
天山(B6N)は、九七艦攻の後継として速度と出力を高めた3人乗り艦上攻撃機である。しかし完成したころには、その力を発揮する日本の空母航空戦が崩れ始めていた。
本稿の主題は「天山は遅すぎた駄作か」という二択ではない。機体は九七艦攻から明確に進歩した。それでも戦果に結びつきにくかった理由を、開発の遅延、空母の喪失、搭乗員の練度、米側の迎撃体系の変化から読み解く。
- 天山(B6N)は、九七艦攻の後継として速度と出力を高めた3人乗り艦上攻撃機である。しかし完成したころには、その力を発揮する日本の空母航空戦が崩れ始めていた
- 艦上攻撃機天山B6Nの性能、型式、九七艦攻からの進化、雷撃と実戦、高性能でも戦果が限られた理由を知りたい
- 天山は、中島飛行機が日本海軍の十四試艦上攻撃機として開発したB6N系の制式名である
- 1939年、日本海軍は九七艦攻の後継機に、3人乗り、最大速度464km/h、通常航続距離1,853km、B5Nと同等の搭載量を求めた
天山とは何か:九七艦攻の後継として生まれた艦上攻撃機
- 天山は、中島飛行機が日本海軍の十四試艦上攻撃機として開発したB6N系の制式名である
- 「天山」は日本側の名称、「Jill(ジル)」は連合軍のコードネーム、B6N1・B6N2は開発・型式を区別する機体番号である
- 天山の要点 – 操縦員、偃察員、電信員兼後方銃手の3人乗りが基本である
- – 800kg級の航空魚雷または爆弾を運用する
天山は、中島飛行機が日本海軍の十四試艦上攻撃機として開発したB6N系の制式名である。「天山」は日本側の名称、「Jill(ジル)」は連合軍のコードネーム、B6N1・B6N2は開発・型式を区別する機体番号である。
> 天山の要点 > > – 操縦員、偃察員、電信員兼後方銃手の3人乗りが基本である。 > – 800kg級の航空魚雷または爆弾を運用する。 > – B6N1は中島「護」発動機、主力のB6N2は三菱「火星」二五型を搭載する。 > – 九七艦攻より速く強力だったが、配備は1943年にずれ込んだ。
スミソニアン国立航空宇宙博物館は、世界で最後に残る天山B6N2の機体を所蔵している。同館の解説は、天山を単発・低翼単葉・尾輪式の艦上雷撃機とし、九七艦攻の後継を目指した開発経緯を詳しく伝える(スミソニアン所蔵機解説)。
日本海軍機の中での天山の位置を確認するには、戦闘機、艦上爆撃機、陸上攻撃機と分けて見るとよい。
この論点を広く比較するなら、「第二次世界大戦・日本の戦闘機一覧|旧日本軍の全機体を海軍・陸軍・試作機まで完全網羅【保存版】」もあわせて確認したい。
開発要求の難しさ:「九七艦攻と同じ空間」で大幅な性能向上を狙う
- 1939年、日本海軍は九七艦攻の後継機に、3人乗り、最大速度464km/h、通常航続距離1,853km、B5Nと同等の搭載量を求めた
- しかも、既存空母の昇降機に収まる大きさでなければならなかった
- これらの条件は、スミソニアンの所蔵機解説にも明記されている
- 後継機は通常、旧型より大きく、重くなる
1939年、日本海軍は九七艦攻の後継機に、3人乗り、最大速度464km/h、通常航続距離1,853km、B5Nと同等の搭載量を求めた。しかも、既存空母の昇降機に収まる大きさでなければならなかった。これらの条件は、スミソニアンの所蔵機解説にも明記されている。
後継機は通常、旧型より大きく、重くなる。発動機を強力にし、燃料を増やし、武装や無線機を強化すれば、空間を使うからである。ところが天山は、空母の格納庫と昇降機という「容器」を変えないまま、速度と航続性を引き上げるよう求められた。
その結果、主翼の全幅は九七艦攻と同等の範囲に抑えられ、垂直尾翼は外観上やや前傾したような独特の輪郭となった。スミソニアンは、全長制限に収めるために垂直尾翼の形状が工夫されたと説明している。
筆者は、天山の開発を理解する鍵は「九七艦攻より大きな発動機」より、九七艦攻とほぼ同じ箱に、別世代の性能を押し込む仕事だったことにあると考える。この制約を見落とすと、後の重量増加、着艦速度、発進の問題がばらばらの欠陷に見えてしまう。

試作から実用化まで:発動機・尾翼・着艦フックの苦闘
- B6N1の試作機は1941年春に飛行試験へ進んだが、すぐに実用化できたわけではない
- 方向安定性、発動機の信頼性、着艦フックの強度、大きくなった重量と発進性能の間に問題が出た
- スミソニアンの解説によれば、開発陣は尾翼を再設計し、方向安定性を改善した
- それでも1942年末の空母運用試験では着艦フックの故障が事故に繋がり、機体重量の増加で飛行甲板からの発進余裕も小さかった
B6N1の試作機は1941年春に飛行試験へ進んだが、すぐに実用化できたわけではない。方向安定性、発動機の信頼性、着艦フックの強度、大きくなった重量と発進性能の間に問題が出た。
スミソニアンの解説によれば、開発陣は尾翼を再設計し、方向安定性を改善した。それでも1942年末の空母運用試験では着艦フックの故障が事故に繋がり、機体重量の増加で飛行甲板からの発進余裕も小さかった。試験時には離陸補助ロケットを必要とする場面もあったとされる。
最初の発動機は中島製の「護」一一型であった。中島側は燃料消費と発展余地を評価したが、開発と信頼性確保に時間を要した。さらに生産機種の整理で「護」の生産が打ち切られ、天山は海軍が当初推していた三菱「火星」二五型へ換装することになった。
当時の技術情報には、後世の解説より細かい実務の跡が残る。スミソニアンが公開する「Technical Manual on B6N2 / JILL 12」は、設計概要、寸法、エンジンマウントとカウリングの構造・材料、水メタノール噴射系の整備を含む翻訳技術資料である(スミソニアン NASM-Manual-000033268)。戦果の形容詞ではなく、機体を飛ばすための整備項目が厚いこと自体が、航空機の実力が整備体系に依存することを教えてくれる。

B6N1・B6N2・B6N2a・B6N3の違いと主要性能
- 天山の型式は、主に発動機と後方武装、陸上運用への適応で区別できる
- 型式 日本側の呼称 発動機 主な特徴 ———— B6N1 天山一一型 中島「護」一一型 初期生産型
- 開発遅延の中心となった発動機を搭載 B6N2 天山一二型 三菱「火星」二五型 主力生産型
- 2機の試作で終戦 B6N2の代表値は、搭乗員3人、「火星」二五型の離昇出力1,850hp級、最大速度約481km/h、搭載量800kg級である
天山の型式は、主に発動機と後方武装、陸上運用への適応で区別できる。
| 型式 | 日本側の呼称 | 発動機 | 主な特徴 |
|---|---|---|---|
| B6N1 | 天山一一型 | 中島「護」一一型 | 初期生産型。開発遅延の中心となった発動機を搭載 |
| B6N2 | 天山一二型 | 三菱「火星」二五型 | 主力生産型。機首周りと尾輪などを変更 |
| B6N2a | 天山一二型甲 | 「火星」二五型 | 後上方の自衛機銃を13mm級に強化した後期型 |
| B6N3 | 天山一三型試作 | 「火星」二五型系 | 不整地の陸上基地運用を重視。2機の試作で終戦 |
B6N2の代表値は、搭乗員3人、「火星」二五型の離昇出力1,850hp級、最大速度約481km/h、搭載量800kg級である。ただし、最大速度と航続距離は高度、重量、燃料搭載、魚雷の有無で変わる。英文の二次資料でも、B6N2は最大速度299mph(約481km/h)、1,850hpの火星二五型、1,764lb(約800kg)の魚雷または爆弾と整理されている(History of WarのB6N解説)。
| 項目 | 天山B6N2 | 評価時の注意 |
|---|---|---|
| 搭乗員 | 3人 | 操縦、航法・照準、通信・後方防御の分業 |
| 最大速度 | 約481km/h | 魚雷搭載時の実戦速度と同一ではない |
| 発動機 | 火星二五型、1,850hp級 | 九七艦攻の栄一一型から大幅な出力向上 |
| 搭載量 | 800kg級魚雷1本または爆弾 | 搭載量そのもは九七艦攻と同級 |
| 自衛武装 | 後上方・後下方の旋回機銃 | 戦闘機と主導的に戦う装備ではない |
総生産数は専門二次資料で1,268機とされる。ただし、オンラインで確認できる公的一次史料から型式別の完成数を通して照合できなかったため、本稿では確定値ではなく「一般に示される数」として扱う。一方、B6N1についてはスミソニアンが135機後に「護」から「火星」へ切り替えたと説明しており、二次資料の「生産型133機に試作2機を加える」数え方と整合する。

天山と九七艦攻の違い:進化したのは何か
- 天山と九七艦攻の最も分かりやすい差は速度である
- 九七艦攻B5N2の最大速度約378km/hに対し、天山B6N2は約481km/hに達したとされ、100km/h以上の差がある
- 発動機出力も、九七艦攻の1,000hp級から天山の1,850hp級へ大きく増えた
- しかし、魚雷を抱えて低空進入する任務では、最大速度だけで生存性は決まらない
天山と九七艦攻の最も分かりやすい差は速度である。九七艦攻B5N2の最大速度約378km/hに対し、天山B6N2は約481km/hに達したとされ、100km/h以上の差がある。発動機出力も、九七艦攻の1,000hp級から天山の1,850hp級へ大きく増えた。
| 比較点 | 九七艦攻 B5N2 | 天山 B6N2 | 実戦上の意味 |
|---|---|---|---|
| 主力化した時期 | 1941年の開戦前後 | 1943年以後 | 相手の迎撃体制が別世代 |
| 最大速度の目安 | 約378km/h | 約481km/h | 天山は進入・離脱の時間を短縮 |
| 発動機出力 | 約1,000hp | 約1,850hp | 重量増を補い速度を向上 |
| 搭載量 | 800kg級 | 800kg級 | 航空魚雷の大きさは同級 |
| 運用環境 | 熟練航空隊と大型空母が揃う | 空母と熟練搭乗員が減少 | 天山の性能向上を成果に変えにくい |
天山の速度向上は本物である。しかし、魚雷を抱えて低空進入する任務では、最大速度だけで生存性は決まらない。直掩戦闘機、電波警戒、戦闘機管制、艦隊の対空砲火、搭乗員の練度が結果を左右する。
筆者は、天山を「九七艦攻の完全上位互換」と呼ぶのは半分しか正しくないと考える。機体単体では上位である。だが、九七艦攻が1941年に享受した熟練搭乗員、大型空母、機動部隊の集中運用までは継承できなかった。
九七艦攻の詳細記事は本キュー内で制作中である。公開・公開ページの取得確認が完了するまでURLは付けず、後継機と前作の往来導線として保留する。
この論点を広く比較するなら、「九七式艦上攻撃機とは|真珠湾を支えた雷撃機の性能・型式・実戦を解説」もあわせて確認したい。
九七艦攻が主力だった真珠湾攻撃と、天山が空母から実戦に出た1944年のマリアナ沖とを比べると、空母航空戦がどれほど変わったかが分かる。真珠湾全体の経過は専門記事に譲る。
この論点を広く比較するなら、「真珠湾攻撃とは|南雲機動部隊・宣戦布告問題・第三波論を解説」もあわせて確認したい。

天山の雷撃はどう成り立ったか:3人の分業と発進条件
- 天山は速くなったが、雷撃の基本構造は九七艦攻時代の延長にある
- 操縦員が低空で姿勢と速度を管理し、偃察員が航法、目標の運動、投下時機を判断し、電信員兼後方銃手が通信と警戒を担う
- 三人の分業が崩れれば、速度481km/hというカタログ値は成果に結びつかない
- さらに、天山は九七艦攻より重く、高い翼面荷重と着艦速度を抱えた
天山は速くなったが、雷撃の基本構造は九七艦攻時代の延長にある。操縦員が低空で姿勢と速度を管理し、偃察員が航法、目標の運動、投下時機を判断し、電信員兼後方銃手が通信と警戒を担う。三人の分業が崩れれば、速度481km/hというカタログ値は成果に結びつかない。
さらに、天山は九七艦攻より重く、高い翼面荷重と着艦速度を抱えた。スミソニアンは、運用が大型正規空母に限られたと説明する。発進する飛行甲板の長さ、風向、空母の速力、魚雷と燃料を含む重量は、任務の出発点ですでに天山を制約した。
この点は、ミッドウェー海戦で大型空母4隻を失った影響とも繋がる。天山は、強力になったぶんだけ、十分な飛行甲板と着艦設備を備える空母を必要とした。一般的な「大型化した新型機」と「運用母艦の喪失」が、同じ時間軸で進んだのである。
この論点を広く比較するなら、「ミッドウェー海戦とは|1942年6月の経過・損害・「運命の5分間」を検証」もあわせて確認したい。
1943年ラバウルの実戦投入:「初実戦」と「艦上からの初実戦」を分ける
- 天山の初実戦は資料の表現に注意が要る
- スミソニアンの解説は、マリアナ沖海戦を天山の実戦初登場としている
- 一方、専門二次資料は、1943年11月5日のブーゲンビル島沖攻撃にB6N1が参加したとする
- この一見すると食い違いは、基地から出撃した実戦投入と、空母飛行甲板から発進した大規模艦隊航空戦を分けると理解できる
天山の初実戦は資料の表現に注意が要る。スミソニアンの解説は、マリアナ沖海戦を天山の実戦初登場としている。一方、専門二次資料は、1943年11月5日のブーゲンビル島沖攻撃にB6N1が参加したとする。
この一見すると食い違いは、基地から出撃した実戦投入と、空母飛行甲板から発進した大規模艦隊航空戦を分けると理解できる。History of Warの解説では、14機のB6N1が4機の零戦の援護でブーゲンビル島南方の艦船を攻撃したという。これを陸上基地からの初実戦、マリアナ沖を艦上運用の本格的な初実戦と整理するのが適切である。
ラバウルでの早期投入は、天山が部隊に十分行き渡り、訓練と整備の標準が安定した後の運用ではなかった。新型機を実戦で使うことと、新型機の性能を部隊全体で引き出すことは別である。早期の戦果報告には過大認定もあり、宣伝上の戦果と米側艦船の被害記録を分けて読む必要がある。
1944年マリアナ沖海戦:高性能な天山が止められた理由
- 1944年6月19〜20日のマリアナ沖海戦は、天山が空母航空隊の一員として本格投入された戦場である
- しかし、対面したのは1941年の真珠湾とは全く異なる防空システムだった
- 米海軍側はレーダーで日本攻撃隊の接近を捉え、F6Fヘルキャットを管制して遠方から迎撃し、それを抜けた機体に対して艦隊の対空砲火を重ねた
- 日本側は熟練搭乗員の多くを1942〜43年に失い、急造の搭乗員教育は時間と燃料の制約を受けた
1944年6月19〜20日のマリアナ沖海戦は、天山が空母航空隊の一員として本格投入された戦場である。しかし、対面したのは1941年の真珠湾とは全く異なる防空システムだった。
米海軍側はレーダーで日本攻撃隊の接近を捉え、F6Fヘルキャットを管制して遠方から迎撃し、それを抜けた機体に対して艦隊の対空砲火を重ねた。日本側は熟練搭乗員の多くを1942〜43年に失い、急造の搭乗員教育は時間と燃料の制約を受けた。NHHCは、開戦時に優秀だったB5N2に比べB6Nは高速化したが、1944年の米戦闘機に対して十分ではなく、開発問題による生産の遅れも影響したと評価する(history.navy.mil)。
日本側の同時代記録も、天山が混成攻撃の一要素だったことを示す。第201海軍航空隊の1944年6月18日の作戦計画には、サイパン沖の敵空母攻撃の二次隊として「銀河一機、天山一機、零戦直掩十二機」が記される(JACAR Ref.C13120278200)。この記録は海戦全体の天山数を示すものではないが、少数の新型攻撃機を銀河・零戦と組み合わせた作戦構想の一端を伝える一次史料である。
海戦の結果、日本の艦上航空戦力は決定的な損失を受けた。NHHCの概要は、6月20日夜までに米第58任務部隊が日本海軍航空隊と空母戦力の背骨を折ったと評価する(NHHC「The Battle of the Philippine Sea」)。この損失は数字上の機体だけでなく、代替が難しい搭乗員の命と技能の喪失でもあった。
天山は九七艦攻を追い越した。しかし、追いつくべき相手は機体ではなく、レーダー・戦闘機管制・量産・訓練が結びついた敵の空そのものだった。 これが筆者の見る天山の歴史的な悲劇である。
マリアナ沖海戦を太平洋戦争の戦場全体の中に置くと、日本側が天山を実用化した時期と、米側が中部太平洋で攻勢を強めた時期が重なっていたことが分かる。
この論点を広く比較するなら、「太平洋戦争の激戦地15選|死者数・餓死率・戦闘密度でたどる主要15戦」もあわせて確認したい。

陸上基地へ移った天山と戦争末期の運用
マリアナ沖海戦の前後から、天山の活動の重心は空母から陸上基地へ移っていった。スミソニアンは、1944年半ばまでに日本が大型空母の多くを失ったため、B6Nは陸上基地から運用され、沖縄戦では通常の魚雷・爆弾攻撃と特別攻撃の両方に投入されたと説明する。B6N3が大きな車輪と強化脚による陸上基地専用化を目指したのも、運用環境の変化の後追いだった。
ただし、陸上基地から飛べば艦上運用の制約が消える代わりに、別の問題が出る。基地の位置は動かせず、滑走路が空襲で破壊され、燃料・魚雷・交換部品の補給が絶たれれば飛べない。機体性能が残っていても、基地と整備体系が傷つけば出撃回数は減る。
戦争末期の天山を語るとき、特別攻撃を戦果の大小だけで語るべきではない。1945年6月16日、沖縄近海で米駆逐艦トゥイッグスは、米側がB6Nと識別した雷撃機の魚雷と体当たりによる打撃を受けて沈没し、152人の乗員が艦とともに亡くなったとNHHCは記録する(history.navy.mil)。攻撃機の搭乗員も帰還しなかった。機体の話の後ろには、日米の搭乗員と沖縄戦に巻き込まれた住民の巨大な犠牲がある。
オーストラリア戦争記念館が所蔵するB6N2の当時写真には、連合軍に捕獲され、米国の標識を描いて評価飛行する天山が写る。同館は、連合軍の技術航空情報部隊が修復し、連合軍操縦員が評価のため飛行させた機体と説明する(AWM AC0179)。この写真は、戦時の識別と戦後技術調査の両方を示す資料である。

天山は失敗作だったのか:機体性能と戦略環境を分けて評価する
天山の開発が順調だったとはいえない。「護」発動機の問題、安定性の修正、着艦フックの強化、重量増加による発進と着艦の難化は、実用化を1943年まで遅らせた。1942年の珊瑚海・ミッドウェー・南太平洋の空母戦に間に合わなかった影響は大きい。
一方で、B6N2は九七艦攻より明確に速く、同級の800kg魚雷を運び、陸上基地からも作戦を続けた。「性能向上に失敗した機体」とはいえない。むしろ、空母の数、搭乗員の練度、レーダーと戦闘機管制、生産・整備・燃料という差が、機体の改良幅を上回った。
筆者の結論は、天山は「遅れて登場した名機」と美化すべきでも、「時代遅れの失敗作」と切り捨てるべきでもないというものである。機体は進化したが、システムと時間に敗れた。そして、そのシステムの差を人命で支払う運用に追い込まれたことまで含めて評価する必要がある。
天山の価値は、「もしもっと早く登場していれば」という仮想戦記だけにはない。同じ空母に収まる制約下で性能を引き上げ、エンジン変更に適応し、後に陸上運用へ向かった設計史から、「兵器の性能」と「兵器が働ける環境」の違いを学べることにある。
写真・模型で天山を見分ける5つのポイント
天山と九七艦攻は、ともに長い3人用キャノピーを持つ単発艦上攻撃機で、遠景の写真では似て見える。次の点を順に見ると識別しやすい。
1. 垂直尾翼の輪郭:天山は前傾したように見える独特の形状を持つ。 2. 4枚プロペラ:強力な発動機の出力を吸収する天山の目立つ特徴である。 3. 機首の長さとカウリング:特に「火星」搭載のB6N2は、B6N1とも細部が異なる。 4. 主翼の上反角:九七艦攻の翼と並べると、翼全体のラインの違いが見える。 5. 後方武装と装備時期:B6N2aの後方機銃強化、後期の電探アンテナなどは機体と時期の照合が必要である。
模型を製作するときは、B6N2とB6N2aの武装、空母搭載機と陸上基地運用機の塗装、魚雷と爆弾のどちらを搭載するかを一つの時期にそろえたい。「天山らしさ」は塗装の濃淡より、狭い空母用寸法に強力な発動機と大きな魚雷を収めた輪郭に現れる。
天山B6N2を立体で確認する商品候補は、戦没者や特別攻撃を扱う章から十分離し、機体識別と構造理解の文脈に置く。
よくある質問
天山は九七艦攻よりどれくらい速かったのか
代表値では、九七艦攻B5N2の約378km/hに対し、天山<span class="swl-marker mark_yellow">B6N</span>2は約481km/hで、100km/h以上高速だった。ただし、実戦での速度は魚雷、燃料、高度、機体状態によって変わる。
B6N1とB6N2の最大の違いは何か
発動機である。<span class="swl-marker mark_yellow">B6N</span>1は中島「護」一一型、B6N2は三菱「火星」二五型を搭載する。「護」の生産打ち切りが「火星」への換装を促し、B6N2が主力生産型となった。
天山の実戦初登場はラバウルかマリアナ沖か
基地からの実戦投入は1943年11月のラバウル・ブーゲンビル方面、空母から発進する大規模艦隊航空戦への本格投入は1944年6月のマリアナ沖と分けるのが適切である。「初実戦」と「艦上からの初実戦」を混同しないことが大切である。
天山は空母から運用できなかったのか
運用できたが、高い着艦速度と翼面荷重のため、大型正規空母への依存が大きかった。実用化されたころに日本は多くの大型空母を失っており、後に陸上基地からの運用が中心となった。
天山が高性能なのに戦果が限られたのはなぜか
配備の遅れ、熟練搭乗員と空母の喪失、米側のレーダー・戦闘機管制・F6F・艦隊対空火力が結びついたからである。天山の性能は九七艦攻から向上したが、戦場全体の変化の方が大きかった。
まとめ:天山は進化したが、その力を生かす空母航空戦が崩れた
天山B6Nは、九七艦攻と同級の800kg魚雷搭載力を維持しながら、B6N2で最大速度約481km/hまで性能を高めた。大きさを空母昇降機の制約に収め、強力な発動機と3人の搭乗員を組み合わせた機体である。
しかし、「護」発動機、安定性、着艦フック、発進性能の問題は実用化を1943年まで遅らせた。その間に日本は大型空母と熟練搭乗員を失い、米側はレーダー、戦闘機管制、高性能戦闘機、対空火力を結びつけた。天山は九七艦攻より速く強力だったが、完成したころには艦上攻撃機が力を発揮できる日本の空母戦そのものが崩れ始めていた。
だからこそ、天山はカタログ数値だけでなく、「優れた新型機でも、使う体系がなければ成果に変えられない」ことを示す機体として読むべきである。その歴史を語る際は、戦没した搭乗員、攻撃を受けた艦船の乗員、そして戦場に巻き込まれた民間人に敬意を払いたい。
主な参考資料
- <a href="https://www.si.edu/object/nasm_A19810429000">si.edu</a>
- <a href="https://www.si.edu/media/NASM/NASM-Manual-000033268.pdf">si.edu</a>
- <a href="https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?DEF_XSL=default&IS_KEY_S1=C13120278200&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_START=1&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD&SUM_KIND=SimpleSummary">jacar.archives.go.jp</a>
- <a href="https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/browse-by-topic/wars-conflicts-and-operations/world-war-ii/1944/battle-philippine-sea.html">history.navy.mil</a>
- <a href="https://www.history.navy.mil/about-us/leadership/director/directors-corner/h-grams/h-gram-032/h-032-1.html">history.navy.mil</a>
- <a href="https://www.history.navy.mil/content/dam/nhhc/about-us/leadership/hgram_pdfs/H-Gram_049.pdf">history.navy.mil</a>
- <a href="https://www.awm.gov.au/collection/C22583">Australian War Memorial, AC0179</a>
- <a href="https://www.historyofwar.org/articles/weapons_nakajima_B6N.html">historyofwar.org</a>
参考資料・主な出典
スミソニアン所蔵機解説|資料を確認
スミソニアン NASM-Manual-000033268|資料を確認
History of WarのB6N解説|資料を確認
history.navy.mil|資料を確認
JACAR Ref.C13120278200|資料を確認
NHHC「The Battle of the Philippine Sea」|資料を確認
history.navy.mil|資料を確認
AWM AC0179|資料を確認
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