポール17、S.E.5
勲章ヴィクトリア十字章(死後授与)

アルバート・ボールは、英王立航空隊(RFC)が生んだ最初の国民的英雄である。内気で物静かな青年が、愛機ニューポール17に乗り込むと豹変し、しばしば単機で敵編隊に突入するという獰猛な戦い方で敵味方から一目置かれた。

戦術的には「ベルケのディクタ」とは対照的で、ボールの信条は「単機で高度を取り、敵の真下に潜り込んで上向きの機銃でコックピットを撃ち抜く」というもの。Lewis機関銃を上向きマウントに改造して下方から射撃する独自スタイルは、一対一の決闘に近かった。

1917年5月7日、西部戦線で消息を絶つ。ドイツ側はロタール・フォン・リヒトホーフェン(赤男爵の弟)による撃墜と主張したが、実際には悪天候での方向感覚喪失による墜落の可能性が高い。死後、ヴィクトリア十字章(英国最高勲章)を授与された。享年20。愛機ニューポール17の模型は、このボールとギュネメールのマーキングで作るのが定番である。

第12位:ヴェルナー・フォス(ドイツ)48機|最高の空戦職人

項目内容
ドイツ帝国
公式撃墜数48機
生没年1897–1917
最期単機対S.E.5a 7機の死闘で戦死(20歳)
主要搭乗機アルバートロスD.III、フォッカーF.I三葉機
勲章プール・ル・メリット

ヴェルナー・フォスは赤男爵と並ぶJasta指揮官で、操縦技量では「リヒトホーフェンを超えていた」と評する歴史家も多い。特に彼のフォッカーF.I(Dr.Iの初期プロト)による空戦機動は、当時の物理限界を超えているように見えた。

彼の最期は、空戦史上もっとも有名な一騎討ちとして伝説化している。1917年9月23日、フォスは単機でS.E.5aの7機編隊——マカドン、リース=デヴィスら英軍トップエースを含む——と遭遇。通常なら即座に離脱するところだが、フォスは戦いを選んだ。

10分間の死闘で、フォスは全7機に損傷を与え、1機は帰還不能の損害を負わせる。しかし最後は複数からの被弾で動けなくなり、地上に垂直に突っ込んだ。享年20。戦闘後、マカドンは敵機の操縦士の技量を「これほど勇敢で巧妙な敵には会ったことがない」と日記に記した。模型で彼のフォッカーF.I(黄色い胴体に青い機首)を作ると、この20歳の天才の短い生涯が手元で蘇る。

第11位:ジョルジュ・ギュネメール(フランス)53機|フランスの象徴

項目内容
フランス
公式撃墜数53機
生没年1894–1917
最期西部戦線で消息不明(22歳)
主要搭乗機ニューポール17、SPAD S.VII、SPAD S.XII
勲章レジオン・ドヌール・オフィシエ、軍事勲章

ジョルジュ・ギュネメールは、フランス国民が何よりも愛したエースである。撃墜数ではフォンクに抜かれたが、愛されたのはギュネメールのほうだった。病弱で細身、当初はパイロット適性検査に落ちた青年が、整備員から身を起こして空の王者になる——このシンデレラ物語が国民の心を掴んだ。

彼の愛機SPAD S.XIIはプロペラ軸から37mm砲を発射する異色装備で、1発で敵機を吹き飛ばすことができた。後にルネ・フォンクが継承するこの「モーターカノン」戦術は、ギュネメールが確立したものだ。

1917年9月11日、フランドル戦線で消息を絶つ。遺骸も機体も発見されず、フランス政府は「ギュネメールは空へと昇天した」と公式発表。国民の心に彼は「不滅の英雄」として残った。愛機と共にSPAD S.XIIIの模型を作るなら、ギュネメールのコウノトリ(Les Cigognes、「コウノトリ戦闘機群」のマーキング)入りで仕上げたい。

第10位:アンドリュー・ボーシャン=プロクター(南アフリカ)54機|最短期間の急成長

項目内容
南アフリカ(英帝国内)
公式撃墜数54機
生没年1894–1921
最期戦後の飛行事故で死亡
主要搭乗機S.E.5a
勲章ヴィクトリア十字章

アンドリュー・ボーシャン=プロクターの特筆すべき点は、彼が54機全てを「1918年だけ」で叩き出したことである。つまり実質10ヶ月の戦歴で、本ランキングTOP10入りを果たした驚異的ペースだ。

身長164cmと小柄で、飛行服を特注しなければならなかった彼は、S.E.5aに乗り込んで16機の観測気球を含む54機を撃墜。特に気球撃墜は対空砲火が集中する危険任務で、これほどの気球撃墜数は全エース中トップクラスである。

戦後の1921年、英国内で航空ショーの曲技飛行中に墜落死。享年26。戦争で生き残ったエースの多くが平時の曲技飛行や記録飛行で命を落としている事実は、「戦争より速度と高度そのものが危険」という航空黎明期の現実を物語る。彼の愛機S.E.5aは、英軍制式機の中でも最も洗練された機体で、タミヤやエデュアルドから優秀なキットが出ている。

第9位:ドナルド・マクラーレン(カナダ)54機|静かな職人

項目内容
カナダ(英帝国内)
公式撃墜数54機
生没年1893–1988
最期94歳で老衰死
主要搭乗機ソッピース・キャメル
勲章殊勲十字章、軍事十字章

ドナルド・マクラーレンは、TOP15の中でもっとも静かに生きて静かに死んだ男である。戦後に目立った著作もPR活動もせず、カナダで民間航空機パイロット訓練校を運営し、94歳まで穏やかに生きた。

彼の54機は実働わずか8ヶ月——1918年3月から負傷する10月まで——で叩き出されたもので、単位時間あたりの撃墜ペースではTOP3クラスである。愛機ソッピース・キャメルを完全に使いこなし、特に観測気球の撃墜を得意とした。派手さを嫌い、記録より任務を優先する職人気質で、同時代のビショップとは対照的な存在だった。

ソッピース・キャメルは英軍戦闘機の代表格で、全大戦中に連合軍最多の撃墜数(1,294機)を記録した主力機。模型ならタミヤやエアフィックスの定番キットが入手しやすく、マクラーレン機の派手さを排した地味な迷彩仕上げで作ると、この男の人生がよく表現できる。

第8位:エーリッヒ・レーヴェンハルト(ドイツ)54機|赤男爵の後を継ぐはずだった男

項目内容
ドイツ帝国
公式撃墜数54機
生没年1897–1918
最期僚機との空中接触で戦死(21歳)
主要搭乗機フォッカーDr.I、フォッカーD.VII
勲章プール・ル・メリット

エーリッヒ・レーヴェンハルトは、赤男爵亡き後のフライング・サーカス(JG I)を事実上引き継いだ男だ。赤男爵が1918年4月に戦死した後、彼はJasta 10を率いて3か月で30機以上を撃墜する猛ペースを叩き出す。ドイツ空軍の新エース候補として帝国中から期待を集めた。

しかし1918年8月10日、僚機アルフレート・ヴェンツの機体と空中接触。パラシュートで脱出したものの、パラシュートが開かずに墜落死した。享年21。大戦末期にドイツ軍はパイロット用パラシュートを導入し始めたが、信頼性は低く、レーヴェンハルトはその犠牲者となった。

「もし彼が生きていれば、第二次世界大戦のドイツ空軍を率いていただろう」と歴史家が語る若き才能。愛機フォッカーD.VIIは大戦末期のドイツ最強戦闘機で、ヴェルサイユ条約で「名指しで生産禁止」を明記された唯一の兵器としても有名。プラモデル好きなら一度は手を出したい名機である。

第7位:ジェームズ・マカドン(イギリス)57機|技術オタクの頂点

項目内容
イギリス
公式撃墜数57機
生没年1895–1918
最期離陸直後のエンジン停止で墜落死(23歳)
主要搭乗機S.E.5a
勲章ヴィクトリア十字章

ジェームズ・マカドンは、13歳でRFCに整備工として入隊した叩き上げである。機体の構造から機関銃の内部機構まで全て自分で理解し、愛機S.E.5aのエンジンを個人で調整して性能限界を押し上げるという技術オタクぶりを発揮した。

戦術面でも優秀で、単機突入を避け、常に高高度からの編隊一撃離脱を徹底。高高度作戦のため、マカドンは自機に酸素吸入装置を自作で取り付けた最初期のパイロットでもあった。高度5,500m以上の高高度で敵偵察機を一方的に撃墜する戦法は、後のB-17迎撃戦術の原型である。

1918年7月9日、フランスで離陸直後にエンジンが停止し、低高度での旋回中に失速墜落して死亡。享年23。戦闘ではなく「エンジントラブル」という、あれほど整備に精通した男の死因としては皮肉な最期だった。彼が極限まで使いこなしたS.E.5aは、英仏空軍の源流たる現代戦闘機文化の出発点でもある。

第6位:レイモンド・コリショー(カナダ)60機|海軍航空隊の鬼神

項目内容
カナダ(英帝国内)
公式撃墜数60機
生没年1893–1976
最期83歳で老衰死
主要搭乗機ソッピース・トライプレーン、ソッピース・キャメル
勲章殊勲十字章、殊勲勲章

レイモンド・コリショーは、英国海軍航空隊(RNAS)第10飛行隊「ブラック・フライト」の指揮官として、ソッピース・トライプレーン5機を黒く塗った独特の編隊で敵機を狩り立てた。黒いトライプレーンの編隊——ブラックメイド、ブラックデス、ブラックロジャー、ブラックプリンス、そしてコリショー機ブラックマリア——が太陽から急降下してくる光景は、ドイツ軍パイロットにとっての悪夢だった。

コリショーは1917年6月だけで16機を撃墜するブラッディ・エイプリル連合軍版の主役となる。戦後もカナダ空軍の士官として残り、第二次世界大戦では西砂漠航空軍司令官として北アフリカ戦線を指揮した。コリショーがいなければ、エル・アラメインの戦いで英空軍が制空権を握るのはもっと遅かったかもしれない。

83歳まで生きたコリショーは、ビリー・ビショップと並ぶカナダの国民的英雄として今なお尊敬を集めている。ソッピース・トライプレーン(3枚翼)の黒塗装キットは、エデュアルドなどから発売されており、コレクターズアイテムとして人気が高い。

第5位:エドワード「ミック」マノック(イギリス)61機|弱視を隠した男

項目内容
イギリス
公式撃墜数61機(公式記録では73機とされたが現在修正)
生没年1887–1918
最期地上からの対空機銃で撃墜、機体炎上(31歳)
主要搭乗機ニューポール17、S.E.5a
勲章ヴィクトリア十字章(死後授与)

エドワード・マノックは、左眼がほぼ失明していたという致命的弱点を抱えたまま、英軍最高のエースになった異色の存在である。入隊検査で視力検査表の文字を暗記して切り抜けたという逸話は、マノックの執念を象徴する。

彼は「編隊戦術の教師」として知られ、新人パイロットに自らの技術を惜しみなく伝えた。同時代のビリー・ビショップが個人的英雄を目指した一匹狼だったのに対し、マノックは「部下を生かすエース」に徹した。実際、彼の下で育った新人エース数は英軍ナンバーワンである。

しかしマノックには一つだけ病的な恐怖があった——機体炎上で焼け死ぬことだ。常に拳銃を携帯し、「撃墜されたら自分を撃つ」と公言していた。1918年7月26日、地上からの機関銃弾で燃料タンクに着火し、墜落。まさに彼がもっとも恐れた最期だった。享年31。死後、ヴィクトリア十字章が授与された。

戦後の1919年に73機と公表されたが、近年の学術研究では61機程度が実数と考えられている。数字の修正は彼の偉大さを損なうものではない。

第4位:エルンスト・ウーデット(ドイツ)62機|生き延びたドイツ最高位

項目内容
ドイツ帝国
公式撃墜数62機
生没年1896–1941
最期ナチス政権下で自殺(45歳)
主要搭乗機フォッカーDr.I、フォッカーD.VII
勲章プール・ル・メリット

エルンスト・ウーデットは、大戦を生き延びたドイツ最高のエースである。赤男爵、フォス、レーヴェンハルトが次々と戦死する中、ウーデットは62機を撃墜しながら終戦を迎えた。

戦後は花形として華やかな生活を送り、スタント飛行士として米国でも活躍。映画撮影用パイロットとして『Das Blaue Licht(青い光)』などに出演し、ドイツの航空広告塔として知られた。戦後10年経った1928年には、フランスのルネ・フォンクと友情を深め、共に記念写真に収まっている——昨日の敵も空の同志だったのだ。

しかしこの栄光の後半生は、悲劇的な終わりを迎える。1933年にナチス党に入党し、1939年にはルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)装備総監に就任。しかし英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)での戦闘機生産の失敗、ゲーリングとの対立、アルコール依存の悪化が重なり、1941年11月17日、自宅で拳銃自殺した。享年45。

遺書には「我が総統よ、なぜ貴殿は私を見捨てたのか」と書かれていたとされる。ウーデットの死は、ナチスドイツ崩壊の最初期の兆候だった。

第3位:ビリー・ビショップ(カナダ)72機|鷹の目を持つ男

項目内容
カナダ(英帝国内)
公式撃墜数72機
生没年1894–1956
最期62歳で老衰死
主要搭乗機ニューポール17、S.E.5a
勲章ヴィクトリア十字章

ウィリアム・エイヴリー「ビリー」ビショップは、カナダ最高のエースにして連合軍第2位の撃墜数を持つ国民的英雄である。彼の異常なまでに鋭い視力は「鷹の目」と呼ばれ、他のパイロットが見えない距離の敵機を発見できたと言われる。

1917年6月2日、彼は単機でドイツ軍飛行場を襲撃。離陸しようとしていた敵機3機を撃破・1機を地上で破壊し、無事帰還した。この作戦でヴィクトリア十字章を受章したが、現在この戦果には「目撃者なし」という疑問が付きまとっている。一部の歴史家は「ビショップの戦果の一部は誇張されている可能性がある」と指摘するが、公式記録は今も72機のままである。

戦後はカナダ空軍少将に昇進し、第二次世界大戦では新兵リクルート担当として活躍。カナダ全土の若者を空に送り出し、現代カナダ空軍の父と呼ばれている。1956年に62歳で病死。伝記映画『Billy Bishop Goes to War(ビリー・ビショップが戦場へ行く)』は現在もカナダで上演され続けるロングラン作品である。

第2位:ルネ・フォンク(フランス)75機|連合軍のエース・オブ・エース

項目内容
フランス
公式撃墜数75機
生没年1894–1953
最期59歳でパリの自宅で脳卒中死
主要搭乗機SPAD S.VII、SPAD S.XII、SPAD S.XIII
勲章レジオン・ドヌール・グラン・オフィシエ

コロネル・ルネ・ポール・フォンクは、連合軍側の第一次世界大戦エース・オブ・エース(エースの中のエース)である。公式75機(うち単独72、共同3)を撃墜し、フォンク本人の申告ベースでは142機に達したとされるが、戦果確認の厳格さからは75機が確定数となっている。

フォンクの戦い方は、赤男爵と驚くほど似ている——冷静・計算・至近距離射撃・深追いしない。彼は自ら「弾丸は手で置くように敵機に当てる」と語り、敵機を落とすのに3〜5発しか撃たないことで有名だった。戦場で弾薬不足に陥った同時代の他エースとは対照的である。

そしてフォンクの最大の記録は、「1日6機撃墜」を2度達成したことである。1918年5月9日と9月26日、彼は一日で6機を撃ち落としている。これは現在も破られていない記録だ。

特筆すべきは、フォンクが戦争中に敵弾を受けたのは生涯でたった1発だったこと。しかもそれも機体を掠めただけで、本人は一度も負傷していない。リスクを徹底的に管理する職人気質が、彼を大戦後に生き延びさせた。

戦後はシコルスキーと組んで大西洋横断飛行に挑戦したが失敗。第二次世界大戦中はヴィシー政権への関与を疑われたが、戦後に完全潔白が証明された。第二次世界大戦の独裁者たちとは対照的な、冷静な職業軍人の生涯だった。

愛機SPAD S.XIIIは、ハセガワ・エデュアルドから優れた1/48キットが発売されている。ガスコニュ型コウノトリ・マーキングと青白赤のフランス国旗塗装で仕上げれば、フォンクの魂が手元に蘇る。

第1位:マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(ドイツ)80機|空の王、赤男爵

項目内容
ドイツ帝国
公式撃墜数80機
生没年1892–1918
最期ソンム上空で戦死(25歳)
主要搭乗機アルバトロスD.III、D.V、フォッカーDr.I
勲章プール・ル・メリット(ブルーマックス)

第一次世界大戦エースパイロットランキング第1位は、80機撃墜のマンフレート・フォン・リヒトホーフェン——赤男爵である。プロイセン貴族の名門に生まれた25歳の男爵は、わずか19ヶ月の戦歴でこの記録を叩き出し、1918年4月21日にソンム河畔の空に散った。

80機という数字は、大戦2位のフォンク(75機)を5機上回るだけに見えるかもしれない。しかし意味はまったく違う。ドイツ側の戦果確認は連合軍より遥かに厳格で、機体の残骸確認または独立証人が必須だった。1998年のノーマン・フランクスらの学術研究で、80機中73機が英軍の損失記録と正確に一致することが確認されている。つまりこの数字は「盛られていない本物の80機」なのだ。

赤男爵が愛機を真紅に塗り、4個中隊を束ねた戦闘機連隊Jagdgeschwader I(通称「フライング・サーカス」)を率いて空を支配した1917年は、英王立航空隊が「ブラッディ・エイプリル(血の4月)」と呼んだ悲惨な月を含んでいる。4月1ヶ月だけで彼は22機を撃墜した。

彼の戦術はシンプルだった——師ベルケから受け継いだ「高度を取り、太陽を背に、至近距離で、一撃離脱」。それを極限まで洗練させただけだ。しかし極限まで洗練された単純さこそが、常人の及ばぬ境地を作る。

現代ドイツ空軍には今も「Jagdgeschwader 71 Richthofen(第71戦闘航空団リヒトホーフェン)」が存在し、ユーロファイター・タイフーンが飛んでいる。敗戦2回を経ても、この名だけは戦闘航空団として継承され続けている——それが空戦史における赤男爵の不滅性を物語る。

彼の詳細な生涯については赤男爵リヒトホーフェン単独解説で徹底的に掘り下げたので合わせて読んでほしい。そしてもし模型で赤男爵の伝説を手元に再現したいなら、フォッカーDr.I三葉機——1/24ならモンモデル、1/48ならエデュアルドのプロフィパック、最高峰は1/8ハセガワミュージアムモデル——の真紅の機体を組み上げることをぜひ勧める。

ランキング総まとめ表

順位名前撃墜数生没年最期
1マンフレート・フォン・リヒトホーフェン801892–1918戦死
2ルネ・フォンク751894–1953病死
3ビリー・ビショップ721894–1956病死
4エルンスト・ウーデット621896–1941自殺
5エドワード・マノック611887–1918戦死
6レイモンド・コリショー601893–1976病死
7ジェームズ・マカドン571895–1918事故死
8エーリッヒ・レーヴェンハルト541897–1918事故死
9ドナルド・マクラーレン541893–1988病死
10ボーシャン=プロクター南ア541894–1921事故死
11ジョルジュ・ギュネメール531894–1917戦死
12ヴェルナー・フォス481897–1917戦死
13アルバート・ボール441896–1917戦死
14シャルル・ヌンジェセール431892–1927行方不明
15オスヴァルト・ベルケ401891–1916事故死

TOP15のうち戦死・事故死が11名、戦中に生き残ったのがわずか4名(フォンク、ビショップ、コリショー、マクラーレン)。「エースとは、生き延びた者のことではなく、生き延びられなかった者の影である」という悲しい事実が浮かび上がる。

現代に蘇るWW1エース|プラモデル・書籍・映画

三大エース機体のプラモデル

WW1エースの機体でモデラーに特に人気なのは以下の3機種だ。手元で「空のロマン」を再現したいなら、どれかは必ず通る道である。

フォッカーDr.I三葉機(赤男爵、フォス、ウーデット)——1/24のモンモデル最新キットが部品数・ディテール再現で最高峰。コストパフォーマンスで選ぶなら1/48のエデュアルド・プロフィパックが定番。初心者は1/72のドイツレベルが1,200円前後で手軽。

SPAD S.XIII(フォンク、ギュネメール、リッケンバッカー)——仏・米共通の名機。エデュアルドやハセガワの1/48が組みやすく、ガスコニュの「コウノトリ」マーキングで作ると映える。

ソッピース・キャメル(ビショップ、コリショー、マクラーレン)——大戦中の連合軍最多撃墜機。エアフィックスやエデュアルドから豊富なバリエーションが出ている。英軍の質実剛健な茶系迷彩が渋い。

これらを並べて展示すれば、あなたの机の上に1917年の西部戦線が広がる。第二次世界大戦の日本機一覧第二次世界大戦のドイツ戦闘機ランキングと並べると、30年間で航空機がどれほど進化したかも一目でわかるはず。

書籍で読むWW1エース

リヒトホーフェン本人の自伝『Der Rote Kampfflieger(赤い戦闘機乗り)』は、25歳の男爵が自らの空戦哲学を冷静に語った一次資料として必読。日本語訳も複数出版されている。

学術的にはピーター・キルダフ『Red Baron: The Life and Death of an Ace』、ノーマン・フランクスら『Under the Guns of the Red Baron』、バーナード・フィッツシモンズ『Heroes and Aces of World War I』などが定番。Amazonで「第一次世界大戦 エース」「赤男爵」などで検索すると日本語書籍も多数ヒットする。

映像作品でWW1空戦を体感する

映画では独仏合作『レッド・バロン』(2008年、原題:Der rote Baron)が本格派。ジョン・ギレルミン監督の古典『ブルー・マックス』(1966年)はWW1空戦映画の金字塔で、実機を飛ばして撮影された空戦シーンは今観ても圧巻である。

近年では『フライング』(The Red Baron、2008年)、ドキュメンタリー『Wings of War』(2008年)なども配信されている。U-NEXTやAmazon Primeで視聴可能な作品は時期により変動するので、見たい時に探してみてほしい。WW2も含めた空戦映画の網羅的ガイドは戦争映画おすすめランキングTOP30で詳述している。

そして文化史的に最も影響力があるのは、チャールズ・シュルツの漫画『ピーナッツ』でスヌーピーが犬小屋の屋根に跨って叫ぶ「カース・ユー・レッド・バロン!」。あの一場面で、戦後生まれの米国人にとっての第一次世界大戦は「スヌーピーが赤男爵と戦った戦争」になった。

よくある質問(FAQ)

Q1. 第一次世界大戦の撃墜数と第二次世界大戦の撃墜数、なぜこんなに桁が違うのか?

WW1の最多は80機、WW2のハルトマンは352機。4倍以上の差がある。理由は(1)大戦期間(WW2のほうが長い)、(2)機体信頼性(WW1は機械故障で落ちる率が高く、実戦出撃回数が稼げない)、(3)敵機の豊富さ(WW2のほうが圧倒的に出撃頻度が高い)、(4)武装の進化(WW2は機関砲で一撃必殺可能)。逆に言えば、WW1のエースは「より少ない実戦機会で、より厳格な判定のもと」で記録を作っており、一撃一撃の価値はWW1のほうが重い。詳細は第二次世界大戦エースパイロットランキングと本記事を比較してほしい。

Q2. 日本はなぜTOP15に入っていないのか?

第一次世界大戦で日本は連合国側で参戦したが、主戦場はヨーロッパ西部戦線であり、日本海軍は青島(中国山東省)攻略と地中海での船団護衛に限定的に参加したのみ。航空部隊の本格運用は第二次世界大戦以降で、WW1時点では「エース」を生む土壌がなかった。日本の航空戦力発展は大日本帝国の航空戦力を徹底解説を参照。

Q3. 赤男爵の80機撃墜は本当に世界一なのか?

公式記録上、第一次世界大戦のエース全員の撃墜数で80機を超えた者はいない。ただし戦闘期間が長い第二次世界大戦では、エーリッヒ・ハルトマンの352機をはじめ、100機超のエースが10名以上存在する。「WW1限定」では赤男爵が絶対王者だが、「人類全体の空戦史」ではWW2ドイツ軍エースの方が記録上は上。ただし戦果確認の厳格さではWW1ドイツ軍の方が厳しく、数字だけでは単純比較できないのが現実だ。

Q4. 連合軍最多のフォンクがあまり有名でないのはなぜ?

フォンクは性格的に自慢家で傲慢とされ、国民的人気ではギュネメール(公式53機)に大きく及ばなかった。ギュネメールが「病弱でありながら空に散った純朴な青年」という悲劇的イメージだったのに対し、フォンクは「傲慢で生き残った冷徹な職人」。人は物語を愛するのであって、数字を愛するわけではない。これは日本の旧軍指揮官の評価にも通じる現象である。

Q5. WW1エースで生き残った者の中で、WW2でも活躍した人は?

多い。最も有名なのはドイツのエルンスト・ウーデット(WW2でルフトヴァッフェ装備総監、1941年自殺)、カナダのレイモンド・コリショー(WW2で西砂漠航空軍司令官)、カナダのビリー・ビショップ(WW2でカナダ空軍少将)。また米国のエディ・リッケンバッカー(WW1で26機、本ランキング圏外)はWW2で民間航空業界の巨頭として対米戦略に深く関わった。大戦を跨ぐキャリアを持つ彼らの人生は、20世紀航空史そのものである。

Q6. パラシュートはなぜ使われなかったのか?

第一次世界大戦前期、パイロット用パラシュートは存在したものの、英仏軍は「パラシュートがあるとパイロットが機体を守るために戦わずに脱出する」という理由で配備を拒否した。ドイツ側は大戦末期の1918年春から配備を始めたが、信頼性は低く、レーヴェンハルトのように「開かずに墜落死」する事例も多かった。この「パラシュート問題」こそ、WW1エースの戦死率が異常に高い最大の原因である。

まとめ|空戦史の出発点に立った15人の男たち

第一次世界大戦のエースパイロットたちは、人類が「空を戦場とする」という概念そのものを作り上げた開拓者たちである。彼らが使った戦術——太陽を背に高高度からの一撃離脱、編隊戦闘、観測気球撃墜、深追い禁止——は、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、現代のF-35までまったく変わらぬ空戦の基本哲学として生き続けている。

TOP15のうち11名が戦死・事故死で若くして散った。平均年齢わずか23歳前後。彼らが生きられなかった世界線で、空戦ドクトリンがどう進化したか、ドイツ空軍が第二次世界大戦でどう戦ったか、我々は想像することしかできない。

あなたが今、スーパーで売られている冷凍ピザ「レッド・バロン」を手に取る時、スヌーピーが犬小屋で叫ぶ時、映画館でマーヴェリックが雲の中を飛ぶ時——そのすべての根源に、1914年から1918年の西部戦線で機械油と血にまみれた15人の男たちがいる。

プラモデルでもいい、書籍でもいい、映画でもいい。彼らの伝説に触れる入口はいくつもある。一度触れてしまえば、あなたも雲間から降ってくる複葉機の幻影に、永遠に囚われることになるだろう。

空戦という戦い方を始めた男たち——その15人を、今日も我々は覚えている。

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