キスカ島撤退作戦|「帰ろう、帰ればまた来られる」――霧の中の55分で5,183人を無傷で救った、日本軍で最も珍しい「撤退の成功」はなぜ起きたのか

キスカ島撤退作戦|霧の55分
要点

太平洋戦争で日本軍が「撤退に成功した」例は、ほとんどない。ガダルカナルからの撤収は成功したが、それまでに約2万人が島で死んでいた。アッツ島では守備隊が全滅し、大本営発表は初めて「玉砕」という言葉を使った。その2か月後、隣のキスカ島で起きたのがこの作戦だ。守備隊は全員生還し、艦隊は一隻も失わず、包囲していた米艦隊は日本軍が消えたことに気づかず、3週間後に無人の島へ3万4,000人で上陸して同士討ちで死者を出した。

この作戦が「奇跡」と呼ばれる理由は、霧と偶然だけではない。一度目の突入で霧が晴れたとき、指揮官の木村昌福少将は艦隊を反転させ、「帰ろう、帰ればまた来られる」と言って手ぶらで帰った。上官からも大本営からも罵倒され、燃料はあと一度分しかなかった。それでも彼は待ち、二度目に霧が来たとき、55分で全員を拾って帰った。私はこの作戦を、日本軍で最も珍しい「撤退の成功」として、そして、なぜそれが珍しかったのかを考える材料として書く。前月に玉砕したアッツ島の戦い、玉砕を美化した大本営発表と並べて読むと、キスカで起きたことの意味が見えてくる。

目次

結論——キスカ島撤退作戦を1枚で

項目内容
作戦名ケ号作戦(第一期:潜水艦、第二期:水上艦艇)
日時第二期の突入は1943年7月29日
指揮官木村昌福少将(第一水雷戦隊司令官)
撤収部隊軽巡阿武隈・木曾、駆逐艦11隻、支援の軽巡多摩ほか
収容人数5,183人(陸海軍)
収容時間55分
日本側損害第二期はゼロ。第一期の潜水艦作戦で伊7・伊9・伊24を喪失
米側の対応撤退に気づかず。8月15日に米加軍3万4,000人が無人の島に上陸し、同士討ちと機雷で100人以上が死傷
評価「奇跡の作戦」。指揮官の慎重さが全員生還を生んだ例として戦史に残る

年表

日付(1943年)出来事
5月12日米軍がアッツ島に上陸
5月20日大本営がアリューシャン方面の放棄を決定
5月29日アッツ島守備隊が全滅。「玉砕」
5月27日〜6月下旬第一期撤収。潜水艦で約820人を収容するが3隻を喪失し中止
7月7日第二期撤収の艦隊が幌筵を出撃
7月15日霧が晴れ、木村少将が反転を命令。手ぶらで帰投
7月22日再出撃
7月26日米艦隊がレーダーの幻影に砲撃し、補給のため一時離脱
7月29日13時40分から55分で5,183人を収容。無傷で離脱
8月1日全艦が幌筵に帰投
8月15日米加軍3万4,000人がキスカ島に上陸。日本軍はいない

なぜキスカに日本軍がいたのか

霧に覆われた北方の海岸と草土で囲われた兵舎
キスカの厳しい地形と霧は、補給にも撤退にも大きく関わった。
なぜキスカに日本軍がいたのか

1943年5月、米軍はキスカを飛ばしてアッツ島に上陸した。守備隊約2,600人は増援もなく戦い、5月29日に全滅する。大本営は5月20日、まだアッツで戦闘が続く中でアリューシャン方面の放棄を決めていた。残るキスカ島の守備隊、陸海軍合わせて約5,200人は、米軍に包囲された孤島に取り残された。次に米軍が来れば、アッツと同じことが起きる。撤退させるか、見殺しにするか。海軍は撤退を選んだ。この選択自体が、当時の日本軍では珍しかった。

第一期——潜水艦での撤収と、その失敗

狭い潜水艦内で待つ兵士たち
潜水艦は隠密性を生かせても、一度に収容できる人数には限りがあった。

最初の撤収は潜水艦で行われた。ガダルカナルの撤収で駆逐艦を消耗した海軍は、水上艦の損失を避けたかった。しかし潜水艦の収容人数は最大でも100人程度で、5,200人を運ぶには何十往復も要る。5月下旬から6月下旬にかけて13隻の潜水艦が投入され、約820人を収容したが、米軍のレーダーと哨戒に捕捉されて伊7、伊9、伊24の3隻が沈み、多くの乗員が失われた。成果に対して損害が大きすぎるとして、6月下旬に潜水艦作戦は打ち切られた。

第一期

木村昌福——下位の成績から出た指揮官

木村昌福

その木村に、海軍で最も難しい撤収作戦が任された。撤収部隊は軽巡阿武隈を旗艦に、軽巡木曾、駆逐艦11隻。駆逐艦島風もこの中にいた。作戦は単純で、霧に紛れてキスカ湾に入り、守備隊を大発で艦に運び、霧が晴れる前に出る。霧がなければ何もできない。霧が晴れれば全滅する。

参加艦艇——霧の中の艦隊

区分艦名役割
旗艦軽巡洋艦 阿武隈木村少将が座乗。収容部隊の指揮
収容艦軽巡洋艦 木曾守備隊の収容
収容駆逐艦夕雲、風雲、秋雲、朝雲、薄雲、響守備隊の収容
警戒隊若葉、初霜、長波、島風、五月雨警戒・護衛。若葉は損傷して離脱、初霜は補給隊へ
支援軽巡洋艦 多摩第五艦隊司令部が座乗して支援
補給隊護衛海防艦 国後補給隊に所属
補給給油艦霧待ちの間の燃料補給

艦隊は霧の中で編隊を保つこと自体が難題だった。二度目の出撃では26日に濃霧の中で国後と阿武隈、続いて駆逐艦同士が衝突し、若葉が損傷して離脱している。衝突で艦を失う危険を冒してでも、霧がなければ作戦は成立しなかった。国後は補給隊の艦であり、キスカ湾への突入を先導した艦とは区別する必要がある。

一度目の突入——7月15日の反転

霧の海を見つめる艦橋の海軍士官たち
引き返す判断と、再び霧を待つ判断。その積み重ねが収容につながった。
一度目の突入

帰投した木村への非難は凄まじかった。直属の第五艦隊司令部だけでなく、連合艦隊、大本営から「なぜ突入しなかった」「直ちに作戦を再開せよ」と罵声が届いた。ちょうどソロモンでは7月6日と12日に水雷戦隊の司令官が2人続けて旗艦とともに戦死し、指揮官先頭で突っ込む姿勢が称えられている最中だった。しかも8月になれば霧が晴れて米軍の上陸が確実になり、この海域に備蓄した重油は底を突きかけていた。次の出撃が最後だった。

木村は動じなかった。反転を命じたときの言葉として、「帰ろう、帰ればまた来られる」が伝えられている。艦隊内の若い士官や参謀は突入を主張したが、木村は霧のない海に艦隊を入れることを拒んだ。私はこの反転を、この作戦の本当の核心だと思っている。突入して全滅すれば、5,200人の守備隊も、艦隊も、玉砕として大本営発表に載っただろう。木村は、玉砕を選ばなかった。

二度目の突入——7月29日、霧の55分

北方の海岸で小艇へ乗り込む兵士と支える水兵
1943年7月29日、水上部隊による収容で守備隊5,183人が島を離れた。
二度目の突入

7月29日正午、艦隊は霧の中でキスカ湾に突入した。途中、阿武隈と島風が敵艦と見えた影に魚雷を撃ったが、それは軍艦に似た島だった。13時40分、収容開始。守備隊は事前に湾内に集結し、大発で次々に艦に乗り移った。艦は定員を無視して兵を詰め込み、55分後、5,183人の収容が完了した。艦隊は全速で湾を出た。

帰路、浮上航行中の米潜水艦とすれ違ったが、各艦は米艦に似せた偽装を施しており、気づかれなかった。8月1日までに全艦が幌筵に帰投した。7月29日の収容では戦闘による犠牲を出さず、5,183人を撤収させた。先行した潜水艦の喪失や、出撃中の衝突損傷までゼロだったわけではない。太平洋戦争で日本軍がこれほど完全に成功した作戦は、ほかにない。

無人島への上陸——米軍の8月15日

無人島への上陸

米海軍の戦史家モリソンは、この上陸を「史上最大の、最も実戦的な上陸演習だった」と皮肉っている。米軍の側から見れば、キスカは情報の失敗の例だ。日本側から見れば、撤退が完璧だったことの証明でもある。

なぜ奇跡になったのか——霧と偶然と、一人の判断

キスカの成功は、いくつもの偶然の上に成り立っている。霧が二度目には続いたこと、米艦隊が幻影に砲撃して離脱したこと、帰路の米潜水艦が気づかなかったこと。どれか一つが違えば、作戦は失敗していた。

しかし偶然を偶然として使えたのは、木村の判断があったからだ。一度目に霧が晴れたとき、突入していれば偶然を待つ機会はなかった。木村は非難を承知で待ち、燃料があと一度分しかない状況で、二度目の霧に賭けた。私はこの判断を、勇気ではなく、冷静さとして評価したい。指揮官先頭で突っ込んで死ぬことが称えられた海軍で、突っ込まずに帰ることを選べる指揮官は、木村のほかにほとんどいなかった。

もう一つ、この作戦が示しているのは、日本軍にも「撤退させる」判断ができたという事実だ。大本営は5月20日、アッツの守備隊が戦っている最中にアリューシャンの放棄を決め、キスカの撤収を命じた。アッツは間に合わず玉砕し、キスカは間に合った。撤退の決断が数週間早ければアッツも救えたかもしれない、という問いは残る。しかしキスカの5,183人は、その判断があったから生きて帰った。日本軍の敗北の多くが「撤退を決められなかった」ことから来ていることを思えば、キスカは例外として記憶する価値がある。玉砕が標準になった日本軍の中で、この作戦がどれほど異質だったかは、日本海軍はなぜ敗れたのか太平洋戦争の激戦地15選を読むと分かる。

木村昌福のその後——多号作戦と礼号作戦

木村昌福のその後

木村は戦後、1960年に死去した。海軍兵学校をビリで出た男が、海軍で最も成功率の高い指揮官の一人として記憶されている。ハンモックナンバーで人事を決めた海軍にとって、木村の経歴は、その制度への静かな反証でもある。

『失敗の本質』は日本軍の失敗を「撤退を決められない」「学習できない」組織の問題として分析した。キスカはその逆の例で、撤退を決め、一度目の失敗から学び、二度目に成功した。日本軍の失敗を組織論で読むなら、この作戦は数少ない対照例として役に立つ。

映画と本で知るキスカ島撤退作戦

作品内容
『太平洋奇跡の作戦 キスカ』(1965年)三船敏郎が木村役の指揮官を演じた東宝映画。反転の場面と突入を丁寧に描く
将口泰浩『キスカ島 奇跡の撤退』作戦の経過と木村昌福の判断を追ったノンフィクション
佐藤和正『キスカ』参加者の証言を集めた記録
サミュエル・E・モリソン『アメリカ海軍作戦史』米側から見たキスカと「上陸演習」の記述

『太平洋奇跡の作戦 キスカ』は、日本の戦争映画で数少ない「誰も死なない」作品で、動画配信で観られる時期がある。

戦記やノンフィクションを通勤中に耳で聞きたい人には、Audibleに太平洋戦争関連の書籍が揃っている。

まとめ——玉砕しなかった島

まとめ
まとめ

よくある質問

キスカ島撤退作戦とは何か?

1943年7月29日、アリューシャン列島のキスカ島に孤立した日本軍守備隊5,183人を、木村昌福少将の第一水雷戦隊が霧に紛れて55分で収容し、無傷で脱出させた作戦。正式名称はケ号作戦。

なぜ「奇跡の作戦」と呼ばれるのか?

米艦隊に包囲された島から、艦隊の損害も守備隊の犠牲もゼロで全員を撤収させ、米軍が日本軍の撤退に気づかず3週間後に無人の島へ上陸したため。太平洋戦争で日本軍がこれほど完全に成功した作戦はほかにない。

「帰ろう、帰ればまた来られる」とは?

一度目の突入で霧が晴れた7月15日、木村昌福少将が反転を命じたときの言葉として伝えられる。上官と大本営から罵倒されたが、木村は霧のない海への突入を拒み、二度目の霧で成功させた。

第一期の潜水艦作戦はどうなったのか?

5月下旬から6月下旬に13隻の潜水艦で約820人を収容したが、伊7・伊9・伊24の3隻を失い、損害が大きすぎるとして中止された。

米軍はキスカ島でどうなったのか?

日本軍の撤退に気づかず、8月15日に米加軍3万4,000人が上陸した。霧の中で同士討ちが起き、日本軍の残した罠や機雷で駆逐艦アブナー・リードが損傷し、多数の死傷者を出した。

木村昌福はその後どうなったのか?

1944年11月の多号作戦でレイテ島への増援輸送を成功させ、12月の礼号作戦でミンドロ島の米軍上陸地点を砲撃して帰投した。海軍兵学校を最下位近くで卒業した経歴で、太平洋戦争後半に最も成功率の高い指揮官の一人と評価される。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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