橘花とは?日本初の国産ジェット戦闘機が終戦8日前に見せた「未来」――開発秘話・性能・ネ20エンジン・展示情報まで徹底解説

『橘花(J9Y)』徹底解説:日本初の国産ジェットは“Me 262の影”をどう越えたか
目次

導入:1945年8月7日、木更津の空に響いた「新しい音」

1945年8月7日、千葉県・木更津飛行場。

午後1時、灼熱の夏空に向けて、見慣れない形の機体が滑走路を疾走し始める。

プロペラがない。代わりに、両翼の下から奇妙な金属の筒がぶら下がっている。

800mほど滑走したところで、その機体はふわりと宙に浮いた。高度600m、飛行時間12分。たったそれだけの飛行だった。

だが、この瞬間、日本の航空史は新たなページを刻んだ。

プロペラに頼らない、純粋な噴射推進。ターボジェットエンジンを搭載した日本初の国産機が、ついに空を飛んだのだ。

その名は橘花(きっか)。

「橘」は日本固有の柑橘類で、古来より「永遠」の象徴とされてきた。その花の名を冠した飛行機が、終戦わずか8日前に初飛行を成功させたという事実。

あと1年、いや半年でも早ければ。もっと多くの機体が完成していれば。

僕たちはそう思わずにはいられない。

この記事では、日本初のジェット機・橘花の開発秘話から性能、Me262との比較、国産エンジン「ネ20」の技術的挑戦、そして陸軍版ジェット計画「火龍」との関係まで、徹底的に掘り下げていく。

ゲームでの登場情報やプラモデル、現存する展示情報も網羅したので、最後まで読んでほしい。


第1章:橘花とは何か?――基本情報を3分で理解する

1945年8月7日、木更津飛行場から離陸する日本初のジェット機・橘花。両翼下のネ20エンジンから排気を吹き出しながら空に舞い上がる歴史的瞬間

1-1. 橘花の基本スペック

まずは橘花の基本データを押さえておこう。

項目内容
名称橘花(きっか)
開発海軍航空技術廠(空技廠)・中島飛行機
分類特殊攻撃機
初飛行1945年8月7日
乗員1名
全長9.25m
全幅10.0m
全高3.05m
全備重量約3,500kg
エンジンネ20ターボジェット × 2基
推力475kg × 2
最高速度約676km/h(高度6,000m、予定値)
航続距離約555km(高度6,000m、予定値)
武装五式30mm機銃 × 2(第二次試作機以降)または 500kg/800kg爆弾 × 1

1-2. 「特殊攻撃機」という分類の意味

橘花はしばしば「戦闘機」と呼ばれることがあるが、正確には「特殊攻撃機」である。

海軍の命名規則では、機体名に「花」がつくものは特攻機を意味する。桜花がその代表だ。では橘花も体当たり攻撃を前提とした特攻機だったのか?

実はそうではない。

橘花のエンジン艤装を担当した技術者・渡辺進は戦後こう語っている。

「橘花は体当たり攻撃機ではなく、最初から帰還を前提とした特殊攻撃機であった」

つまり、名目上は「特攻機」として開発許可を得る必要があったが、実際の運用は高速を活かした対艦攻撃機として計画されていた。防弾板も装備され、爆弾を投下して帰還することが想定されていたのだ。

これは当時の海軍の「空気」を反映している。末期の海軍では、「特攻」という名目でなければ新型機の開発許可が下りにくい状況があった。橘花の開発者たちは、その制約の中で最大限の合理性を追求したと言える。

桜花の詳細解説はこちら → 桜花(MXY-7)の全貌

1-3. 海軍略符号の謎

橘花の海軍略符号は、実は正確には判明していない。

インターネット上やプラモデルでは「J9Y」「J9N」「J10N」などと表記されることがある。だが、「J」は局地戦闘機(陸上戦闘機)を意味する記号であり、特殊攻撃機を意味する「M」ではない。

厳密に言えば「M7N」か「M8N」が妥当だという意見もある。しかし、終戦時に軍機密として書類が焼却されたため、真相は闇の中だ。


第2章:なぜジェット機が必要だったのか――1944年、追い詰められた日本

2-1. プロペラ機の限界

1944年夏、日本の航空技術は深刻な壁に直面していた。

高高度を飛行するための過給機(スーパーチャージャー)付き高性能レシプロエンジンの開発が行き詰まっていた。飛燕(Ki-61)に搭載された液冷エンジン「ハ40」は信頼性に難があり、稼働率を大きく下げていた。

飛燕の苦闘と栄光 → 飛燕(Ki-61)徹底解説

さらに深刻だったのは燃料事情だ。

マレー半島と日本本土間の制海権を失い、高オクタン価の航空ガソリンの供給が途絶えつつあった。零戦や疾風といった高性能機も、燃料がなければ飛べない。

零戦の完全ガイド → 最強と謳われた零戦の真実

疾風の詳細解説 → 疾風(Ki-84)徹底解説

2-2. ジェットエンジンという「解答」

そこで浮上したのが、ジェットエンジンだった。

ジェットエンジンには、レシプロエンジンにはない決定的な利点があった。

  1. 低質燃料でも動く:高オクタン価ガソリンが不要。灯油に近い燃料、さらには松根油(松の根から抽出した油)でも運転可能。
  2. 構造がシンプル:ピストンやクランクシャフトといった複雑な往復機構がない。量産が比較的容易。
  3. 高速性能:プロペラ効率の限界を超え、より高速な飛行が可能。

当時の日本にとって、ジェットエンジンは「燃料問題」と「生産問題」を同時に解決し得る夢の技術だった。

2-3. ドイツからの情報

1944年、ドイツと日本の間には潜水艦による細々とした技術交流が続いていた。

その中でもたらされたのが、世界初の実用ジェット戦闘機・メッサーシュミットMe262の情報だった。さらに、より小型のジェットエンジン・BMW003の設計データも含まれていた。

ただし、届いたのは「図面」だけだ。実機もエンジンの実物もない。日本の技術者たちは、限られた資料を手がかりに、ほぼゼロから開発を進めなければならなかった。


第3章:ネ20エンジン――「不可能」を可能にした国産ジェット

日本初の実用ジェットエンジン「ネ20」の構造図。8段軸流式圧縮機、燃焼室、1段タービンの配置が確認できる

3-1. 日本のジェット開発前史

日本でのジェットエンジン研究は、実は1942年頃から始まっていた。

海軍航空技術廠(空技廠)の種子島時休海軍技術大佐のもとで、「ネ10」「ネ10改」(推力230kg)、「ネ12」「ネ12B」(推力300〜320kg)といった試作エンジンが開発されていた。

「ネ」は「燃焼噴射推進器(燃焼ロケット)」の頭文字だ。

これらのエンジンは、独自研究による成果だったが、性能面で課題を抱えていた。

3-2. BMW003との出会い

転機は1944年、ドイツからBMW003の設計資料が届いたときに訪れた。

開発チームはドイツの図面を見て、「これまでの方向性は間違っていなかった」と自信を深めたという。BMW003の構造は、日本チームが試行錯誤で辿り着いた結論と、多くの点で一致していたのだ。

だが同時に、ネ12までのエンジンには根本的な問題があることも明らかになった。

「ネ12エンジンは中途半端なので一切ご破算にし、出直す方が賢明である」

この判断のもと、BMW003を参考にしつつ、新設計のエンジン「ネ20」の開発がスタートする。

3-3. ネ20の仕様と技術的挑戦

ネ20の基本スペックは以下の通りだ。

項目内容
形式軸流式ターボジェット
全長1,800mm
直径620mm
重量474kg
推力475kg
圧縮機8段軸流式
タービン1段
回転数11,000rpm

参考としたBMW003の推力は約800kg、Me262に搭載されたJumo004は約900kg。ネ20の475kgは、これらの約半分に過ぎない。

だが、これは「劣っていた」というより「現実的な選択」だった。

3-4. 物資不足との戦い

ネ20の開発で最大の障壁となったのは、物資の欠乏だった。

タービンブレードには、本来ならニッケルやコバルトを主成分とした超耐熱合金が必要だ。だが、日本ではこれらのレアメタルが入手困難だった。

開発チームは、鉄をベースにマンガンを加えた代替材料を開発。さらに燃焼室にはステンレス鋼を使用したが、後にアルミニウム浸漬処理(表面に耐食性を持たせる処理)を施した軟鋼に切り替えた。

燃料も問題だった。化石燃料が枯渇する中、松根油(松の根から抽出した油)とアルコールを混合した代替燃料が試験された。

3-5. 推力軸受の焼き付き問題

開発中、最も深刻だったのは推力軸受座金(通称プロペラリング)の焼き付き問題だった。

工作精度の問題もあり、軸受が焼き付いてエンジンが停止する事故が頻発した。

この危機を救ったのが、日立製作所安来工場の小柴定雄博士だった。彼が開発したクロム・タングステン鋼(Cr-W鋼、通称「イ513」)をこの部品に採用することで、ようやく実用化の目処が立った。

3-6. エンジン寿命という課題

ネ20の連続運転可能時間は、わずか数十時間だった。

同時期のドイツやイギリスのジェットエンジンと比較しても短い。タービンブレードの取り付け部に亀裂が生じやすく、これが寿命を制限していた。

ただし、戦後にアメリカのクライスラー社がネ20の試運転を行った際には、11時間46分の運転後もタービンに亀裂は認められなかったという記録もある。条件次第では、より長時間の運転が可能だったのかもしれない。

3-7. 1945年6月、ネ20完成

紆余曲折を経て、1945年6月、ネ20はついに連続4時間の運転試験に合格した。

これが日本初の実用ジェットエンジンの誕生だった。


第4章:機体の設計思想――Me262の「縮小版」ではない

4-1. Me262との外見的類似

橘花の外見は、ドイツのMe262に似ている。双発ジェット、両翼下へのエンジン懸架、そして全体的なシルエット。

だが、橘花は単なるMe262のコピーではない。

むしろ、日本の技術力と資材状況に合わせて「全くの新規設計」が行われた機体だ。

4-2. 小型化という選択

Me262と橘花のサイズを比較してみよう。

項目Me262橘花
全長10.6m9.25m
全幅12.6m10.0m
全備重量約6,500kg約3,500kg
エンジン推力900kg × 2475kg × 2

橘花はMe262より一回り小さく、重量は約半分。エンジン推力も半分だ。

この小型化は、推力の低いネ20に見合った機体とするため、そして限られた資材で多くの機体を生産するための決断だった。

4-3. 主翼の設計

Me262は後退翼を採用していたが、橘花の主翼は後退翼ではない。

前縁にテーパー(先細り)をつけた直線翼に近い形状だ。これは、後退翼の空力特性を日本が十分に研究する時間がなかったことを反映している。

ただし、この形状は製造を容易にし、強度面でも有利だった。

4-4. 折り畳み式主翼

橘花の特徴的な設計の一つが、折り畳み式の主翼だ。

これは空母への搭載を想定したものではなく、狭い防空壕に格納するための工夫だった。空襲が激化する中、機体を守るために必要な機能だったのだ。

4-5. 生産効率の追求

橘花の設計では、生産効率が強く意識されていた。

大量に実戦投入されて一世を風靡した零戦と比較すると、性能面では必ずしも上回っていないが、シンプルな設計により約3倍の生産効率を実現できたという。

末期の日本にとって、「高性能だが作れない機体」より「そこそこの性能で量産できる機体」の方が価値があった。

4-6. 武装の変遷

当初、橘花は固定武装(機銃)を装備しない設計だった。

胴体下に500kgまたは800kgの爆弾を1発懸架し、敵艦に対して水平爆撃・緩降下爆撃、あるいは反跳爆撃を行う攻撃機として計画された。

しかし、第二次試作機からは軍部の要請により五式30mm固定機銃一型が搭載されることになった。ただし、その数は2挺。Me262の30mm機関砲4挺、装弾数360発に対し、橘花は2挺・100発と、かなり控えめだ。

これは、橘花の主任務があくまで対艦攻撃であり、空対空戦闘は二次的なものとされていたためだ。B-29迎撃には、同時期に開発されていたロケット戦闘機・秋水が充てられる予定だった。


第5章:養蚕小屋で生まれたジェット機――組み立ての苦闘

空襲を避けて農家の養蚕小屋に疎開し、日本初のジェット機・橘花の組み立てを続ける技術者たち

5-1. 空襲との戦い

橘花の機体製作は、群馬県にある中島飛行機・小泉製作所で行われた。

だが、B-29による大規模空襲で工場は壊滅状態となる。橘花の格納庫も被害を受けたが、機体自体は奇跡的に無事だった。

5-2. 農家への疎開

空襲を避けるため、機体は工場から疎開することになった。

移転先は、現在の東武伊勢崎線・木崎駅付近にあった農家の養蚕小屋だった。

日本初のジェット機が、蚕を育てていた小屋で組み立てられる。

信じがたい話だが、これが当時の現実だった。資材も人員も分散し、空襲の合間を縫って作業が進められた。

5-3. 試作機完成

この過酷な状況の中、1945年6月、試作機が完成した。

エンジンの耐久試験もパス。飛行試験を行うため、機体は木更津基地へトラックで輸送された。


第6章:初飛行――1945年8月7日の12分間

1945年8月、木更津飛行場で試験飛行の準備をする橘花。両翼下のエンジンナセルと、コクピットに収まる高岡迪少佐の姿

6-1. テストパイロット・高岡迪少佐

橘花の試験飛行を担当したのは、海軍横須賀航空隊実験担当の高岡迪(たかおか すすむ)少佐だった。

高岡少佐は海軍兵学校60期卒のベテランで、海軍航空技術廠でテストパイロットを務めていた。彼は後に、戦後の航空自衛隊で国産初のジェット練習機T-1Aの初飛行も担当することになる。つまり、戦前・戦後を通じて「日本初のジェット機」を操縦した唯一のパイロットだ。

6-2. 初飛行前夜

7月に木更津基地に到着した橘花は、地上滑走試験を重ねていた。

7月15日には左エンジンが燃料漏れを起こし、吹き飛んだナットが右エンジンの圧縮機を破壊するトラブルに見舞われた。不休の修理作業が続く。

8月6日、通常の半分以下の燃料を入れ、エンジンを使わない軽量状態での非公式飛行試験が行われた。

同日、P-51戦闘機が木更津を襲撃したが、橘花は掩体壕に隠されており難を逃れた。

そして8月7日、正式な初飛行の日が訪れた。

6-3. 1945年8月7日、快晴

この日は快晴だった。

木更津飛行場の1,800m滑走路には、南南西の海側から5mの風が吹いていた。飛行試験には最良の条件だ。

午前10時30分、慣らし運転開始。近海に米機動部隊が接近しているとの報告があり、現場は緊張に包まれていた。

昼食を済ませた高岡少佐は、午後1時にコクピットに収まった。

6-4. 12分間の飛行

ジェットエンジン特有の甲高い音とともに、橘花が発進する。

800mほど滑走したところで、機体はふわりと宙に浮いた。

高度600m、飛行時間12分。

それは短い飛行だった。だが、日本の航空史上、初めてジェット機が空を飛んだ歴史的瞬間だった。

着陸後、高岡少佐は簡潔に感想を述べた。

「案外、たちが良い」

この夜、関係者たちは警戒管制下の暗い食堂でビールを飲み、初飛行成功を祝った。


第7章:2回目の試験飛行と終戦――8月11日の悲劇

7-1. 全力飛行試験へ

初飛行成功の翌日、橘花部隊に伊東裕満大佐が着任した。「橘花」という名は、彼が名付けたものだった。

正式なテスト飛行は8月10日を予定していたが、早朝から米艦載機による銃爆撃が行われたため、1日延期となった。

8月11日、ついに全力飛行試験が決行される。

7-2. 離陸補助ロケットの使用

この日の試験は、フル荷重状態での全力飛行が目的だった。

だが、1,800mの滑走路では推力に不安があった。そこで、離陸補助用のロケットエンジン(RATO)が装備された。

滑走開始。すぐにロケットに点火。

だが、ここで問題が発生した。

7-3. 大破

ロケット点火後、機首上げの姿勢が止まらなくなった。

高岡少佐は危険を感じ、イグニッションを切り、フルブレーキ。だが、応急的に装備された軽量の零戦用ブレーキでは、重量のある橘花を止めることができなかった。

機体は滑走路を外れ、浅瀬に突っ込んで大破した。

幸い、高岡少佐は大きな怪我なく脱出できた。

7-4. 終戦

4日後の8月15日、日本は降伏した。

橘花の2号機は完成間近だった。他にも24機が製造途中だった。

だが、それらが空を飛ぶことはなかった。

日本初のジェット機・橘花は、たった1回の飛行でその生涯を終えた。


第8章:橘花と火龍――陸海軍のジェット計画

8-1. 陸軍の「火龍」計画

橘花が海軍のジェット機だったのに対し、陸軍も独自にジェット機を計画していた。

それが「火龍」(キ201)だ。

火龍の詳細解説 → 火龍(キ201)徹底解説

8-2. 火龍の設計思想

火龍は、Me262の「フルコピー」を目指した機体だった。

橘花が日本の技術力に合わせて小型化・簡素化したのに対し、火龍はMe262の性能をそのまま再現しようとした。

項目橘花火龍(計画値)Me262
最高速度約676km/h約850km/h約870km/h
武装30mm × 230mm × 430mm × 4
エンジンネ20(475kg推力)ネ130/ネ230(900kg推力)Jumo004(900kg推力)

8-3. 火龍が実現しなかった理由

火龍の問題は、高推力エンジン(ネ130またはネ230)の開発が間に合わなかったことだ。

ネ20の475kgから900kgへの推力増強は、単純な改良では達成できない。ほぼ新規開発に等しい。

結局、火龍は設計の途中で終戦を迎え、試作機の製造にも至らなかった。

8-4. どちらが「正解」だったか

橘花と火龍の対比は、興味深い問いを投げかける。

橘花:身の丈に合った技術で「飛ぶ機体」を作った 火龍:理想を追求したが「飛べなかった」

結果論ではあるが、現実的な選択をした海軍・橘花の方が、少なくとも初飛行という成果を残した。

ただし、どちらの道を選んでも、1945年8月の日本にはもう時間がなかった。


第9章:橘花の性能を検証する――「強かった」のか?

9-1. 速度性能

橘花の予定最高速度は、高度6,000mで約676km/h(365ノット)だった。

これは同時期の日本のレシプロ戦闘機と比較するとどうだろうか。

機体最高速度
零戦52型約565km/h
疾風(Ki-84)約660km/h
紫電改約594km/h
雷電21型約596km/h
橘花(予定)約676km/h

紫電改の詳細 → 紫電・紫電改徹底解説

雷電の詳細 → 雷電(J2M)徹底解説

数字の上では、橘花は当時の日本機の中で最速クラスだ。ただし、これは予定値であり、実際の飛行試験で確認されたものではない。

9-2. 連合軍機との比較

では、連合軍機と比較するとどうか。

機体最高速度
橘花(予定)約676km/h
P-51D ムスタング約703km/h
F6F ヘルキャット約605km/h
Me262約870km/h
P-80 シューティングスター約898km/h

橘花はF6Fより速いが、P-51Dには劣る。そしてMe262やアメリカ初のジェット戦闘機P-80には大きく引き離されている。

9-3. 航続距離の問題

橘花の予定航続距離は、高度6,000mで約555km(300海里)だった。

これは零戦の3,000km超と比較すると、極めて短い。ジェットエンジンは燃費が悪く、当時の技術では航続距離を伸ばすことが難しかった。

つまり、橘花は「本土近海の防衛」や「上陸部隊への攻撃」に限定された機体だった。太平洋の広い海域を飛び回ることは想定されていなかった。

9-4. 結論:橘花は「強かった」のか

正直に言えば、橘花は「未知数」だ。

実戦に投入されることがなかったため、その真の実力は誰にもわからない。予定スペックは悪くないが、Me262のような圧倒的性能ではなかった。

ただ、橘花の真価は「性能」だけでは測れない。

限られた資材、頻繁な空襲、時間との戦い。その中で「日本初のジェット機を飛ばした」という事実こそが、橘花の最大の功績だ。


第10章:現存する機体と展示情報

10-1. 機体の行方

終戦後、橘花の試作機と生産途中だった機体はアメリカ軍に接収された。

完成機2機と、半完成の機体が10機以上存在していたと言われる。

接収された機体の1機は、現在もアメリカで保管されている。

10-2. スミソニアン航空宇宙博物館(アメリカ)

現存する橘花の機体は、スミソニアン航空宇宙博物館の別館(スティーヴン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)に保管・展示されている。

ただし、完全な形での展示ではなく、復元中の状態での公開となっている。

同博物館には、月光や桜花、晴嵐など、他の日本軍機も展示されており、「終戦期の日本航空技術」をまとめて見ることができる。

月光の詳細 → 月光徹底解説

10-3. ネ20エンジンの現存

ネ20エンジンは世界で3基が現存している。

  1. スミソニアン航空宇宙博物館(別館):Jumo004の隣に展示中
  2. ポール・E・ガーバー保管施設:「2」と赤ペンキで書かれた試作2号機用エンジン
  3. IHIそらの未来館(日本・東京):日本に唯一現存するネ20

日本国内でネ20を見られるのは、IHIそらの未来館だけだ。

このエンジンは戦後アメリカに接収され、クライスラー社での試験を経て、ノースロップ工科大学に渡った。1961年に日本人技術者・舟津良行氏が同大学で発見し、1973年の国際航空宇宙ショーで日本に「永久無償貸与」された。

IHIで分解整備が行われ、現在は同社の展示施設で大切に保管されている。


第11章:ゲーム・メディアでの橘花

11-1. War Thunder

人気フライトゲーム「War Thunder」では、プレイヤーの操縦機体として橘花が登場する。

当初は名称が「Kitsuka(キツーカ)」や「Kisuka(キスカ)」など誤ったものになっていたが、現在は「Kikka(橘花)」に修正されている。

ゲーム内では、RB(リアリスティックバトル)などでブースターを使わないと離陸できないという仕様になっており、実機の推力不足を再現している。

11-2. 艦隊これくしょん -艦これ-

「艦これ」でも橘花と橘花改が艦載攻撃機として登場する。

橘花は30mm航空機関砲と航空魚雷を装備、橘花改は全性能が上昇し、20mm航空機関砲と空対艦ミサイルを装備している。

史実では艦載機ではなかったが、ゲーム内では空母艦載機として運用可能だ。

11-3. IHIのテレビCM

ネ20の開発に携わった石川島(現IHI)は、過去にネ20をフィーチャーしたテレビCMを制作している。

「日本初の技術」の一例として、橘花改の飛行がCGで描かれており、IHIの航空宇宙事業の原点としてネ20が位置づけられている。


第12章:プラモデルで「橘花」を作る

1/48スケールで精密に再現された橘花のプラモデル完成品。濃緑色の上面と明灰色の下面の迷彩塗装が施されている

12-1. 主要キット

橘花のプラモデルは、複数のメーカーから発売されている。

  1. ファインモールド 1/48 海軍特殊攻撃機 橘花:国内メーカーの定番キット。精密な考証と組みやすさを両立。
  2. ハセガワ 1/72 橘花:省スペースで楽しめる1/72スケール。入門者にもおすすめ。
  3. MPM 1/72 橘花:海外メーカー製。希少なキットとしてコレクター人気。

12-2. 作例のポイント

橘花を製作する際のポイントをいくつか挙げておこう。

  1. エンジンナセル:両翼下のエンジンが特徴的。インテーク開口部の処理を丁寧に。
  2. 折り畳み主翼:一部キットでは折り畳み状態も再現可能。格納庫情景にも映える。
  3. 塗装:濃緑色の上面、明灰色の下面が基本。日の丸は白縁なしの赤単色が標準。
  4. ウェザリング:試作機なので派手な汚しは不要。軽いスミ入れと排気汚れ程度で十分。

第13章:「もし」を考える――橘花が量産されていたら

13-1. 生産計画

終戦時、橘花はすでに生産が開始されていた。完成機2機、製造中24機以上という記録がある。

運用部隊として第724海軍航空隊が編成されていたが、実機がなく、終戦までほとんど訓練も行えなかった。

13-2. 実戦投入されていたら

もし橘花が実戦投入されていたら、どうなっていただろうか。

対艦攻撃:高速を活かした爆撃で、従来のレシプロ攻撃機より生存率は高かったかもしれない。

空対空戦闘:30mm機銃2挺では火力不足。Me262のような「爆撃機キラー」にはなり得なかった。

数の問題:仮に月産100機を達成しても、アメリカの物量には到底及ばない。

歴史に「もし」は存在しない。

だが、あえて言うなら、橘花が実戦配備されていても、戦争の結果を変えることはできなかっただろう。それでも、もっと多くの搭乗員が生還できたかもしれない。もっと多くの敵艦に打撃を与えられたかもしれない。

13-3. 戦後への遺産

橘花とネ20の開発経験は、戦後の日本航空産業に受け継がれた。

テストパイロットだった高岡迪は、航空自衛隊で国産初のジェット練習機T-1の初飛行を担当した。

ネ20の開発に携わったIHI(旧石川島播磨重工業)は、現在も航空エンジンの主要メーカーとして活躍している。F-15やF-2のエンジンライセンス生産、そして国産エンジンの開発。その原点は、1945年のネ20にある。

日本の戦闘機一覧 → 第二次世界大戦・日本の戦闘機一覧


第14章:同時期の日本軍ジェット・ロケット計画

橘花だけでなく、終戦間際の日本には複数のジェット・ロケット機計画が存在した。

14-1. 秋水(J8M1)

ロケットエンジン搭載の迎撃機。ドイツのMe163コメートをベースに開発された。

1945年7月に初飛行したが、エンジントラブルで墜落。パイロットが殉職し、実戦には間に合わなかった。

14-2. 震電(J7W1)

前翼(カナード)配置の革新的迎撃機。プロペラを機体後部に配置し、機首に30mm機銃4門を集中配置した。

1945年8月3日に初飛行成功。橘花の4日前だ。しかし、終戦により量産は幻に終わった。

震電の詳細解説 → 震電・震電改徹底解説

14-3. 橘花改(計画)

ネ20の推力を20%増強した「ネ20改」を搭載し、局地戦闘機として性能向上を図った計画。設計図は現存するが、試作には至らなかった。

14-4. 桜花三三型・四三型

橘花用のネ20を搭載した桜花の発展型。地上発進式の特攻機として計画されたが、実現しなかった。

桜花の全貌 → 桜花(MXY-7)徹底解説


まとめ:橘花が遺したもの

1945年8月7日、木更津の空を12分間飛んだ橘花。

それは、敗戦8日前の日本が見せた、最後の「未来」だった。

性能は十分ではなかった。数も足りなかった。時間もなかった。

だが、限られた資材、頻繁な空襲、絶望的な戦況の中で、日本の技術者たちは「日本初のジェット機」を飛ばすことに成功した。

その情熱と技術は、戦後の航空産業に受け継がれ、今日の日本の防衛産業の礎となっている。

橘花は「未完の機体」だった。しかし、その短い生涯は、日本航空史において永遠に記憶されるべきものだ。

悔しさと誇り。その両方を胸に、僕たちは橘花の物語を語り継いでいきたい。


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