小野田寛郎とは|ルバング島で30年戦い続けた「最後の日本兵」は、忠誠の英雄か、島民30人を殺した男か――任務解除の一言でしか帰れなかった理由

小野田寛郎|終わらなかった29年
要点

日本では、この人は忠誠と不屈の象徴として語られてきた。命令を守り、ジャングルで30年を耐え、元上官の任務解除命令を受けて初めて銃を置いた軍人。帰国時の羽田空港には報道陣が殺到し、当時の日本人の多くが、失われた何かを彼の中に見た。

フィリピンでは、同じ人物が別の顔で記録されている。ルバング島の住民約30人が小野田たちに殺され、100人以上が負傷した。終戦後の29年間、島民は日本兵の襲撃に怯えて暮らし、収穫を奪われ、家族を失った。マルコス大統領が小野田に恩赦を与えたのは、日本からの経済援助を守るための政治判断だったとする見方が、フィリピン側には根強い。

私はこの記事で、どちらの顔も削らない。小野田寛郎は、日本軍が兵士に何を教え、何を禁じたかを29年かけて証明した人物であり、同時に、その29年の代償を払ったのが日本人ではなくルバング島の住民だった、という事実の証人でもある。任務解除の一言でしか帰れなかった理由と、その一言が来るまでに誰が死んだかを、順序で書く。

目次

プロフィール

項目内容
生没1922年3月19日〜2014年1月16日(91歳)
出身和歌山県海南市
学歴・訓練旧制海南中学、陸軍中野学校二俣分校
最終階級陸軍少尉
任務残置諜者。ルバング島での遊撃戦と情報収集
潜伏期間1945年〜1974年3月(約29年)
投降1974年3月10日。元上官・谷口義美の任務解除命令による
戦後ブラジルで牧場経営、帰国後に小野田自然塾を主宰

年表

年月出来事
1922年和歌山に生まれる
1939年商社に就職し、中国・漢口で勤務
1942年陸軍に入隊
1944年陸軍中野学校二俣分校で残置諜者の訓練
1944年12月ルバング島に派遣
1945年2月米軍がルバング島に上陸。ジャングルへ
1945年8月終戦。小野田は信じず
1950年赤津勇一一等兵が投降
1954年島田庄一伍長がフィリピン軍との戦闘で死亡
1972年10月小塚金七一等兵がフィリピン警察軍との戦闘で死亡
1974年2月20日冒険家・鈴木紀夫が小野田と接触
1974年3月9日谷口義美元少佐が任務解除命令を伝達
1974年3月10日ルバング島でフィリピン軍に投降
1974年3月11日マニラでマルコス大統領に軍刀を差し出す
1974年3月12日帰国
1975年ブラジルへ移住し牧場を開く
1984年小野田自然塾を開設
2014年1月死去

商社員から残置諜者へ

商社員から残置諜者へ

中野学校は諜報員と工作員を養成する陸軍の学校で、二俣分校はその中でも遊撃戦、つまりゲリラ戦を専門に教えた。ここで小野田が叩き込まれたのは、通常の軍隊の教えとは正反対の規範だった。玉砕は禁止。捕虜になることも禁止。敵に占領された島に残り、生き延び、情報を集め、味方の反攻を待つ。「残置諜者」と呼ばれるこの任務は、死ぬことより生き続けることを命じた。

商社員から残置諜者へ

1945年——戦争は終わったが、任務は終わらなかった

熱帯の密林に置かれた雨よけと生活道具
密林での潜伏を支えた、雨よけと生活道具。

1945年2月、米軍がルバング島に上陸した。島の日本軍守備隊は壊滅し、小野田は数人の兵とともにジャングルに入る。8月、日本は降伏した。しかし小野田にとって、降伏の知らせは「敵の謀略」だった。

これを狂信と呼ぶのは簡単だが、中野学校の教えに照らせば、小野田の判断は訓練通りだった。敵は偽の情報で投降を誘う。ビラも新聞も、日本語で書かれていても敵の工作かもしれない。谷口少佐の命令が解除されるまで任務は続く。小野田は撒かれた投降勧告のビラを読み、その日本語の細部に不自然な点を見つけて偽物と断じた。1950年代に捜索隊が家族の手紙や日本の新聞を置いていっても、彼はそれを信じなかった。日本の敗戦を認めることは、自分の29年を否定することでもあった。

私はこの部分に、日本軍の教育の恐ろしさを見る。小野田は命令を守った。命令は「生きて任務を続けよ」だった。玉砕を禁じた中野学校の教えは、結果として、玉砕よりはるかに長い戦争を一人の兵士に強いた。

4人から1人へ——赤津、島田、小塚

4人から1人へ——赤津、島田、小塚

1972年10月19日、小塚がフィリピン警察軍との銃撃戦で死亡した。小野田は一人になった。同じ年の1月、グアム島で横井庄一が発見され、2月に日本に帰国している。「恥ずかしながら帰ってまいりました」という言葉は横井のもので、小野田のものではない。小塚の死は日本でも報じられ、小野田がまだ生きていることが確実になった。

島民の29年——もう一つの記録

フィリピンの農村を思わせる水田と人々の暮らし
作物と家畜は、島の人々の暮らしを支える基盤だった。

ここで、日本ではあまり語られない側を書く。小野田たちは29年間、何を食べて生きていたのか。答えの一部は、島民の作物と家畜だ。彼らは収穫期に畑を襲い、牛を撃ち、米を奪った。抵抗する住民や、偶然遭遇した住民は撃たれた。フィリピン側の記録では、小野田たちに殺された島民は約30人、負傷者は100人以上とされる。島民にとって、山にいる日本兵は「終戦を知らない忠実な軍人」ではなく、収穫のたびに現れて人を殺す武装集団だった。

島民の29年——もう一つの記録

もう一つ、記しておくべき証言がある。帰国後、小野田と接した記者の一人は、小野田が入浴中にぽつりと「終戦は知っていた」と語ったと後年に書いている。真偽は確認できない。ただ、もしそうなら、小野田がジャングルを出なかった理由は「敗戦を信じなかった」ことだけではなく、島民への加害の報復を恐れたことも含まれる。私はこの証言を、小野田を貶めるためではなく、29年という時間が一人の人間の内側で何をしていたかを考えるために置いておく。

1974年——鈴木紀夫と、谷口少佐の一言

熱帯の飛行場に停まるプロペラ機
島から外の世界へ。29年間の任務は、元上官の命令で解除された。
1974年——鈴木紀夫と、谷口少佐の一言

3月9日、谷口は鈴木とともにルバング島に入り、小野田の前で任務解除の命令を読み上げた。大命により尚武集団のすべての作戦行動は解除された、参謀部別班は全任務を解除された、各部隊は直ちに戦闘と工作を停止せよ。小野田は30年前の上官の声で、30年前の命令が解かれるのを聞いた。

3月10日、小野田は軍服を着てフィリピン軍に投降した。軍刀と小銃を差し出し、翌11日、マニラのマラカニアン宮殿でマルコス大統領に軍刀を献じ、マルコスはそれを返した。フィリピン政府は小野田の島民殺傷について恩赦を与えた。3月12日、小野田は日本航空の特別機で羽田に帰国した。51歳だった。

恩赦の政治

マルコスの恩赦は、フィリピン国内で批判を受けた。30人の島民を殺した人物を、大統領が宮殿で英雄として迎えたからだ。日本からの経済援助を守るための判断だったとする見方は、当時からフィリピン側にあった。マルコスは小野田を「命令に忠実な軍人の鑑」として演出することで、世論の矛先を「犯罪者」から「奇跡の戦士」へ変えたとも評される。小野田の英雄像は、日本の熱狂だけでなく、フィリピンの政治的な計算によっても作られた。

小野田だけではなかった——残留日本兵たち

人物場所発見・帰還
横井庄一グアム島1972年1月発見、2月帰国。「恥ずかしながら帰ってまいりました」
小野田寛郎ルバング島1974年3月投降、帰国
中村輝夫(スニヨン)モロタイ島(インドネシア)1974年12月発見。台湾出身の高砂義勇兵で、台湾へ帰還

戦争が終わったことを知らず、あるいは信じずにジャングルに残った日本兵は、小野田一人ではない。横井庄一はグアムで28年、洞窟に住み、木の繊維で服を織って生き延びた。横井は戦闘を続けず、隠れ続けた。小野田は任務を続け、島民と戦った。中村輝夫は台湾の先住民出身で、帰る場所は日本ではなく台湾だった。三人の「残留」は、それぞれ違う戦争の終わり方を示している。

小野田だけではなかった——残留日本兵たち

帰国後——ブラジルの牧場と、自然塾

ブラジルの広い牧草地と牛の群れ
帰国後、小野田が選んだのはブラジルでの牧場経営だった。
帰国後——ブラジルの牧場と、自然塾

2014年1月16日、小野田は東京で死去した。91歳だった。危険への備えは死ぬまで体に染みついていて、寝ているときに起こされても、すぐに上半身を起こさず、まずうつ伏せになって相手を確認してから起き上がった、と本人が語っている。

評価——英雄か、殺人者か、日本軍の教育の証人か

小野田寛郎の評価は、三つに分けられる

評価根拠
忠誠の英雄命令を29年守り、任務解除の命令でのみ投降した
島民にとっての加害者約30人を殺害、100人以上を負傷させ、収穫を奪い続けた
日本軍の教育の証人玉砕を禁じ生き続けよと教えた中野学校の規範を、文字通り実行した

私の見立てはこうだ。小野田は英雄でも殺人者でもなく、その両方を一人の中に持たされた人物だった。彼を英雄と呼ぶ日本人は、島民の30人を見ていない。彼を殺人者と呼ぶ人は、彼に「生きて任務を続けよ」と命じた組織を見ていない。小野田は自分で任務を選んでいない。中野学校が教え、谷口少佐が命じ、日本軍が敗れて命令を解く者を送らなかった。29年間、彼の命令を解除できる人間は谷口一人で、その谷口は書店の店主として日本にいた。誰も彼を探しに行かなかった、というより、探しに行っても彼は信じなかった。

同じ戦争で、日本軍は特攻によって兵士に死ぬことを命じ、玉砕によって降伏を禁じた。小野田はその逆の命令、死ぬなという命令を受けた数少ない兵士だった。そして死ぬなという命令もまた、29年と30人の命を要した。日本軍が兵士に与えた命令は、死ねと言っても生きろと言っても、誰かを死なせた。小野田の物語は、そのことの証明だと私は思う。フィリピンの戦場の全体像はルソン島の戦いに、戦争が終わらなかった構造は太平洋戦争で日本はなぜ負けたのかの「終戦の遅れ」に書いた。

映画と本で知る小野田寛郎

作品内容
『ONODA 一万夜を越えて』(2021年)フランス人監督による映画。中野学校からルバング島の29年を描き、島民との衝突も避けずに描いた
小野田寛郎『わがルバン島の30年戦争』本人による記録。自己正当化を含めて読むべき一次資料
小野田寛郎『たった一人の30年戦争』本人による回想
鈴木紀夫『大放浪 小野田少尉発見の旅』発見者による記録
映画と本で知る小野田寛郎
映画と本で知る小野田寛郎

まとめ——死ぬなという命令の代償

小野田寛郎は、中野学校で生きて任務を続けよと教えられ、ルバング島で29年間それを守り、部下1人が投降し、2人が戦死し、島民約30人を殺し、元上官の一言で銃を置き、日本で英雄になり、ブラジルで牛を育て、子どもに野外で生きる技術を教えて死んだ。

私がこの人物を書く理由は、彼の忠誠を讃えるためでも、彼の加害を告発するためでもない。日本軍が一人の兵士に与えた命令が、29年と30人の命を要したという事実を、忠誠の物語の中に埋めないためだ。任務解除の一言でしか帰れなかった男の29年は、その一言を言える人間を送らなかった組織の29年でもある。

よくある質問

小野田寛郎はなぜ29年間も戦い続けたのか?

陸軍中野学校で残置諜者として「玉砕せず生きて任務を続けよ」と教えられ、上官の谷口義美少佐から「必ず迎えに行く」と命じられていたため。投降勧告のビラや新聞を敵の謀略と判断し、命令を解除できる谷口本人が現れるまで任務は続くと考えた。

小野田寛郎は本当に終戦を知らなかったのか?

本人は敗戦を信じなかったと語っている。一方で、帰国後に接した記者が、小野田が「終戦は知っていた」と語ったと後年に書いており、真偽は確認できない。

小野田寛郎は島民を殺したのか?

フィリピン側の記録では、潜伏中に島民約30人が殺害され、100人以上が負傷したとされる。小野田は食料の調達と敵対する住民への対処を作戦の一部と考えていた。フィリピン政府は投降時に恩赦を与えた。

「恥ずかしながら帰ってまいりました」は小野田の言葉か?

違う。1972年にグアム島から帰国した横井庄一の言葉で、小野田のものではない。

小野田寛郎はどうやって発見されたのか?

1974年2月、冒険家の鈴木紀夫が単身でルバング島に入って接触した。小野田が上官の命令なしには投降しないと告げたため、鈴木は日本で元上官の谷口義美を探し出し、3月9日に谷口が現地で任務解除命令を読み上げた。

小野田寛郎は帰国後どうしたのか?

1975年にブラジルへ移住して牧場を経営し、1984年に日本で小野田自然塾を開いて子どもに野外活動を教えた。2014年1月に91歳で死去した。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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