ヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」とは?7月20日事件の全貌──ロンメルは本当に関与していたのか

ベルリンの予備軍司令部で作戦図と電信機を囲む将校たち

ヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」をロンメルとの関係まで含めて追うと、結論はかなりはっきりする。エルヴィン・ロンメルは、シュタウフェンベルクが爆弾を仕掛けた暗殺実行チームには入っていない。だが1944年7月までに反ヒトラー派と接触し、政権転覆と戦争終結へ協力する意思を示していたとみる根拠は強い。

そして7月20日事件の本質は、東プロイセンの「狼の巣」で爆弾が炸裂した一瞬だけにない。ヒトラーが死んだ直後、正規の国内治安計画「ワルキューレ」を使って予備軍を動かし、SS・ゲシュタポ・ナチ党の中枢を制圧する。爆弾はスイッチであり、その後に巨大な国家機構を逆回転させるところまでが計画だった。

ロンメル関与の読み方
ロンメルを「暗殺者」と呼ぶのは行き過ぎる。かといって、「何も知らずに粛清された人気将軍」という像も史料とは合わない。問題は、暗殺への参加、クーデターへの賛同、ヒトラー排除への同意を一つの「関与」という言葉でまとめてしまうことにある。

論点判定史料から確認できること
7月20日の爆弾暗殺を実行・準備したか否定ロンメルが爆弾の準備や実行に加わった証拠は確認されていない
クーデター計画を知っていたか可能性が高い7月9日のホーファッカーとの会談に加え、1944年中の複数史料が関与を示す
反ヒトラー側への協力意思があったか強い根拠ありホーファッカーの報告、ボルマン覚書、英軍の秘密録音などが一致する方向を示す
ヒトラー殺害そのものに賛成したか未確定殺害容認を示す証言と、逮捕を望んだとする後年の説明が食い違う
7月20日に行動できたか不可能ロンメルは7月17日に重傷を負い、当日は前線指揮から離れていた

事件前後の戦況は、第二次世界大戦の欧州戦線を時系列で確認するで整理しています。

目次

ワルキューレ作戦とは──もともとは「反乱鎮圧」の正規計画だった

「ワルキューレ」という名前から、最初からヒトラー暗殺用に作られた秘密作戦を想像しやすい。実際には逆で、元はドイツ国内で大規模な騒乱が起きた際、予備軍を素早く動員して治安を回復するための正規の非常計画だった。

1943年以降、ヘニング・フォン・トレスコウやクラウス・フォン・シュタウフェンベルクらは、この仕組みを政権転覆へ転用した。各軍管区へ「ワルキューレ発動」の命令を流し、予備軍に行政権を掌握させる。SS部隊を武装解除し、ゲシュタポやナチ党幹部を拘束し、通信・放送・官庁などの要所を押さえる設計である。

鍵は命令系統だ。

反乱者が非合法な部隊を集める必要はなかった。平時から存在する軍管区司令部と予備軍へ、正式な体裁の命令を流せばよい。兵士には「SSと党指導部がヒトラーを殺害し、国家転覆を図った」と説明し、その鎮圧という名目でナチ体制そのものを切り崩す予定だった。

ワルキューレ作戦の異様さは、街頭蜂起を避け、正規軍が正規の命令書を握ったまま反乱者へ変わる設計にある。ヒトラー個人への忠誠が軍を縛っていた以上、彼の死亡を既成事実にして命令の正統性を奪う必要があった。

新政権側では、元参謀総長ルートヴィヒ・ベックや元ライプツィヒ市長カール・ゲルデラーらが中心人物とされた。彼らの政治思想や動機には大きな幅がある。保守・国家主義的な人物も多く、現代の自由民主主義者だけで構成された運動と見ると正確さを欠く。それでも1944年夏、彼らは「ヒトラーを排除しなければ国家そのものが破局へ向かう」という一点で結びついていた。

7月20日事件の数時間──爆発からクーデター崩壊まで

7月20日の失敗は、一発の爆弾が不発だったという一言では済まない。爆弾は炸裂した。崩れたのは、その後に続くはずだった時間と情報の支配である。

実は5日前の7月15日にも、シュタウフェンベルクは爆弾を持ってヒトラーの司令部へ入っていた。この日は実行を取りやめたが、ベルリン側では朝から一部部隊を事前警戒させてしまった。急きょ「演習だった」と取り繕ったため、20日に同じ早朝警戒を繰り返しにくくなった。最初から数時間のハンディを背負ったわけだ。

13時直前──「狼の巣」で爆発

爆発後の狼の巣の作戦会議室と倒れた地図台
爆薬は炸裂したが、重い地図台と一つだけの爆薬包が爆風の効果を弱めた

7月20日、シュタウフェンベルクは副官ヴェルナー・フォン・ハエフテンとともに、東プロイセンのラステンブルク近郊にある総統大本営「狼の巣」へ入った。持ち込んだ二つの爆薬包のうち、時間の制約から作動させられたのは一つだった。

シュタウフェンベルクは爆薬入りの鞄を作戦会議室の地図台の下へ置き、電話を口実に退出した。13時直前に爆発。ところが重い樫製の地図台が爆風を遮る形となり、ヒトラーは負傷しながらも生き残った。残る爆薬包は、脱出途中にハエフテンが車外へ捨てている。

シュタウフェンベルクは爆発を遠目に確認し、ヒトラーは死んだと確信した。封鎖が完成する前に司令部を脱出し、ベルリンへ飛んだ。

13時台から16時──ベルリンが止まる

ここで致命的な空白が生まれた。総統大本営からの通信は完全には遮断されず、ベルリンの一部の陰謀参加者には早くも13時ごろ「ヒトラーは生きている」という情報が入った。

そのため、クーデターの本格始動は15時30分から16時ごろまで遅れた。しかも各軍管区では通常勤務が続き、司令官が外出していたり、すでに帰宅していたりした。20日は木曜日だったが、国家転覆側の命令系統は、戦時下とは思えないほど日常の勤務時間に引きずられた。

時間が崩れた。

17時以降──「ヒトラー死亡」と「ヒトラー生存」が同時に流れる

電話とテレタイプから相反する情報が届くベルリンの司令部
「ヒトラー死亡」と「ヒトラー生存」が同時に流れ、命令の正統性が崩れた

17時ごろには大ドイツ放送が、暗殺未遂はあったがヒトラーは生存していると報じ始めた。ところが軍のテレタイプでは、陰謀側が「ヒトラー死亡」を前提にワルキューレ命令を送り続ける。

ドイツ軍の各司令部には、二つの現実が同時に届いた。

ドイツ抵抗記念館に残る史料では、ワルキューレ第2段階の発動電報は18時15分。19時47分にはシュタウフェンベルク自身の略号が入った電報で、ヒトラー生存情報を否定している。すでにラジオから本人の生存が広がり始めていた時間帯だ。

ベルリンだけが舞台でもなかった。パリでは軍政長官カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲルらのネットワークが動き、SS・SD関係者の拘束が進んだ。フランスのB軍集団司令部にも協力者がいた。ここに、後でロンメルの名が浮かぶ理由がある。

深夜までにベルリンのベンドラー街では形勢が逆転した。予備軍司令官フリードリヒ・フロムはシュタウフェンベルク、ハエフテン、フリードリヒ・オルブリヒト、アルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイムの銃殺を命じ、ベックは自決へ追い込まれた。クーデターは一日も持たなかった。

ワルキューレ作戦はなぜ失敗したのか──「机の脚」だけでは説明できない

映画や一般向けの説明では、「誰かが鞄を動かし、頑丈な机の脚がヒトラーを救った」という偶然が強調される。確かに爆発の物理的条件は決定的だった。二つの爆薬を使えず、重い地図台が爆風を遮った結果、暗殺の第一条件が崩れた。

だが、ヒトラー生存だけで失敗の全貌を説明すると、ワルキューレ作戦の核心を見失う。

第一に、通信遮断が不完全だった。総統大本営から「ヒトラー生存」の情報がベルリンへ流れ、陰謀側は開始前から割れた。第二に、15日の未遂の後遺症で20日の事前動員が遅れた。第三に、ベルリンから命令が出た時点で多くの軍管区は通常勤務を終えかけていた。第四に、ラジオと電話でヒトラーの生存が確認されると、軍人にとって「総統への宣誓」とワルキューレ命令が正面衝突した。

失敗は連鎖した。

個人的には、最大の敗因を「爆弾が弱かった」とだけ見るより、「生きているヒトラーの声に勝てる命令権を陰謀側が作れなかった」と捉える方が、この事件を理解しやすい。クーデターは火力よりも、誰の命令を正規と信じさせるかという競争だった。

ワルキューレは書類上よく練られていた。だが、その仕組みは「ヒトラー死亡」という一点に強く依存していた。そこが崩れた瞬間、電報の文面がどれほど整っていても、受け手が電話一本で総統大本営へ確認できる状況では長く持たなかった。

ロンメルはなぜ7月20日事件に名前が出てくるのか

ノルマンディーの司令部で反ヒトラー派の使者と向き合う元帥
1944年7月、ロンメルと反ヒトラー派の接触は政権転換後の協力にまで踏み込んだとみられる

1944年夏のロンメルは、フランスのB軍集団司令官として連合軍のノルマンディー上陸に直面していた。6月6日の上陸後、制空権を握られたドイツ軍は昼間の移動さえ困難になり、ロンメルは戦況を悲観的に見るようになる。7月15日には、軍事情勢から政治的結論を出す必要をヒトラー側へ強く迫る文書も提出した。

焦点はフランスだ。

パリの軍政機構と西部戦線には、シュテュルプナーゲルやエバーハルト・フィンクら反ヒトラー派がいた。ロンメルの参謀長ハンス・シュパイデルもその人脈とつながっている。クーデター側から見れば、西部戦線で圧倒的な知名度を持つロンメルが協力すれば、フランスのドイツ軍を新政権側へ引き寄せ、英米との戦争終結交渉へつなげる政治的価値があった。

転機とされるのが7月9日である。パリの主要陰謀参加者セザール・フォン・ホーファッカーがロンメルと会談した。会話そのものを記録したゲシュタポ尋問資料は失われており、全文は復元できない。それでもホーファッカーは会談後、シュテュルプナーゲル、ベック、シュタウフェンベルクらへ「ロンメルを抵抗側へ引き入れた」という趣旨を報告し、ロンメルが西側連合国との和平を志向していると伝えた。

7月17日、ロンメルは前線視察からの帰途、連合軍機の攻撃で乗車を襲われて頭部に重傷を負った。3日後の7月20日、彼は指揮を執れる状態にない。つまり、当日の命令発出や部隊移動にロンメルが参加した可能性は物理的に消える。

ロンメルの北アフリカ戦線から最期までの経歴は、人物記事へ分けた方が重複なく追える。

北アフリカから最期までの経歴は、エルヴィン・ロンメルの経歴と最期で詳しく確認できます。

「ロンメルは関与していた」を支える史料は何か

ロンメルをめぐる論争が長引いた最大の理由は、決定打になりそうなゲシュタポ尋問記録の一部が失われ、戦後証言にも自己弁護が混ざり得るからだ。それでも、1944年当時またはそれに近い時期の史料を重ねると、「完全な部外者」という説明はかなり苦しくなる。

史料は割れている。

7月9日のホーファッカー会談

最も直接的なのは、ホーファッカーがロンメルと会った直後、抵抗側の中枢へ「ロンメルを獲得した」と報告した事実である。何をどこまで約束したかは不明だが、単なる戦況談義だけで終わったと考えるには、その後の報告が重い。

9月28日のボルマン覚書

歴史家ピーター・リーブが重視した史料の一つが、ナチ党官房長マルティン・ボルマンの1944年9月28日付覚書である。そこでは、シュテュルプナーゲル、ホーファッカー、カール・エルンスト・ラートゲンスら複数の被告・関係者が、ロンメルは計画を承知しており、成功後の新政府へ協力する意思を示したと供述した旨が記されている。

ボルマンはロンメルと不仲であり、文書を無批判に信じるのは危険だ。とはいえ、単独の噂話を超え、複数の供述をまとめた同時代文書という重みがある。

英軍が秘密録音したハインリヒ・エーバーバッハの会話

さらに興味深いのが、英軍捕虜となった第5装甲軍司令官ハインリヒ・エーバーバッハの会話を、英国側が密かに録音していた資料だ。エーバーバッハは1944年9月以降の会話で、ロンメルがヒトラーとその最側近を速やかに排除する必要を語ったこと、国内軍側が動くなら「ヒトラーに対する革命」へ参加する意思を示したことを話している。

これは戦後何十年もたってから整えられた回想録より時期が近い。録音時、本人は後世へ向けた証言をしているつもりでもなかった。公開資料を読み比べた実感では、この点がロンメル関与説をかなり強くする。

ナチ指導部自身も「知っていた」と見ていた

8月初旬の段階で、ゲッベルスやヒトラーはロンメルが何らかの事情を知っていたと認識していた。リーブが引用する記録では、ヒトラーは当初、ロンメルは計画を知っていたとしても暗殺準備そのものには加わっていないと考えていた。

この区別は大きい。ナチ指導部でさえ、初期段階では「爆弾を準備した人物」と「クーデターを知った人物」を同じ箱に入れていなかったからだ。

ロンメルはヒトラー殺害に賛成していたのか

ここが最も断定しにくい。

戦後に広まったロンメル像では、彼はヒトラーの逮捕には賛成したが、暗殺には反対したと語られることが多い。裁判にかければナチ体制の犯罪を公にできる、殺せば殉教者にしてしまう、と考えたという説明もある。

ところが、エーバーバッハの秘密録音はこの像と緊張関係にある。彼の証言では、ロンメルはヒトラーと最側近を早急に殺すほかないという趣旨まで語ったとされる。しかもエーバーバッハは、ロンメルが負傷する直前の7月にも複数回会っていた。

線引きが必要だ。

史料から強く言えるのは、ロンメルが1944年7月までに「ヒトラー体制を政治的・軍事的に終わらせる必要」を認め、反対派との協力へ踏み込んだことだ。次に強いのが、クーデター計画を知り、成功後の秩序形成へ関わる意思を示したという部分である。

その先、シュタウフェンベルクが7月20日に爆弾を置くことを事前に知っていたのか、暗殺という具体的方法まで承認していたのかは確認できない。正直、ここを埋めて「ロンメルも暗殺計画の一員だった」と書くと、史料より物語を優先することになる。

逆に「彼は暗殺に反対していたから7月20日事件とは無関係」と切るのも無理がある。リーブの整理に近づければ、ロンメルは暗殺の実務中枢には入らず、それでも軍事的抵抗の側へ遅れて加わった人物と見るのが最も整合的だ。

10月14日──なぜヒトラーはロンメルに自殺を迫ったのか

軍帽と手袋が置かれた室内から黒い軍用車を見送る光景
1944年10月14日、ロンメルに与えられた選択の猶予は15分だった

7月20日事件後、ゲシュタポの捜査と拷問で関係者の名前が次々と浮上した。ホーファッカー、シュテュルプナーゲル、シュパイデルらの供述や周辺資料から、ロンメルへの疑いも深まっていく。

それでもヒトラーは、国民的人気の高い元帥をすぐ人民法廷へ引きずり出さなかった。1944年10月14日、ヴィルヘルム・ブルクドルフとエルンスト・マイゼルの二将軍がロンメルの自宅を訪れ、彼を告発資料と向き合わせた。

提示された選択肢は残酷だった。自殺するか、人民法廷へ送られ、家族にも深刻な結果が及ぶ道を選ぶか。リーブの研究では、考えるために与えられた時間は15分だった。

猶予は15分だった。

ロンメルは家族へ別れを告げ、軍服姿で車に乗り込み、移動中に青酸を飲んだ。数日後には大規模な国葬が行われ、体制は彼を反逆者として公表せず、「総統に忠実な英雄」の外観を守った。

この死に方自体は、7月20日の爆弾準備へ直接参加した証明にはならない。むしろ示しているのは、ナチ指導部がロンメルを「無関係な人物」として処理できない程度には、反ヒトラー派との結びつきを重大視していた事実である。

個人的には、ロンメルの最期を「ヒトラーに騙された悲劇の英雄」だけで読むと、彼自身が1944年に下した政治的な決断が消えてしまう。長くヒトラーへ忠誠を尽くした将軍が、敗戦の現実と政権の性格を前にして遅れて境界線を越え、その代償を払った。そこにこの人物の複雑さがある。

ロンメルを含む将軍たちの結末は、悲劇的な最期を迎えた名将たちでも扱っています。

結論──ロンメルは「7月20日の暗殺者」ではなかった。それでも反ヒトラーの軍事抵抗には踏み込んだ

判定は三段階だ。

史料から強く言えるのは、ロンメルがシュタウフェンベルクの爆弾準備や7月20日の実行指揮に加わっていないこと、7月17日の負傷で事件当日に動けなかったこと、そして7月上旬までに反ヒトラー派との接触がかなり深まっていたことだ。

編集上の評価としては、ロンメルを「暗殺計画の主犯格」に入れるのは過大評価だが、「何も知らない被害者」に置くのも難しい。7月9日のホーファッカー会談、ボルマン覚書、エーバーバッハの秘密録音を合わせると、彼はクーデターを知り、少なくとも成功後の体制転換へ協力する意思を示したと見るのが妥当だ。

確定できないのは、7月20日という実行日を知っていたか、鞄爆弾という方法を事前承認していたか、ヒトラー殺害と逮捕のどちらを最終的に選んでいたか、成功後にどの地位を担う予定だったかである。

ワルキューレ作戦のスイッチを押したのはシュタウフェンベルクだった。ロンメル自身がそのスイッチに手を掛けた証拠はない。だが、スイッチが入った後に西部戦線を新体制側へ動かす構想の近くまで来ていた。史料が示すロンメルの位置は、そこにある。

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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