第二次世界大戦ドイツ軍名将ランキングTOP10|電撃戦から防御戦まで、敗戦国が生んだ天才指揮官たちの全貌

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した瞬間から始まった第二次世界大戦。わずか6年足らずで、ヨーロッパは地獄と化した。

その地獄の中で、僕らの心を今なお掴んで離さない存在がいる。それがドイツ国防軍(Wehrmacht)の将軍たちだ。

彼らは最終的に敗れた。ベルリンに赤旗が翻り、第三帝国は崩壊した。しかし、その敗北の中で見せた戦術的天才、部下への配慮、そして時に政治への抵抗は、80年以上経った今でも世界中の軍事史研究者やミリタリーファンを魅了し続けている。

今回は、そんなドイツ軍の名将たちをランキング形式で紹介する。単なる戦績だけでなく、戦術的革新性、部下からの信頼、戦後の評価まで総合的に判断した。

彼らが指揮した戦場の詳細は、第二次世界大戦ヨーロッパ前線年表も併せて読むと、より理解が深まるはずだ。


目次

ドイツ軍名将ランキングTOP10 一覧

まずは結論から。僕が選んだTOP10を発表する。

順位名前最終階級代表的な戦功異名
1位エルヴィン・ロンメル陸軍元帥北アフリカ戦線砂漠の狐
2位エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥セヴァストポリ攻略、ハリコフ反撃機動戦の天才
3位ハインツ・グデーリアン上級大将フランス電撃戦、バルバロッサ作戦電撃戦の父
4位カール・デーニッツ海軍元帥大西洋Uボート戦狼群戦術の創始者
5位ヴァルター・モーデル陸軍元帥東部戦線防御戦総統の火消し役
6位アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥地中海・イタリア戦線微笑みのアルベルト
7位ゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥ポーランド・フランス戦役ドイツ陸軍の長老
8位エーリッヒ・レーダー海軍元帥ドイツ海軍再建Z計画の立案者
9位ゴットハルト・ハインリツィ上級大将オーデル川防衛線防御戦の名手
10位パウル・ハウサーSS上級大将ハリコフ奪還武装SSの父

それでは、各将軍の詳細を見ていこう。


第1位:エルヴィン・ロンメル陸軍元帥──「砂漠の狐」が今なお愛される理由

エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(1891-1944)。彼こそが、敵味方を問わず最も尊敬されたドイツ軍人だろう。

経歴と戦績

ロンメルは貴族出身ではない。南ドイツ・ヴュルテンベルクの教師の家庭に生まれた彼は、第一次世界大戦でイタリア戦線に従軍し、カポレットの戦いで「プール・ル・メリット勲章(青いマックス)」を受章。当時の階級はわずか中尉だったが、その戦術眼は既に異彩を放っていた。

第二次世界大戦では、1940年のフランス戦役で第7装甲師団を率い、「幽霊師団」の異名を取るほどの快進撃を見せた。その後、北アフリカに派遣され、アフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps)を指揮。ガザラの戦いではイギリス第8軍を壊滅させ、トブルク要塞を陥落。陸軍元帥に昇進した。

しかし、エル・アラメインの戦いで英軍モントゴメリーに敗北。補給線の限界と連合軍の物量の前に、砂漠の狐は初めて決定的な敗北を喫した。

なぜロンメルは敵にすら尊敬されたのか

ロンメルが特別視される理由は、その戦術的天才だけではない。

まず、捕虜への人道的な扱いだ。彼はユダヤ人捕虜の処刑命令を無視し、敵兵を紳士的に扱った。チャーチルですら議会で「ロンメルは偉大な将軍である」と認めたほどだ。

次に、ヒトラー暗殺計画への関与である。1944年7月20日の暗殺未遂事件に関与したとされ、ロンメルは自決を強いられた。国葬で英雄として送られたが、その死の真相は長く隠されていた。

彼は純粋な軍人であり、政治的な野心よりも部下と祖国を愛した。だからこそ、敗戦国の将軍でありながら、世界中で今なお敬意を集めているのだ。

ロンメルを深く知るための書籍・映画

ロンメルの魅力をもっと知りたいなら、まず彼自身が著した「歩兵は攻撃する」を読んでほしい。第一次世界大戦での戦術論だが、現代の軍事教育でも使われる名著だ。

映画では、1951年の「砂漠の狐」(ジェームズ・メイソン主演)が定番だ。連合国側の視点から描かれながらも、ロンメルへの敬意に満ちた作品である。

楽天ブックス
¥4,950 (2025/12/31 21:26時点 | 楽天市場調べ)

第2位:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥──機動戦の天才が見せた神業

エーリッヒ・フォン・マンシュタイン(1887-1973)は、多くの軍事史家が「第二次世界大戦最高の戦術家」と評価する将軍だ。

経歴と戦績

プロイセン貴族の血を引くマンシュタインは、参謀本部で頭角を現した。彼の最大の功績は、1940年フランス戦役における「鎌の一撃(シュリーフェン計画の改良案)」の立案である。アルデンヌの森を装甲部隊で突破し、連合軍を分断するこの作戦は、わずか6週間でフランスを降伏に追い込んだ。

しかし、マンシュタインの真価が発揮されたのは独ソ戦だった。

1941-42年のセヴァストポリ包囲戦では、黒海最大の要塞を攻略。1943年2月の「ハリコフの奇跡」では、スターリングラードの敗北で崩壊寸前だった南方軍集団を立て直し、ソ連軍を逆撃して4個軍を壊滅させた。

この反撃は、劣勢に陥った軍が「機動防御」でいかに戦況を覆せるかを示した教科書的事例として、現代でも研究されている。

マンシュタインとヒトラーの確執

マンシュタインはヒトラーと度々衝突した。クルスクの戦いでは作戦の遅延に反対し、その後も機動的な戦術を主張したが、「一歩も退くな」を信条とするヒトラーと相容れなかった。

1944年3月、マンシュタインは解任される。彼はヒトラー暗殺計画には関与しなかったが、その軍事的見識はナチス指導部にとって脅威だったのだろう。

戦後、マンシュタインは戦争犯罪で有罪判決を受けたが、NATOの顧問として西ドイツ軍再建に貢献。回顧録「失われた勝利」は、ドイツ軍将官の視点から見た東部戦線の決定版として今も読み継がれている。

AJIMURA-SHOP
¥28,096 (2025/12/31 21:27時点 | 楽天市場調べ)

第3位:ハインツ・グデーリアン上級大将──「電撃戦の父」が変えた近代戦

ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(1888-1954)なくして、第二次世界大戦の「電撃戦(Blitzkrieg)」は存在しなかった。

戦車戦ドクトリンの革命

グデーリアンは1930年代、まだ戦車が「歩兵支援兵器」と見なされていた時代に、独立した装甲師団による集中突破を主張した。著書「電撃戦――装甲部隊とその共同」は、機動戦理論のバイブルとなった。

1940年のフランス戦役で、グデーリアンの第19装甲軍団はアルデンヌを突破し、わずか11日でイギリス海峡に到達。ダンケルクでの連合軍撤退を許したのは有名な「停止命令」のせいだが、グデーリアンの電撃的進撃がなければ、そもそも連合軍を包囲することはできなかった。

バルバロッサ作戦では第2装甲集団を率い、キエフ包囲戦で66万のソ連兵を捕虜にする戦果を挙げた。

不遇と復帰

しかし、モスクワの戦いでの撤退をめぐりヒトラーと対立し、1941年12月に解任される。

1943年、グデーリアンは「装甲兵総監」として復帰。ドイツ戦車部隊の再建に尽力し、パンターV型戦車ティーガーIIの開発を推進した。

1944年7月の暗殺未遂事件後は参謀総長に就任するが、もはやドイツの敗北は避けられなかった。それでも、彼が築いた戦車戦ドクトリンは戦後の西側諸国の機甲戦術の基礎となった。

グデーリアンの思想を体現したドイツ最強戦車たちは、今もモデラーの心を掴んで離さない。タミヤやドラゴンモデルズのキットで、電撃戦の主役を手に取ってみてほしい。


第4位:カール・デーニッツ海軍元帥──大西洋を恐怖に陥れた「狼群」の指揮官

カール・デーニッツ(1891-1980)は、Uボート戦術の天才であり、最終的にはヒトラーの後継者としてドイツ降伏を指揮した人物だ。

狼群戦術(ルーデルタクティク)の創始者

第一次世界大戦でUボート艦長として従軍したデーニッツは、潜水艦の可能性と限界を誰よりも理解していた。彼が開発した「狼群戦術」は、複数のUボートが協調して船団を襲撃するというもので、1940-41年にかけてイギリスへの補給線を壊滅的に叩いた。

「幸せな時代(Happy Time)」と呼ばれたこの時期、Uボートは月間数十万トンもの連合軍船舶を撃沈。イギリスを飢餓に追い込む寸前まで行った。

大西洋の戦いの転換点

しかし、1943年5月を境に状況は一変する。連合軍の暗号解読(エニグマ)、護衛空母の増強、レーダー技術の進歩により、Uボートは「狩る側」から「狩られる側」へと転落した。

デーニッツは息子2人を海戦で失いながらも、最後までUボート作戦を指揮し続けた。その姿勢は、部下からの絶大な信頼を集めた。

1945年5月、ヒトラーの遺言によりデーニッツは国家元首となり、ドイツの降伏を取り仕切った。戦後はニュルンベルク裁判で10年の禁固刑を受けたが、出所後は回顧録を執筆し、1980年に没した。


第5位:ヴァルター・モーデル陸軍元帥──「総統の火消し役」が見せた防御戦の極意

ヴァルター・モーデル(1891-1945)は、東部戦線の崩壊局面で何度も戦線を救い、「防御戦の名手」として知られる将軍だ。

「火消し屋」としての活躍

モーデルは派手な電撃戦の立役者ではない。彼の真価は、崩壊寸前の戦線を立て直す「火消し役」として発揮された。

1942年のルジェフ突出部では、ソ連軍の攻勢を9回にわたって撃退。1944年の東部戦線崩壊時には、北方軍集団を包囲から救出した。ヒトラーは彼を「最も信頼できる将軍」と呼び、危機的状況になるとモーデルを送り込んだ。

西部戦線での最後

1944年8月、ノルマンディー上陸作戦後の西部戦線崩壊を食い止めるため、モーデルは西方軍司令官に任命された。アルンヘムの戦いでは連合軍のマーケット・ガーデン作戦を粉砕し、一時的に西部戦線を安定させた。

バルジの戦いでも指揮を執ったが、連合軍の物量の前に作戦は頓挫。1945年4月、ルール包囲網で最後の抵抗を続けたが、部下の投降を許した後、自ら命を絶った。

「元帥は降伏しない」──それが彼の信念だった。

バルジの戦い(アルデンヌ攻勢)を徹底解説|ヒトラー最後の大反撃──冬のアルデンヌで繰り広げられた絶望的な反撃と”奇跡の街”バストーニュの物語


第6位:アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥──「微笑みのアルベルト」が守り抜いたイタリア

アルベルト・ケッセルリンク(1885-1960)は、空軍元帥でありながら地上戦の指揮でも卓越した能力を発揮した異色の将軍だ。

地中海の守護者

ケッセルリンクは「微笑みのアルベルト」と呼ばれ、常に楽観的な姿勢を崩さなかった。その笑顔の裏には、鋼鉄の意志があった。

1943年以降、彼は南方軍総司令官としてイタリア戦線を指揮。モンテ・カッシーノの戦いでは、わずかな兵力で連合軍を4ヶ月も足止めし、グスタフ・ラインを死守した。

ローマ陥落後も、ゴシック・ラインで粘り強い遅滞戦闘を展開。連合軍の北イタリア突破を1945年4月まで阻止し続けた。

戦後の評価

戦後、ケッセルリンクはアルデアティーネ虐殺事件への関与で死刑判決を受けたが、後に減刑された。1960年に死去したが、その防御戦術は現代でも研究対象となっている。


第7位:ゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥──ドイツ陸軍の「長老」

ゲルト・フォン・ルントシュテット(1875-1953)は、第二次世界大戦を通じて最も高位にあったドイツ陸軍将官の一人だ。

電撃戦の成功を支えた指揮官

ルントシュテットは1939年のポーランド戦役で南方軍集団を、1940年のフランス戦役でA軍集団を指揮した。特にフランス戦役では、グデーリアンの装甲部隊を擁するA軍集団が主攻を担い、電撃戦の成功に大きく貢献した。

バルバロッサ作戦では南方軍集団を率いてウクライナを席巻したが、モスクワへの進撃が頓挫した後、ヒトラーと対立して解任された。

三度の解任と復帰

ルントシュテットは戦争中に三度解任され、その都度復帰した。1944年には西方総軍司令官としてノルマンディーの防衛を指揮したが、「上陸軍を水際で撃破すべき」と主張するロンメルと、「予備兵力で反撃すべき」と主張するルントシュテットの間で戦略が分裂し、効果的な対応ができなかった。

彼は「プロイセン軍人の典型」として、政治的な陰謀には距離を置き、純粋な軍事的判断を貫いた。

ヒトラーの野望・バルバロッサ作戦とは──”人類史上最大の侵攻作戦”と、冬将軍に砕かれた野望【完全解説】


第8位:エーリッヒ・レーダー海軍元帥──ドイツ海軍を再建した男

エーリッヒ・レーダー(1876-1960)は、ヴェルサイユ条約で骨抜きにされたドイツ海軍を、わずか10年で大国に挑める水準にまで引き上げた建設者だ。

Z計画と大艦巨砲主義

レーダーは1928年に海軍総司令官に就任。彼は「Z計画」を立案し、戦艦ビスマルク、ティルピッツを含む大海軍の建設を進めた。彼の構想は、1945年までにイギリス海軍と対等に戦える艦隊を保有することだった。

しかし、戦争は1939年に始まってしまう。レーダーは「あと5年あれば」と嘆いたという。

Uボートへの軍配

限られた海軍力で戦うレーダーは、通商破壊戦に注力した。ビスマルクの最期など悲劇もあったが、その戦略眼は高く評価されている。

1943年、Uボート派のデーニッツと方針が対立し、レーダーは辞任。戦後はニュルンベルク裁判で終身刑を宣告されたが、健康上の理由で1955年に釈放された。


第9位:ゴットハルト・ハインリツィ上級大将──ベルリンの戦いで輝いた防御の名手

ゴットハルト・ハインリツィ(1886-1971)は、派手さはないが、防御戦において卓越した能力を持つ将軍だった。

オーデル川の奇跡

1945年3月、ハインリツィはヴァイクセル軍集団司令官に任命された。彼に与えられた任務は、圧倒的な兵力を持つソ連軍からベルリンを守ることだった。

ハインリツィは巧みな戦術を用いた。ソ連軍の砲撃が始まる直前に前線部隊を後方に下げ、砲撃が無駄弾となるようにした。この「弾性防御」により、ソ連軍のベルリン進撃を何日も遅らせた。

しかし、最終的にはヒトラーの命令で解任。彼は敗北を認める勇気を持った数少ない将軍の一人だった。

ベルリンの戦いを徹底解説|第三帝国最後の16日間──ヒトラー自殺と赤旗が翻った廃墟の首都攻防戦


第10位:パウル・ハウサー SS上級大将──武装SSの「父」

パウル・ハウサー(1880-1972)は、武装SSを精鋭部隊へと育て上げた人物だ。国防軍ではなく親衛隊(SS)所属という点で異論もあるが、その軍事的能力は疑いようがない。

ハリコフ奪還

1943年2月のハリコフ陥落後、ハウサー率いるSS装甲軍団はマンシュタインの反撃作戦に参加。ハリコフを奪還し、戦線の崩壊を食い止めた。

ハウサーは元国防軍将校であり、武装SSに軍隊としての規律と戦術能力を注入した。彼の下で「ダス・ライヒ」「トーテンコップフ」などの師団が練成された。

戦後、彼はSS戦争犯罪の弁護に努めたが、その軍事的功績と組織への貢献は否定できない。


番外編:惜しくもランク外となった名将たち

TOP10には入らなかったが、言及すべき将軍たちがいる。

フェルディナント・シェルナーは東部戦線最後の闘将として知られるが、その過酷な指揮スタイル(脱走兵の即決処刑など)が評価を下げた。

ハンス・フォン・クルーゲは西部戦線総軍司令官を務めたが、ヒトラー暗殺計画への関与が疑われ自殺。その軍事的能力は高かったものの、政治的な悲劇が彼の評価を複雑にしている。

ヴェルナー・フォン・フリッチュは開戦前のドイツ陸軍総司令官として軍の近代化を進めたが、陰謀により失脚した悲運の将軍だ。


ドイツ軍名将たちが指揮した戦場を知る

彼らの戦いをより深く理解するため、関連記事も読んでみてほしい。

東部戦線の全体像を知りたいなら、独ソ戦を徹底解説がおすすめだ。2,700万人が死んだ1,418日間の全貌を解説している。

個別の戦いでは、ロンメルが敗北したエル・アラメインの戦い、マンシュタインが攻略したセヴァストポリ包囲戦、グデーリアンが頓挫したモスクワの戦いなども参照してほしい。

彼らが指揮したドイツ最強戦車たちドイツ空軍の戦闘機についても、別記事で詳しく解説している。


ドイツ軍名将を「形」として手に入れる

ここまで読んでくれたあなたは、きっと彼らの物語に心を動かされたはずだ。

僕は思う。彼らの戦いは終わったが、その記憶を「形」として残すことはできる。

タミヤやドラゴンモデルズから発売されているドイツ軍フィギュアセットには、将軍たちのポーズや表情が細かく再現されたものがある。また、アカデミーの1/35スケールのジオラマセットを使えば、北アフリカの砂漠でロンメルが指揮を執る姿を再現することも可能だ。

書籍では、マンシュタインの「失われた勝利」、グデーリアンの「電撃戦」、ロンメルの「歩兵は攻撃する」が必読だ。いずれも当事者が書いた一級史料であり、彼らの思考回路を直接知ることができる。

映画ファンには、「ロンメル軍団を叩け」「砂漠の鬼将軍」などの古典的作品から、近年の「ヒトラー~最期の12日間~」まで、さまざまな作品でドイツ軍将軍たちの姿を見ることができる。

AJIMURA-SHOP
¥28,096 (2026/01/01 01:24時点 | 楽天市場調べ)

まとめ:敗戦国の将軍たちが遺したもの

第二次世界大戦でドイツは敗北した。彼らが仕えた政権は人類史上最悪の犯罪を行い、その責任から逃れることはできない。

しかし、軍事的な観点から見れば、ドイツ軍将軍たちは世界史に残る戦術的革新を成し遂げた。電撃戦、機動防御、狼群戦術──これらは現代の軍事ドクトリンにも影響を与え続けている。

そして、彼らの中には政治に抵抗し、最後まで軍人としての矜持を守ろうとした者もいた。ロンメルの人道的な捕虜扱い、マンシュタインのヒトラーへの異議申し立て、ハインリツィの現実的な判断──これらは、軍人が倫理的ジレンマにどう向き合うかという普遍的な問いを投げかけている。

敗戦国の将軍だからこそ、彼らの物語は僕らに多くのことを教えてくれる。

同盟国として戦った日本の将軍たちについても、いずれ語りたいと思う。栗林忠道中将の硫黄島の戦い、山口多聞のミッドウェー海戦など、彼らもまた記憶されるべき存在だ。

もしこの記事が参考になったら、ぜひSNSでシェアしてほしい。あなたが「最強のドイツ軍将軍」だと思う人物がいれば、コメントで教えてくれると嬉しい。


よくある質問(FAQ)

Q: ロンメルとマンシュタイン、どちらが優れた将軍だった?

A: これは永遠の論争だ。ロンメルは前線指揮官として卓越し、部下と共に戦う姿勢が支持を集める。一方、マンシュタインは作戦立案能力と大規模な軍集団の指揮で優れていた。僕の私見では、総合的な戦術能力ではマンシュタイン、カリスマ性と歴史的評価ではロンメルに軍配が上がる。

Q: ドイツ軍将軍は戦争犯罪に関与していたのか?

A: 多くの将軍が戦後、戦争犯罪で訴追された。特に東部戦線では、国防軍も占領政策や捕虜虐待に関与したケースがある。ただし、個々の責任の程度には大きな差があり、一括りには語れない。ロンメルのように人道的な扱いを貫いた将軍もいれば、積極的に加担した者もいた。

Q: なぜドイツ軍は敗北したのか?

A: 複合的な要因がある。多正面作戦による戦力分散、アメリカ・ソ連という二大工業国との物量差、ヒトラーによる戦略的判断ミス(スターリングラードへの固執など)、連合軍の情報戦勝利(エニグマ解読)などが挙げられる。個々の将軍の能力は高かったが、国家戦略レベルでの失敗を覆すことはできなかった。


よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次