特攻はなぜ始まったのか|「届かない」攻撃を人命で解決した日本軍の計算と、誰も止められなかった組織の5つの条件

特攻はなぜ始まったのか 記事表紙

特攻はなぜ始まったのか。

この問いには、よく知られた答えがいくつかある。日本軍が狂信的だったから。大西瀧治郎が命じたから。軍国主義教育が若者を死に向かわせたから。どれも半分は正しく、半分は間違っている。狂信だけなら1941年の開戦時から特攻をやっていたはずで、実際には3年間、日本軍は世界で最も高度な通常の航空攻撃を行っていた。大西が命じたのは事実だが、海軍中央は大西がフィリピンに着く前から特攻兵器を作っていた。教育の影響は否定できないが、特攻を計画したのは教育を受けた若者ではなく、それを命じた参謀たちだった。

私はこの記事で、特攻を「狂気」ではなく「計算」として読む。1944年秋、日本軍の通常攻撃は米艦隊に届かなくなっていた。届かない攻撃を届かせる方法として、機体と搭乗員を一体の兵器にする計算が、海軍と陸軍の中央で、ほぼ同時に、それぞれ独立に成立した。その計算は一度の「成功」で制度になり、誰もそれを止める仕組みを持たなかった。特攻はなぜ始まったのかという問いの答えは、この5つの条件の重なりにある。

最初に命じた大西瀧治郎の生涯は大西瀧治郎とはに、特攻専用機の構造は桜花とはに、最大の特攻作戦の舞台は沖縄戦に譲る。本記事は「なぜ」だけを追う。

目次

結論——特攻が始まった5つの条件

結論——特攻が始まった5つの条件

年表——特攻は現場より先に中央で始まっていた

年月出来事
1943年6月海軍の城英一郎大佐が体当たり戦闘機の構想を上申。却下される
1944年2月黒木博司・仁科関夫両中尉が人間魚雷(後の回天)を提案
1944年4月4日軍令部第二部長・黒島亀人が「作戦上急速実現を要望する兵力」を提出。体当たり戦闘機・震洋・回天を含む
1944年6月マリアナ沖海戦。日本の艦載機が米艦隊に届かず壊滅
1944年8月桜花の開発を軍令部が承認。回天・震洋の量産開始
1944年10月19〜20日大西瀧治郎がフィリピンで神風特別攻撃隊を編成
1944年10月20〜21日陸軍参謀本部が陸軍初の特攻隊・万朶隊を編成
1944年10月25日敷島隊が護衛空母セント・ローを撃沈。「成功」が報じられる
1944年11月12日陸軍万朶隊がレイテ湾で初出撃
1945年4月6日沖縄への菊水一号作戦。以後6月まで10次にわたる大規模特攻
1945年4月7日戦艦大和の水上特攻
1945年8月15日玉音放送の後、宇垣纏中将が最後の特攻に出撃

この年表で最も重要なのは、1944年4月4日と10月19日の順序だ。海軍中央が特攻兵器の開発を要望したのは、フィリピンで大西が特攻を命じる半年前だった。特攻は現場で生まれ、中央が追認したのではない。中央で計画され、現場で実行された。

条件1:通常攻撃が届かなくなった——1944年6月の技術的敗北

艦隊の防空には、探知した情報を指揮と迎撃につなぐ仕組みが必要だった。
艦隊の防空には、探知した情報を指揮と迎撃につなぐ仕組みが必要だった。

マリアナ沖で何が起きたか

条件1:通常攻撃が届かなくなった——1944年6月の技術

この日を境に、日本の航空攻撃は構造的に「届かない」ものになった。急降下爆撃も雷撃も、目標の上空か至近まで到達して初めて成立する。到達できなければ、どれほど優れた搭乗員でも戦果はゼロだ。1944年後半の日本軍の攻撃隊は、出撃機数に対する命中率が数パーセントまで落ちていた。

「届く」ための計算

ここで、ある計算が成立する。通常攻撃では100機出して数機しか届かず、届いた機も爆弾を落として離脱する際に落とされる。ならば、届いた機がそのまま艦に突っ込めば、投下の精度は不要になり、離脱時の損失も問題にならない。機体は爆弾の一部になり、搭乗員は誘導装置になる。特攻は、この計算の名前だ。

私はこの計算を書きながら、何度も手が止まった。しかし書いておく必要がある。特攻を始めた参謀たちは、狂信で目が曇っていたのではなく、この計算を冷静に行い、その通りだと判断した。狂気なら止められた可能性がある。計算だったからこそ、止まらなかった。海軍が電子戦で負けた経緯は日本海軍はなぜ敗れたのかに詳しく書いた。

条件2:機体と搭乗員の質が崩れた——「訓練の要らない攻撃」

飛行場に残る整備工具と航空装具。訓練と補給の条件を考える。
飛行場に残る整備工具と航空装具。訓練と補給の条件を考える。

1942年の一年で、日本海軍の母艦航空隊の中核はほとんど入れ替わった。真珠湾を攻撃した搭乗員は平均で数百時間の飛行経験を持っていたが、1944年の新人は200時間前後、多くはそれ以下だった。急降下爆撃も雷撃も、習得には長い訓練が要る。しかも燃料が足りず、訓練飛行そのものが制限されていた。

特攻には、もう一つの残酷な合理性があった。体当たりは、最も訓練コストの低い攻撃法だった。爆弾の投下角度も魚雷の発射距離も要らない。目標に向けて機体を操縦できれば足りる。熟練搭乗員が消え、新人を育てる時間も燃料もなくなった軍隊にとって、特攻は「今いる人間と今ある機体で成立する唯一の攻撃」に見えた。1945年には練習機まで特攻に投入された。練習機は爆弾を積めば飛べるが、通常攻撃はできない。特攻だけができる機体だった。搭乗員養成の崩壊は大日本帝国の航空戦力の記事で扱っている。

条件3:中央が先に準備していた——特攻は現場の熱狂ではなかった

大西瀧治郎の肖像。
大西瀧治郎の肖像。
写真:Wikimedia Commons/出典(パブリックドメイン)

海軍——黒島亀人と「急速実現を要望する兵力」

条件3:中央が先に準備していた——特攻は現場の熱狂ではな
条件3:中央が先に準備していた——特攻は現場の熱狂ではな

陸軍——参謀本部が編成した万朶隊

陸軍も同じだった。1944年10月20日、参謀本部から特攻隊の編成命令が下り、翌21日には岩本益臣大尉以下16人が選ばれ、九九式双発軽爆撃機による陸軍初の特攻隊が編成された。命名したのは参謀総長の梅津美治郎で、藤田東湖の詩から「万朶隊」と名づけた。海軍の敷島隊とほぼ同じ日に、陸軍中央も独自に特攻隊を作っていた。

海軍と陸軍は、太平洋戦争を通じて連携が取れなかった組織だ。その二つが、特攻についてだけは、同じ月に同じ結論に達した。私はこれを、特攻が個人の発案でも一方の軍の逸脱でもなく、1944年の日本軍が置かれた条件から「必然的に」導かれた答えだった証拠だと考えている。条件が同じなら、別々に計算しても同じ答えが出る。

条件4:一度の「成功」が制度になった——10月25日から始まった連鎖

セント・ロー

1944年10月25日、関行男大尉の敷島隊がサマール沖で米護衛空母群に突入し、セント・ローを撃沈、数隻を損傷させた。レイテ沖海戦で栗田艦隊がレイテ湾突入を断念したこの日、特攻だけが目に見える戦果を挙げた。大本営はこれを大々的に発表し、関大尉は「軍神」として報じられた。

ここから連鎖が始まる。海軍は特攻を拡大した。陸軍は海軍に張り合った。11月12日、万朶隊の初出撃で陸軍は「戦艦1隻・輸送艦1隻撃沈」と発表したが、実際の米側の損害は工作艦2隻の損傷だけだった。海軍が空母を沈めたなら陸軍は戦艦を、という戦果の競争が、特攻の拡大を後押しした。

志願から命令へ

初期の特攻隊員は志願者から選ばれた。しかし特攻が制度になると、「志願」の形式だけが残った。隊員に配られた用紙には「熱望」「望」「否」の選択肢があったが、「否」と書ける空気は現場にほとんどなかったと多くの証言が語る。指名で選ばれ、辞退できず、出撃の順番を待つ。志願という言葉が、命令の別名になった。

佐々木友次伍長——9回出撃して生きて帰った男

万朶隊の初出撃で、全員が戦死したと発表された隊員の中に、生きていた者がいた。佐々木友次伍長は、体当たりせず爆弾を投下して通常攻撃を行い、飛行場に生還した。その後も出撃を繰り返し、そのたびに敵艦に突入せず帰還した。上官からは死ぬことを求められ、生きて帰ったことを非難されたが、佐々木は爆弾を落として帰る方が戦果を挙げられると考えていた。彼は戦後まで生き延び、2016年に92歳で亡くなった。

条件4:一度の「成功」が制度になった——10月25日から

条件5:止める仕組みがなかった——外道と知りつつ続いた10か月

条件5:止める仕組みがなかった——外道と知りつつ続いた1

第一に、日本軍は生きて帰ることを前提にしていなかった。1941年の戦陣訓は「生きて虜囚の辱を受けず」と命じ、1943年のアッツ島以来、玉砕は敗北の標準的な終わり方になっていた。撃墜された搭乗員を回収する仕組みも弱く、負傷兵を後送する船もなかった。人を戻す発想がない組織にとって、最初から戻らない攻撃は、それほど大きな飛躍ではなかった。この構造は日本軍の兵站はなぜ崩壊したのかで書いた。

第二に、特攻は「一億総特攻」という言葉で、国民全体の戦い方に拡張された。1945年4月の戦艦大和の水上特攻、6月の沖縄での菊水作戦、そして本土決戦に向けた震洋と回天と伏龍の配備。特攻は航空隊の戦術から、国家の戦略になった。戦略になった手段を、現場の指揮官が止めることはできない。

第三に、責任を取る者がいなかった。大西は終戦の翌日に自決した。第五航空艦隊の宇垣纏中将は、玉音放送の後に部下を連れて最後の特攻に出撃した。責任を死で引き受けた指揮官はいたが、制度を作った中央で、特攻を止める決断をした者はいなかった。

『失敗の本質』は、日本軍が「学習棄却できない組織」だったと診断した。特攻はその最も極端な例だ。一度成功した手段を、条件が変わっても、効果が落ちても、最後まで手放せなかった。

数字で見る——戦果と代償

項目数字出典・注記
航空特攻の戦死者海軍2,531人、陸軍1,417人、計3,948人特攻隊戦没者慰霊顕彰会
回天・震洋などを含む特攻戦死者約6,000人資料により幅がある
沖縄・菊水作戦の出撃機海軍940機、陸軍887機1945年4〜6月
連合軍艦船の損害撃沈55隻、撃破198隻(うち廃艦23隻)米軍公式記録からの集計。撃沈の大半は駆逐艦以下
連合軍の死傷者死者約8,000人、負傷約10,700人同上
命中率1945年3月までに米艦隊の視界に入った356機のうち命中140機、至近59機視界に入る前に落とされた機は含まれない

数字が示すことは二つある。一つは、特攻が戦術としては「効いた」ことだ。米海軍は特攻を「艦隊が遭遇した最も困難な防空問題」と評価し、沖縄戦では米海軍史上最大の人的損害を出した。もう一つは、それでも戦略的には何も変わらなかったことだ。沈めた55隻のうち正規空母も戦艦もなく、米軍の沖縄占領は予定通り進み、本土への圧力は弱まらなかった。特攻は米軍に恐怖を与えたが、その恐怖は講和ではなく、本土決戦の損害見積もりを引き上げる方向に働いた。

海軍と陸軍——同じ特攻、違う顔

項目海軍陸軍
最初の部隊神風特別攻撃隊敷島隊(1944年10月20日編成)万朶隊(1944年10月21日編成)
主な機体零戦、彗星、桜花、練習機の白菊一式戦・四式戦、九九式双軽、練習機の九九式高練
航空以外回天(人間魚雷)、震洋(爆装艇)、伏龍(人間機雷)マルレ(肉薄攻撃艇)、刺突爆雷による対戦車肉迫攻撃
沖縄戦の出撃機940機887機
指揮系統連合艦隊の下で菊水作戦として統一運用第6航空軍が連合艦隊の指揮下に入り航空総攻撃
海軍と陸軍——同じ特攻、違う顔

米軍はどう受け止めたか——「最も困難な防空問題」

米海軍は特攻を、艦隊が遭遇した最も困難な防空問題と評価した。撃墜しても墜落する機体が艦に届く。通常の攻撃隊なら投弾後に離脱する時間が、特攻機にはない。沖縄では艦隊の外周に駆逐艦を「レーダーピケット」として配置し、特攻機を早期に発見して迎撃する態勢を組んだが、その結果、最前線のピケット駆逐艦が集中攻撃を受け、沈没艦の多くを駆逐艦が占めることになった。

特攻は米軍の戦争計画にも影響した。沖縄で受けた損害は、本土決戦での予想損害を引き上げる材料になり、日本本土上陸作戦の見積もりは数十万人規模の死傷者に膨らんだ。この見積もりが原爆使用の判断にどこまで影響したかは今も議論があるが、特攻が「日本は最後まで戦う」という米側の認識を固めたことは確かだ。特攻が与えた恐怖は、講和を引き寄せる方向ではなく、戦争を最後まで戦い抜く決意を米側に与える方向に働いた。

特攻は「志願」だったのか

特攻は「志願」だったのか

知覧の特攻平和会館には、沖縄戦で出撃した隊員の遺書と写真が並んでいる。平均年齢は20歳前後。私はそこで、彼らが何を考えていたかを断定する言葉を持たない。ただ、彼らを出撃させた計算と制度がどう成立したかは、史料から書ける。この記事は、その部分だけを書いた。

80年後——人を乗せない特攻

最後に、現代の話を書いておく。ウクライナの戦場では、イランのシャヘド型自爆ドローンとFPVドローンが、目標に体当たりして破壊する攻撃を毎日数百回の規模で行っている。機体が爆弾になり、誘導装置が目標まで運ぶ。1944年に日本軍が人命で解決した「届かせる」問題を、80年後の技術はカメラと電波と人工知能で解決した。

私はこの事実を、特攻の肯定にも否定にも使いたくない。ただ、特攻が「狂気」ではなく「計算」だったことの、これ以上ない証明だとは思っている。計算そのものは正しかった。誤っていたのは、計算の変数に人間を入れたことと、それを止める仕組みを持たなかったことだ。

映画・本で知る特攻

作戦記録、遺書、証言は、それぞれの性質を区別して読む。
作戦記録、遺書、証言は、それぞれの性質を区別して読む。
作品内容
『永遠の0』(2013年)特攻を命じられた搭乗員の側から描いた映画
森史朗『特攻とは何か』特攻の意思決定を海軍中央の動きから検証
鴻上尚史『不死身の特攻兵』9回出撃して生還した佐々木友次への聞き取り
大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』学徒特攻隊員の日記から思想を読み解く
草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』最初に命じた指揮官の評伝

特攻隊員の側から同じ時代を見たい人には、次の作品が入口になる。

評伝や研究書を通勤中に耳で聞きたい人は、Audibleに太平洋戦争関連の書籍が揃っている

まとめ——特攻を始めたのは計算で、止められなかったのは組織だった

特攻はなぜ始まったのか。通常攻撃が届かなくなり、届かせる搭乗員も機体もなくなり、海軍と陸軍の中央がそれぞれ独立に「人が爆弾を届ける」計算に達し、一度の成功が制度になり、止める仕組みがなかった。5つの条件は1944年秋にすべて揃い、10か月続いた。

私は特攻を、日本軍の狂気の象徴ではなく、日本軍の合理主義の帰結として覚えておきたい。狂気なら、正気に戻れば止まる。計算は、条件が変わらない限り止まらない。特攻を止めたのは反省でも良心でもなく、敗戦だった。その事実の重さを、80年後に生きる私たちは引き受ける必要がある。

よくある質問

特攻はなぜ始まったのか、一言で言うと?

1944年半ば以降、米艦隊の防空能力の向上で日本の通常攻撃が目標に届かなくなり、「届く」攻撃として機体と搭乗員を一体の兵器にする計算が海軍・陸軍の中央で成立したため。狂信ではなく、当時の条件から導かれた計算だった。

特攻を最初に考えたのは大西瀧治郎か?

違う。海軍軍令部は1944年4月に特攻兵器の開発を要望し、夏には桜花・回天・震洋の開発が始まっていた。大西は同年10月にフィリピンで最初に実行した指揮官であり、発案者ではない。

特攻の戦死者は何人か?

航空特攻の戦死者は海軍2,531人、陸軍1,417人の計3,948人(特攻隊戦没者慰霊顕彰会)。回天・震洋などの水上・水中特攻を含めると約6,000人とする資料もある。

特攻の戦果は?

米軍公式記録からの集計で撃沈55隻、撃破198隻、死者約8,000人、負傷約10,700人。戦術的には米海軍に最大級の損害を与えたが、沈めた艦に正規空母や戦艦はなく、戦局は変わらなかった。

特攻は志願だったのか?

初期には志願者が中心だったが、制度化後は「熱望・望・否」の用紙が配られても事実上の指名だったと多くの証言が語る。志願と命令の境界は曖昧だった。

特攻を拒否した隊員はいたのか?

陸軍万朶隊の佐々木友次伍長は、体当たりせず爆弾を投下して通常攻撃を行い、9回出撃して生還した。戦後まで生き延び、2016年に亡くなった。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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