P-51ムスタングの記事を書いたとき、私は少し後ろめたかった。ムスタングを「WW2最強候補」と書く記事は世の中に山ほどあるが、そのムスタングが登場するまでヨーロッパの空を支え、ムスタングが来たあとは地上のドイツ軍を叩き潰し、太平洋では疾風と雷電の設計者が追いかけた背中でもある、もう一機のことをちゃんと書いていなかったからだ。
P-47サンダーボルト。米陸軍航空軍の戦闘機で、単発機として史上最重量級で、第二次大戦中の米国製戦闘機で最多級の15,000機以上が生産され、乗員からは「ジャグ」と呼ばれた。零戦を大きく上回る重さがある。それなのに高空では速く、急降下では誰にも追いつけず、ドイツ軍の20ミリ砲弾を何発も食らって基地に帰ってきた。
旧軍ファンとして、この機体を書くと、日本の航空技術が最後まで越えられなかった壁の形がはっきり見える。技術屋として、投資家として、書く。
30秒でわかるP-47サンダーボルト

資料:US Air Force/出典・利用条件(Public domain)
P-47は、米国のリパブリック社が開発した単発単座の戦闘機で、1942年に部隊配備が始まり、第二次世界大戦中、欧州と太平洋で使われた。設計者はアレクサンダー・カートヴェリ。エンジンはプラット・アンド・ホイットニーR-2800、排気タービン式のターボ過給器を胴体後部に積み、高高度で2,000馬力以上を出せた。武装は12.7ミリ機銃8挺。
前半のD型までは「レイザーバック」と呼ばれる背の高い胴体で、後期のD型から視界のよいバブルキャノピーに変わった。太平洋向けに航続距離を伸ばしたN型は、沖縄から日本本土まで往復できた。
欧州では1943年、B-17の護衛戦闘機としてドイツ空軍と戦い、1944年にムスタングが護衛任務を引き継ぐと、地上攻撃機として機関車、車両、戦車を叩いた。総生産数15,686機。第二次大戦中の米国製戦闘機では最多級の生産数を記録し、最も多く失われ、最も多くの搭乗員を生きて帰した機体の一つだ。
先に主要型式を置いておく。
- P-47B/C:初期型。1942年配備。レイザーバック
- P-47D:主力量産型。約12,600機。途中からバブルキャノピー、パドルブレード・プロペラ、水噴射
- P-47M:欧州向け高速型。2,800馬力級のエンジンで時速760キロ超
- P-47N:太平洋向け長距離型。主翼を新設計して燃料を増やし、航続距離3,000キロ超
主要諸元も置いておく。ここでは米空軍国立博物館が掲載するP-47Dの代表値に揃えた。型式や搭載条件で数値は変わる。
- 全長:約11.02メートル、全幅:約12.42メートル
- 最大重量:約7.94トン
- エンジン:P&W R-2800-59、2,430馬力(同館掲載値)
- 最高速度:約697キロ/時
- 実用上昇限度:約12,800メートル
- 航続距離:約1,658キロ(同館掲載値。戦闘行動半径ではない)
- 武装:12.7ミリ機銃6〜8挺、爆弾最大約1,134キロまたはロケット弾10発
生まれた経緯――カートヴェリの「大きく造る」決断

資料:United States Army Air Forces/出典・利用条件(Public domain)
P-47を設計したリパブリック社は、もともとロシア帝国から亡命したセバスキーが興した会社で、主任設計者のアレクサンダー・カートヴェリもグルジア出身の亡命者だった。1930年代の同社の戦闘機P-35、P-43は、どちらも米陸軍で二線級の扱いだった。
1940年、米陸軍は軽量の戦闘機を求めていた。カートヴェリはその要求を一度は受けたあと、欧州での戦訓を見て考えを変え、「軽い機体では高空の戦いに勝てない」として、ターボ過給器付きの大型戦闘機を提案し直した。P-43のターボ過給器の経験があったからだ。XP-47Bは1941年5月に初飛行し、翌年から部隊配備が始まった。
軽くて小さい戦闘機を求めた陸軍に、重くて大きい戦闘機を売り込んだ設計者の判断が、結果として第二次大戦中の米国を代表する量産戦闘機を生んだ。日本の設計者が最後まで「軽さ」を捨てられなかったのと、対照的だ。
なぜこんなに大きいのか――ターボ過給器という設計思想
技術屋として、まずこの機体の「大きさ」の理由を書く。
P-47Dの最大重量は約7.94トン。零戦二一型が約2.4トン、Bf109G型が約3.1トン、ムスタングD型でも約4.5トン。ただし、これらは搭載条件が揃った比較ではない。それでもP-47がひときわ重い単発戦闘機だったことは確かだ。理由は一つで、ターボ過給器だ。
戦闘機のエンジンは高度が上がると空気が薄くなり出力が落ちる。それを補うのが過給器で、日本やドイツの多くの戦闘機はエンジンの軸で駆動する機械式過給器を使っていた。P-47は排気ガスでタービンを回す排気タービン式で、これは高高度で圧倒的に有利だが、タービンと配管と冷却器が巨大で、しかも熱い。カートヴェリはこれを胴体後部に置き、エンジンからの排気を胴体の下を通して後ろへ送り、圧縮した空気をまた前へ戻す配管を機体の中に通した。胴体が太く長くなったのは、この配管を収めるためだ。
代償として重くなった。そのかわり、高度9,000メートルで2,000馬力を維持できた。零戦や隼が高度6,000メートルを超えると息切れしたのは、この差だ。日本は排気タービン過給器を試作段階で何度も試して、最後まで量産できなかった。耐熱合金と精密加工と信頼性の三つが揃わなかった。P-47の太い胴体は、日本の航空産業が持っていなかった技術の形そのものだ。
R-2800――戦争に勝ったエンジン
もう一つの心臓がR-2800だ。プラット・アンド・ホイットニーの空冷星型18気筒、排気量46リットル、初期型で2,000馬力。F6Fヘルキャット、F4Uコルセア、P-47、B-26、A-26と、米軍の主力機に片っ端から積まれた。
このエンジンの本当の強さは出力ではなく、信頼性と量産性にある。日本の疾風が積んだ誉エンジンは、排気量36リットルで2,000馬力を狙った野心的な設計だったが、量産品の品質と燃料の質と整備の問題で、実戦ではカタログ通りの出力が出ないことが多かった。R-2800は、大量生産された量産品が、前線の整備でカタログ通りに回った。戦闘機の性能は設計図ではなく、工場と整備場で決まる。この記事で私が一番言いたいことは、たぶんこれだ。
後期のP-47Dは水メタノール噴射で緊急出力2,300馬力を出し、M型は2,800馬力級のエンジンで時速760キロを超えた。レシプロ戦闘機として最速級の数字で、ムスタングより速い。
レイザーバックからバブルキャノピーへ

資料:assumed USAAF/出典・利用条件(Public domain)
初期のP-47は、操縦席の後ろの胴体が背中のように高く盛り上がっていて、「レイザーバック(剃刀の背)」と呼ばれた。後方視界が悪く、空戦で後ろに付かれた敵が見えない。1944年、D型の途中から胴体後部を削って涙滴型のバブルキャノピーに変え、後方視界を確保した。同じ改修はムスタングでもスピットファイアでも行われていて、1944年の連合軍戦闘機の共通の進化だ。
ただ、胴体を削ったことで方向安定性が落ち、後期型には垂直尾翼の前に背びれ(ドーサルフィン)が追加されている。同時期にプロペラの幅を広げたパドルブレードに変え、水メタノール噴射を加えて、上昇力の弱点をかなり改善した。レイザーバックとバブルトップは、外見だけでなく、飛び方が違う機体になっていた。
8挺の12.7ミリ――一斉射撃で何が起きるか
P-47の武装は12.7ミリ機銃8挺で、両翼に4挺ずつ。1挺あたり毎分約800発、8挺で毎秒100発以上の12.7ミリ弾が前方に飛ぶ。携行弾数は最大で1挺425発、合計3,400発で、これは当時の戦闘機として飛び抜けて多い。
ドイツの戦闘機は20ミリや30ミリの機関砲で「一撃で落とす」思想だった。P-47は12.7ミリを「面で当てる」思想で、一発の威力より弾数と命中の確率を取った。空戦では敵機の翼と胴体をまとめて穴だらけにし、地上攻撃では機関車のボイラーを蒸気ごと爆発させた。1944年後半、フランスとドイツの鉄道が動かなくなった理由の一つは、この8挺だ。
日本の戦闘機で12.7ミリを8挺積んだ機体はない。搭載できる出力がなかったからだ。零戦は7.7ミリ2挺と20ミリ2挺、疾風でも12.7ミリ2挺と20ミリ2挺。P-47と正面から撃ち合えば、弾の量で押し切られる。
頑丈さ――撃たれて帰ってくる機体
P-47の伝説の多くは、「撃たれても帰ってきた」話だ。翼を半分失って着陸した機、シリンダーを何本も撃ち抜かれてエンジンが回り続けた機、20ミリ砲弾を数十発受けて飛び続けた機。空冷エンジンは液冷と違って冷却液の配管がなく、一発で止まることが少ない。太い胴体と厚い翼は、被弾しても構造が持つ。パイロットの前後に装甲板があり、燃料タンクは自動防漏式だった。
搭乗員はこの機体を「ジャグ」と呼んだ。「ジャガーノート」の略とも、胴体が牛乳の壺に似ているからとも言われる。「風呂桶」とも呼んだ。愛称の全部が、優雅さとは無縁だ。それでも搭乗員はこの機体を信頼した。ある部隊には「P-47で地面に突っ込んだら、深く掘れ。エンジンが後から落ちてくるから」という冗談があった。重さと頑丈さを、笑いに変えていた。
ロバート・ジョンソン中尉は1943年、Fw190に追われて20ミリ砲弾と機銃弾を何十発も受け、キャノピーが開かなくなり、それでもイギリスの基地まで飛んで帰った。機体は廃棄されたが、彼は翌年、欧州で27機を撃墜する。日本の設計思想では、この機体は「重すぎて鈍重」と評価されただろう。実際、日本の航空技術者の多くはそう見ていた。だが戦争が長引くほど、「軽くて速いが一発で燃える機体」と「重くて鈍いが帰ってくる機体」の差は、搭乗員の生存率の差として積み上がった。
急降下――逃げられない
P-47の空戦での最大の武器は、急降下だった。7.9トンの機体が高空から突っ込むと、加速が止まらない。ドイツのBf109やFw190は、急降下で振り切ろうとしてP-47に追いつかれた。逆にP-47は、高空で待ち構えて、下にいる敵に突っ込んで、一撃して離脱する戦い方に徹すれば、負けにくかった。
問題は上昇力と旋回性能で、これは最後まで弱点だった。低空で格闘戦に持ち込まれると、軽い機体に回り込まれる。だからP-47のパイロットは格闘戦をしなかった。高度を取り、急降下で殴り、速度を保ったまま上昇する。零戦とヘルキャットの比較で書いた「格闘戦をしない戦い方」を、P-47は誰よりも徹底した。
欧州――B-17を守り、ムスタングに譲り、地上を潰す

資料:U.S. Army Air Forces photo 342-FH-3A16481-A77065AC/出典・利用条件(Public domain)
1943年、第8空軍のB-17がドイツ本土爆撃を始めたとき、護衛に付けたのはP-47だった。だが航続距離が足りず、オランダとドイツの国境あたりで引き返さなければならなかった。護衛が離れた先で、爆撃機はFw190とBf109に食われた。1943年秋のシュヴァインフルト空襲の損害は、この「護衛の届かない距離」で出ている。
P-47は増槽を付けて航続距離を伸ばしたが、1944年初め、P-51ムスタングがベルリンまで往復できる護衛機として現れると、第8空軍の護衛任務は順次ムスタングに移った。P-47の側から見れば「追い出された」形だが、そのあとにP-47が本領を発揮する仕事が待っていた。
1944年6月のノルマンディー上陸以降、第9空軍のP-47は地上攻撃機になった。爆弾と ロケット弾と8挺の機銃で、ドイツ軍の機関車、貨車、車両、戦車、橋を叩いた。米側の集計では、欧州でP-47が破壊した機関車は9,000両、車両は8万台超とされる。数字の正確さには議論があるが、ドイツ軍の補給がフランスで止まった理由の一つがこの機体であることは、ドイツ側の証言でも一致している。装甲師団が昼間に道路を動けなくなったのは、上にP-47がいたからだ。
56戦闘航空群「ゼムケの狼群」は、P-47のまま最後まで欧州で戦い、フランシス・ガブレスキーの28機をはじめ、欧州の米陸軍エースの上位を占めた。ムスタングに乗り換えなかった部隊が、ムスタング部隊と同じだけ落としている。
太平洋――疾風と雷電が追いかけた背中

資料:USAF/出典・利用条件(Public domain)
太平洋では、P-47は1943年からニューギニアでP-38と並んで日本の陸軍航空隊と戦った。第348戦闘航空群のニール・カービー大佐は、4機編隊を率い、1日の戦闘で6機を撃墜して名誉勲章を受け、翌年、隼との空戦で戦死している。
そして1945年、長距離型のP-47Nが沖縄の伊江島に展開し、九州と本土西部への攻撃を始めた。航続距離3,000キロ超、増槽を付ければ沖縄から本土まで往復して、地上と海上の目標を8挺の機銃で薙いだ。終戦時、P-47Nは本土上陸作戦の航空支援の中核になる予定だった。
旧軍ファンとして書いておきたいのは、日本側の視点だ。日本陸軍の疾風は、P-47とP-51に対抗するために2,000馬力級のエンジンを積んだ。海軍の雷電は、P-47と同じ「大出力エンジンで高空の爆撃機を迎撃する」思想の局地戦闘機だ。どちらも設計としては正しく、性能もカタログ上は肉薄した。だが疾風の誉は量産品の品質で泣き、雷電は視界と離着陸の癖で搭乗員に嫌われ、そして両方とも、ターボ過給器を持たなかった。日本の設計者はP-47の背中を見て追いかけたが、追いつくために必要だったのはエンジンの設計ではなく、エンジンを設計通りに量産して整備する国の力だった。
数字で見るP-47

資料:United States Army Air Forces/出典・利用条件(Public domain)
総生産数15,686機。第二次大戦中の米国製戦闘機で最多級。うち欧州で約5,200機、太平洋を含む全戦域で約7,000機が失われた(事故を含む)。出撃回数は74万回超、撃墜数は空戦で約3,700機、地上撃破を含めると約7,000機。
そして、生産単価は約8万3,000ドル。ムスタングの約5万ドルより高く、機体重量あたりでは安い。米国は1機8万ドルの戦闘機を、月に600機のペースで造った。日本が疾風を月に300機造るのがやっとで、そのうちの何割がまともに飛べたかを考えると、この生産数の意味がわかる。
投資家メモ――ターボの技術は、どこへ行ったか
投資家として、この機体の技術の「その後」を追う。
P-47のターボ過給器を造ったのはゼネラル・エレクトリック(GE)で、GEは戦時中に排気タービンの耐熱合金と精密加工の技術を積み上げ、1942年に米国初のジェットエンジンを試作した。戦後、GEはこの技術で航空機用ジェットエンジンの世界最大手になり、今のGEエアロスペースに至る。P-47の太い胴体の中で回っていたタービンは、80年後のボーイングとエアバスの翼の下で回っているタービンの祖先だ。
一方、P-47を造ったリパブリックは、戦後にF-84、F-105を造り、1965年にフェアチャイルドに買収され、フェアチャイルド・リパブリックとしてA-10サンダーボルトIIを造った。P-47の名前と「撃たれても帰ってくる」思想はA-10に引き継がれたが、会社はA-10の生産終了後の1987年に航空機事業から撤退している。大量の戦闘機を造った会社は、今は存在しない。
防衛産業への投資を考えるとき、私はこの二社の対比をよく思い出す。機体を造った会社は消え、部品の技術を持っていた会社は世界最大手になった。日本の防衛産業でも、完成品を組む企業と、素材やエンジンや電子部品を握る企業では、長期の姿が違う。日本の防衛産業一覧と防衛関連銘柄の投資ガイドで整理してあるので、興味があれば。
ただし、ここに書いたのは私個人の見方で、投資を勧めるものではない。投資判断はご自身の責任で、必要なら専門家に相談してほしい。
自衛隊とP-47
航空自衛隊はP-47を使っていない。発足時に米国から供与されたのはF-86セイバーで、レシプロ戦闘機の時代は日本の空軍が存在しない空白期と重なった。
だが、P-47の思想は今の空自にも関係がある。「高空で待って急降下で殴る」「格闘戦をしない」「撃たれても帰る」。空自のF-15やF-35が想定する戦い方は、レーダーとミサイルに置き換わってはいるが、格闘戦を避け、高度と速度と情報で優位を取って一撃離脱する、という骨格は同じだ。零戦の格闘戦から、戦後の日本の戦闘機運用がP-47の側の思想に移ったこと自体が、80年前の空の答えだと私は思っている。
模型で並べる
P-47のキットは、タミヤの1/48が決定版だ。バブルキャノピーのD型で、太い胴体とターボ過給器の吸気口、8挺の機銃の銃口が、機体の思想をそのまま形にしている。
このキットを、同じタミヤ1/48のP-38、ハセガワの1/32ムスタング、あるいは日本機の1/48と並べてほしい。P-47の大きさが、この記事で書いた全部を一目で説明する。零戦の隣に置くと、同じ「単発戦闘機」という言葉で呼ぶのが申し訳なくなる。
もっと知るために
米国の戦闘機の全体像は、第二次世界大戦のアメリカ戦闘機一覧で整理してある。P-47をムスタングやコルセアと並べたランキングは最強レシプロ戦闘機ランキングとWW2最強戦闘機ランキングで。
P-47の搭乗員の回想録は英語のものが多いが、ロバート・ジョンソンの『Thunderbolt!』は今も読まれている。長い戦記は、私は移動中にオーディオブックで聴くことが多い。
よくある疑問に、私なりに答えておく
P-47とP-51はどちらが強かったのか
用途が違う。高空での速度と急降下と頑丈さはP-47、航続距離と燃費と低空の運動性はP-51。爆撃機の長距離護衛にはP-51が向き、地上攻撃と高空迎撃にはP-47が向いた。1944年以降の米陸軍航空軍は、両方を持っていたから強かった。「どちらが強いか」より「両方を同時に何千機も持てたこと」が答えだと思う。
「サンダーボルト」の名前はA-10に継がれたのか
継がれた。A-10の正式名称はサンダーボルトIIで、P-47の後継として名付けられた。太い胴体、頑丈さ、地上攻撃、そして「撃たれても帰ってくる」思想。名前だけでなく設計思想も継いでいる。A-10を造ったのはP-47を造ったリパブリックの後身で、これは偶然ではない。
日本にP-47はいたのか
日本軍は使っていない。戦後、中華民国空軍がP-47を使い、台湾海峡で中国と戦っている。日本国内に実機の展示はなく、見るなら米国の博物館か、台湾の空軍博物館になる。
なぜ日本はターボ過給器を実用化できなかったのか
耐熱合金(タービン翼がエンジンの排気温度に耐えるニッケル・クロム合金)、タービンの精密加工、そして量産品の信頼性。三つとも、1940年代の日本の工業水準では届かなかった。試作機は何機も作られ、飛びもしたが、量産して前線で回すには至らなかった。この問題は戦後、日本のジェットエンジン開発が長く米英に頼った理由にもつながっている。
P-47が今の私たちに残したもの
P-47は、美しい飛行機ではない。零戦やムスタングやスピットファイアのような優雅さはなく、太くて重くて、パイロットは「風呂桶」と呼んだ。
だが、この機体は、戦闘機の強さとは何かを、一番正直に教えてくれる。速さでも旋回でも見た目でもなく、高空で出力を保つターボと、量産品がカタログ通りに回るエンジンと、撃たれても持つ構造と、それを月に600機造る工場と、そこから帰ってきた搭乗員が次の日も飛べること。
疾風と雷電の設計者が追いかけたのは、P-47の性能ではなく、P-47を生んだ国の工業力だった。追いつけなかった理由も、そこにある。







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