横須賀の三笠公園に行くと、海に向かって一隻の戦艦が静かに浮かんでいる。正確には、浮かんでいるように見えるだけで、船体はコンクリートで地面に固定されている。記念艦「三笠」だ。
大和も武蔵も長門も、もうこの世にはない。日本の戦艦で、今も実物を見られるのは三笠だけだ。現存する鋼鉄製の戦艦としては世界でもっとも古く、イギリスのヴィクトリー、アメリカのコンスティテューションと並んで「世界三大記念艦」の一つに数えられている。
でも、私が三笠に惹かれるのは、日本海海戦の旗艦だったからだけではない。この艦は、少なくとも5回は死にかけている。爆発して沈み、座礁し、地震で壊れ、条約で廃艦を命じられ、戦後には解体を求められた。そして最後には、ダンスホールにまでされた。
それでも三笠は残った。なぜ残ったのか。そこには、日本人だけでなく、かつての敵国の提督や、一人のイギリス人の思いが関わっている。この記事は、その数奇な一生を追う。
三笠のスペック

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 艦種 | 戦艦(前弩級戦艦) |
| 建造 | イギリス・ヴィッカース社(バロー造船所) |
| 竣工 | 1902年3月 |
| 常備排水量 | 約1万5,000トン |
| 全長 | 約122メートル |
| 主砲 | 30.5センチ連装砲2基(計4門) |
| 副砲 | 15.2センチ砲14門 |
| 速力 | 約18ノット |
| 記念艦化 | 1925年に横須賀で固定/1926年に保存記念式 |
| 復元 | 1961年 |
数字だけ見ると、のちの大和(主砲46センチ、7万トン級)とは比べものにならない小ささだ。でも、1902年の時点では、三笠は世界でもトップクラスの戦艦だった。
誕生:日清戦争の賠償金で、イギリスに発注された艦
三笠の物語は、日清戦争の勝利から始まる。
日清戦争のあと、日本は三国干渉で遼東半島を手放させられ、ロシアの脅威をはっきり意識するようになった。そこで海軍は、戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻を柱にする「六六艦隊」の整備に乗り出す。その資金の多くを支えたのが、清から受け取った賠償金だった。三笠は、この六六艦隊の戦艦の最後の1隻にあたる。
当時の日本には、こんな大きな戦艦を自分で造る力はまだなかった。だから三笠は、イギリスのヴィッカース社に発注された。艦名は、奈良の三笠山にちなんでいる。
技術好きとして書いておくと、三笠はイギリスの最新技術の塊だった。装甲には当時最新の高硬度の鋼板が使われ、同じ重さでも以前の装甲より敵弾に強かった。艦の中央部を厚い装甲で固め、主砲を前後の砲塔に、副砲を舷側にずらりと並べた配置は、当時の戦艦の完成形と言っていい。
ただ、三笠には一つ、宿命があった。三笠は「前弩級戦艦」と呼ばれる種類の艦だ。日本海海戦の翌年、1906年に、イギリスは主砲を大口径に統一した革命的な戦艦「ドレッドノート」を完成させる。これで、それまでの戦艦は一気に時代遅れになった。三笠が栄光の頂点に立った瞬間は、三笠という艦種が古くなる瞬間でもあったのだ。
日露戦争:先頭で敵弾を浴びつづけた旗艦

資料:伊藤正徳の掲載資料(原写真の撮影者不詳)/出典・利用条件(Public domain)
1904年、日露戦争が始まると、三笠は連合艦隊司令長官・東郷平八郎の旗艦として、常に艦隊の先頭に立った。
先頭を行く旗艦は、敵の砲火が一番集中する場所でもある。1904年8月の黄海海戦で、三笠はロシア艦隊の砲撃を受けて大きな損害を出した。この戦いでは、三笠の主砲の砲身の中で砲弾が暴発する事故も起きている。日本の砲弾は威力が大きい反面、扱いが難しかった。腔発については腔発の解説で詳しく書いた。
そして1905年5月27日、日本海海戦。三笠のマストにZ旗が揚がり、東郷は敵前で艦隊の向きを大きく変えた。いわゆる東郷ターンだ。回頭する先頭の三笠には、ロシア艦隊の砲弾が集中した。それでも三笠は隊列の先頭を守り続け、連合艦隊はバルチック艦隊をほぼ全滅させた。海戦の詳しい経過は日本海海戦の解説に、東郷という人物については東郷平八郎の解説にまとめている。
日露戦争の全体像は日露戦争の全体像で書いた。
800人の暮らし:石炭と汗の戦艦

資料:Harris & Ewing, photographer/出典・利用条件(Public domain)
三笠には、800人を超える乗員が乗っていた。全長122メートルの艦に、それだけの人が暮らしていたわけだ。
当時の戦艦は石炭で動いていた。ボイラーで石炭を燃やして蒸気をつくり、その力でスクリューを回す。だから乗員の仕事で一番きつかったのは、戦闘よりも石炭の積み込みだったと言われる。港に入るたびに、何百トンもの石炭を人力で艦に運び込む。艦じゅうが真っ黒な粉にまみれ、終わったあとは艦全体を洗い流さなければならなかった。
日本海海戦で連合艦隊が使ったのは、煙が少なく火力の強いイギリス産の上質な石炭だった。黒煙が少ないと、遠くから敵に見つかりにくく、自分たちの視界も邪魔されない。一方のバルチック艦隊は、長い航海の途中で質の悪い石炭しか手に入らず、甲板にまで石炭を積み上げて走ってきた。燃料の質の差も、海戦の勝敗に影響していたのだ。
水兵たちは、狭い甲板の下にハンモックを吊って眠った。三笠の艦内を歩くと、その狭さがよくわかる。華々しい海戦の陰には、こうした毎日の重労働と窮屈な暮らしがあった。私は艦橋に立ったあと、ぜひ艦内の居住区のあたりもゆっくり見てほしいと思っている。
1度目の死:勝利からわずか3か月後の爆沈
日本海海戦の勝利から3か月あまりたった1905年9月、三笠は思いもよらない形で沈む。
佐世保の港に停泊していた三笠の後部の火薬庫が爆発し、艦は港の中で沈没した。この事故で339人が亡くなった。日本海海戦を生き延びた乗員の多くが、戦争が終わったあとの港で命を落としたのだ。
爆発の原因ははっきりしていない。砲弾の火薬が自然に発火したという説や、乗員の火の不始末という説がある。いずれにしても、あれほどの戦いをくぐり抜けた艦が、平和な港で沈んだという事実は、当時の人々に大きな衝撃を与えた。
三笠はのちに引き揚げられ、修理を受けて艦隊に戻った。
2度目、3度目の危機:座礁と大地震
修理を終えた三笠は、第一次世界大戦の時期も現役にとどまり、1920年代初めのシベリア出兵では、ロシア沿岸の警備にも出動している。日本海海戦で戦ったロシアの海に、ロシア革命の混乱の中でもう一度向かったのだ。このとき、ウラジオストクの近くで座礁する事故を起こしている。
すでに三笠は旧式艦になっていた。そこに追い打ちをかけたのが、1922年のワシントン海軍軍縮条約だ。各国の主力艦の数に上限がかけられ、古い艦は廃棄されることになった。三笠も、その廃棄艦の一つに選ばれた。
さらに1923年9月の関東大震災で、横須賀にいた三笠は艦底に穴が開いて浸水し、港外で擱座した。大きな損傷を受け、もはや軍艦として使える状態ではなかった。
4度目の危機:条約による廃艦と、保存への道
条約で廃艦が決まった以上、三笠は解体されるはずだった。
ここで、東郷平八郎をはじめとする人々が保存の運動を起こした。日本海海戦の旗艦を、鉄くずにするわけにはいかない、というわけだ。ただ、条約は条約だ。保存するには、条約を結んだアメリカ、イギリス、フランス、イタリアの4か国の同意が必要だった。
各国は、三笠を二度と軍艦として使えない状態にすることを条件に、保存を認めた。三笠は横須賀の海岸に運ばれ、船体の周りを埋め立て、1925年にコンクリートで固定された。もう二度と海に出ることはない。1926年には保存記念式が行われ、三笠は記念艦として生まれ変わり、戦前の横須賀を代表する名所になった。
三笠の船体が今も地面に固定されているのは、このときの条約の名残なのだ。浮かんでいるように見えて、実は動けない。それが、三笠が生き延びるための条件だった。
5度目の危機:解体要求と「キャバレー・トーゴー」
太平洋戦争が終わると、三笠はふたたび存亡の危機に立たされた。
日露戦争の相手だったロシアを受け継いだソ連が、三笠の解体を求めたのだ。日本に勝ったことを、かつての敗戦の記念を消すことで示したかったのかもしれない。これに対してアメリカは、艦橋や砲塔、煙突などを取り除くことを条件に、保存を続けることを認めた。
ただ、そのあとが悲惨だった。終戦直後の混乱の中で、三笠の船体からは、切り取れる金属類がガスバーナーで切断されて持ち去られ、木の甲板まで剥がされていったという。
そして運営を任された民間の会社は、艦の上にダンスホールと水族館をつくった。日本海海戦の旗艦は、「キャバレー・トーゴー」と呼ばれる遊興施設になったのだ。東郷の名前が、キャバレーの名前にされた。客足もやがて遠のき、艦はさびついて荒れ果てていった。
私は、三笠の一生の中で、この時期がいちばんつらい。戦場で沈むよりも、ある意味で屈辱的な姿だったと思う。ちなみに、このとき失われた主砲の先端は、のちに福岡県の東郷神社に保存されることになる。
復活:一人のイギリス人と、かつての敵の提督
三笠を救うきっかけをつくったのは、一人のイギリス人だった。
ジョン・ルービンという人物が、三笠の荒れ果てた姿を見て嘆き、英字新聞『ジャパン・タイムズ』に投書したのだ。三笠を造ったのはイギリスだ。イギリス人にとっても、この艦は誇りだった。その投書が、三笠の惨状に目を向けさせることになった。
そして、もう一人。アメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥だ。太平洋戦争で日本海軍と戦い、勝ったその人が、若いころから東郷平八郎を深く敬愛していた。三笠の荒れ果てた姿に激怒したニミッツは、自分の著作の収入を寄付するなどして、復元の運動を後押しした。
日本国内でも募金が集められ、1億円近い寄付が集まったという。
復元の資材にも、面白いつながりがある。三笠の復元を下支えしたのは、地球の反対側のチリ海軍で使われていた戦艦「アルミランテ・ラトーレ」だった。この艦はイギリスで造られ、第一次世界大戦中はイギリス海軍の戦艦として戦い、その後チリに渡った艦だ。退役して鉄くずとして日本に来たこの戦艦が、三笠の復元を支えたと言われている。同じイギリス生まれの戦艦が、半世紀以上たって地球の裏側から三笠を助けに来た、というのは、なんとも不思議な縁だ。
1961年5月27日、日本海海戦の記念日に、復元を祝う式典が開かれた。三笠は、往時の姿を取り戻したのだ。
かつての敵の提督と、三笠を造った国の市民と、地球の裏側の戦艦。三笠を救ったのは、日本人だけではなかった。私はこの話が、三笠の一生の中でいちばん好きだ。
今の三笠を見に行く

資料:Nesnad/出典・利用条件(CC BY-SA 3.0)
復元から60年あまり。三笠は今も横須賀で公開されていて、2024年には、復元されてからの累計の来艦者が1,000万人を超えた。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 神奈川県横須賀市稲岡町(三笠公園内) |
| アクセス | 京急本線「横須賀中央駅」から徒歩約15分 |
| 開艦時間 | 4〜9月 9:00〜17:30/3月・10月 9:00〜17:00/11〜2月 9:00〜16:30(最終入艦は閉艦30分前) |
| 休艦日 | 12月28日〜31日 |
| 観覧料 | 一般800円、シニア・高校生700円、小中学生200円、未就学児無料 |
※料金や時間は変わることがあるので、出かける前に公式サイトで確認してほしい。
見どころ
私が一番おすすめしたいのは、艦橋だ。日本海海戦のとき、東郷が立っていた場所に、実際に立つことができる。目の前には東京湾が広がり、よく晴れた日には無人島の猿島も見える。120年前、この場所からバルチック艦隊をにらんでいたのかと思うと、ちょっと鳥肌が立つ。
艦内には、日本海海戦の資料や、司令長官室も残っている。思っていたより狭く、天井も低い。当時の水兵たちが、この空間で何か月も暮らし、戦ったのだと実感できる。最近はVRや操艦シミュレーターといった展示もあって、子ども連れでも楽しめる。
土日祝日には、無料のガイドツアーもある。艦の歴史を聞きながら回ると、一人で見るのとはまるで違う発見があるので、時間が合えばぜひ参加してほしい。
周辺もあわせて回る
汐入ターミナルからは、横須賀の軍港を海から見て回るクルーズ船が出ている。海上自衛隊の護衛艦や潜水艦、アメリカ海軍の艦艇を、すぐ近くから見られる。120年前の戦艦と、今の自衛隊の艦艇を一日で見比べられるのは、横須賀ならではだ。無人島の猿島へ渡るフェリーは、三笠公園に隣接する三笠ターミナルから出ている。
一日で全部回ろうとすると、意外と時間が足りない。私は前の日に横須賀に泊まって、朝から三笠、昼に軍港めぐり、午後に猿島というコースが一番ゆっくりできると思っている。
三笠見学のよくある疑問
三笠は今も動くのか
動かない。軍縮条約の条件として二度と軍艦として使えないようにされ、1925年に船体が海岸に固定され、翌年に保存記念式が行われた。エンジンもない。浮かんでいるように見えるのは、周りに水を張ってあるからだ。
見学にはどれくらい時間がかかるのか
ざっと見るなら1時間前後、展示をじっくり読んだりガイドツアーに参加したりするなら1時間半から2時間ほど見ておくといい。三笠公園の散歩や、軍港めぐり、猿島まで含めるなら、ほぼ一日がかりになる。
艦内は当時のままなのか
戦後に上部構造物がほとんど取り払われたので、艦橋やマスト、煙突、砲塔などの多くは1961年の復元で作り直されたものだ。一方、船体そのものは明治に造られたもので、甲板の下の部分には当時の姿をとどめているところもある。「本物」と「復元」の両方が混ざっていることを知ったうえで見ると、また面白い。
技術ファン目線:三笠の兄弟たち
三笠の一生を追っていると、イギリスと日本海軍の深いつながりが何度も出てくる。
三笠のあとも、日本海軍はしばらくイギリスから学び続けた。その集大成が、1913年にヴィッカース社で完成した巡洋戦艦「金剛」だ。金剛はイギリスで造られた最後の日本の主力艦で、その設計をもとに、日本は姉妹艦を国内で造れるようになる。三笠の時代には外国に頼るしかなかった国が、10年あまりで自前の主力艦を造れるところまで来たのだ。そのあたりは戦艦金剛の解説で書いている。
そしてその先に、大和や武蔵がある。三笠から大和まで、日本の戦艦の技術がどうつながっていったかを一冊で追うなら、この本がいい。
三笠を見て、自分の手で形にしてみたくなった人もいると思う。明治の戦艦のキットは、零戦や大和ほど種類が多くはないが、模型店や公式通販で探すと見つかる。私は、実物を見たあとに組むプラモデルが一番楽しいと思っている。
三笠はなぜ残ったのか
最初の問いに戻る。
三笠が今も横須賀に残っているのは、運がよかったからだけではない。何度も消えかけるたびに、誰かが「この艦を残したい」と声を上げたからだ。
1920年代には、東郷平八郎たちが条約の壁を越えて保存の道を開いた。戦後には、イギリス人のルービンが荒れ果てた姿を嘆き、かつての敵だったニミッツが復元を後押しし、多くの日本人が寄付を寄せた。
三笠は、日本海海戦の勝利の記念碑であると同時に、戦争の勝ち負けを超えて人々がつながった記念碑でもある。私は、そこにこの艦の一番の価値があると思う。
大和は海の底に眠り、三笠は横須賀の海岸に立っている。日本の戦艦の始まりの時代を、今も自分の目で確かめられる場所があるというのは、ミリタリーファンにとって本当に幸せなことだ。まだ行ったことがない人は、ぜひ一度、あの艦橋に立ってみてほしい。
日本海軍の全体像をもっと知りたいなら、こちらもおすすめだ。三笠の時代から太平洋戦争まで、帝国海軍の艦艇を写真と図で見渡せる。
次は、三笠の艦橋で東郷の隣に立っていた参謀、秋山真之の生涯を書くつもりだ。三笠を見たあとに読むと、あの狭い艦橋の空気がもう少しリアルに感じられると思う。







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