幼女戦記2期最終回を考察|ゼートゥーアとルーデルドルフの判断をどう読むか──「戦い抜いて終わらせる」と「負け方を選ぶ」、二人の大将が選んだ出口

幼女戦記2期最終回を考察|ゼートゥーアとルーデルドルフの判断をどう読むか──「戦い抜いて終わらせる」と「負け方を選ぶ」、二人の大将が選んだ出口

ネタバレ範囲:この記事は『幼女戦記Ⅱ』の最終回(第12話)までの内容に触れる。ルーデルドルフとゼートゥーアの結末も書くので、まだ見ていない人は、見終わってから戻ってきてほしい。原作小説のこの先の展開は、最後のほうで見出しを分けて、公式の紹介文の範囲だけ触れる。

『幼女戦記Ⅱ』の最終回を見終わって、しばらく何も言えなかった。派手な空中戦より、二人の老将の判断のほうが、ずっと重く残ったからだ。

ゼートゥーアとルーデルドルフ。同期で、盟友で、帝国の参謀本部を二人で支えてきた男たちが、最後は別々の「出口」を選んだ。そして一方が、もう一方を消す。

この記事では、最終回に向かう10話から12話の流れを整理したうえで、二人の判断がどこで分かれたのかを考える。公式あらすじの言葉を手がかりにし、史実の第一次大戦のドイツと、大日本帝国の終戦とも照らし合わせてみる。帝国という国全体がなぜ苦しいのかという話は『幼女戦記の帝国はなぜ勝っても苦しいのか』で書いたので、ここでは二人の判断と対立だけに絞る。

この記事のポイント
目次

最終回までの流れ|10話から12話を整理

まず、終盤の流れを公式あらすじで押さえておく。

8話と9話で、帝国は南方大陸から撤退する。同盟国のはずのイルドア王国は「厳正中立」を掲げて撤退の支援を断り、帝国は協力を拒んだイルドアに、嫌がらせを兼ねた「表敬訪問」を行う。ここで、イルドアが帝国の頼れる味方ではないことがはっきりする。

10話「活路」の公式あらすじはこうだ。

「終わりの見えない総力戦が続く中、帝国上層部では戦争指導そのものが迷走を極めていた。危機感を抱いたルーデルドルフは、戦争終結の出口を独自に模索し始める。」

11話「砂時計」ではこうなる。

「外交の行き詰まりは、ルーデルドルフを絶望させる。彼には、これ以上、躊躇する時間がなかった。ならば、必要なことを。その決断は、しかし、一人の友を激怒させる。」

そして最終回の12話「出口」。

「総力戦の焔は、何もかもを薪としてくべることすらも要求する。だが、ルーデルドルフは人間であった。彼は躊躇し、結果、間違える。間違えは、許されない。だから友の手によって、正されるのだ。」

本編の流れをざっくりまとめると、こうなる。

11話でルーデルドルフは、東部にいるゼートゥーアのもとを訪ね、自分の考えを打ち明ける。外交が行き詰まった以上、軍が戦えるうちに戦い抜く。必要なら、中立を掲げるイルドアにまで手をかける。二人は激しくぶつかり、ゼートゥーアは表向き折れてみせる。しかしそのあと、ターニャを呼び、親友を殺してほしいと頼む。

ターニャの返事が、いかにもターニャらしい。ただ殺すのはもったいない。飛行機の事故に見せかけ、その死を使って軍の中を整理し、戦争指導を一つにまとめるべきだ。その頂点に立つ覚悟があるのか、とゼートゥーアに問い返す。

12話では、ターニャの部隊がルーデルドルフの乗る輸送機を護衛する。ところが、事故を装うはずの段取りの最中に、敵の部隊が現れる。ルーデルドルフを狙っていたのは、帝国の内側だけではなかったのだ。結局ルーデルドルフは、敵の攻撃の中で命を落とす。参謀本部に戻ったゼートゥーアは、作戦と戦務をまとめて握る、前例のない立場に就く。

二人は何が違ったのか|「戦い抜く」と「負け方を選ぶ」

二人の違いを表にするとこうなる。

項目 ルーデルドルフ ゼートゥーア
参謀本部での担当 作戦(戦いをどう動かすか) 戦務(補給・輸送など、戦い続けるための裏方)
見ているもの ここまでに払った犠牲と、まだ戦える軍 国力の限界と、戦争が終わったあとの国
出口の考え方 戦えるうちに戦い抜き、有利な形で終わらせる 戦場で勝ち続けても破滅に向かうなら、負け方を選ぶ
友への態度 打ち明け、説得しようとした 表向き折れて、裏で排除を決めた
二人が探した、別々の出口。共通する目的は「戦争を終わらせること」
2期終盤の展開を踏まえた筆者の考察。

ルーデルドルフは作戦の人だ。戦場で勝つ方法を考え、実際に勝ってきた。だからこそ、勝っているのに戦争を終えられない状況が耐えがたい。ここまで多くの兵を死なせておいて、何も得ずに終わるわけにはいかない。軍がまだ戦えるうちに、もう一度大きく殴って、少しでもましな条件で終わらせたい。これは、戦場の指揮官としてはごく自然な考え方だ。

ゼートゥーアは補給の人だ。弾や食料や兵を前線に届け続ける仕事をしてきたから、帝国の国力がもう長くは持たないことを、誰よりもよく知っている。資源地帯への大攻勢に反対して東部へ追い出されたのも、補給が続かないと見抜いていたからだった。その話は『幼女戦記2期のアンドロメダ計画とは?』で書いた。ゼートゥーアから見れば、戦場の勝利を重ねても、戦争全体としては負けに向かっている。その中で戦線をイルドアにまで広げれば、帝国はもっと早く崩れる。

どちらも、戦争を終わらせたいという点では同じだった。違ったのは、出口の場所だ。ルーデルドルフは勝ちの先に出口を探し、ゼートゥーアは負けの中に出口を探した。

そしてもう一つ、二人には共通点がある。10話のあらすじにあるとおり、帝国の戦争指導は迷走していた。軍と政府の足並みはそろわず、誰も全体の舵を握っていない。二人とも、この状態のままでは戦争を終わらせることすらできないと分かっていた。だからこそ、どちらも戦争指導を一つにまとめる必要を感じていた。

「躊躇し、間違える」は何を指すのか

最終回の公式あらすじは、物語の語り手が、総力戦そのものの声で冷たく判決を読み上げているように聞こえる。一文ずつ読んでみる。

「総力戦の焔は、何もかもを薪としてくべることすらも要求する。」総力戦では、兵も工場も食料も、人の心までもが燃料になる。友情も例外ではない、ということだ。

「だが、ルーデルドルフは人間であった。彼は躊躇し、結果、間違える。」では、ルーデルドルフは何をためらったのか。読み方は二つあると思う。

一つは、戦争をやめることをためらった、という読み方だ。負けを認める決断ができず、戦い続ける道を選んだ。それが間違いだった、と。

もう一つは、友を切り捨てることをためらった、という読み方だ。原作11巻の公式の紹介文には、ルーデルドルフの計画に異を唱えたゼートゥーアが「障害物」として排除されていく、という一文がある。実際、反対したゼートゥーアは中央から東部へ遠ざけられていた。しかしルーデルドルフは、それ以上のことはしなかった。それどころか、自分から東部まで出向いて、胸の内を打ち明けている。総力戦の理屈で言えば、自分の計画を止めうる人間に会いに行き、本音をさらすのは、明らかな失策だ。

私は、二つめの読み方を取る。ルーデルドルフは最後まで、ゼートゥーアを「障害物」ではなく「友」として扱った。それが人間らしさであり、同時に、総力戦の中では「間違い」だった。一方のゼートゥーアは、ためらわなかった。だから「友の手によって、正される」。この一文の残酷さは、正しいのが冷たいほうだと言い切っているところにある。

最終回の最期の場面のルーデルドルフは、自分が狙われることを、どこかで予期していたようにも見える。もしそうなら、彼は友を疑いきれなかったのではなく、疑ったうえで信じることを選んだのかもしれない。そこまで含めて、彼は「人間」だった。

ゼートゥーアの判断をどう読むか

ゼートゥーアの選択は、どう見ても冷酷だ。同期の盟友を、事故に見せかけて消そうとした。しかも、その死を利用して軍の中を整理し、自分が戦争指導の頂点に立つ。

盤上の駒と、まだ署名のない書類。戦場の勝利の先に、戦争を終える判断がある。
盤上の駒と、まだ署名のない書類。戦場の勝利の先に、戦争を終える判断がある。

ただ、私はこれを単純な裏切りとは読まない。ゼートゥーアにとって、ルーデルドルフの計画は、帝国をもっと早く、もっと深く破滅させるものだった。それを止める正規の手段は、もうない。説得は失敗した。政府には戦争を止める力がない。残っていたのが、友を消すという最悪の手段だけだった。

そして皮肉なことに、ターニャの提案によって、ゼートゥーアはルーデルドルフが求めていた「戦争指導の一元化」を自分の手で実現してしまう。友を消して戦争を終わらせる道を開いたはずの男が、帝国でいちばん権力を持つ軍人になる。出口を探す者が、いちばん危うい場所に立つ。最終回のサブタイトルが「出口」なのは、この皮肉を指しているのだと思う。

最終回のラストで、ターニャはこれで戦争も終わると考える。しかし画面は、戦争が終わるどころか、さらに広がっていくことを予感させて幕を閉じる。出口の扉を開けたと思ったら、その先にもまだ廊下が続いていた。そんな終わり方だ。

史実で読む|戦争を広げたルーデンドルフ、負け方を引き受けたグレーナー

二人の名前と立場のモデルについては『幼女戦記の将軍のモデルを検証』で詳しく書いた。結論だけ言うと、ルーデルドルフは第一次大戦のドイツの参謀本部の実力者ルーデンドルフに、ゼートゥーアは名前を戦後の陸軍を率いたゼークトから、立場をルーデンドルフの後任グレーナーから取っていると私は見ている。ここでは、史実の二人がどんな判断をしたかを見てみる。

ヴィルヘルム・グレーナーの肖像写真。
ヴィルヘルム・グレーナー。Bain News Service/米国議会図書館所蔵。

ルーデンドルフは1916年8月29日、ヒンデンブルクのもとで参謀本部の実質的な指導者になった。この二人の体制は、名前こそ違うが事実上の軍事独裁だったとされる。ルーデンドルフは戦争を勝ち切るために、手を広げ続けた。1917年2月、軍の強い後押しで無制限潜水艦作戦が始まる。中立国の船も沈めるこの作戦は、同年4月にアメリカが参戦する大きなきっかけになった。1918年3月21日には西部戦線で大攻勢をかけ、英軍の戦線を破ったものの、目標には届かず、かえって戦線を長く伸ばしてしまった。

そして1918年9月29日、ルーデンドルフは皇帝に、西部戦線はもう持たないと告げ、すぐに休戦を求めるよう迫った。10月26日に解任されると、変装してスウェーデンへ逃れた。戦後は、軍は負けていなかったのに国内の裏切りで負けたという「背後の一突き」の伝説を広めた一人になる。総力戦という言葉を有名にした本を書いたのも彼だ(1935年)。

その後を継いだのがグレーナーだった。グレーナーはもともと、参謀本部の鉄道部門で長く働いた輸送の専門家で、戦争中は戦時経済をまとめる役所の長も務めた。1918年10月29日にルーデンドルフの後任になると、11月9日には皇帝に、軍はもう陛下を信頼していないと伝えて退位を勧めた。翌1919年6月には、軍の多くの将校が反発する中で、ヴェルサイユ条約の受け入れを支持している。戦いを再開すれば国がばらばらになる、と考えたからだ。

戦争を広げたのは作戦の人で、負け方を引き受けたのは補給の人だった。作中の二人の分かれ方は、この構図にそっくり重なる。

違うのは、結末の付け方だ。史実のルーデンドルフは殺されてはいない。解任され、逃げ、生き延びて伝説を作った。幼女戦記は、それを盟友の手による死に置き換えた。グレーナーが軍の内部で長く恨まれたように、負け方を引き受ける者は感謝されない。ゼートゥーアが、自分の判断が理解されないことを覚悟しているように見えるのも、そのためだと思う。

史実で読む|「死」さえも使う戦争

ゼートゥーアとターニャの計画で恐ろしいのは、友の死そのものを道具として使うところだ。これにも、史実に似た例がある。

1918年、戦争の出口。史実の作戦指導者と、後任の輸送専門家
作中の結末と史実は異なる。比較するのは仕事と判断の立場。

一つは、ドイツのロンメル元帥だ。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関わったと疑われたロンメルは、10月14日、毒を飲んで自ら命を絶つよう迫られた。しかし国民には、戦傷がもとで亡くなったと発表され、盛大な国葬が営まれた。英雄の死を、体制の都合のいい形に書き換えたわけだ。この事件については『ヒトラー暗殺計画「ワルキューレ作戦」とは?』で詳しく書いた。

もう一つは、日本の山本五十六だ。1943年4月18日、前線の視察に向かった山本の乗機は、暗号を解読して待ち伏せていた米軍の戦闘機に撃ち落とされた。高級指揮官が、移動中の飛行機ごと敵に狙われる。ルーデルドルフの最期は、この海軍甲事件を思い出させる。山本五十六の生涯は『山本五十六とは』にまとめている。

どちらも幼女戦記のモデルだとまでは言えない。ただ、戦争の中では、指導者の死が戦局と同じくらい政治的な意味を持つ。最終回はそこを容赦なく描いた。

大日本帝国の「出口」と比べる

大日本帝国が好きな人なら、最終回を見て、1944年から1945年の日本を思い出したかもしれない。

日本の戦争指導の大きな弱点は、政府と軍の作戦指揮が別々に動き、誰も全体を握れなかったことだった。これを一つにまとめようとしたのが東條英機だ。1944年2月、東條は首相と陸軍大臣に加えて、陸軍の作戦を握る参謀総長まで兼ねた。しかし、権力を一つに集めても戦局は好転せず、同年7月、サイパン島の陥落を受けて東條内閣は総辞職する。東條の判断と最期については『東條英機とは』で書いた。戦争指導を一つにまとめることと、戦争をうまく終わらせることは、別の話なのだ。

日本の「出口」は、最後は天皇の聖断という形で開かれた。その道を政府の中で押し進めた一人が、海軍大臣の米内光政だった(『米内光政とは』)。それでも1945年8月14日の夜から15日にかけて、降伏に反対する一部の将校が皇居を占拠しようとする事件が起きた。宮城事件だ。戦争をやめることは、戦争を始めることよりずっと難しい。

戦争指導の物語をもっと味わうなら

ゼートゥーアとルーデルドルフの対立は、戦争をどう終わらせるかという、戦争でいちばん難しい問題を描いている。同じ問題を日本側から描いた作品として、終戦までの最後の一日を追った『日本のいちばん長い日』は外せない。最終回のあとに読むと、戦争を終わらせる決断がどれほど重いかが、別の角度から見えてくる。

戦争指導が迷走する組織の問題を、日本軍を例に分析したのが『失敗の本質』だ。帝国の参謀本部と政府がなぜ足並みをそろえられなかったのかを考えるときにも、そのまま使える視点が詰まっている。

2期はABEMAとdアニメストアが最速の配信先で、11月5日からはNetflixでの配信も始まる。配信の状況は時期によって変わるので、見る前に各サービスで確かめてほしい。10話から12話を続けて見直すと、二人の会話の一言一言が、まったく違って聞こえる。

原作ではこの先どうなる?(原作小説のネタバレ注意)

原作小説の先の展開を読む

ここからは、アニメの先の原作小説に少しだけ触れる。公式の紹介文の範囲にとどめる。

最終回の内容は、おおむね原作小説の11巻『Alea iacta est』にあたる。11巻の紹介文には、講和派のレルゲンがイルドアで外交交渉に臨み、その失敗に備えた予備計画をめぐってルーデルドルフが動く、と書かれている。そして義務と必要と友情がぶつかる、とも。

続く12巻の紹介文には、帝国が戦場で勝ちながら破滅へ向かう中で、参謀本部の責任者となったゼートゥーアが求めるものは「最良の敗北」だとある。最終回でゼートゥーアが選んだ出口が、どこへ向かうのか。その答えの方向だけは、この一言に表れている。

記事を書いている時点で、アニメの3期の制作は、私が確認した範囲では発表されていない。2027年3月20日には、作品初のフィルムコンサートが開かれることが決まっている。

よくある質問

2期最終回でルーデルドルフはどうなった?

ゼートゥーアの依頼を受けたターニャたちが護衛する輸送機の中で、敵の攻撃を受けて命を落とす。もともとは事故に見せかけて排除する計画だったが、敵の介入によって、戦死という形になった。

ゼートゥーアはなぜ親友を排除したのか?

ルーデルドルフの戦い抜く計画が、帝国をさらに早く破滅させると考えたからだと読める。説得は失敗し、政府にも戦争を止める力がなかった。残った手段が、友を消すことだった。

公式あらすじの「友の手によって正される」とはどういう意味?

総力戦の理屈では、ためらいは「間違い」とされ、その間違いを友であるゼートゥーアが正す、という意味だ。私は、ルーデルドルフが最後まで友を切り捨てられなかったことが「躊躇」だと読んでいる。

ルーデルドルフとゼートゥーアのモデルは?

ルーデルドルフは第一次大戦のドイツの参謀本部を率いたルーデンドルフ、ゼートゥーアは名前をゼークトから、立場をルーデンドルフの後任のグレーナーから取っているという見方が有力だ。

幼女戦記の3期はある?

記事を書いている時点では、私が確認した範囲で3期の制作発表はない。原作小説では物語が続いている。

まとめ|「出口」は、終わりではなかった

ルーデルドルフは、戦えるうちに戦い抜いて、少しでもましな形で戦争を終わらせようとした。ゼートゥーアは、勝ち続けても破滅に向かうなら、負け方を選ぶしかないと考えた。二人とも戦争を終わらせたかったが、出口の場所が違った。

公式あらすじの言う「躊躇」は、ルーデルドルフが最後まで友を友として扱ったことだと私は読む。総力戦はそれを許さず、ためらわなかったゼートゥーアが勝った。しかし勝ったゼートゥーアは、友を失い、帝国でいちばん重い責任を一人で背負うことになった。

史実でも、戦争を広げたのは作戦の人で、負け方を引き受けたのは補給の人だった。負け方を引き受ける者は、感謝されない。最終回の「出口」は、戦争の終わりではなく、ゼートゥーアにとっての、もっと苦しい戦いの入り口だったのだと思う。

次は、1期から劇場版、2期までの戦争の流れを、年表で振り返る。

最後まで読んでくれてありがとう。長い記事を書くときのお供は、だいたいこれだ。

出典・参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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