豊臣秀保とは?秀長の跡を継いだ大名と大和豊臣家のその後――13歳で4歳ほどの花嫁を迎え、17歳で消えた「大和中納言」

豊臣秀保とは?秀長の跡を継いだ大名と大和豊臣家のその後――13歳で4歳ほどの花嫁を迎え、17歳で消えた「大和中納言」

天正19年(1591年)1月、大和郡山城。死の床にあった豊臣秀長の家で、ひとつの祝言があげられた。花婿は13歳の少年、花嫁は秀長の娘で、まだ4つか5つだったという。

この祝言で、少年は秀長の跡継ぎとして披露された。それから間もなく秀長が亡くなり、少年は大和と紀伊の二か国を受け継ぐ。翌年には従三位・権中納言にのぼり、「大和中納言」と呼ばれるようになった。

少年の名は、豊臣秀保。秀吉の姉の子で、のちに切腹に追い込まれる関白・秀次の弟にあたる。そして秀保もまた、家督を継いでわずか4年あまり、17歳で世を去る。秀長が築いた大和の豊臣家は、ここで絶えた。

「秀長の家は誰が継いだの?」と聞かれたときの答えが、この秀保だ。ところが、豊臣家には「秀」の字のつく人が多すぎて、秀次、秀勝、秀秋、秀頼と、名前がすぐにこんがらがる。この記事では、まず系図で人の取り違えを防いでから、秀保本人と、秀長の家督がどう受け継がれ、どう途切れたのかに絞って書いていく。秀長の死後に豊臣政権全体がどう変わったのかは、特集の『豊臣秀長の死後、豊臣政権はどう変わったのか』で別に扱っている。

目次

結論|豊臣秀保を3行で

要点

まず系図で整理|「秀」の字だらけの豊臣一門

秀保の話に入る前に、名前の取り違えを防ぐ早見表を置いておく。ドラマや解説を見ていて「どの秀だっけ?」となったら、ここに戻ってきてほしい。

名前 読み 秀吉との関係 秀保との関係 ひとことで
豊臣秀長 ひでなが 弟 叔父で、養父 大和の大名。秀保に家を譲る
豊臣秀次 ひでつぐ 姉の子(甥) 長兄 秀吉の跡を継いで関白に。1595年7月に切腹
豊臣秀勝 ひでかつ 姉の子(甥) 次兄 小吉秀勝。文禄の役の陣中で病死
豊臣秀保 ひでやす 姉の子(甥) 本人 秀長の養子。大和中納言
小早川秀秋 ひであき 正室おねの兄の子(養子) 義理のいとこ 一時「秀俊」と名乗った。のちに小早川家へ
豊臣秀頼 ひでより 実子 いとこ 1593年生まれ。秀吉の跡継ぎ
結城秀康 ひでやす 家康の次男で、秀吉の養子 ― 読みが秀保と同じ「ひでやす」なので要注意
秀保・秀次・秀勝と秀吉・秀長の関係図
秀保は秀吉・秀長の姉の子。叔父の秀長の養子となり、その家督を継いだ。

とくに注意したいのが二つある。一つは、秀保と結城秀康が、どちらも「ひでやす」と読むこと。もう一つは、江戸時代の書物の中に、秀保を「秀俊」と書いたものがあることだ。これは、かつて秀俊と名乗った小早川秀秋と混同したための誤記と考えられている。

秀保の家族も整理しておく。父は三好吉房(木下弥助)、母は秀吉の姉のとも。兄が二人いて、秀保は三兄弟の末っ子にあたる。

秀長の跡継ぎになるまで|死の床での祝言

秀保は天正7年(1579年)の生まれで、幼名は辰千代とも御虎ともいう。

秀長には、跡を継ぐ男子がいなかった。そこで一度は、織田家の重臣だった丹羽長秀の子・仙丸を養子に迎えている。ところが天正19年1月、秀長が病で死を目前にしたとき、跡継ぎに立てられたのは秀保だった。秀長の娘と祝言をあげ、婿養子として家を継ぐ形をとったのだ。

押し出された仙丸は、秀長の家老だった藤堂高虎の養子になり、藤堂高吉と名乗った。仙丸を外してまで秀保を立てたのは、秀吉・秀長の血筋を大和の家に残したかったからだと見る研究者がいる。外から来た養子より、自分たちの血を引く甥。豊臣家の跡継ぎの選び方には、いつもこの考え方が出てくる。

ちなみに、花嫁になった秀長の娘については、天正16年(1588年)に大和の長谷寺へ寄進された金の燈籠に「和州大納言秀長公姫君三八女」と刻まれた人物と同じと考えられている。「みや」「みやこ」と読む説がある。

なぜ秀保だったのか|三人の甥を「配る」秀吉

秀保の養子入りは、秀吉の一門の配り方の中で見るとわかりやすい。秀吉には、跡を継ぐ実の男子が長く育たなかった。その穴を埋めたのが、姉・ともの三人の息子たちだった。

長兄の秀次は、近江で43万石を与えられたのち、やがて秀吉の跡継ぎとして関白に立てられる。次兄の秀勝は、甲斐や美濃の岐阜など各地の大名に据えられた。そして末っ子の秀保が、子のいない秀長の家に入った。秀吉は姉の三人の子を、自分の家、一門の大名家、弟の家へと配り、羽柴の血筋で政権の要所を固めようとしたのだ。

この配り方は、うまくいけば強い。一門が政権の柱をそれぞれ受け持ち、互いに支え合える。けれど、柱の一本一本が若い甥たちである以上、誰か一人が欠けるたびに、政権そのものが揺らぐ。実際、文禄元年(1592年)に秀勝が朝鮮の陣中で病に倒れ、文禄4年には秀保と秀次が相次いで失われる。三本の柱は、わずか3年あまりで一本も残らなかった。

一人の当主を亡くした家に、別の家から若い血縁を送り込んで穴を埋める。そのたびに、送り出した側の層は薄くなる。秀保の養子入りは、豊臣一門の人材の薄さを、そのまま映していたとも言える。

大和中納言の時代|誰が家を回していたのか

秀長が亡くなると、秀保は大和郡山城の主となり、大和と紀伊を受け継いだ。秀長が治めていた和泉と伊賀の一部は、秀吉に召し上げられている。秀保は豊臣の姓を与えられ、文禄元年(1592年)には従三位・権中納言にのぼった。

現在の大和郡山城
現在の大和郡山城。秀長はここを大和支配の拠点とした。写真は復元された追手門。 写真:Fg2 / Wikimedia Commons / Public domain(縮小・WebP変換)

とはいえ、13歳の少年に大和と紀伊を治められるはずがない。実際に家を回したのは、秀長の家臣団だった。後見役に立ったのは、藤堂高虎と桑山重晴。内政は、秀長の時代から三家老の筆頭だった横浜一庵らが引き続き担った。秀長の家臣団については『豊臣秀長の家臣一覧』で整理している。

言ってみれば、秀保の時代の大和豊臣家は、秀長がつくった組織が、主君を替えてそのまま動き続けていた状態だった。投資の言葉で言えば、創業者が亡くなり、13歳の跡継ぎを番頭たちが支える同族会社だ。番頭がしっかりしていれば会社は回る。けれど、その会社の将来は、跡継ぎが無事に大人になれるかどうかに、すべてかかっていた。

文禄の役|1万5000の兵を率いて、海は渡らず

文禄元年(1592年)、秀吉は朝鮮へ大軍を送り出した。秀保も、まず唐入りの拠点となる肥前の名護屋城の普請に加わり、1万5000の兵を率いて参陣している。

肥前名護屋城の本丸跡
肥前名護屋城の本丸跡。秀長が亡くなった1591年に、朝鮮出兵の拠点として築城が始まった。 写真:Aboshi at Japanese Wikipedia / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0(縮小・WebP変換)

けれど秀保自身は海を渡らなかった。名護屋の城下に陣屋を築いてそこにとどまり、海を渡った大和豊臣家の軍は、名代の藤堂高虎が率いた。紀伊の海賊衆を中心とする桑山家や杉若家の兵は、朝鮮半島の南の海で水軍として戦っている。本多俊政は壱岐の勝本城に兵を置き、海を渡る軍の補給の輸送と島の守りを受け持った。

ここにも、秀長の領国の特徴が出ている。秀長の時代に「南の海の門」だった紀伊の水軍と港が、海を越える戦争で、そのまま水軍と補給の役目を負わされたのだ。秀吉の兵站が海の向こうで限界を迎えた話は『戦国最強の軍団はどこだったのか』の「秀吉の限界」の節で書いた。

秀保は文禄2年(1593年)の閏9月に名護屋を引き上げ、翌年5月には名護屋城で明の使者・沈惟敬の謁見に同席している。中納言として、政権の顔の一人には数えられていたわけだ。

17歳の死|十津川で何があったのか

文禄4年(1595年)4月16日、秀保は大和の山深い十津川で亡くなった。17歳だった。亡くなった年を文禄3年とする書物もあるが、文禄4年とするのが一般的だ。

死の理由には、いくつもの説がある。

説 出どころ 内容 評価
病死説 『駒井日記』(同時代の記録)にもとづく桑田忠親の見方 疱瘡か麻疹による病死 同時代の記録で病の様子が確かめられ、もっとも有力
溺死の伝承 渡辺世祐の紹介 十津川の地の神の怒りに触れて溺れた 伝承の域を出ない
横死・業病説 『武徳編年集成』(1740年成立) 非業の死、または重い病を患ったとする 秀保の名前を誤記するなど、後世の書物で信頼度は低い

秀吉は、この甥の死を悼む様子を見せず、葬儀はひそかに済ませるよう命じたと伝わる。死後には大納言の位が贈られた。秀長と同じ大納言の位を、秀保は死んでから手にしたことになる。

悪い評判は本当か|「殺生関白」の弟という影

秀保には、あまりよくない評判もつきまとう。江戸時代の書物『武徳編年集成』は、秀保を殺生や悪行を重ねた人物として描き、小姓を川に沈めたという話まで載せている。大和郡山にも、秀保を暴君として描く池の伝承が残る。

けれど、こうした話は割り引いて読む必要がある。『武徳編年集成』は秀保の死から150年近くたって書かれた本で、名前を「秀俊」と取り違えているほどだ。歴史学者の桑田忠親は、時期が合わないことや、病の進み方が同時代の記録で確かめられることから、これらを風説・俗説と見ている。

悪評の形が、兄の秀次の「殺生関白」の評判とよく似ていることも指摘されている。秀次は、秀保の死のわずか3か月後に謀反の疑いをかけられ、命を落とした。その兄の悪名が、弟にもかぶせられた可能性は高い。一方で、秀保が茶の湯や和歌をたしなむ教養人だったことも伝わっている。私は、確かめられるのは「若くして病で亡くなった、教養もあった少年大名」までで、暴君の姿は後世の色づけだと考えている。

大和豊臣家のその後|二代で絶えた秀長の家

秀保には子がいなかった。秀長の先の養子だった仙丸も、すでに藤堂高吉として高虎の家の人になっている。こうして、秀長が築いた大和の豊臣家は、秀長と秀保の二代で途絶えた。

項目 秀保の死後どうなったか
家 継ぐ者がなく断絶
大和郡山城 秀吉の奉行・増田長盛が入る
家臣団 藤堂高虎、桑山重晴、本多俊政、横浜一庵らの多くが秀吉の直臣になる
秀長の娘たち 秀保に嫁いだ娘のほか、別の娘(おきく)は毛利秀元の妻になったとされる
秀保の家督継承から、郡山の主の交代へ
秀保の時代は約4年。家督を継いだあとも郡山城の整備や城下の保護が続いた。

大和は郡山城に入った増田長盛のもとでまとめ直され、紀伊は、和歌山の桑山重晴、田辺の杉若家、新宮の堀内家といった、それぞれ秀吉の直臣になった者たちの小さな領地に分かれた。秀長が一つの家としてまとめていた「大坂の背中と南の海」は、秀保の死を境に、政権の直轄の駒へと切り分けられたのだ。

ここが、秀保という人のいちばん大事な意味だと思う。秀保本人の事績は多くない。けれど、秀保が亡くなったことで、秀長の家は消え、秀長が10年かけてまとめた大和・紀伊の家臣団は秀吉の直臣としてばらばらになった。そして同じ年の夏には、秀保の兄の秀次も失われる。秀吉のまわりから、大人の一門が一気に消えていく。その流れの、秀保の死は一つの節目だった。

大日本帝国ファンとして|「名目の長」と「実務の長」

秀保の時代の大和豊臣家を見ていて、私は昭和の陸軍を思い出した。

昭和の初めから10年近く、陸軍の参謀総長の座には皇族の閑院宮載仁親王が就いていた。けれど実際に作戦や人事を動かしていたのは、その下の参謀次長や部長たちだったと言われる。名目の長は重く据えておき、実務は下の者が回す。この形は、組織に「重し」を与える一方で、誰が本当に決めているのかを見えにくくする。

13歳の中納言を名目の長に立て、藤堂高虎と桑山重晴が実務を回した大和豊臣家も、同じ形だった。秀保の場合は、後見役が有能だったので家は崩れなかった。ただ、名目の長が欠けた瞬間に、家そのものが消えてしまった。名目の長を置く組織は、その人がいなくなったときのことまで考えておかなければならない。秀保の短い生涯は、そのことを教えてくれる。

秀保ゆかりの地

秀保の足跡は、秀長と重なる。秀長から受け継いだ大和郡山城跡(奈良県大和郡山市)と、唐入りのときに陣屋を構えた佐賀県唐津市の名護屋城跡がその中心だ。名護屋城跡のまわりには全国の大名の陣跡が残っていて、隣の佐賀県立名護屋城博物館では、文禄・慶長の役のあらましを学べる。大和と肥前、秀保が歩いた二つの土地は、豊臣政権のいちばん華やかだった時期と、その陰りの始まりを同時に見せてくれる。

よくある疑問に短く答える

秀長の家は誰が継いだ?

甥の豊臣秀保だ。秀吉の姉の三男で、秀長の娘と祝言をあげて養子になり、天正19年(1591年)に秀長の死後、大和と紀伊を継いだ。

秀保と秀次はどういう関係?

兄弟だ。秀次が長兄、秀保が末っ子にあたる。秀次は秀吉の跡継ぎとして関白に、秀保は秀長の跡継ぎとして大和の大名になった。

秀保は何歳で亡くなった?

17歳だ。文禄4年(1595年)4月16日、大和の十津川で亡くなった。同時代の記録からは、疱瘡か麻疹による病死と考えられている。

秀保の妻は誰?

秀長の娘だ。天正19年(1591年)1月、秀長の死の直前に祝言をあげた。当時4つか5つだったとされ、長谷寺の金燈籠に刻まれた「三八女(みや、みやこ)」と同じ人物と考えられている。

秀保は暴君だった?

そう描く話は、江戸時代の書物や地元の伝承に出てくる。けれど、名前を取り違えるなど信頼度の低い書物が多く、歴史学者からは風説と見られている。茶の湯や和歌をたしなむ教養人だったことも伝わる。

秀保と結城秀康は同じ人?

違う。どちらも「ひでやす」と読むが、結城秀康は徳川家康の次男で、秀吉の養子になった人物だ。秀保は秀吉の姉の子で、秀長の養子だ。

豊臣秀長特集の読み方

この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の追加記事として書いた。特集の入口は『豊臣秀長は何をした人?』、秀長の家臣団は『豊臣秀長の家臣一覧』、秀長の死後の政権全体の変化は『豊臣秀長の死後、豊臣政権はどう変わったのか』にまとめている(いずれも順次公開)。

まとめ|秀長の家の「最後の当主」

豊臣秀保は、秀吉の姉の子で、死の床の秀長の娘と祝言をあげて跡を継いだ、大和豊臣家の二代目だった。13歳で大和と紀伊を受け継ぎ、中納言にのぼり、文禄の役では名護屋に陣を構えた。けれど、家を実際に回したのは秀長の家臣たちで、秀保自身は17歳で病に倒れた。

秀保の死で、秀長の家は絶え、秀長の家臣団は散り、豊臣の一門はさらに細くなった。秀保本人の事績は少ない。それでも、秀長がつくったものがどう終わったのかを知るには、この少年大名の4年あまりを見るのがいちばんの近道だ。秀保という名前を覚えておくと、ドラマの終盤で「秀」の字の人物が次々に出てきたときにも、誰が誰の家を背負っているのかが、ぐっと見えやすくなるはずだ。

出典・参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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