砲を外した戦車で、戦った
1945年8月17日、千島列島最北端の占守島。第91師団の将兵は、武装解除の準備をしていた。
玉音放送は15日に聞いた。第5方面軍からは、18日16時をもって停戦し、こちらから軍使を出すという命令が届いていた。戦車の備砲を外し、化学兵器を海に沈め、部隊は帰国を待つ態勢に入っていた。酒を酌み交わし、故郷の話をしていた者もいた。
17日、カムチャツカ半島の沿岸を多数の舟艇が動いているのが見えた。だが、降伏した後にソ連が攻めてくるとは、誰も考えなかった。
18日午前1時30分、ソ連軍が上陸した。
守備隊は、外していた砲を戦車に戻し、迎え撃った。戦車第11連隊長の池田末男大佐は、午前6時50分に師団長と旅団長に宛てて訣別の電報を打ち、戦車の上に立って指揮を執り、その朝のうちに戦死した。日本軍は戦闘を優勢に進めたが、18日16時の停戦命令に従って攻撃を止め、21日に停戦が成立し、23日に武装解除された。将兵はそのままシベリアへ送られた。
これが占守島の戦いである。「北海道を分断から救った戦い」と呼ばれる。この記事では、8月18日から21日の4日間に何が起きたのかを追い、そのうえで、この戦いが実際に何を止めたのか、何を止めなかったのかを判定する。8月15日以降の日ソ戦全体は8月15日後も続いた日ソ戦で、北海道占領をめぐる米ソの駆け引きはソ連の北海道占領計画で書く。
占守島という場所

占守島は千島列島の最北端、カムチャツカ半島の先端から幅約11キロの海峡を隔てた位置にある。ソ連領カムチャツカから、肉眼で見える距離だった。
日本にとって占守島は、対米戦の北の要だった。1943年にアリューシャン列島のアッツ島が玉砕し、キスカ島から撤退した後、米軍が千島づたいに北海道へ南下する可能性に備えて、占守島と隣の幌筵島に大兵力が置かれた。第91師団である。島には飛行場、砲台、戦車連隊があり、日魯漁業の缶詰工場と、そこで働く女性たちを含む民間人もいた。
つまり、占守島の守備隊は、米軍に備えていた。ソ連が来るとは想定していなかった。1945年8月まで、ソ連はカムチャツカの向こうで沈黙していた。
| 部隊 | 概要 |
|---|---|
| 第91師団 | 師団長・堤不夾貴中将。司令部と歩兵第74旅団は幌筵島 |
| 歩兵第73旅団 | 旅団長・杉野巌少将。占守島の千歳台 |
| 独立歩兵第282大隊 | 大隊長・村上則重少佐。上陸地点となる竹田浜の前面、四嶺山 |
| 戦車第11連隊 | 連隊長・池田末男大佐。九七式中戦車39両と九五式軽戦車25両とされるが、士官の証言では一式中戦車を主体に89両とするものもある |
| 総兵力 | 占守・幌筵合わせて約2万3千人 |
ソ連側は、8月15日にヴァシレフスキー元帥が第2極東方面軍と太平洋艦隊に千島北部の占領作戦を命じ、カムチャツカの部隊が急遽編成された。上陸部隊は約8,300人。日本軍の3分の1ほどの兵力で、奇襲によって守備隊を降伏させる計画だった。
8月15日から17日|武装解除の準備と、女性たちの脱出

15日の玉音放送の後、第91師団は第5方面軍の命令を受けて停戦の準備に入った。命令の内容は、18日16時に停戦し、日本側から軍使を派遣する、ただし、それでも敵が戦闘を仕掛けてきた場合には自衛のための戦闘を妨げない、というものだった。この「自衛戦闘は妨げない」という一文が、3日後に意味を持つ。
戦車の備砲は外され、化学兵器は海に沈められた。部隊は帰国の日を待っていた。
そのとき、堤師団長は一つの決断をしている。島にいた缶詰工場の女子工員たち、約400人とされる女性を、独航船で北海道へ脱出させた。理由は記録に明示されていないが、ソ連軍が来た場合に何が起きるかを、師団長は想定していたと見られる。女性たちは16日から17日にかけて島を離れ、北海道に着いた。ソ連軍が上陸する前日のことである。
樺太で、満洲で、女性に何が起きたかを知っている今、この決断の意味は重い。占守島で、ソ連兵の前に女性はいなかった。師団長が、上陸の前日に、逃がしていたからである。
17日、カムチャツカ沿岸に舟艇の動きが見えた。守備隊は一応の警戒を命じたが、重視しなかった。降伏した相手を、降伏の3日後に攻める国があるとは、思われていなかった。
8月18日未明|竹田浜
18日午前1時30分ごろ、濃霧の中、ソ連軍の上陸部隊が占守島北東部の竹田浜に取り付いた。カムチャツカからの砲撃が始まり、上陸用舟艇が浜に向かった。
竹田浜の前面には、村上少佐の独立歩兵第282大隊が四嶺山に陣地を持っていた。守備隊は応戦した。海岸の砲台は上陸用舟艇を撃ち、舟艇の多くが沈み、上陸部隊は浜に取り残された。それでもソ連軍は四嶺山に取り付き、山頂をめぐる攻防になった。
日本側の判断は、この時点で決まっていた。相手が攻めてきた以上、自衛戦闘である。第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、17日の段階で「断乎反撃」を命じていた。第91師団は、島の中心部にいた歩兵第73旅団と戦車第11連隊を、竹田浜へ向けて動かした。
8月18日朝|戦車第11連隊の突撃と、訣別電
千歳台にいた戦車第11連隊は、外していた砲を戦車に戻し、四嶺山へ向かった。連隊長の池田末男大佐は、出撃に先立って部下に語り、午前6時50分、師団長と旅団長に宛てて電報を打った。「戦車第十一聯隊将兵は」で始まる訣別の電報である。この電文は、後に池田の故郷の慰霊碑に刻まれた。
池田は戦車の上に立って指揮を執り、先頭で突撃した。ソ連軍は対戦車兵器を持ち、上陸部隊の中に対戦車銃の部隊がいた。戦車は次々に撃たれた。池田は被弾し、その朝のうちに戦死した。44歳。同日付で少将に進級している。
連隊長を失っても、戦車第11連隊は攻撃を続けた。歩兵第73旅団も戦闘に加わり、四嶺山の攻防は日本側が押し返す形になった。ソ連軍は「簡単に抜ける」と考えていた島で、上陸初日に大きな損害を出し、浜に押し込められた。
18日16時。第5方面軍の命令にあった停戦の時刻が来た。日本軍は、優勢のまま攻撃を止めた。
私は、この「優勢のまま止めた」という一点を、占守島の戦いの中で最も重く見ている。勝っていた。押し返していた。それでも、国が降伏した以上、命令の時刻に銃を置いた。戦った側にとって、これがどれほどのことだったかは、想像するしかない。そして、止めた後に彼らを待っていたのは、帰国ではなくシベリアだった。
8月19日から23日|停戦交渉と武装解除

18日夕方、日本側は軍使を出した。ソ連側は当初、交渉に応じる態度を見せなかった。19日、日本側の代表がソ連軍の指揮官と接触し、停戦の条件をめぐる交渉が始まった。ソ連側の要求は、武装解除と全部隊の降伏だった。
20日、交渉の途中でソ連艦艇が日本側の砲台に砲撃を加え、日本側が応射する場面もあった。21日、停戦が成立した。23日、第91師団は武装解除された。
その後、幌筵島、温禰古丹島と、ソ連軍は千島列島を南下していく。占守島の守備隊が4日間止めていなければ、この南下はさらに早かった。
4日間を日付で
| 日時 | 出来事 |
|---|---|
| 8月15日 | 玉音放送。ヴァシレフスキーが千島北部占領作戦を命令 |
| 8月16〜17日 | 第91師団が武装解除の準備。堤師団長が女子工員約400人を北海道へ脱出させる |
| 8月17日 | 樋口第5方面軍司令官が「断乎反撃」を命令。夜半、沿岸の一部に警戒命令 |
| 8月18日 1時30分 | ソ連軍が竹田浜に上陸。四嶺山で独立歩兵第282大隊が応戦 |
| 8月18日 6時50分 | 池田大佐が訣別電を発信。戦車第11連隊が突撃 |
| 8月18日 午前 | 池田大佐戦死。日本軍が四嶺山を押し返す |
| 8月18日 16時 | 停戦命令の時刻。日本軍が優勢のまま攻撃を停止。軍使を派遣 |
| 8月19〜20日 | 停戦交渉。20日にソ連艦艇の砲撃と日本側の応射 |
| 8月21日 | 停戦成立 |
| 8月23日 | 第91師団が武装解除。以後シベリアへ |
戦車と対戦車銃|損害が大きくなった理由
戦車第11連隊の損害が大きかった理由は、装備の差にある。
日本軍の主力だった九七式中戦車は、1930年代後半の設計で、装甲は最も厚い部分でも25ミリ程度だった。ソ連軍の上陸部隊は、対戦車銃を装備した部隊を含んでいた。14.5ミリの対戦車銃は、九七式中戦車の装甲を至近距離で貫通できる。歩兵が伏せて戦車を撃てば、戦車は次々に止まる。
それでも戦車連隊は突撃した。歩兵が四嶺山で押されている以上、戦車が出なければ上陸部隊を浜に押し返せなかったからである。連隊長が先頭に立ったのは、そういう戦いだった。装甲の薄い戦車で対戦車銃に向かって走ることが何を意味するかを、池田は知っていた。訣別電を打ったのは、そのためである。
記憶|豊橋の碑
占守島の戦いの記憶は、戦場ではなく、故郷に残されている。
島は現在ロシア領で、訪れることはできない。戦車第11連隊の戦車の残骸は、今も島に放置されていると伝えられる。
1977年、戦車第11連隊将兵の三十三回忌に、池田末男大佐の長女が、愛知県豊橋市の池田家墓所に慰霊碑を建てた。高さ60センチ、幅1メートルの碑で、正面には「戦車第十一聯隊 将兵 眠る」と刻まれ、裏面には池田が8月18日6時50分に打った訣別電の全文が刻まれている。
日本遺族会がサハリン州と協議して建設し、1996年に完成した「樺太・千島戦没者慰霊碑」は、樺太の北緯50度線付近にある。当時の厚生省発表は千島地域の戦没者概数を約600人としているが、占守島の内訳は示していない。だが、占守島そのものに、日本側の慰霊碑はない。
損害|数字の幅が語るもの
占守島の戦いの損害は、資料によって大きく異なる。
| 側 | 数値 | 出所 |
|---|---|---|
| 日本軍戦死者 | 256人から600人超まで | 『戦史叢書』系の記録と各種戦記で幅がある |
| 日本軍死傷者 | 約800人 | 諸説 |
| ソ連軍死傷者 | 約1,500人から2,300人超まで | ロシア側公刊資料と日本側の推計で幅がある。死者は500人以上とされる |
| ソ連軍の舟艇 | 多数が沈没 | 上陸初日に海岸砲で撃たれた |
数字の幅は、この戦いの記録がどちらの側でも整理されていないことを示している。日本側は武装解除で記録を失い、ソ連側は自軍の損害を大きく語る理由がなかった。
それでも、一つの事実は動かない。3分の1の兵力で奇襲上陸したソ連軍が、上陸初日に押し返され、上陸部隊の側が守備隊より多くの死傷者を出した。上陸作戦としては失敗に近い。停戦が成立したのは、日本側が軍命で攻撃を止めたからであって、ソ連側が勝ったからではない。
その後|守った人々が、シベリアへ

武装解除された第91師団の将兵は、そのまま抑留された。占守島から、幌筵島から、カムチャツカを経てシベリアの収容所へ。帰国は何年も後になった。
守備隊が停戦を守ったのは、国が降伏したからである。降伏した国の兵士として、ポツダム宣言の第9項に従えば、彼らは家庭に帰されるはずだった。ソ連は、その前提を守らなかった。占守島で戦い、優勢のまま銃を置いた兵士たちは、その従順さの代償として、収容所に送られた。堤師団長も抑留された。
私はここに、この戦いの最も苦い部分があると思う。戦って勝ち、命令で止め、止めた結果として連れて行かれた。もし彼らが命令を無視して戦い続けていれば、ソ連軍は占守島を落とせなかったかもしれない。だが彼らは、止めた。それが、降伏した国の軍隊のあり方だった。その正しさが、彼ら自身には何も返さなかった。
抑留の全体はシベリア抑留はなぜ起きたのかで書いている。
占守島の戦いは何を止めたのか
「占守島の戦いが北海道を救った」という言い方は、広く流布している。どこまでが確かで、どこからが推測かを分けておく。
確かなこと。ソ連軍は千島北部の占領を8月15日に命じ、18日に占守島に上陸し、4日間止められた。同じ時期、スターリンは16日にトルーマンへ北海道北半分の占領を要求し、18日に拒否され、22日に北海道上陸を中止した。ソ連海軍は24日未明の留萌上陸を19日の時点で予定していた。
推測にとどまること。占守島での抵抗が、スターリンの北海道上陸中止の直接の理由だったかどうかは、ソ連側の記録では確認できない。トルーマンの拒否、米国との衝突を避ける判断、そして上陸部隊の損害と日程の遅れが、どの順で、どの程度効いたのかは分からない。
だが、次のことは言える。占守島で4日間止められなければ、ソ連軍の千島南下は早まり、北海道上陸の準備は整い、スターリンが22日に中止を決めたときの「上陸できる態勢」の有無が変わっていた可能性がある。北海道への上陸が実行されていれば、日本は東西ドイツのように分断されていた。占守島は、その可能性を小さくした場所の一つである。「救った」と断言はできないが、「関係なかった」と言うこともできない。
そして、この戦いがはっきり止めたものがある。占守島の女性約400人は、上陸の前日に島を出ていた。樺太で、満洲で、女性に起きたことは、占守島では起きなかった。
判定|占守島の戦いは、降伏した国の軍隊がどう戦い、どう扱われたかの記録である
三段階で判定する。
事実の判定。1945年8月18日未明、武装解除の準備中だった占守島の第91師団に対し、ソ連軍約8,300人が奇襲上陸した。守備隊は第5方面軍の「自衛戦闘は妨げない」との命令に基づいて応戦し、戦車第11連隊長・池田末男大佐は訣別電を打って突撃し戦死した。日本軍は優勢のまま18日16時の停戦命令で攻撃を止め、21日に停戦、23日に武装解除され、将兵はシベリアへ抑留された。損害は両軍とも諸説あるが、上陸したソ連側が守備隊より多くの死傷者を出した。
意図の判定。ソ連は日本の降伏公表から3日後に、武装解除中の守備隊を奇襲した。目的は千島列島の占領と北海道への足場であり、日本軍の抵抗を想定していなかった。守備隊は勝つためではなく、攻めてきた相手に対する自衛として戦い、命令で止め、止めた結果として連行された。ソ連はポツダム宣言第9項に反して、停戦を守った兵士を帰さなかった。
歴史の判定。占守島の戦いが北海道の分断を防いだかどうかは、断言も否定もできない。だが、4日間の抵抗がソ連の日程を狂わせたこと、そして島の女性約400人が上陸前日に脱出していたことは事実である。この戦いは「英雄的な勝利」の物語として語られがちだが、その核心は、降伏した国の軍隊が、攻めてきた相手を押し返し、命令で銃を置き、その正しさの代償として11年間帰されなかった、という記録にある。守った人々に、国は何も返さなかった。
占守島の後、ソ連軍が千島を南下して北方四島の住民を追った経過は北方領土の元島民はどう追われたのかで書く。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。
よくある疑問
占守島の戦いはいつ起きましたか
1945年8月18日午前1時30分ごろにソ連軍が上陸し、21日に停戦が成立、23日に日本軍が武装解除された。日本の降伏公表(8月15日)の3日後に始まった戦闘である。
日本軍はなぜ降伏後に戦ったのですか
第5方面軍の命令が、18日16時の停戦を定めつつ「敵が戦闘を仕掛けてきた場合の自衛戦闘は妨げない」としていたためである。武装解除中に奇襲されたため、守備隊は自衛戦闘として応戦し、命令の時刻に攻撃を止めた。
占守島の戦いは北海道を救ったのですか
断言はできない。ソ連は8月16日に北海道北半分の占領を要求し、18日にトルーマンに拒否され、22日に上陸を中止した。占守島での4日間の抵抗がソ連の日程を狂わせたことは事実だが、中止の直接の理由かどうかはソ連側の記録で確認できていない。
占守島の守備隊はその後どうなりましたか
武装解除ののち、そのままシベリアに抑留された。停戦を守り、降伏した国の兵士として扱われるべきだった人々が、ポツダム宣言第9項に反して収容所に送られた。







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