横井庄一とは、1944年のグアムでの戦闘後、島のジャングルに約28年間隠れ続け、1972年に帰国した元陸軍軍曹だ。
帰国時の「恥ずかしながら帰ってまいりました」は、その年の流行語になった。高度経済成長の只中で、大阪万博の記憶も新しい日本に、28年前の戦争がそのままの姿で帰ってきた。テレビの特別番組は関東で視聴率41パーセントを記録し、「よっこいしょういち」というギャグまで生まれた。
しかし、この人物の物語は、2年後に帰国した小野田寛郎と並べて語られることで、かえって見えにくくなっている。二人は同じ「残留日本兵」として一括りにされるが、中身は正反対だった。小野田は中野学校で任務を続けよと教えられ、島民と戦い続けた。横井は普通の召集兵で、生きて捕虜になるなと教えられ、ただ隠れ続けた。小野田は約30年にわたり武装活動を続けた一方、横井は約28年にわたって人目を避けて暮らした。私はこの記事で、横井庄一を「もう一人の小野田」としてではなく、日本軍が一人の仕立て屋に何を教え、その教えが彼をどこまで縛ったかの記録として書く。小野田の側は小野田寛郎とはに譲る。
プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生没 | 1915年3月31日〜1997年9月22日(82歳) |
| 出身 | 愛知県海部郡佐織村(現・愛西市)。名古屋で洋服仕立業 |
| 職業 | 洋服仕立て職人 |
| 所属 | 歩兵第38連隊 |
| 最終階級 | 陸軍軍曹 |
| 潜伏期間 | 1944年8月〜1972年1月(約28年) |
| 発見 | 1972年1月24日、グアム島タロフォフォで地元住民に発見 |
| 帰国 | 1972年2月2日 |
| 戦後 | 講演、著述、陶芸。名古屋の横井庄一記念館は2022年に閉館 |
年表
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1915年 | 愛知県に生まれる |
| 1930年 | 豊橋の洋服店で仕立て職人として働き始める |
| 1936年 | 名古屋の実家で洋服仕立業を営む |
| 1938年 | 最初の召集。日中戦争に従軍し翌年解除 |
| 1941年8月 | 二度目の召集。満州へ |
| 1944年3月 | 歩兵第38連隊としてグアム島へ |
| 1944年7月 | 米軍がグアムに上陸。8月に中隊解散命令 |
| 1946年 | 共に潜伏していた5人のうち2人が投降 |
| 1964年 | 残った仲間2人が死亡。以後一人 |
| 1972年1月24日 | タロフォフォ川で地元住民に発見される |
| 1972年2月2日 | 帰国。「恥ずかしながら」 |
| 1972年11月 | 結婚 |
| 1974年 | 著書『明日への道』刊行。参議院選挙に出馬し落選 |
| 1997年9月 | 死去 |
名古屋の仕立て職人、二度の召集

横井庄一は1915年、愛知県の農村に生まれた。15歳で豊橋の洋服店に奉公に出て、洋服仕立て職人になった。21歳で名古屋の実家に戻り、自分の店を持つ。この「仕立て屋」という職業が、後にジャングルで彼を生かすことになる。
1938年、横井は最初の召集を受けて日中戦争に従軍し、翌年に解除されて名古屋に戻った。1941年8月、二度目の召集。今度は満州に送られ、1944年3月、歩兵第38連隊の一員としてグアム島に配置された。20代の仕立て職人は、太平洋の最前線に立たされた。
1944年——グアムの敗戦と、解散命令
1944年7月21日、米軍がグアムに上陸した。日本軍守備隊約2万人は圧倒的な火力の前に壊滅し、8月には組織的な戦闘が終わる。横井の中隊には「解散」の命令が下った。各自で生き延びよ、という意味だ。玉砕命令でも降伏命令でもなく、ただ組織が消えた。サイパンで守備隊が玉砕したのと同じ夏、グアムでは兵士が散り散りにジャングルへ入った。
横井は当初、仲間4人とともに山中に潜んだ。1946年に2人が投降し、3人が残った。横井にとって投降は選択肢になかった。彼は「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓の教えを、そのまま信じていた。捕まれば殺される、捕まらなくても捕まったこと自体が恥だ。仕立て職人だった横井は、軍隊で教わったことをそのまま受け取る、真面目な兵士だった。
グアムという島——2万人が死に、数百人が残った
グアムは1941年12月に日本軍が占領し、1944年7月に米軍が奪回した島だ。守備隊約2万人はほぼ全滅し、米軍も1,700人以上が戦死した。日本の降伏後も、島のジャングルには組織を失った日本兵が数百人単位で残り、米軍とグアム警察の掃討は1945年から46年にかけて続いた。投降した者、掃討で死んだ者、そして横井のように隠れ続けた者がいた。
横井の発見は、実は最初ではない。1960年には、同じグアムで皆川文男と伊藤正の2人が発見されている。彼らは16年を隠れて生きた。横井はそのさらに12年後まで残った。グアムには、戦後も長く「日本兵がまだいる」という認識が島民の側にあり、横井を発見した2人の住民も、その存在を知ったうえで山に入っていた。太平洋の激戦地の中でグアムがどう位置づけられるかは太平洋戦争の激戦地15選で扱っている。
28年——洞窟と、手織りの服と、罠
地下壕を掘る

横井たち3人は、タロフォフォ川の近くの竹藪に地下壕を掘って住んだ。深さ数メートル、竹で天井を支え、入口を隠した壕は、上から見ても分からなかった。夜だけ外に出て、川でエビとウナギの罠を仕掛け、ソテツの実の毒を抜いて食べ、野生の木の実と野草で飢えをしのいだ。
仕立て屋の技術

横井の28年で最も知られているのは、服だ。軍服が朽ちると、横井はパゴと呼ばれる木の樹皮から繊維を取り、手製の織機で布を織り、それを裁断して服を縫った。ズボン、上着、帽子。仕立て職人の技術が、ジャングルで文字通り彼の身を包んだ。発見時に着ていた手織りの服は、帰国後に名古屋市博物館などで展示され、見た人の多くが「これを一人で作ったのか」と絶句した。針は金属片を研いで作り、糸は繊維を撚って作った。
私はこの服に、横井という人物のすべてが出ていると思っている。彼は戦わなかった。生き延びるために、自分の仕事をした。仕立て屋は仕立て屋のまま、ジャングルで28年を生きた。
1964年、二人の死
1964年、残っていた仲間2人が死んだ。台風による洪水と栄養失調が原因とされる。横井は二人を葬り、以後8年間、一人で生きた。誰とも話さず、誰にも会わず、夜だけ動く生活。発見時の横井は、極度の緊張と孤独の中でも精神を保っていたことが医師を驚かせた。帰国後の横井は、寝ている間に起こされてもすぐには上半身を起こさず、まずうつ伏せになって相手を確かめてから起きる、と語っている。28年の習慣は、体から抜けなかった。
横井は終戦を知っていたのか
横井は帰国後、終戦を知っていたと語っている。1952年頃、ジャングルに落ちていた紙片や、後に投降勧告のビラなどから、戦争が終わったらしいことは分かっていた。それでも出なかった理由を、彼はこう説明した。捕まれば殺されると思っていた。長くとも10年待てば日本軍が必ず戻ってくると信じていた。そして、生きて帰ることが恥だという教えが、体に染みついていた。
ここが小野田との決定的な違いだ。小野田は「任務が解除されていない」から出なかった。横井は「捕まるのが怖く、帰るのが恥ずかしい」から出なかった。前者は特殊な訓練を受けた将校の論理で、後者は普通の召集兵に日本軍が教えた規範そのものだ。戦陣訓が兵士に何をしたかを一人の人間で示すなら、それは小野田ではなく横井の方だと私は思う。
1972年1月24日——発見

1972年1月24日の夕方、横井はタロフォフォ川にエビの罠を仕掛けに出た。そこで、鹿を追っていた地元の男性2人と出くわした。横井は逃げようとしたが取り押さえられ、村の事務所に連れて行かれた。長く人目を避けていた横井は、殺されると思って抵抗したという。
グアムの病院に移された横井は、精密検査を受け、日本から派遣された医師団の診察で、病院を転院する形で帰国することが決まった。2月2日、特別機で羽田に降り立った横井は56歳だった。仲間2人の遺骨も、一緒に帰国した。
「恥ずかしながら」の本当の言葉
羽田で出迎えた斎藤邦吉厚生大臣に、横井はこう言った。何かのお役に立つと思って恥を忍んで帰って参りました。グアム島敗戦の状況をつぶさに皆さんに知ってもらいたくて、恥ずかしいけれども帰って参りました。その後の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりましたけども」と述べた。これらが報道で「恥ずかしながら帰ってまいりました」にまとめられ、流行語になった。
私はこの言葉の重さを、流行語としてではなく読みたい。横井は生きて帰ったことを本当に恥じていた。軍隊がそう教え、彼はそれを28年間信じ、信じたまま帰ってきた。日本人はその言葉を聞いて戦陣訓を思い出し、同時に、自分たちがその教えをとっくに忘れて高度成長を謳歌していたことに気づいた。横井の帰国が衝撃だったのは、戦争が終わっていなかった人がいたからではなく、戦争がまだ終わっていないことを、彼が一言で思い出させたからだ。
帰国後——結婚、講演、参院選、陶芸
帰国した横井は、全国的な注目を浴びた。1972年11月に結婚し、翌年のオイルショックでは「耐乏生活の専門家」として講演に呼ばれた。1974年に初の著書『明日への道』を出版してベストセラーになり、同年7月の参議院選挙に無所属で出馬したが落選した。同じ年の3月に小野田寛郎が帰国すると、世間の関心は小野田に移り、横井への注目は次第に薄れていった。
帰国後の横井が語った言葉で、私が最も記憶しているものがある。ジャングルでは、明日の食べ物のことだけを考えていれば生きられた。日本に帰ってからの方が、考えることが多くて疲れる、という趣旨の述懐だ。28年の孤独より、帰国後の日本の方が彼にとっては難しかった。戦争が終わった社会に、戦争を終えていない人間が帰ってくることの重さを、この一言ほど正確に言い当てた言葉を私は知らない。
晩年の横井は陶芸に打ち込んだ。ジャングルでは生きるために道具を作り、帰国後は自分の時間を過ごすために器を作った。1997年9月22日、82歳で死去。妻の美保子は夫の遺品と手織りの服を守り、名古屋市中川区の自宅を横井庄一記念館として公開し、戦争の記憶を伝える活動を続けた。
横井と小野田——二つの「終わらない戦争」
| 項目 | 横井庄一 | 小野田寛郎 |
|---|---|---|
| 身分 | 召集された仕立て職人。軍曹 | 中野学校出身の将校。少尉 |
| 受けた教育 | 戦陣訓。生きて捕虜になるな | 残置諜者。玉砕せず任務を続けよ |
| 潜伏中の行動 | 隠れ続けた。住民との接触を避けた | 戦い続けた。島民約30人を殺害 |
| 出なかった理由 | 捕まる恐怖と、帰る恥 | 任務解除命令がない |
| 終戦の認識 | 1952年頃には知っていた | 認めなかったと語る |
| 帰国のきっかけ | 偶然の発見 | 元上官の任務解除命令 |
| 帰国時の言葉 | 「恥ずかしながら」 | 軍刀を差し出して投降 |
同じ戦争の同じ時期に、同じ太平洋の島に残った二人が、それぞれ約28年と約30年を、これほど違う形で生きた。違いは人格ではなく、日本軍が二人に与えた教えの違いだ。将校には「生きて任務を続けよ」と教え、兵卒には「生きて虜囚になるな」と教えた。前者は島民を死なせ、後者は自分を恥じた。日本軍の教育が兵士に何をしたかを知るには、二人を並べて読むのがいちばん近い。特攻で死ねと命じられた兵士、任務を続けよと命じられた将校、捕虜になるなと教えられた仕立て屋。三つの命令は、すべて同じ組織から出ている。太平洋戦争が「終わらなかった」構造は太平洋戦争で日本はなぜ負けたのかの終戦の遅れの章で扱った。
グアムと名古屋——横井の足跡を訪ねる
グアム島南部のタロフォフォの滝公園には、横井が住んだ地下壕を再現した「横井ケーブ」がある。実際の壕の跡地は公園の近くにあり、現地では今も横井の名が知られている。日本からの観光客がリゾート地として訪れるグアムは、1944年に2万人の日本兵が死んだ戦場でもあり、横井の壕はその記憶を最も静かに残している場所だ。名古屋市中川区にあった横井庄一記念館は、2022年9月3日に閉館した。横井の衣服や生活道具は名古屋市博物館にも収蔵されており、展示情報は同館の案内で確認できる。
グアムは日本から3時間半で、横井ケーブはタモンの中心部から車で1時間ほどだ。リゾートの合間に一度、戦場としてのグアムを歩いてみてほしい。
本と映像で知る横井庄一
| 作品 | 内容 |
|---|---|
| 横井庄一『明日への道』 | 本人による記録。1974年刊 |
| 横井庄一『横井庄一のサバイバル極意書』 | ジャングルでの生活技術を本人がまとめた |
| 名古屋市博物館『横井庄一さんのくらしの道具』 | 手織りの服と道具の展示図録 |
| NHKなどのドキュメンタリー | 発見と帰国の映像、帰国後の証言 |
映像は動画配信で観られるものがある。
本人の記録や戦後史の書籍を通勤中に耳で聞きたい人には、Audibleに関連書籍が揃っている。
まとめ——仕立て屋は仕立て屋のまま、28年を生きた
横井庄一は、名古屋の洋服仕立て職人として二度召集され、グアムで組織を失い、戦陣訓の教えを信じてジャングルに隠れ、樹皮を織って服を作り、仲間2人を失い、終戦を知りながら潜伏を続け、最後の8年間を一人で生き、偶然に発見されて「恥ずかしながら」と帰ってきた。彼は人目を避けて暮らした。そして、教えられた通りに恥じ続けた。
私がこの人物に惹かれるのは、彼が英雄でも軍人らしい軍人でもなく、最後まで仕立て屋だったからだ。日本軍は彼に「生きて虜囚になるな」と教え、彼はそれを28年守った。その教えを出した側は、終戦の翌日には忘れていた。横井の「恥ずかしながら」は、忘れた側に向けられた、最も静かな告発だったと思う。
よくある質問
横井庄一はなぜ28年間もグアムに隠れていたのか?
「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓の教えを信じ、捕まれば殺されると考え、生きて帰ることを恥じていたため。1952年頃には終戦を知っていたが、10年待てば日本軍が戻ると信じて出なかった。
「恥ずかしながら帰ってまいりました」は正確な言葉か?
羽田で厚生大臣に「恥を忍んで帰って参りました」「恥ずかしいけれども帰って参りました」と述べ、記者会見で「恥ずかしながら生きながらえておりましたけども」と語った。報道で短縮された形が流行語になった。
横井庄一と小野田寛郎の違いは?
横井は召集された仕立て職人で、戦陣訓に従い、人との接触を避けて隠れ続けた。小野田は中野学校出身の将校で、任務を続けよという教えに従って戦い続け、島民約30人を殺害した。教えの違いが、約28年と約30年の過ごし方の違いになった。
横井庄一はジャングルで何を食べていたのか?
川で罠を仕掛けて捕ったエビとウナギ、毒抜きしたソテツの実、野生の木の実や野草。夜だけ外に出て食料を集めた。
横井庄一の手織りの服とは?
軍服が朽ちた後、パゴという木の樹皮から繊維を取り、手製の織機で布を織って縫った服。仕立て職人の技術で作られ、名古屋市博物館などで展示された。
横井庄一の記念館はどこにあるか?
名古屋市中川区にあった横井庄一記念館は2022年9月3日に閉館した。生活道具は名古屋市博物館にも収蔵されている。グアムのタロフォフォの滝公園には地下壕を再現した横井ケーブがある。
出典・参考
- CBCによる遺族の閉館発表の取材(2022年9月3日閉館) https://newsdig.tbs.co.jp/articles/cbc/142991?display=1
- 名古屋市博物館「横井庄一さんのくらしの道具」展(経歴・発見・帰国時の言葉) https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji151017.html
- 横井庄一(Wikipedia日本語版、経歴・仲間の投降と死亡・帰国後の照合に使用) https://ja.wikipedia.org/wiki/横井庄一
- 昭和ガイド「横井庄一の写真、名言、年表」(帰国時の正確な発言、視聴率) https://showa-g.org/men/view/808
- 横井庄一『明日への道』文藝春秋
- 横井庄一『横井庄一のサバイバル極意書』小学館文庫
- 横井庄一記念館(名古屋市中川区)







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