『豊臣兄弟!』の慶は実在した?秀長の正室について分かること――名前も親も生年も不明の女性が、記録にだけ残した「夫を想う跡」

『豊臣兄弟!』の慶は実在した?秀長の正室について分かること――名前も親も生年も不明の女性が、記録にだけ残した「夫を想う跡」

『豊臣兄弟!』で吉岡里帆さんが演じる慶。美濃の武将・安藤守就の娘で、最初の夫を戦で失い、信長の命で小一郎(秀長)に嫁いでくる。夫の仇の側に嫁がされたのではないか、という影を背負った人物として描かれている。

見ていて気になるのは、「この人は本当にいたのか」だろう。答えから言うと、秀長に正室がいたことは確かだ。ただし、その女性の実名も、親も、生まれた年も、はっきりとは分かっていない。分かっているのは、出家したあとの名前と、いくつかの記録に残った行動だけだ。

この記事では、ドラマの「慶」と、史料から分かる秀長の正室の姿を切り分ける。出自、結婚した時期、夫婦の関係について、分かることと、ドラマが創作で補っていることを順に整理していく。

目次

結論|慶は実在したのか、3行で

要点
秀長の正室を、三つに分けて読む
実在した正室と、史料の空白を補うドラマの設定を分けて見たい。

ドラマの慶はどう描かれているか

まず、ドラマの設定を押さえておく。

人物としてはとてもよくできている。敵方から来た妻が、夫を疑いながらしだいに信じていく。戦国の政略結婚の重さを、一人の女性の心の動きとして見せる仕掛けだ。

では、このうちどこまでが史料で確かめられるのか。

史料に残る秀長の正室

秀長の正室が登場する記録を、年の順にならべるとこうなる。

時期 史料 記されていること
天正13年(1585年)9月 『多聞院日記』(奈良・興福寺の僧の日記) 秀長の大和郡山入りにともなう「濃州女中」。秀長の妻を指すとみられる
天正18年(1590年)4月 『多聞院日記』 病の重くなった秀長のため、興福寺に病気平癒の祈祷を頼む
天正19年(1591年)以降 『誓願寺奉加帳』(京都・誓願寺) 「大和様慈雲院殿」。秀長の死後、出家して夫を弔ったことが読み取れる
秀長の葬儀のころ 古渓宗陳の語録『蒲庵稿』 「芳室慈雲院紹慶大禅定尼」という尊称
文禄2年(1593年)5月 『多聞院日記』 「大納言の御内の母は伝左衛門の内」という記述。父をめぐる説の根拠になる
江戸時代の記録 『森家先代実録』 秀長の養女の養母として「智雲院」の名
不明 高野山の豊臣家墓所 五輪塔に「慈雲院芳室紹慶」
現在の大和郡山城
現在の大和郡山城。秀長はここを大和支配の拠点とした。写真は復元された追手門。 写真:Fg2 / Wikimedia Commons / Public domain(縮小・WebP変換)

表を見ると分かるとおり、本人が何かを書き残したものはない。日記に名前ではなく呼び名で出てきて、寺の記録に法名で残っている。戦国の女性の記録としては、これでもまだ多い方だ。

名前|「慶」はどこから来たのか

秀長の正室の実名は分からない。分かっているのは、出家したあとの院号「慈雲院」と、法名「芳室紹慶」だ。

ドラマの「慶」は、この「紹慶」から取ったと考えるのが自然だろう。五輪塔にも葬儀の尊称にも「慶」の字が共通して入っているため、これが実名の一字だった可能性を指摘する見方もある。ただし、法名に俗名の一字を入れることは珍しくないとはいえ、実名が「慶」だったと言い切れる史料はない。

『森家先代実録』には「智雲院」という名も出てくる。「慈」と「智」の違いで、同じ人を指すとみられている。書き写すうちに字が入れかわったのかもしれない。

なぜ戦国の女性は名前が残らないのか

秀長の正室にかぎらず、戦国の女性は実名が残っていないことが多い。記録の多くは、男性が男性のために書いたものだからだ。日記や手紙では、女性は「御内」「女中」「北政所」のように、夫や住まいとの関係で呼ばれる。名前が記録に出てくるのは、出家して法名を持ったときや、亡くなって墓や過去帳に刻まれたときぐらいになる。

秀吉の正室のねね(北政所)でさえ、実名は「ねね」「おね」「寧」と伝え方が分かれている。大名の正室ですらそうなのだから、記録の少ない秀長の妻の実名が分からないのは、むしろ当たり前と言っていい。ドラマの役名は、そうした空白を埋めるために、法名などから取って付けられることが多い。

出自|伝左衛門の娘か、美濃の女性か

親については、二つの手がかりがある。

秀長の正室の父と出身地をめぐる二つの記述
史料に出てくる呼び方と、そこから導く解釈は同じものではない。研究者による読みの違いを整理した。

一つ目は、伝左衛門という人物だ。『多聞院日記』の文禄2年(1593年)の記事に、「大納言の御内の母は伝左衛門の内」とある。大納言は秀長、御内は妻、伝左衛門の内は伝左衛門の妻のこと。つまり、秀長の妻の母が伝左衛門の妻だった、と読める。戦国史研究家の和田裕弘氏は、ここから秀長の正室の父を、秀長の家臣・神戸伝左衛門秀好とみている。大徳寺大光院の過去帳に「慈雲院殿父」との書き込みがあることも、根拠に挙げられている。

ところが、話はここで少しややこしくなる。秀長には、正室のほかに摂取院光秀と呼ばれる妻がいた。大和の秋篠氏の出身とされ、その父も秋篠伝左衛門とされる。大河の時代考証を担う黒田基樹氏は、伝左衛門を摂取院の父とする説をとっている。「伝左衛門の娘」が正室のことなのか、もう一人の妻のことなのか。研究者のあいだでも読みが分かれている。

二つ目は、さきほどの「濃州女中」だ。濃州は美濃のこと。ここから、正室を美濃の出身とみる研究者もいる。ただし、秀長はこのころ「美濃守」を名乗っていた。濃州女中は「美濃守どのの奥方」という意味で、出身地とは関係ない、という読み方もできる。

このあたりを見ていくと、ドラマが慶を美濃の安藤守就の娘にした理由も、なんとなく見えてくる。美濃出身説の手がかりを生かしつつ、物語として最もドラマの起きる父親を選んだのだろう。ただ、守就の娘とする史料はなく、ここは創作と見ていい。

結婚の時期|永禄9〜10年ごろ

結婚した時期も、はっきりした記録はない。黒田基樹氏は永禄9年(1566年)ごろ、ほかの研究者は永禄10年(1567年)ごろと推定している。

推定の根拠は、子どもの年齢だ。秀長の実の子・与一郎は、天正10年(1582年)ごろに亡くなったとみられる。元服をすませていたと考えられるので、生まれたのは1560年代の終わりごろになる。そこから逆算すると、結婚はその少し前、ということになる。

秀長は天文9年(1540年)の生まれだから、結婚したのは26〜27歳のころ。当時としては遅い方だ。信長が美濃を手に入れて岐阜を本拠にしたのが永禄10年(1567年)。結婚が美濃攻めのころと重なるのは、美濃出身説ともかみ合う。ドラマが稲葉山城の戦いと結婚を結びつけたのは、この時期の重なりをうまく使ったものだろう。

子どもたち|与一郎と、娘たち

秀長と正室のあいだには、男の子が一人いたとみられる。与一郎(小一郎とも)と呼ばれ、元服して妻も迎えていたとされるが、本能寺の変の前後に若くして亡くなった。秀長が甥の秀保を跡継ぎにしたのは、この実子を失っていたからだ。秀保と大和豊臣家のその後は『豊臣秀保とは?』で書いた。

与一郎の妻は、のちに秀長の養女になり、さらに森忠政に嫁いでいる。『森家先代実録』で「智雲院」の名が出てくるのは、この養女の養母としてだ。息子を亡くしたあとも、その妻を娘として家に残していたことになる。

秀長には娘も二人いた。毛利秀元に嫁いだ大善院(おきく)と、秀保の妻になったおみやだ。二人の母については、正室とする見方と、摂取院光秀とする見方がある。

夫婦の関係|記録から読めること

夫婦仲を直接語った記録はない。ただ、いくつかの事実から、ある程度のことは読み取れる。

まず、天正18年(1590年)の祈祷だ。秀長の病が重くなると、正室は奈良の興福寺に病気平癒の祈祷を何度も頼んでいる。『多聞院日記』は興福寺の僧の日記なので、頼まれた側の記録だ。依頼の回数を見るかぎり、夫の病をかなり案じていたことは確かだろう。

次に、妻妾の少なさがある。兄の秀吉は多くの側室を抱えたが、秀長について史料で確かめられる妻は、正室と摂取院光秀の二人ぐらいしかいない。ほかにもいたと推測する研究者もいるが、名前は残っていない。戦国の大大名としては、かなり少ない方だ。

ドラマでは、慶が夫を疑いながらしだいに心を通わせていく。疑いの部分は創作だが、夫の病のために祈祷を重ねた妻、という史料の姿とは、最後にきちんとつながるように作られている気がする。

秀長の死後|慈雲院として

天正19年(1591年)1月、秀長が大和郡山城で亡くなると、正室は髪を下ろして慈雲院と名乗った。京の誓願寺に夫の供養のための寄進をし、同じ年には高野山で自分の生前供養も行っている。

京都・大徳寺の塔頭、大光院
京都・大徳寺の塔頭、大光院。秀長の菩提寺として郡山で始まり、のちに京都へ移された。 写真・画像:運動会プロテインパワー / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(縮小・WebP変換)

秀長の死の翌月には、もう一つ記録がある。千利休の事件のあおりで、大徳寺の長老たちが罪に問われかけたとき、慈雲院は大政所(秀吉・秀長の母)とともに助命を願い出たとされる。秀長が利休や大徳寺と深くつながっていたことを考えると、夫の縁を守ろうとした動きにも見える。

その後は、跡を継いだ秀保の後見役を務めたとみられる。文禄4年(1595年)に秀保が亡くなり、大和豊臣家が絶えたあとも、慶長年間に2000石あまりの所領を持っていたという(柴裕之氏による)。亡くなったのは元和6年(1620年)3月28日とする記録がある。大坂の陣で豊臣家が滅んだのを、見届けたことになる。

分かること、分からないこと、ドラマの創作

ここまでを、一枚の表にまとめておく。

項目 史料で分かること 説が分かれること・不明なこと ドラマの創作と見てよいこと
存在 秀長に正室がいたこと ― ―
名前 院号「慈雲院」、法名「芳室紹慶」 実名。「慶」が実名の一字かどうか 「慶」という名で呼ばれていたこと
父 ― 伝左衛門(神戸)の娘とする説、伝左衛門は側室の父とする説 安藤守就の娘
出身 ― 美濃説(「濃州女中」の解釈による)、尾張説 ―
前夫 ― 再婚だったかどうかもはっきりしない 斎藤家の家臣で、稲葉山城の戦いで討死
結婚 ― 永禄9〜10年(1566〜67年)ごろの推定 信長の命による人質の結婚
子 実子の与一郎が早世したこと 娘二人の母が正室か側室か ―
夫婦関係 病の秀長のために祈祷を何度も頼んだこと。死後に出家して弔ったこと ― 夫を仇と疑う心の動き
死後 秀保の後見、2000石あまりの所領(研究者の指摘) 没年(1620年とする記録) ―

こうして並べると、ドラマは史料の空白を埋めるように慶を作っていることがわかる。史料が語る部分(法名、美濃との縁らしきもの、結婚の時期、夫を案じる姿)はきちんと拾ったうえで、語らない部分(父、前夫、結婚のいきさつ、心の中)に物語を入れている。歴史ドラマの作り方として、かなり誠実な部類だと私は思う。

なぜドラマは「人質の結婚」にしたのか

慶の結婚を、信長が命じた人質の結婚として描いたのは、この特集で書いてきたテーマとつながっている。

秀吉は、徳川家康を臣従させるために、妹の旭を家康に嫁がせ、さらに母の大政所まで家康のもとへ送った。戦国の結婚は、家と家のあいだの信頼の担保だった。嫁いだ女性は、同時に人質でもあった。慶の物語は、秀長の家の中に、その構図を小さく持ち込んだものと読める。

もう一つ、軍事ブログらしい話をしておく。戦国大名の妻は、夫が戦に出ているあいだ、城と家を守る役目を負っていた。秀長は四国にも九州にも大軍を率いて出ている。そのあいだ大和郡山の留守を預かっていたのは、家臣たちと、この正室だった。夫の留守に家を守った妻という点では、ギリシア神話のペネロペに通じるものがある(『ペネロペとは』)。

いまの自衛官の家族にも、似た話がある。転勤のたびに住む町が変わり、夫が任務で家を空けるあいだ、家を回すのは家族だ(『自衛官の妻のリアル』)。尾張から近江、播磨、但馬、そして大和へ。秀長の正室も、夫の出世のたびに住む城を変えてきたはずだ。

もっと知るための本

秀長の正室について書いた本はまだないが、秀長の評伝や一族の研究の中で、それぞれの説が紹介されている。父を伝左衛門とする説は和田裕弘『豊臣秀長』(中公新書)に、伝左衛門を摂取院の父とする説は黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(角川選書)に詳しい。所領の話は柴裕之『羽柴秀長』(KADOKAWA)が扱っている。説が分かれるところは、何冊か読みくらべると面白い。

慈雲院ゆかりの地をめぐる

正室の足跡をたどるなら、奈良と高野山がいい。大和郡山城は、秀長と正室が天正13年(1585年)に入った城で、いまは石垣と復元された追手門が残る。城の近くには秀長の墓とされる大納言塚がある。高野山の奥之院には豊臣家の墓所があり、慈雲院の五輪塔が伝わる。奈良から高野山までは車で2時間ほどなので、1泊で回るのにちょうどいい。

よくある疑問に短く答える

『豊臣兄弟!』の慶は実在の人物?

秀長の正室は実在した。出家後の名は慈雲院で、法名の「芳室紹慶」が役名の「慶」のもとになったとみられる。ただし、実名が慶だったと言い切れる史料はない。

慶は本当に安藤守就の娘?

史料では確かめられない。父については、秀長の家臣・伝左衛門の娘とする説があるが、伝左衛門は別の妻(摂取院光秀)の父だとする説もある。安藤守就の娘という設定は、ドラマの創作と見ていい。

秀長と慶はいつ結婚した?

永禄9〜10年(1566〜67年)ごろと推定される。息子・与一郎の年齢から逆算した推定で、結婚の日付を記した史料はない。

秀長と慶に子どもはいた?

男の子の与一郎がいたが、天正10年(1582年)ごろに若くして亡くなった。娘も二人いたが、その母が正室か、もう一人の妻かは説が分かれる。

秀長の死後、慶はどうなった?

出家して慈雲院と名乗り、夫を弔った。跡継ぎの秀保の後見を務めたとみられ、元和6年(1620年)に亡くなったとする記録がある。

豊臣秀長特集の読み方

この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の追加記事として書いた。秀長その人については特集の入口『豊臣秀長は何をした人?』、結婚と人質で豊臣と徳川を結んだ話は『旭姫はなぜ家康に嫁いだ?』『大政所はなぜ家康のもとへ?』で書いている(順次公開)。

まとめ|記録の空白に、物語が入る

秀長の正室は、たしかに実在した。けれど、実名も、親も、生まれた年も分からない。残っているのは、出家したあとの名前「慈雲院芳室紹慶」と、日記や寺の記録に残ったいくつかの行動だけだ。

その少ない記録から浮かぶのは、夫の病のために祈祷を何度も頼み、夫の死後は髪を下ろして菩提を弔い、跡継ぎの秀保を後見した女性の姿だ。安藤守就の娘であることや、前夫を稲葉山で失ったこと、夫を仇と疑ったことは、ドラマが記録の空白に入れた物語だ。

分かることと、創作で補われたことを分けて見ると、ドラマはもっと面白くなる。史料が黙っているところで、脚本家が何を選んだのか。その選び方にこそ、作り手がこの夫婦をどう見ているかが出ていると私は思う。

出典・参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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