豊臣秀長の死後、豊臣政権はどう変わったのか――「秀長がいれば豊臣は滅びなかった」は本当か。確かめられる変化と、歴史の「もしも」を分けて考える

秀長没後の豊臣政権を題材にした特集扉絵

天正19年(1591年)1月22日、大和郡山城で豊臣秀長が亡くなった。52歳だった。

その年の豊臣家は、悪い知らせが続いた。2月28日、秀長と並んで大名たちの相談役だった千利休が、秀吉の命で腹を切る。8月5日、秀吉が待ち望んだ跡継ぎの鶴松が3歳で亡くなる。10月には朝鮮を経て明へ攻め込む「唐入り」が決まり、肥前の名護屋に城が築かれ始める。12月、秀吉は関白の位を甥の秀次に譲った。

わずか1年のあいだに、豊臣家の景色はがらりと変わった。だからこそ、こんな声が今もよく聞かれる。「秀長がもう少し長生きしていれば、豊臣家は滅びなかったのではないか」。

この記事は、軍研ノートの豊臣秀長特集の締めくくりとして、この問いに向き合う。ただし、やり方を一つ決めておきたい。史料で確かめられる「変化」と、歴史の「もしも」を、はっきり分けて書く。その二つを混ぜると、話は面白くなるが、本当のことが見えなくなるからだ。

目次

結論|先に答えを言うと

要点

年表|秀長の死から豊臣家の滅亡まで

秀長の死から秀保・秀次の死までの年表
秀長の死の翌日にすべてが変わったわけではない。1591年から数年間に起きた出来事を分けて追う。

秀長の死から豊臣家の滅亡まで、24年ある。この長さを、まず頭に置いておきたい。秀長の死の翌日に豊臣家が傾いたわけではない。

確かめられる変化①|大名と秀吉をつなぐ窓口が細った

天正14年(1586年)、九州の大友宗麟は国元にこう書き送った。

内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候

内々のことは利休に、公のことは秀長に相談すればよい、という意味だ。大名たちにとって、秀吉はいきなり話しかけるにはこわすぎる相手だった。だから、まず二人に話を通す。秀長は、長宗我部元親を大坂に連れて行って取り次ぎ、家康を自分の屋敷に泊め、島津の和睦の申し入れを最初に受けた。四国でも九州でも、和睦の扉の前に立っていたのは秀長だった。

その二人が、1591年の1月と2月、わずか1か月ほどのあいだに、どちらもいなくなった。

これは史料で確かめられる変化だ。大名から見て、秀吉へ話をつなぐ太い道が二本、同時に消えた。そのあとの取り次ぎは、石田三成らの奉行たちが担う比重が大きくなっていく。奉行は秀吉の命令を伝え、実行する役目には長けていた。けれど、秀吉に向かって「それはおやめください」と言える立場にはなかった。歴史学者の黒田基樹氏も、秀長は秀吉に意見して考えを改めさせることができたが、他の重臣たちは秀吉の命令を実行するだけだった、と見ている。

確かめられる変化②|豊臣の一門から「大人」が消えた

二つ目の変化は、数で示せる。秀吉の血縁や縁者で、大名として政権を支えられる大人が、数年のうちに次々といなくなったのだ。

人物 秀吉との関係 どうなったか
豊臣秀長 弟 1591年1月、病死
鶴松 嫡男 1591年8月、3歳で死去
豊臣秀勝 甥(秀次の弟) 1592年、文禄の役の陣中で病死
小早川秀秋 正室おねの兄の子で、秀吉の養子 1594年、小早川家の養子に出される
豊臣秀保 甥(秀次の弟、秀長の養子) 1595年4月、急死
豊臣秀次 甥、関白 1595年7月、秀次事件で切腹

1595年の夏の時点で、秀吉のまわりに残った一門は、2歳の拾(秀頼)と、北政所おねの一族くらいだった。秀吉は60歳に近づいていた。天下人の家に、跡継ぎを支える大人の身内がいない。これは、組織としてはきわめて危うい形だ。

投資をやっている身から言わせてもらうと、これは「キーマン・リスク」と「後継者計画の失敗」が同時に起きた状態に近い。一人の創業者と、それを支える少数の身内に頼りきった会社は、その身内が欠けたとたんに脆くなる。秀長の死は、その連鎖の最初の一つだった。

確かめられる変化③|大和が一門の手から奉行の手へ

三つ目は、領地の変化だ。秀長が治めた大和・紀伊・和泉は、大坂の東と南を固める要地だった。秀長の死後は養子の秀保が継いだが、その秀保も1595年に亡くなり、大和の豊臣家は絶えた。

現在の大和郡山城
現在の大和郡山城。秀長はここを大和支配の拠点とした。写真は復元された追手門。 写真:Fg2 / Wikimedia Commons / Public domain(縮小・WebP変換)

郡山城に入ったのは、秀吉の奉行の増田長盛だった。畿内の要の国が、秀吉の身内から、秀吉の官僚の手に移ったことになる。秀長の家臣たちの多くは増田には仕えず、秀吉の直臣になった。秀長の家臣三家老の筆頭だった横浜一庵もその一人だ。秀長が10年かけてまとめた「大坂の背中」は、ここでばらばらになった。

秀長の領地の位置と意味は、特集の『豊臣秀長の領地はどこ?』で、家臣たちのその後は『豊臣秀長の家臣一覧』で整理した。

確かめられる変化④|家康と並ぶ者がいなくなった

四つ目は、徳川家康の位置の変化だ。天正15年(1587年)8月、秀長と家康は同じ日に権大納言になっている。豊臣の一門の筆頭と、外様の筆頭が、同じ位に並んだのだ。天正18年(1590年)、家康は小田原攻めのあと関東へ移り、250万石ともいわれる大領を得る。

その翌年に秀長が亡くなり、数年のうちに一門の大人も消えていった。慶長元年(1596年)、家康は内大臣に進み、豊臣政権の大名の中で最も高い位に立つ。慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、家康は五大老の筆頭として政権の中心に座った。翌年、五大老の一人で豊臣家の後ろ盾だった前田利家が亡くなると、家康に正面から並べる者は、もう政権の中にいなかった。

ここまでは、日付と官位で追える事実だ。秀長がいれば家康を抑えられたかどうかは「もしも」の話になるが、秀長の死を一つめとして、家康と肩を並べられる人が順に欠けていったことは、はっきりしている。

「もしも」を検証する|秀長がいれば何が違ったか

ここからは、歴史の「もしも」の話になる。それぞれの仮定について、支えになる事実と、弱いところを並べてみる。

仮定 支えになる事実 弱いところ
秀長がいれば、朝鮮出兵は止まった 秀長は秀吉に意見できる数少ない人だった。四国では兄の出陣を止めている 唐入りの構想は、秀長が元気だった天正13年(1585年)の秀吉の書状にすでに出てくる。秀長が反対したという確かな同時代の記録は見当たらない
秀長がいれば、秀次事件は起きなかった 秀次の弟の秀保は秀長の養子で、秀長家と秀次は近い関係にあった。秀長が間に立てた可能性はある 事件の原因そのものに諸説があり、秀長がどう動けたかは想像の域を出ない
秀長がいれば、家康は天下を取れなかった 秀長は家康と同じ日に権大納言になった同格の大大名で、家康を自分の屋敷に迎えた間柄だった 秀長は1586年ごろから病がちで、小田原攻めにも出られなかった。関ヶ原の年には60歳。長生きそのものが、大きな仮定だ
秀長がいれば、豊臣家は滅びなかった 一門の長老が残っていれば、幼い秀頼を支える柱になれた 豊臣政権には、秀長一人では埋められない構造の問題もあった。滅亡は秀長の死の24年後だ
秀長の死後を読む三つの視点
人物、領国、歴史の仮定を別々にたどる。秀長一人の死ですべてを説明しないための整理になる。

いちばん大事なのは、一つ目の行だ。秀吉が唐入りを口にしたのは、早くも天正13年9月のことだ。家臣の一柳直末にあてた書状に、日本国は言うまでもなく、唐の国まで従わせるつもりだ、という意味の言葉が出てくる。秀長が亡くなる5年半も前で、秀長は四国平定の総大将を終えたばかりだった。そして、遠征の準備が始まったのは天正19年の正月、まさに秀長が亡くなる月だったとされる。

つまり、唐入りは秀長の死をきっかけに始まったのではない。秀長が生きていたあいだから、秀吉の頭の中にあった計画だった。秀長が生きていれば止められたかもしれない、と考えることはできる。けれど、秀長が生きていた5年半のあいだ、その計画が消えなかったことも事実だ。

歴史評論家の香原斗志氏は、秀長の早すぎる死は豊臣政権がすぐに崩れた最大の原因ではない、と論じている。黒田基樹氏も、秀長が生きていれば徳川の天下はなかったと多くの人が言ってきたことを紹介しつつ、歴史に「もしも」はないと断っている。私も同じ立場だ。秀長一人がいれば全部うまくいった、という話にしてしまうと、豊臣政権そのものが抱えていた弱さが見えなくなる。

では、秀長の死は何を変えたのか

それでも、私は秀長の死を軽く見るつもりはない。

秀長の死で失われたのは、一人の有能な武将というより、「秀吉に待ったをかけられる席」だったと思う。四国で、兄の出陣を「当座の恥辱」と押しとどめた弟。家康を自分の屋敷に泊め、島津の和睦を最初に受けた弟。そういう人が、政権の中に正式な席を持っていた。秀長の死は、その席が空いたまま、二度と埋まらなかったことを意味する。

席が空いたあとに起きたことは、確かめられる。利休の切腹、唐入り、秀次事件。どれも、秀吉の決断を誰も止められなかった出来事だ。秀長がいれば止められたかどうかはわからない。けれど、止める役目の人がいなくなったことだけは、はっきりしている。

秀長の死の影は、兵站にも落ちた

軍研ノートとして、もう一つ見ておきたいのが補給の話だ。

秀長は、豊臣軍の兵站を支えた一人だった。四国平定では紀伊・和泉の船を集め、九州平定では島津の主力を受け止めながら大軍を食べさせた。紀伊の熊野の材木を大坂に送り、京の大仏殿の造営も支えていた。

秀長の死の年の10月、秀吉は唐入りを決めると、大仏殿の工事を止めさせ、その資材を渡海のための船づくりに回している。秀長の領国から運ばれた材木の一部は、海を越える戦争の船になったのかもしれない。そして、海を越えた補給は、文禄・慶長の役で豊臣軍をもっとも苦しめたものになった。秀吉の兵站が海の向こうで限界を迎えたことは『戦国最強の軍団はどこだったのか』の「秀吉の限界」の節でも書いている。

国内では無敵だった豊臣の兵站の仕組みが、海を越えたとたんに崩れた。その仕組みをつくった者の一人が、もう政権の中にいなかった。これは偶然かもしれないが、私には偶然以上のものに見える。

大日本帝国ファンとして|「止め役」が消えた昭和

この特集を書きながら、私は何度も昭和の日本を思い出した。

明治から昭和の初めまで、日本には「元老」と呼ばれる人たちがいた。憲法のどこにも書かれていないが、天皇に首相を推薦し、政府や軍の暴走に「待った」をかける役目を果たしていた。その最後の一人、西園寺公望が亡くなったのは昭和15年(1940年)11月だ。翌年の12月、日本はアメリカとの戦争に踏み切る。

元老がいれば戦争は止まった、と言うつもりはない。秀長の場合と同じで、それは確かめようのない「もしも」だ。けれど、止め役の席が空いたあと、誰も最後の決断に責任を持たないまま、組織が大きな戦争へ流れていった形は、よく似ている。開戦を決めた東條英機が独裁者だったのか、誰も止めない仕組みの歯車だったのかは、『東條英機とは』で考えた。

止める人がいない組織が、どうやって失敗するのか。それを日本軍を題材に解き明かした名著がある。秀長の死から豊臣家の迷走を読んで、組織の話として腑に落ちた人には、ぜひ手に取ってほしい。

秀長ゆかりの地をめぐる

秀長の墓所とされる大和郡山市の大納言塚と、位牌を守る菩提寺の春岳院は、郡山城跡から歩いて回れる距離にある。唐入りの拠点になった佐賀の名護屋城跡には、文禄・慶長の役を学べる博物館があり、九州の豊臣兄弟ゆかりの城の御城印めぐりにも入っている。秀長が整えた大和と、秀長の死後に秀吉が向かった海の端。二つを訪ねると、この1591年の転換の大きさが、地図の上で実感できる。

肥前名護屋城の本丸跡
肥前名護屋城の本丸跡。秀長が亡くなった1591年に、朝鮮出兵の拠点として築城が始まった。 写真:Aboshi at Japanese Wikipedia / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0(縮小・WebP変換)

よくある疑問に短く答える

秀長が死んだのはいつ?何歳?

天正19年(1591年)1月22日、大和郡山城で亡くなった。52歳だった。数年前から病がちで、前の年の小田原攻めには出られなかった。

秀長の死後、跡を継いだのは誰?

養子の秀保だ。秀次の弟で、秀長の娘を妻に迎えて跡を継いだとされる。けれど秀保も1595年に17歳で亡くなり、大和の豊臣家は絶えた。

利休の切腹と秀長の死は関係ある?

直接の関係を示す史料はない。利休が秀吉の怒りを買った理由そのものに諸説があり、まだ決着していない。ただ、大名たちの二人の相談役が、1591年の1月と2月に相次いでいなくなったのは事実で、政権の窓口という意味では大きな空白が生まれた。

秀長は朝鮮出兵に反対していた?

そう語られることは多いが、確かな同時代の記録は見当たらない。秀吉の唐入りの構想は、秀長が元気だった1585年の書状にすでに出てくる。

秀長が長生きしていたら、豊臣家は滅びなかった?

わからない、が正直な答えだ。秀長は秀吉に意見できる数少ない人で、一門の長老として秀頼を支える柱になれた可能性はある。けれど、秀長自身が病がちだったこと、豊臣政権に秀長一人では埋められない弱さがあったことも考えると、「滅びなかった」とまでは言えない。

秀長の死後、いちばん得をしたのは誰?

結果から見れば徳川家康だろう。秀長と同じ日に権大納言になった同格の大大名で、秀長と一門の大人たちがいなくなったあと、豊臣政権の中で家康と肩を並べられる者はいなくなった。

豊臣秀長特集の読み方

この記事で、軍研ノートの豊臣秀長特集は締めくくりになる。特集の入口は『豊臣秀長は何をした人?』だ。家康との和睦をめぐる2本、四国平定と九州平定の戦史2本、領地と家臣の記事とあわせて読むと、秀長という人の大きさと、その死の意味がよりはっきりすると思う。

まとめ|秀長の死で消えたのは「待った」の席だった

秀長の死のあと、確かめられる変化は四つある。大名と秀吉をつなぐ窓口が細ったこと、豊臣の一門から大人が消えていったこと、大和という要地が一門の手を離れたこと、そして家康と肩を並べられる者が順にいなくなったことだ。

一方で、「秀長がいれば朝鮮出兵は止まった」「豊臣は滅びなかった」は、確かめようのない仮定だ。唐入りの構想は秀長の生前からあり、秀長自身も病がちだった。秀長一人の死が豊臣を滅ぼしたわけではない。

それでも、秀長の死で、秀吉に「待った」をかけられる席は空いたまま、二度と埋まらなかった。兄の出陣を「恥辱」と断った弟がいなくなったあと、天下人を止める人はもう現れなかった。豊臣秀長という人の本当の大きさは、いなくなったあとの空白の大きさで測るのが、いちばん正確なのかもしれない。

出典・参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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