横須賀の三笠公園に行くと、艦首を皇居に向けた灰色の戦艦が、コンクリートに腰まで埋まった格好で置いてある。記念艦三笠だ。私は何度も行っているのに、前甲板に立って30cm主砲の砲身を見上げるたびに、毎回ちょっと言葉を失う。目の前の砲は復元されたものだが、この艦は実際に撃ったのだ。121年前の5月27日の午後、対馬沖で。
日本海海戦は、日本人なら名前くらいは知っている。だが「じゃあ何が起きて、なぜあんな一方的な結果になったのか」を人に説明できる人は、案外少ない。私もミリタリー好きを自称して長いが、腰を据えて調べ直すたびに新しい発見がある。今回は、旧軍ファンとしての熱と、技術好きとしての細部と、投資家としての冷めた視点と、海自ファンとしての「で、今に何が残ってるの?」を、全部盛りで書く。長いが、付き合ってほしい。
30秒でわかる日本海海戦

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
まず全体像を押さえる。
日本海海戦は、1905年(明治38年)5月27日から28日にかけて、対馬海峡から日本海にかけての海域で、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊(正式には第二・第三太平洋艦隊)が戦った海戦だ。日露戦争の最後の大決戦であり、事実上この戦争の帰趨を決めた。
連合艦隊の司令長官は東郷平八郎、旗艦は戦艦三笠。作戦参謀は秋山真之。対するロシア側は、ロジェストヴェンスキー中将が率いる約38隻。バルト海を出てから7か月、地球を半周する約18,000海里を航海してきた艦隊だった。
結果は、世界の海戦史でも例がないほど一方的だった。ロシア側は戦艦を含む主力艦のほとんどを沈められるか捕獲され、ウラジオストクにたどり着けたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけ。日本側の損失は水雷艇3隻。
これだけ聞くと「日本強すぎ」で終わってしまうのだが、面白いのはここからだ。なぜそうなったのか、そしてこの「勝ちすぎ」が40年後に何をもたらしたのか。
この海戦を作った二人――東郷平八郎と秋山真之

資料:伊藤正徳の掲載資料(原写真の撮影者不詳)/出典・利用条件(Public domain)
日本海海戦は、二人の人間なしには語れない。
東郷平八郎は薩摩の出身で、若い頃に英国に留学し、商船学校で航海術を学んだ叩き上げの海軍軍人だ。派手な人ではない。むしろ無口で、幕僚の議論を黙って聞いて、最後に短く決める。日清戦争では巡洋艦「浪速」の艦長として、国際法を吟味した上で英国船籍の輸送船を撃沈し、国際問題になりかけたのを法的に正しい処置だったと認めさせた。つまり、法と技術と実務の人だった。彼が連合艦隊司令長官に選ばれたとき、明治天皇が「なぜ東郷か」と聞き、海軍大臣の山本権兵衛が「東郷は運のいい男ですから」と答えたという逸話がある。事実かどうかはともかく、周囲から「この人なら」と思われる、静かな信頼の人だったのは間違いない。
秋山真之は伊予松山の出身。正岡子規の幼なじみで、若い頃は文学を志していた。海軍に入ってから米国に留学し、米西戦争を観戦武官として見て、海軍戦術の研究にのめり込んだ。「智謀湧くが如し」と評された参謀で、丁字戦法の理論も、七段構えの作戦計画も、あの美文の電報も、ほとんど彼の頭から出ている。ただし、実際に「取舵一杯」を命じたのは東郷だ。理論を考える参謀と、それを実行する責任を負う司令長官。この分業が完璧に噛み合っていたのが、連合艦隊の強さだった。
(この二人の話は、あとで紹介する『坂の上の雲』の主役そのものなので、深入りはそちらに譲る。)
なぜバルチック艦隊は地球を半周してきたのか

資料:Cassell's/出典・利用条件(Public domain)
日露戦争は1904年2月に始まった。日本海軍が最初に殴りかかったのは、旅順にいたロシア太平洋艦隊だ。開戦劈頭の旅順口奇襲、旅順港閉塞作戦、そして黄海海戦。日本は旅順の艦隊を港に閉じ込め、陸からは乃木希典の第三軍が要塞そのものを攻めた。
ロシアは大国だ。太平洋艦隊がやられそうなら、本国のバルト海艦隊を送ればいい。そう考えて、1904年10月、リバウ軍港から大艦隊が出港した。これがバルチック艦隊だ。
だが、この航海が最初から呪われていた。
出港直後の北海で、ドッガーバンク事件が起きる。夜間、イギリスの漁船団を日本の水雷艇と誤認して砲撃してしまい、漁民に死者が出た。日本の水雷艇が北海にいるわけがないのだが、艦隊全体が「どこかに日本軍がいる」という神経症のような緊張状態だったことがよくわかる。この事件でイギリスとの関係は険悪になり、ロシア艦隊の補給にも制約が加わった。ただし艦隊全体がスエズ運河を締め出されたわけではなく、支隊は運河を通過した。
主力はアフリカ大陸の喜望峰を回る大遠征になった。中立国の港には長居できない。石炭はドイツの輸送船から洋上で積む。しかも次にいつ積めるかわからないから、甲板や居住区にまで石炭を山積みにした。船底には航海中の貝や海藻がびっしり付き、速力は落ちる。マダガスカルのノシベでは、補給の行き詰まりや増援待ちで何週間も停泊し、その間に旅順が陥落したという知らせが届く。第三太平洋艦隊と合流したのは、その後のインドシナ沖だった。行き先の港が、もうない。
これで士気が持つわけがない。艦隊がカムラン湾(現ベトナム)を出て対馬に向かったころ、乗員はまともな砲撃訓練もろくにできていなかった。艦は重く、遅く、汚れ、人は疲れ切っていた。
ロシア側の視点にも少し立ってみたい。ロジェストヴェンスキーは決して無能ではない。むしろ、あれだけの大艦隊を補給拠点なしで地球を半周させ、脱落艦をほとんど出さずに対馬まで連れてきたこと自体は、航海術としては驚異的だった。彼が本国に「せめて訓練の時間を」「増援の旧式艦は足手まといだ」と訴えても、ペテルブルクは聞かない。増援として送られてきたネボガトフの第三太平洋艦隊は、旧式の海防戦艦や老朽艦の寄せ集めで、艦隊速力をさらに引き下げる存在でしかなかった。ロジェストヴェンスキーはこれを「艦隊の足かせ」と呼んで露骨に嫌ったが、連れて行くしかなかった。
熱帯の航海では、石炭の粉塵と暑さで病人が続出し、艦内で死者も出た。ある戦艦は定数の倍近い石炭を積み、喫水が深くなって、本来水面上にあるはずの装甲が海面の下に沈んでいた。つまり、砲弾が当たる位置に装甲がない状態で戦場に来たのだ。これは私が初めて知ったとき、思わず声が出た事実だ。バルチック艦隊は「負けるべくして負けた」のではなく、「戦う前に半分負けていた」というほうが正確だと思う。
一方の日本側は、旅順艦隊を片付けたあと、呉や佐世保で徹底的に整備をやり直し、砲術訓練に明け暮れていた。東郷は「敵は必ず来る、来るのは対馬」と読んで待ち構えた。実はここで「ロシア艦隊は津軽海峡や宗谷海峡を回るのではないか」と大本営が浮足立つ場面があり、東郷が対馬待機を貫いた判断そのものが、この海戦の最初の勝因だったと私は思っている。
黄海海戦という「失敗した予行演習」
日本海海戦を語るとき、あまり触れられないのが、その9か月前の黄海海戦だ。1904年8月、旅順を脱出してウラジオストクへ逃げようとしたロシア太平洋艦隊を、東郷の連合艦隊が追撃した海戦である。
このとき東郷は、敵の進路を押さえようと丁字戦法を試み、失敗している。距離の取り方を誤って敵に先に行かれ、長時間の追撃戦になった。最終的にロシア旗艦の艦橋に砲弾が命中して司令官が戦死し、艦隊が混乱して旅順に戻ったから結果的には勝ちだったが、逃げられる寸前だった。主力を取り逃がすところだったのだ。
東郷と秋山は、この「失敗」を持ち帰って半年間考え抜いた。敵前で回頭してでも、確実に敵の頭を押さえる。回頭中の被弾は覚悟する。そのかわり砲術で一気に決める。日本海海戦の東郷ターンは、思いつきの奇策ではなく、黄海海戦での取り逃がしを二度と繰り返さないための、練りに練った答えだった。私はこの「一度失敗した戦法を、修正して再び使った」という流れが好きだ。天才の閃きより、失敗の反省のほうが、よほど信用できる。
5月27日の朝――「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

資料:Harris & Ewing, photographer/出典・利用条件(Public domain)
1905年5月27日の未明、五島列島の西を哨戒していた仮装巡洋艦信濃丸が、霧の中に病院船の灯りを見つける。ロシアの艦隊だ。信濃丸は「敵艦見ユ」を打電した。この一報が、日本海海戦を「待ち伏せの成功」にした。
信濃丸は本来、日本郵船の貨客船だ。徴用されて無線機と砲を積んだ民間船が、世界史級の海戦の幕を開けたのが、なんとも日本らしい。
そして連合艦隊が出撃するとき、大本営に打電された電文が、秋山真之が起草したあの有名な一文だ。
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
「天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、ただの天気報告ではない。晴れていて視界が良いから砲戦が有利、しかし波が高いから小型艦の水雷戦は難しい――それを一行で伝えている。しかも、この日本語の響きが異様に美しい。実務電報にこの文体を持ち込める参謀がいたこと自体が、明治という時代の不思議な厚みだと思う。
午後1時55分ごろ、三笠のマストにZ旗が揚がる。
「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」
Z旗は本来、国際信号旗のただの「Z」だ。それに東郷がこの意味を持たせた。以来、日本では「背水の陣」「ここ一番」の象徴になり、今も企業のここ一番の号令に使われたりする。
東郷ターン――丁字戦法は本当に決まったのか
さて、ここが一番語られるポイントだ。
午後2時すぎ、両艦隊は距離およそ8,000mまで接近する。ロシア艦隊は北東に向かって縦陣で進んでいた。三笠を先頭にした日本艦隊は、その前方を横切るように西へ進み、そして敵前で左に大回頭した。「東郷ターン」、あるいは「敵前大回頭」と呼ばれる機動だ。
これがどれくらい無茶かというと、回頭している間、日本の艦は一隻ずつ同じ地点で舵を切るから、ロシア側から見れば「同じ場所に次々と的が現れる」状態になる。しかも回頭中は自艦の砲がまともに撃てない。実際、三笠は回頭中から集中砲火を浴びて、かなりの被弾をしている。
なぜそんなことをしたのか。狙いは、敵の進路を頭から押さえることだった。敵の縦陣の前に、自分の艦列を横向きに置く。こうすると日本側は全艦の側面の砲を敵先頭艦に集中できるのに、ロシア側は前部の砲しか使えない。これが「丁字戦法(T字戦法)」の理屈だ。
ただ、正直に言うと、教科書どおりの「T字」がきれいに完成したわけではない。回頭を終えた日本艦隊は、結果的にロシア艦隊とほぼ並航するような形で砲戦に入り、優速を生かして少しずつ敵の前方に出ながら、先頭艦に砲火を集中していった。「丁字」というより「並航しながら頭を押さえ続ける戦い」だ。だから最近の研究では、丁字戦法そのものより、東郷が優速を使って常に有利な相対位置を取り続けたことと、砲戦開始からわずか30分ほどで敵の旗艦スワロフと戦艦オスラービャを戦列から叩き出した砲撃の質のほうが決定的だった、という評価が主流になっている。
私は両方だと思う。ターンが無謀な賭けだったのは事実で、それが成功したのは、ロシア側の射撃が当たらなかったからだ。そしてなぜ当たらなかったかは、次の技術の話につながる。
技術屋が語りたくなる、四つの勝因

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
ここからが私の一番好きなパートだ。日本海海戦は精神論の勝利ではない。むしろ徹底した技術と訓練の勝利で、それを明治の日本がやってのけたことに、私は毎回痺れる。
下瀬火薬と伊集院信管
日本の砲弾に詰められていたのは、下瀬雅允が開発した下瀬火薬。ピクリン酸系の炸薬で、当時としては爆発力が非常に強く、命中すると激しい高温の火災を起こした。さらに伊集院五郎が考案した伊集院信管は敏感で、装甲を貫く前に艦の上部構造物に当たった時点で炸裂する。
これは「装甲を貫けない」という意味では欠点だが、実戦では別の効き方をした。ロシアの艦は甲板に石炭や木材を山積みにしていたし、上部構造の可燃物が多かった。そこに下瀬火薬の砲弾が降り注ぐと、船体は沈まなくても、火災と破片で砲側の人員がやられ、射撃指揮ができなくなり、艦橋が吹き飛ぶ。「沈める前に戦えなくする」弾だったわけだ。オスラービャが早々に脱落し、スワロフが炎に包まれて針路も保てなくなったのは、まさにこの効果だった。
ちなみに下瀬火薬は感度が高すぎて砲身内で暴発する事故も起こしていて、三笠自身が海戦の4か月後、佐世保で弾薬庫の爆発事故を起こして沈没している(後に引き揚げられて復帰)。技術は諸刃の剣だ。
三六式無線電信機
「敵艦見ユ」が届いたのは、三六式無線電信機のおかげだ。国産化された艦載無線機で、当時の水準では通信距離も信頼性も上出来だった。海戦の勝敗が「まず敵を見つける」ことで決まるのは今も昔も同じで、哨戒網と無線というセンサーとネットワークをきちんと組んでいたことが、待ち伏せを成立させた。技術ファン的に言えば、日本海海戦は世界で初めて無線通信がまともに機能した艦隊決戦の一つだ。
速力と機動
日本の主力艦は概ね15ノット前後で行動できたのに対し、ロシア艦隊は貝で汚れた船底と過積載、それに足の遅い旧式艦を抱えて、艦隊速力は9〜11ノット程度に落ちていた。この4〜5ノットの差が、東郷ターンを可能にし、戦闘中ずっと日本側が有利な位置を取り続けられた理由だ。速い側は、いつ戦うか、どこで戦うかを選べる。遅い側は殴られ続けるしかない。
命中率
そして最後に、砲術。日本側の命中率はロシア側の数倍あったと言われる。海戦のあと、東郷(起草はやはり秋山)が連合艦隊解散の辞に残した言葉が、この海戦の本質をそのまま言い当てている。
「百発百中の一砲、能く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」
これは訓練の話であると同時に、装備の設計思想の話でもある。艦は英国製の最新戦艦だが、乗っている人間が当てられなければ意味がない。呉と佐世保で砲弾を惜しまず撃ちまくった半年が、対馬沖で回収されたのだ。
ここで一冊だけ挙げておく。この海戦で確立した「艦隊決戦と砲術至上主義」が、のちの帝国海軍にどう作用したかを組織論として解剖した名著だ。日本海海戦の話をするなら、成功の側からだけでなく、その成功が組織を固めてしまう側からも読んでおいたほうがいい。
結果――数字で見る「ほぼ全滅」

資料:Popular Mechanics/出典・利用条件(Public domain)
5月27日の昼戦で主力戦艦を次々に戦列から叩き出したあと、日没とともに東郷は主力艦を北へ下げ、夜の海をロシア艦隊に明け渡した。ただし、そこに駆逐艦と水雷艇の群れを放った。
この夜戦が、日本側の損害のほとんどを生んでいる。「浪高シ」の海で、数百トンの水雷艇が、傷ついたとはいえ戦艦の探照灯と速射砲の中に突っ込んでいくのだ。日本の水雷艇3隻の沈没は、この夜のものだ。魚雷は当たりにくかったが、それでも昼戦で燃え尽きていた戦艦を仕留め、残った艦隊を散り散りにした。
そして28日の朝、日本海の真ん中で、ネボガトフ少将が率いる残存艦隊は、日本艦隊にぐるりと包囲されていることに気づく。戦艦ニコライ一世、オリョール、海防戦艦2隻。砲の射程で日本側が完全に優越していて、撃ち合っても一方的に沈められるだけだった。ネボガトフは、乗員2,000人余りの命と引き換えに降伏を選んだ。ロシア海軍の伝統からすれば恥辱そのもので、彼は帰国後に軍法会議で死刑を宣告され(のち減刑)ている。私は、この降伏を「弱かった」とは思わない。むしろ、勝てない戦いで部下を死なせない判断ができた指揮官が、あの艦隊に一人いたことに救いを感じる。
ロシア側の損害は、戦艦6隻を含む21隻が沈没、戦艦2隻・海防戦艦2隻を含む複数の艦が捕獲、そのほかは中立国の港に逃げ込んで抑留。ウラジオストクに到達できたのは巡洋艦アルマーズと駆逐艦2隻のみ。戦死者は約4,800名、捕虜は約6,000名にのぼった。ロジェストヴェンスキー司令長官自身も重傷を負い、乗り換えた駆逐艦ごと捕虜になっている。
日本側の損害は、水雷艇3隻の沈没と、戦死117名、負傷583名前後。
大国の主力艦隊が、たった2日で消えた。戦艦を6隻沈めて自分は1隻も失わない海戦は、蒸気鋼鉄艦の時代には他に例がない。世界中の海軍がこの結果を見て、まず「本当か」と疑い、次に「なぜだ」と研究を始めた。
(この数字の裏には、ロシア側にも日本側にも、海に沈んだまま帰らなかった若い水兵がいる。旧軍ファンの私が三笠の甲板に立つと毎回ちょっと言葉を失うのは、要するにそこだ。)
世界はなぜあれほど驚いたのか

資料:Underwood & Underwood, publisher/出典・利用条件(Public domain)
トラファルガー以来の「決戦」
海戦史で日本海海戦とよく並べられるのが、1805年のトラファルガー海戦だ。ネルソンがフランス・スペイン連合艦隊を撃ち破った、ちょうど100年前の海戦である。ネルソン自身はあの海戦で戦死しているが、東郷は生き延び、「東洋のネルソン」と呼ばれた。ネルソンについてはトラファルガー海戦の記事で書いたが、数的不利を戦術と砲術で覆した点で、東郷とネルソンはよく似ている。
そして、その11年後のユトランド沖海戦(1916年)が対照的だ。イギリスとドイツの大艦隊がぶつかったのに、結果は「ドイツが多く沈めたが戦略的にはイギリスの勝ち」という煮え切らないもので、日本海海戦のような殲滅戦にはならなかった。ユトランド沖海戦の記事で詳しく書いたが、戦艦同士の決戦で片方が消滅するのは、実は歴史上ほとんど起きない。日本海海戦は、その「ほとんど起きないこと」が起きた海戦だった。
ドレッドノートを生んだ海戦
技術史の話をもう一つ。日本海海戦は、世界の戦艦の設計思想をひっくり返した。
三笠の時代の戦艦は、30cm主砲4門に、15cm級の副砲をずらりと並べる「混載」が常識だった。近距離の撃ち合いでは数の多い副砲が効くと考えられていたからだ。ところが対馬沖では、砲戦距離が6,000〜8,000mと当時としては遠く、勝敗を決めたのは大口径の主砲の命中だった。副砲の弾は届いても威力不足で、しかも水柱の大きさが主砲と混ざって着弾観測の邪魔になる。
この戦訓を世界で最初に形にしたのが英国で、海戦の翌年1906年に、30cm砲だけを10門積んだ戦艦ドレッドノートを完成させた。副砲を捨てて主砲を統一した「単一巨砲艦」で、これが出た瞬間、三笠を含む世界中の既存戦艦が一夜にして旧式になった。戦艦の建艦競争は「ド級」「超ド級」という言葉とともに新しい段階に入り、日本も金剛、扶桑、長門とその流れに乗っていく。
つまり、日本海海戦で完勝した三笠は、その完勝が生んだ技術革新によって、勝った翌年に時代遅れになった。技術というのはこういう残酷な回転をするもので、私はこの皮肉が、日本海海戦のいちばん技術屋らしい後日談だと思っている。
有色人種が白人列強に勝った、ということ
日露戦争は、非白人国家が近代戦で白人の大国を破った最初の戦争として、世界中の植民地の人々を熱狂させた。インドのネルーやトルコの若手将校たちが日本海海戦の報に興奮したという話は有名で、フィンランドでは東郷の名を冠したビールが出た、とも言われる。地政学的に言えば、この一戦でロシアの南下政策は止まり、日本は列強のテーブルに座った。
投資家の目で見ると、これは「債券の勝利」でもある
私は投資もやるので、どうしてもこの角度で見てしまう。日露戦争の戦費は、当時の日本の国家予算の何倍にもなる莫大なものだった。それを日本は主にロンドンとニューヨークで外債を発行して調達した。日銀副総裁だった高橋是清が売り歩き、ユダヤ系金融家ジェイコブ・シフが引き受けたあの外債だ。
つまり、日本海海戦の勝敗を、世界の投資家が固唾を呑んで見ていた。日本が負ければ、日本国債は紙屑になる。勝ったから、日本の債券は買われ、ポーツマス講和に持ち込めた。戦争は資金調達の勝負であり、海戦の勝利は市場の信認に直結する。この構図は今もまったく変わっていなくて、防衛関連株や国債の値動きを見ていると、日露戦争の頃と人間は何も変わっていないな、と思う。
「勝ちすぎた」代償――40年後の帝国海軍
ここは、旧軍ファンとして書くのがいちばんつらい章だ。
日本海海戦の完勝は、日本海軍の「型」を固めてしまった。敵の主力艦隊を、決戦海面で、戦艦の大砲で撃滅する。これが海軍の存在理由になり、以後40年、海軍の建艦も訓練も人事も、すべて「次の日本海海戦」のために組まれた。大和も武蔵も、その思想の最終形だ。
ところが、太平洋戦争で日本海軍が待ち望んだ艦隊決戦は、一度も来なかった。戦争は空母と潜水艦と輸送船の消耗戦になり、日本海海戦で勝った「砲術と機動」の海軍は、レーダーと補給と暗号解読の海軍にじわじわ削られていった。このあたりは日本海軍はなぜ敗れたのかで一本まるごと書いたので、興味があれば読んでほしい。あの記事の結論を一言でいえば、「日本海海戦に勝ちすぎた艦隊決戦マシンが、来ない決戦を待ち続けた」だ。
大成功は、その成功の再現を組織の目的にしてしまう。これは軍隊だけの話ではない。会社でも投資でも同じで、一度大きく当てた手法から抜けられなくなった人を、私は何人も見てきた。日本海海戦は、その最も壮大なケーススタディだと思う。
三笠という艦の、その後
戦艦三笠は英国ヴィッカース社で建造され、1902年に竣工した敷島型の4番艦だ。排水量約15,000トン、30cm連装砲2基4門。当時の世界最新鋭であり、日本はこれを買った。国産の戦艦を持てるようになるのは、日本海海戦の5年後、1910年竣工の薩摩を待たなければならない。買って、使い倒して、学んで、自分で造る。日本の技術立国は、この順番で始まった。三笠の後継たる戦艦長門がビッグ7の一角として世界に並んだのは、そのわずか15年後だ。
三笠自身は、海戦の4か月後に佐世保で爆沈し、引き揚げられ、第一次大戦後の1923年に除籍。解体されるはずが、武勲艦として保存が決まり、1926年から横須賀で記念艦になった。戦後は荒れ果ててダンスホールになっていたという有名な話があるが、1961年に復元され、今の姿になっている。英国のヴィクトリー、米国のコンスティチューションと並ぶ「世界三大記念艦」で、現存する最古の鋼鉄戦艦でもある。復元完了からの累計来場者は2024年に1000万人を超え、年平均でおよそ16万人が訪れている。
海上自衛隊に、日本海海戦はまだ残っているのか
海自ファンとしては、ここが気になる。答えは「制度としては何も残っていないが、文化としてはかなり残っている」だ。
海上自衛隊は法的には旧海軍と何のつながりもない。だが、江田島の幹部候補生学校は旧海軍兵学校の建物をそのまま使っていて、教育参考館には東郷平八郎の遺髪が納められている。5月27日は旧海軍の海軍記念日で、今も横須賀の三笠では記念式典が行われ、海自の関係者が顔を出す。Z旗の意味を海自の幹部で知らない人はいない。
そして何より、「百発百中の一砲」の思想は、今の海自にそのまま生きている。海自は隻数では中国海軍に大きく水をあけられているが、対潜戦の練度、イージス艦の運用、潜水艦の静粛性といった「一隻あたりの質」で勝負している。海上自衛隊の艦艇一覧を眺めると、量より質、訓練と技術で数を覆すという発想が、日本海海戦から一本の線でつながっていることがわかる。もちろん、それが「また勝ちすぎの罠にはまる」危険と隣り合わせであることも含めて。
余談だが、旧海軍の重巡洋艦「最上」の名を継いだもがみ型護衛艦が豪州に輸出されることになった。明治の日本が英国から三笠を買った120年後に、日本が艦を売る側に回ったわけで、こういう長い時間軸で眺めると、日本海海戦はやはり日本の海軍史の原点だと思う。
実際に三笠を見に行く

資料:Nesnad/出典・利用条件(CC BY-SA 3.0)
この記事を読んで少しでも「行ってみたい」と思ったら、行ったほうがいい。写真や映像で見る三笠と、甲板に立つ三笠はまったく別物だ。
場所は横須賀の三笠公園。京急の横須賀中央駅から歩いて15分ほどで、艦内には日本海海戦の展示室、東郷が指揮を執った艦橋の再現、士官室などがある。艦橋に立って前方を見ると、東郷が立った位置から見える海の広さがわかる。ここで「取舵一杯」を命じたのか、と考えると、8,000m先の敵艦がどれくらい小さく見えたかも想像できる。VRで海戦を体験できる展示もあるので、艦内はじっくり2時間は取ったほうがいい。
横須賀は米海軍と海自の軍港でもあるので、軍港めぐりのクルーズ船で現役の護衛艦を海上から眺め、その足で三笠に上がる、というのが私の定番コースだ。軍港めぐりの乗船と三笠見学、士官室での海軍カレーの昼食をセットにした日帰りツアーも出ているし、江田島や呉まで足を伸ばすなら一泊コースになる。日露戦争の戦跡巡りをするなら、三笠、江田島の教育参考館、そして乃木希典が旅順の戦後に住んだ東京の乃木邸あたりを回ると、明治の陸海軍が立体的に見えてくる。乃木についてはこちらで書いた。
投資家メモ――造船と防衛株の120年
三笠は英国製だった。だが日本はその後、薩摩、金剛(これも英国製だが最後の輸入艦)、長門、大和と、自前の造船技術を積み上げていく。戦後、その技術は商船建造で世界一になり、韓国・中国に追い上げられて縮み、そして今、防衛費増額と艦艇輸出で、日本の造船と防衛産業に再び資金が向かい始めている。
護衛艦を建造している三菱重工や、艦艇の建造・修理を担うJMU(JMUの防衛事業で詳しく書いた)、機関や装備を供給する各社は、いわば三笠を「買った」時代から「造れる」時代への日本の到達点であり、その株価がここ数年で大きく評価し直されたのは、防衛費の話だけでなく、日本の海軍力の根っこが造船力だという市場の再認識でもあると私は見ている。防衛関連銘柄の完全投資ガイドで個別の企業を整理してあるので、興味があれば。
ただし、高橋是清の外債と同じで、防衛株も「勝てば上がる、負ければ紙屑」に近い国策相場の側面がある。ここに書いたことは私の個人的な見方であり、投資を勧めるものではない。防衛関連株には政策変更や地政学リスクによる価格変動があり、投資判断はご自身の責任で、必要なら専門家に相談してほしい。私はNISA口座で長期に少しずつ、というスタンスにしている。
もっと深く知るための本と音声
日本海海戦を「読む」なら、避けて通れないのが司馬遼太郎の『坂の上の雲』だ。秋山好古・真之兄弟と正岡子規を軸に、明治国家が日露戦争に向かっていく過程を描いた大長編で、日本海海戦はその最終盤に置かれている。史実と小説の境目が曖昧なところは批判もあるが、「なぜ明治の日本人はあんな無茶ができたのか」の空気感は、この作品でしか味わえない。
ただ、文庫で全8巻ある。通勤や家事の時間に耳で聴くほうが現実的で、私は結局オーディオブックで完走した。三笠の艦橋に立つ前に、頭の中に秋山真之を入れておくと、見え方がまるで違う。
艦そのものに興味が出たなら、帝国海軍の艦艇を一冊で追える図鑑系のムックが一冊あると、三笠から大和まで頭の中で系譜がつながる。
帝国海軍の全海戦を一覧で追いたい人は、大日本帝国海軍 全海戦一覧を先に眺めてもらうと、日本海海戦の完勝から坊ノ岬までの40年が一本の線で見えると思う。
よくある疑問に、私なりに答えておく
バルチック艦隊は、そもそも弱かったのか
艦の数字だけ見れば、弱くない。ボロジノ級戦艦4隻は当時最新鋭で、日本の戦艦4隻と比べても見劣りしない。だが、乗員の練度、艦の状態、士気、そして指揮系統のすべてが、7か月の航海で摩耗していた。「弱い艦隊」ではなく「消耗した艦隊」が来た、というのが正確だと思う。逆に言えば、あの艦隊が旅順にいた太平洋艦隊と合流できていたら、日本は本当に危なかった。だからこそ、旅順を先に落とした乃木の第三軍の血と、黄海海戦で太平洋艦隊を封じた東郷の判断が、日本海海戦の前提になっている。
東郷ターンは、やっぱり無謀だったのか
無謀だった。回頭中の三笠は集中砲火を浴び、艦橋のすぐそばにも砲弾が落ちている。東郷が戦死していてもおかしくなかった。ただし、その無謀さは「敵が当てられない」という見積もりに裏打ちされていた。黄海海戦での経験、ロシア艦隊の航海状況の情報、そして自軍の砲術への自信。賭けではあったが、勝率の高い賭けだった。東郷はギャンブラーではなく、確率を読んで大きく張る人だったと思う。投資家として言えば、期待値の高いところで集中投資した、ということだ。
なぜ「対馬に来る」とわかったのか
わからなかった、というのが本当のところだ。津軽海峡か宗谷海峡を回るかもしれないという不安は連合艦隊の中にも大本営にもあった。だが、東郷は「石炭の余裕から考えれば対馬しかない」「ウラジオストクに最短で着く道を選ぶはずだ」と読んで、動かなかった。そして哨戒線を厚く張って、信濃丸の発見を待った。情報が不完全な中で、論理で腹を決めて、あとはセンサーに任せる。これは今の指揮官にも投資家にも通じる話だ。
もし日本が負けていたら
ロシアの艦隊がウラジオストクに入り、日本海の制海権が失われる。満州に展開している日本陸軍への補給が断たれる。日本の外債は暴落し、戦争を続ける金がなくなる。講和はロシア有利の条件で結ばれ、朝鮮半島の情勢はまったく違うものになっていた。ポーツマス条約の中身に国民が怒って日比谷焼打事件が起きたが、負けていたらその程度では済まなかった。日本海海戦は「勝ってよかった」というより、「負けたら国が終わっていた」海戦だった。Z旗の「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」は、誇張ではなかったのだ。
三笠のプラモデルは出ているのか
出ている。ハセガワから1/350と1/700の三笠が発売されていて、特に1/350は艦橋や煙突の造形が見事で、記念艦を見に行った帰りに作りたくなる代物だ。ヴィクトリア朝末期の戦艦特有の、丸い艦首と複雑な上部構造は、大和や長門とはまったく違う面白さがある。
日本海海戦が今の私たちに残したもの
最後に、私なりにまとめる。
日本海海戦は、精神力で大国に勝った話ではない。無線で敵を見つけ、優速で位置を取り、燃える砲弾を、半年鍛えた砲手が当てた。明治の日本は、買った艦を使い倒して学び、技術と訓練を積み上げて、世界史に残る完勝を手にした。それは誇っていい。
同時に、その完勝は日本海軍の思考を40年間固定し、来ない決戦を待つ組織を作った。勝ちすぎることの怖さも、この海戦は教えている。
そして今、量で圧倒する隣国の海軍を前に、質で対抗しようとする海上自衛隊は、良くも悪くも東郷の子孫だ。三笠の甲板に立つと、そのことがよくわかる。
横須賀に行く機会があれば、ぜひ艦橋まで登ってほしい。海は、121年前と同じ広さで、そこにある。







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