通州事件とは何か?日本人200名以上が虐殺された日中対立激化のきっかけをわかりやすく解説

1937年7月29日未明。北京から東へ約20キロ、通州という街で、200人以上の日本人と朝鮮人が、一夜にして命を奪われた。

この「通州事件」は、盧溝橋事件からわずか22日後に起きた悲劇である。日中戦争の本格化を決定づけ、日本国内で「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」、つまり「暴虐な中国を懲らしめよ」という世論を一気に高めた事件でもある。

今、日中関係は再び緊張の度合いを増している。尖閣諸島周辺での中国公船の活動は常態化し、台湾有事の可能性も取り沙汰される。私は中国側の根底に、徹底された反日教育があることをとても懸念している。

こうした時代だからこそ、僕たちは過去の悲劇から学ぶ必要がある。

民族間の対立がエスカレートした時、何が起こり得るのか。この記事では、通州事件の背景から経緯、そして現代への教訓までをできる限り客観的に、そして日本人として忘れてはならない視点から解説していく。


目次

通州事件の概要:何が起きたのか

事件の基本情報

通州事件は、1937年(昭和12年)7月29日に発生した、中国人による日本人・朝鮮人居留民の虐殺事件である。

事件が起きた通州は、現在の北京市通州区にあたる。当時は日本が華北分離工作の一環として設立した傀儡政権「冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」の首都だった。

この政権の治安を担っていた「保安隊」が突如反乱を起こし、日本軍守備隊、特務機関、そして一般の日本人・朝鮮人居留民を襲撃したのである。

被害の規模

陸軍省の調査(1937年8月5日付)によると、被害は以下の通りだった。

  • 死者:184名(男性93名、女性57名、損傷がひどく性別不明34名)
  • 生存者:134名(日本人77名、朝鮮人57名)

ただし、別の資料では死者225名とするものもあり、正確な数字には諸説がある。いずれにせよ、居留民約385名のうち、半数以上が命を落としたことは間違いない。

襲撃者は約3,000名の保安隊員と、一部の学生隊だったとされる。彼らは単に殺害するだけでなく、極めて残虐な方法で日本人を殺害した。当時の新聞は「鬼畜の所業」と報じ、日本国民に大きな衝撃を与えた。

なぜ「味方」が襲ってきたのか

ここで多くの人が疑問に思うだろう。なぜ、日本の傀儡政権の保安隊が、日本人を襲ったのか。

これを理解するには、当時の複雑な政治状況と、保安隊の成り立ちを知る必要がある。


事件の背景:なぜ通州で日本人が暮らしていたのか

満州事変から華北分離工作へ

通州事件を理解するには、まず1931年の満州事変まで遡る必要がある。

関東軍が柳条湖事件を起こして満州全域を制圧し、翌年には満州国を建国したことは、多くの人がご存知だろう。しかし、日本の野心はそこで止まらなかった。

1933年5月、日本と中国は塘沽(タンクー)停戦協定を結ぶ。この協定により、満州国と中国本土の間に「非武装地帯」が設けられた。日本軍はこの地帯を緩衝地帯として利用しつつ、さらに華北(中国北部)への勢力拡大を目論んでいた。

これが「華北分離工作」と呼ばれる一連の工作である。日本は中国北部の五省(河北省、山東省、山西省、チャハル省、綏遠省)を、蒋介石の国民政府から分離させようとしていた。

冀東防共自治政府の成立

1935年11月25日、日本軍(関東軍)の工作により、河北省東部の非武装地帯に「冀東防共自治委員会」が設立された。12月25日には「冀東防共自治政府」と改称。

政務長官に就任したのは、殷汝耕(いんじょこう)という人物だった。彼は早稲田大学を卒業した日本通で、日本人女性を妻に持っていた。まさに日本と中国の橋渡しをするべき人物が、傀儡政権のトップに据えられたわけだ。

冀東防共自治政府は、河北省東部の23県、人口約600万人を管轄する「自治政府」だった。しかし実態は、各部門に日本人顧問が配置され、日本軍がコントロールする傀儡政権に過ぎなかった。

国民政府はこれに対抗するため、「冀察政務委員会」を設置。委員長には宋哲元(そうてつげん)将軍が就任した。この宋哲元と彼の率いる第29軍が、後に盧溝橋事件で日本軍と衝突することになる。

保安隊の実態:なぜ反日感情を持つ者が多かったのか

冀東防共自治政府の治安を担ったのが「保安隊」である。日本軍の将校が軍事訓練を施した治安部隊で、約5個総隊から構成されていた。

しかし、この保安隊の構成には大きな問題があった。

塘沽停戦協定により非武装地帯には正規軍を置けない。そこで、治安維持は「警察部隊」が担うことになった。この警察部隊に採用されたのは、満州から逃れてきた漢人軍人や馬賊たちだった。彼らは「雑軍」と呼ばれ、日本に故郷を奪われた恨みを抱える者も多かった。

保安隊は建前上は日本の味方だったが、その内部には強い反日感情を持つ者が少なくなかった。いわば、内に敵を抱えた状態で日本は通州を統治していたのである。

冀東政権の「負の側面」

さらに問題だったのは、冀東防共自治政府が行っていた事業の数々である。

第一に、密貿易。冀東政権は日本製品を正規の関税より安い検査料で輸入させ、それを中国国内に流した。国民政府が苦心して確立した関税自主権を実質的に無効化するこの政策は、中国政府の財政を直撃し、中国国民の怒りを買った。

第二に、阿片(アヘン)とヘロインの密売。通州では禁制品である麻薬類が大量に密造・密売されていた。これは冀東政権の重要な財源となっていたが、同時に中国民衆の健康と社会を蝕んでいた。

通州に暮らす一般の日本人居留民は、こうした政策とは直接関係のない人々が大半だった。しかし、中国人から見れば、彼らも「侵略者の一部」と映っただろう。民族対立とは、そうした個人と集団の区別がつかなくなる状況で最も悲惨な形をとる。


盧溝橋事件と通州事件の関係

1937年7月7日:日中戦争の開幕

1937年7月7日夜、北京南西郊外の盧溝橋で、日本軍と中国第29軍が衝突した。これが「盧溝橋事件」、日中戦争の始まりである。

当時、日本軍は北京議定書(義和団事件後の1901年に締結)に基づく「駐兵権」を根拠に、北京・天津周辺に「支那駐屯軍」を置いていた。満州事変後、この部隊は増強を重ね、1936年には約5,600名に膨れ上がっていた。

7月7日夜、盧溝橋付近で夜間演習中だった日本軍に対し、何者かが発砲。一人の兵士が一時行方不明になったことをきっかけに、翌8日朝から日中両軍の戦闘が始まった。

最初の発砲が誰によるものだったかは、今も定説がない。しかし、この小さな衝突が、やがて8年に及ぶ日中全面戦争の引き金となったことは間違いない。

停戦と拡大の間で

盧溝橋事件後、現地では停戦交渉が行われた。7月11日には一応の停戦協定が成立する。

しかし、この同じ日、近衛文麿内閣は「支那側の計画的武力抗日」を理由に、内地3個師団の動員を決定した。一方、蒋介石の国民政府も「最後の関頭に立ち至れば抗戦も辞さない」と声明。

以後、北京周辺で小競り合いが続き、7月25日には廊坊で、26日には広安門で衝突が発生。そして7月28日、日本軍は「平津(北平と天津)平定作戦」を発令し、総攻撃を開始した。

この戦闘で中国側は約5,000名の戦死者を出した。その中には、抗日運動に参加した北京や天津の大学生も多く含まれていた。彼らの死は、中国国民の間に抗日の気運をさらに高めることになる。

通州が手薄になった理由

7月28日、北平南苑での戦闘に参加するため、通州を守備していた日本軍の主力部隊(萱島部隊)が移動した。

残されたのは、通州守備の小隊約45名、憲兵分隊7名、そして非戦闘員を含む約120名のみ。戦闘能力を持つ日本軍は極めて少数となった。

日本軍は、冀東防共自治政府の保安隊を「友軍」と認識していた。彼らが通州の治安を担ってくれるはずだと信じていたのだ。

しかし、保安隊の指揮官たちは、すでに別の決断を下していた。


事件前夜:何が保安隊を決起させたか

保安隊指揮官の秘密工作

通州に駐屯していた保安隊の主要指揮官は、張慶餘(ちょうけいよ)と張硯田(ちょうけんでん)の二人だった。

彼らは表向きは日本の傀儡政権に仕えていたが、内心では強い抗日感情を抱いていた。張慶餘の息子は、父が傀儡政権に仕えていることを恥じ、新聞紙上で父との縁を切ることを宣言したという。

二人は密かに宋哲元率いる第29軍と連絡を取り、「日本打倒」の事前密約を交わしていた。さらに、中国共産党北方局の工作員も彼らに接触し、抗日運動の大義を説いていたとされる。

決起の時期を探っていた彼らにとって、盧溝橋事件後の混乱は絶好の機会だった。

誤爆事件

7月27日、事態は急転する。

日本軍の飛行機が、中国軍を攻撃する際に、冀東保安隊の幹部訓練所を誤爆したのだ。数名の保安隊員が爆死し、数名が重傷を負った。

通州特務機関長の細木繁中佐は、冀東政府の殷汝耕長官に陳謝し、遺族への補償と負傷者への医療を約束した。翌28日には保安隊幹部を招集し、説明と慰撫に努めた。

表面上、この件は収束したように見えた。しかし、保安隊員の間には「日本軍は味方を誤爆するような信用ならない存在だ」という不信感が広がっていた。

虚偽のラジオ放送

そして7月27日、国民政府はラジオで虚偽の戦況を流した。

「盧溝橋で日本軍は第29軍に惨敗し、豊台と廊坊は中国軍が奪還した」

さらに続けて、

「蒋委員長は近く第29軍を率いて大挙冀東を攻撃し、偽都通州の敵を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにあげる」

実際には日本軍は敗北しておらず、この放送は事実ではなかった。しかし、保安隊員や冀東政府の職員たちは、この放送を信じた。当時、安藤利男記者は、政府職員らが半ば公然と興奮しているのを目撃している。

風向きが変わった。日本が負けるのであれば、早く「正しい側」につかなければならない。そう考える者が増えていった。

集結の許可

7月28日、張慶餘と張硯田は軍事会議で、分散していた保安隊を通州に集結させることを提案した。

表向きの理由は「第29軍の通州攻撃に備えるため」だった。保安隊の監督を担当していた細木特務機関長も、「日本人保護のため」と理解し、これを了承した。

実際には、これが決起の準備だった。

保安隊が通州に集結し、準備が整うと、彼らは通州城門を閉鎖し、通信手段を遮断した。そして、7月29日午前2時(一説には3時)、攻撃が始まった。


1937年7月29日:地獄の夜明け

未明の銃声

7月29日午前2時頃、闇を引き裂くように銃声が鳴り響いた。

保安隊は、まず冀東防共自治政府の政庁を襲撃した。日本人顧問らを殺害し、政務長官の殷汝耕を拘束。彼は宋哲元に引き渡されるため、北平へ護送されようとしたが、途中で日本軍の反撃に遭い、混乱の中で逃亡した。

同時に、日本軍守備隊、特務機関、通州警察分署への攻撃も始まった。守備隊は抗戦を続け、そこに収容された居留民百数十名ほどは助かった。

しかし、城内各所に散らばっていた一般居留民たちは、逃げ場を失った。

組織的な虐殺

襲撃者たちの中には、保安隊員だけでなく、暗灰色の学生服風の服を着た者も多かったという証言がある。これは幹部訓練所の学生隊ではないかと推測されている。

生存者の証言によれば、彼らは家々を一軒ずつ回り、日本人を引きずり出して殺害した。逃げようとする者は銃撃され、隠れている者は捜し出された。

当時の新聞は、その残虐性を詳細に報じた。

  • 「邦人の鼻に針金を通して」
  • 「臨月の腹を蹴る」
  • 「鬼畜暴虐の限り」

これらの見出しが示すように、単なる殺害ではなく、残虐な方法が用いられた。女性や子どもも例外ではなかった。

一般中国人住民の反応

一方で、通州の一般中国人住民については、複雑な証言が残されている。

ある生存者は、「市民は概して手をこまねいて見ているばかりであり、虐殺後の日本人を見ても同情の念を示さず、身につけていたものを剥ぎ取るばかりであった」と証言している。

しかし別の証言では、「危険を冒して日本人を匿ってくれた中国人もいた」とされる。支那駐屯軍の参謀だった今井武夫も、そうした中国人の存在を記録している。

虐殺を行ったのは保安隊という組織であり、一人一人の通州の中国人が残虐だったわけではない。しかし、混乱の中で暴徒化した者、略奪に走った者がいたことも事実である。

民族対立がエスカレートした時、理性的な個人の声は、往々にして暴力の波にかき消される。これは通州事件に限らず、人類の歴史が繰り返し示してきた悲劇的な真実だ。


生存者たちの証言

安藤利男記者の体験

当時、通州にいた東京日日新聞の記者・安藤利男は、九死に一生を得て生還した一人である。

安藤は、保安隊の反乱が始まった時、たまたま中国人の友人の家にいた。その友人が彼を匿い、日本軍の救援が来るまで守ってくれたという。

彼は後に事件の詳細を報告し、その証言は通州事件の実態を知る重要な資料となっている。安藤は、最初に暴徒の先頭に立っていたのは黒い服を着た学生風の者たちで、やがて保安隊が続いたと証言している。

女性生存者の言葉

九死に一生を得たある日本人女性は、こう語った。

「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」

尼港事件とは、1920年にシベリアのニコラエフスクで、日本人居留民約700名がパルチザンによって虐殺された事件である。この事件を引き合いに出すほど、通州の惨状は凄惨だった。

後年の被害者遺族の思い

歴史学者の笠原十九司は、通州事件の被害者やその遺族への聞き取り調査を行っている。

興味深いことに、多くの被害者や遺族が共通して語ったのは、「通州事件から『中国民族は恐ろしい』という感傷だけを残してほしくない」ということだった。

彼らは事件の悲惨さを身をもって体験した。しかし同時に、この事件を民族への憎しみに転化させることの危険性も理解していた。

「憎しみの連鎖を絶つ」。これが、多くの被害者遺族が後年に到達した思いだという。


事件後の処理と影響

日本軍による鎮圧

7月29日夕方、日本軍は通州に到着し、反乱を鎮圧した。保安隊の主力は戦闘を経て散り散りになり、一部は第29軍に合流した。

殷汝耕長官は逃亡したが、後に発見され、責任を取って辞任。冀東防共自治政府は事実上崩壊した。8月9日に秘書処長の池宗墨を政務長官として再建されたが、日中戦争の本格化と共に実質的な機能を失っていく。

反乱を主導した張慶餘と張硯田は、その後中国国民党軍に合流し、抗日戦争を戦った。中国では彼らは「抗日の英雄」とされている。一方、殷汝耕は戦後、漢奸(日本協力者)として裁かれ、1947年に処刑された。

日本国内の反応:「暴支膺懲」

通州事件のニュースが日本国内に伝わると、世論は沸騰した。

「戦慄! 通州反乱隊の残虐 突如全市に襲撃」 「恨み深し! 通州暴虐の全貌 保安隊変じて鬼畜、罪なき同胞を虐殺」 「悲痛の通州城! 邦人の鼻に針金とおして 鬼畜暴虐の限り」

新聞各紙はこぞって事件の残虐性を報じ、中国への怒りを煽った。

社会主義者の山川均ですら、「通州事件の惨状は、往年の尼港事件以上だ」「こういう鬼畜に均しい残虐行為こそが、支那側の新聞では支那軍の『勝利』として報道され、国民感情の昂揚に役立っている」と批判した。

この事件は、「暴支膺懲」(暴虐な中国を懲らしめよ)というスローガンを国民に浸透させる大きな契機となった。日中戦争を「正義の戦争」として正当化する世論形成に、通州事件は大きな役割を果たしたのである。

外交的解決

一方、外交的には比較的早期に決着がついた。

事件後、中国側は正式に謝罪し、慰藉金(慰謝料)を支払うことで日本側と合意した。これにより、事件自体は「解決」したとされた。

ただし、これは両国政府間の話であり、日本国民の心に刻まれた怒りと恐怖は、そう簡単には消えなかった。


なぜ通州事件は起きたのか:背景と原因の分析

直接的原因

通州事件の直接的な原因は、以下のように整理できる。

第一に、保安隊内部の反日感情。満州から逃れてきた軍人や馬賊で構成された保安隊には、もともと強い反日感情を持つ者が多かった。

第二に、張慶餘・張硯田ら指揮官と第29軍・国民政府との秘密連絡。彼らは事前に「日本打倒」の密約を交わし、決起の時機を窺っていた。

第三に、誤爆事件による保安隊員の反発。7月27日の日本軍機による誤爆は、保安隊員の間に日本軍への不信感を広げた。

第四に、虚偽のラジオ放送。「日本軍敗退」という偽情報が流され、保安隊は「勝ち馬に乗る」タイミングと判断した。

第五に、通州の日本軍守備隊の移動。主力が北平の戦闘に参加するため不在となり、通州の防備が手薄になった。

構造的原因

しかし、これらの直接的原因の背後には、より構造的な問題があった。

第一に、華北分離工作と傀儡政権の問題。日本は自国の利益のために冀東防共自治政府という傀儡政権を作り上げた。しかし、その政権を支える保安隊の中身は、反日感情を持つ「雑軍」だった。この矛盾は、遅かれ早かれ爆発する運命にあった。

第二に、中国国内の抗日気運の高まり。1935年の十二・九学生運動、1936年の西安事件を経て、中国国内では抗日統一戦線の機運が高まっていた。冀東の保安隊も、この大きな流れの中にあった。

第三に、冀東政権の「負の側面」。密貿易やアヘン密売は冀東政権の重要な財源だったが、これらは中国民衆の怒りを買っていた。日本人居留民は直接これに関与していなくても、「侵略者の一部」と見なされた。

通州事件は「抗日教育」の結果か

当時、山川均は「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果である」と述べた。

確かに、国民政府は1930年代に入って抗日教育を強化していた。しかし、それは日本の満州事変以降の侵略行為に対する反発という側面もある。

通州事件を「中国人の残虐性」や「抗日教育の結果」としてのみ捉えるのは、歴史の一面だけを見ることになる。日本の華北分離工作、傀儡政権の問題点、密貿易や麻薬密売といった「負の側面」も、事件の背景として認識する必要がある。

ただし、それらの背景があったとしても、無辜の民間人を虐殺することは決して正当化できない。これは、あらゆる戦争犯罪に共通する原則である。


通州事件と南京事件

時系列の関係

通州事件が1937年7月29日、南京事件(南京大虐殺)が同年12月。約5ヶ月の間隔がある。

一部には、通州事件が南京事件に影響を与えた、つまり通州での中国人による日本人虐殺への「復讐」として南京での虐殺が行われた、という主張がある。

しかし、この因果関係は歴史学的に証明されていない。南京事件の原因は複合的であり、通州事件との直接的な関連を示す資料は乏しい。

両事件の違い

規模という点では、両事件は大きく異なる。通州事件の犠牲者は約200名、南京事件の犠牲者数については諸説あるが、最も控えめな推計でも数万人規模とされる。

また、加害者の性質も異なる。通州事件は傀儡政権の保安隊による反乱・虐殺だったのに対し、南京事件は正規軍による占領地での行為だった。

両事件を「相殺」するような議論は、歴史の真摯な検討とは言えない。それぞれの事件を、その背景と文脈の中で理解することが重要である。


現代への教訓:なぜ今、通州事件を知るべきか

民族対立のエスカレーション

通州事件は、民族間の対立がエスカレートした時、何が起こり得るかを示す悲劇的な事例である。

保安隊の兵士たちの多くは、普段は日本人居留民と同じ街で暮らしていた。個人的には特に敵意を持っていなかった者も多かっただろう。

しかし、盧溝橋事件後の緊張、誤爆への怒り、虚偽放送による高揚感、そして指揮官の命令。これらが重なった時、「隣人」だった人々は「敵」に変わった。

一度暴力が始まれば、群集心理が働く。エスカレーションの連鎖が起き、普段なら決してしないような残虐な行為が行われる。これは人間の心理に関する普遍的な教訓である。

「味方」への過信の危険

日本軍は、冀東防共自治政府の保安隊を「友軍」と認識していた。彼らが反乱を起こすとは予想していなかった。

しかし、保安隊の成り立ち、隊員たちの背景、抗日気運の高まりといった状況を冷静に分析していれば、リスクを認識できたはずである。

「味方」への過信、状況認識の甘さが、悲劇を招いた一因でもあった。

情報戦と虚偽報道

通州事件の直前、国民政府は「日本軍敗退」という虚偽のラジオ放送を行った。これが保安隊の決起を後押しした。

現代においても、情報戦は安全保障の重要な要素である。SNSの発達により、虚偽情報の拡散速度は当時とは比較にならないほど速くなっている。

有事の際、虚偽情報が人々の行動を左右する危険性は、むしろ高まっていると言えるだろう。

憎しみの連鎖を絶つ

通州事件の被害者遺族たちが到達した「憎しみの連鎖を絶つ」という思いは、現代を生きる僕たちにも問いかけている。

通州事件を知ることは重要だ。犠牲になった日本人・朝鮮人居留民のことを忘れてはならない。

しかし、この事件を「中国人は信用できない」「中国民族は残虐だ」という結論に短絡させることは、被害者遺族たちの願いに反する。そして、それは新たな悲劇の種を蒔くことにもなりかねない。


日中関係と台湾有事

現代の緊張

2025年現在、日中関係は複雑な状況にある。

尖閣諸島周辺では中国公船の活動が常態化し、台湾海峡の緊張も高まっている。中国軍は近年急速に近代化を進め、空母3隻体制の構築、極超音速兵器の開発など、軍事力を大幅に増強している。

台湾有事が発生すれば、日本も無関係ではいられない。高市早苗首相が「台湾有事は存立危機事態になり得る」と発言したように、日本政府も台湾有事への関与を現実的に想定している。

歴史から学ぶ

このような時代だからこそ、歴史から学ぶ必要がある。

通州事件は、日中関係が悪化し、民族感情がエスカレートした末に起きた悲劇だった。盧溝橋事件からわずか22日で、「味方」だったはずの保安隊が「敵」に変わり、無辜の民間人が虐殺された。

現代において、同様の悲劇が起きないという保証はない。むしろ、SNSによる情報拡散の速さ、ナショナリズムの高まりを考えれば、状況はより危険かもしれない。

日中関係の緊張が高まる中、僕たちに必要なのは冷静さである。相手を「鬼畜」と呼び、憎しみを煽ることは、状況を悪化させるだけだ。

かつて通州事件後の日本がそうだったように。


まとめ:通州事件から何を学ぶか

通州事件は、1937年7月29日に起きた、中国人保安隊による日本人・朝鮮人居留民の虐殺事件である。犠牲者は200名以上、その殺害方法は極めて残虐だった。

事件の背景には、日本の華北分離工作と傀儡政権の矛盾、保安隊内部の反日感情、盧溝橋事件後の緊張と混乱があった。

この事件は日本国内で「暴支膺懲」の世論を高め、日中戦争の本格化を後押しした。憎しみが憎しみを呼ぶ、悪循環の典型的な事例でもあった。

犠牲になった日本人・朝鮮人居留民のことを、僕たちは忘れてはならない。彼らの多くは、政治とは無関係な一般市民だった。たまたま通州で暮らしていたというだけで、命を奪われた。

しかし同時に、この事件を民族への憎しみに転化させてはならない。それは、被害者遺族たちが願った「憎しみの連鎖を絶つ」という思いに反する。

歴史を知ることは、同じ悲劇を繰り返さないためである。日中関係が緊張する今だからこそ、僕たちは通州事件から学ぶべきことがある。

対立がエスカレートした時、何が起こり得るのか。 「味方」がある日「敵」に変わる可能性をどう認識すべきか。 虚偽情報が人々の行動をどう左右するか。 そして、憎しみの連鎖をどう断ち切るか。

これらの問いに対する答えは、僕たち一人一人が考え続けなければならない。


通州事件をもっと深く知りたい方へ

通州事件について、さらに詳しく知りたい方には、以下の書籍をおすすめする。

笠原十九司『通州事件──憎しみの連鎖を絶つ』(高文研、2022年)は、事件の背景から被害者遺族への聞き取りまで、包括的に扱った良書である。副題にある「憎しみの連鎖を絶つ」というメッセージは、現代を生きる僕たちにも響くものがある。

また、広中一成『増補新版 通州事件』(志学社選書、2021年)も、冀東政権の成り立ちから事件の詳細まで、実証的に分析した重要な研究である。

一方、事件の残虐性を強調する立場からは、藤岡信勝・三浦小太郎編『通州事件──日本人はなぜ虐殺されたのか』(勉誠出版、2017年)がある。様々な視点からの論考が収録されており、事件への多角的なアプローチを知ることができる。

いずれの立場に立つにせよ、歴史の事実を知ることから始めることが重要だ。


関連記事

日中戦争の発端となった盧溝橋事件について知りたい方は、こちらの記事も参考にしてほしい。(※盧溝橋事件の記事が作成されれば内部リンク)

また、当時の日本軍の装備や戦力について興味がある方は、以下の記事も合わせて読んでみてください。

現代の日中軍事バランスに関心がある方は、中国軍の最新装備についての記事(※今後作成予定)もご覧ください。


歴史を知り、考え、そして未来に活かす。それが、先人たちの犠牲に報いる唯一の道だと、僕は信じている。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次