烈風はなぜ間に合わなかったのか|零戦の後継機が”幻の戦闘機”で終わった本当の理由

烈風はなぜ間に合わなかったのか|零戦の後継機が"幻の戦闘機"で終わった本当の理由

1944年10月13日。三菱の名古屋の工場の近くで、一機の大きな戦闘機が試験飛行に飛び立った。

零戦を設計した堀越二郎のチームが、その後継機として送り出した艦上戦闘機「烈風」だ。新しいエンジンを積んだこの機体は、試験で時速620キロを超える速さを出し、海軍が求めていた性能をほぼ満たした。しかも、零戦ゆずりの軽快な運動性も持っていた。ようやく、零戦の後を継げる戦闘機ができたのだ。

でも、遅すぎた。

このとき、日本はすでにマリアナ沖海戦で空母部隊の主力を失い、フィリピンをめぐる決戦を目前にしていた。烈風の量産は始まる前に地震と空襲に打ちのめされ、終戦までに完成したのは、試作機を含めて10機に満たない。烈風は、一度も実戦に出ることなく、「幻の戦闘機」として終わった。

なぜ、烈風は間に合わなかったのか。よく言われるのは「エンジンの選択を間違えたから」という話だ。それは半分正しい。でも、私はそれだけではないと思っている。この記事は、烈風の開発の歩みを追いながら、その本当の理由を考える。零戦そのものについては零戦は本当に最強だったのかの記事で書いているので、合わせて読んでほしい。

目次

烈風のスペック

終戦後の格納庫に残された烈風 A7M2。1945年ごろ。米海軍写真 80-G-193473/Public domain。
終戦後の格納庫に残された烈風 A7M2。1945年ごろ。米海軍写真 80-G-193473/Public domain。 U.S. Navy / Public domain
項目 内容(烈風一一型=A7M2)
正式名 烈風(試作名:十七試艦上戦闘機)
設計 三菱(堀越二郎のチーム)
初飛行 1944年5月6日(誉エンジンのA7M1)、1944年10月13日(ハ43エンジンのA7M2)
エンジン 三菱 ハ43(空冷星型18気筒、離昇2,200馬力)
全幅 14.0メートル
最大速度 時速624〜628キロ前後(資料によって差がある)
武装 20ミリ機銃と13ミリ機銃の組み合わせなど
生産数 試作機を含めて8〜10機程度(資料によって差がある)
連合軍のコードネーム Sam
要点

零戦の後継機は、なぜ遅れたのか

「零戦が強すぎた」

烈風の物語は、零戦が太平洋の空を席巻していた1940年ごろに始まる。

堀越二郎は、零戦が大成功を収めていたこの時期から、すでに次の戦闘機が必要になることを見越していた。零戦は、小さく軽い機体に、比較的小さなエンジンを積むことで、驚くほどの航続距離と運動性を実現した戦闘機だった。でも、その設計の仕方には、エンジンをこれ以上大きくしにくいという限界があった。アメリカがもっと強力な戦闘機を出してくれば、零戦はいずれ追い越される。

ところが、海軍は後継機の開発を急がなかった。零戦が勝ち続けていたからだ。開発の命令は1940年に一度出されたものの、零戦の改良や、陸上で迎撃に使う局地戦闘機「雷電」の開発に技術者が取られ、後継機の仕事は一時止まってしまう。本格的に動き出したのは、1942年になってからだった。

私は、烈風が間に合わなかった最初の理由はここにあると思う。零戦が強すぎたために、次の手を打つのが遅れたのだ。勝っているときほど、次の準備は後回しにされがちだ。これは軍隊に限らず、どんな組織にも当てはまる話だと思う。雷電については雷電の解説で書いた。

「全部ほしい」という要求

1942年、海軍が三菱に出した新しい戦闘機の要求は、とても欲張りなものだった。

零戦よりずっと速く、上昇力も高く、それでいて零戦と同じくらいの運動性と航続距離を持つこと。速度も、格闘戦の強さも、遠くまで飛べる力も、全部ほしい、という要求だ。

この中で、特に設計を難しくしたのが、運動性の条件だった。海軍は、零戦のような小回りのきく格闘戦の性能を、どうしても譲らなかった。格闘戦に強くするには、機体の重さのわりに主翼を大きくして、翼にかかる重さ(翼面荷重)を軽くする必要がある。そこで烈風は、主翼をとても大きくした。全幅14メートルという大きな翼は、この要求から生まれたものだ。

でも、翼を大きくすると、空気の抵抗も大きくなり、速さを出すにはそれだけ強いエンジンが必要になる。運動性と速度を両立させるためには、とびきり強力なエンジンが欠かせなかったのだ。

運命を分けたエンジンの選択

三菱は自社のハ43を、海軍は中島の誉を

ここで、烈風の運命を大きく左右する決定が下される。

三菱は、自分たちで開発を進めていた強力なエンジン「ハ43」を烈風に積むつもりだった。ところが1942年の秋、海軍は、中島飛行機のエンジン「誉」を使うよう求めた。誉は、小さくて軽いのに2,000馬力級の力を出せるという、当時の日本で最も期待されていたエンジンだった。開発の費用を出しているのは海軍なので、三菱は最終的にこの要求を受け入れるしかなかった。

技術好きとして、この誉というエンジンについて少し書いておく。誉は、小さな直径のなかに18個のシリンダーを詰め込み、無理をしてでも大きな力を引き出そうとしたエンジンだった。設計の上では素晴らしい性能を持っていたが、そのぶん精密な部品と高い品質の燃料や潤滑油を必要とした。戦争が長引き、熟練した工員が戦場に取られ、材料も燃料も悪くなっていくなかで、誉は設計どおりの力を出せないことが多くなっていく。陸軍の四式戦闘機「疾風」も、この誉のトラブルに悩まされた。疾風については疾風の解説で詳しく書いている。

誉の烈風は、零戦と変わらない速さだった

1944年5月6日、誉を積んだ烈風の最初の試作機(A7M1)が初飛行した。

結果は、海軍にとって大きな失望だった。烈風は、運動性はとても良かったものの、エンジンの力が足りず、最高速度は零戦52型とほとんど変わらなかった。上昇力も要求に届かない。大きな翼を引っ張るには、誉の実際の力では足りなかったのだ。

海軍は、いったん烈風の開発を打ち切る決定を下した。かわりに、川西が開発した陸上の戦闘機「紫電改」に期待をかけ、三菱にも紫電改をつくらせる方向に動いた。紫電改については紫電改の解説にまとめている。

ハ43に積み替えたら、要求を満たした

それでも、三菱はあきらめなかった。海軍の許しを得て、当初の予定どおり自社のハ43を積んだ試作機の試験を続けたのだ。

1944年10月13日、ハ43を積んだ烈風(A7M2)が初飛行した。今度の結果は、まるで違った。最高速度は時速620キロを超え、上昇力も大きく向上し、海軍の要求をほぼ満たした。しかも、もともと良かった運動性はそのままだった。

海軍は考えを改め、烈風を正式に採用し、量産を命じた。烈風一一型の誕生だ。もし最初からハ43で開発を進めていれば、烈風はもっと早く、もっといい形で完成していたかもしれない。「エンジンの選択を間違えた」と言われるのは、このためだ。

地震と空襲:量産は始まる前に止まった

横須賀海軍航空技術廠の格納庫に残されたA7M2。1945年後半。
横須賀海軍航空技術廠の格納庫に残されたA7M2。1945年後半。 U.S. Navy, 80-G-193476 / Public domain

ところが、烈風の不運はここで終わらなかった。

要点

工場を疎開させて生産を続けようとしたが、材料も部品も工員も足りなかった。結局、終戦までに完成した烈風は、試作機と量産機を合わせても10機に満たなかった。一機も部隊に配備されることはなく、一度も敵と戦うことはなかった。

烈風の発展型:烈風改と局地戦闘機の計画

技術好きとして、烈風の「その先」の計画にも触れておきたい。

ハ43を積んだ烈風一一型が要求を満たしたあとも、三菱は改良型の計画を進めていた。高い高度での力を強めるために、過給器を改良した高高度用のハ43を積む型や、排気タービン付きのエンジンを積み、胴体を延ばして陸上の基地から運用する局地戦闘機型の計画もあった。後者は「烈風改」とも呼ばれ、B-29の迎撃を見据えたものだった。

B-29は1万メートル近い高い高度を飛んでくる。そこまで上がって戦うには、空気の薄い高空でもエンジンの力が落ちない過給器が欠かせない。日本の戦闘機の多くは、この高空での力不足に苦しんだ。烈風改は、その答えになるはずの機体だったが、試作機の完成を待たずに終戦を迎えている。

もう一つ、烈風が零戦から大きく変わった点に、防弾がある。零戦は、軽さを優先したために、燃料タンクや操縦席の守りが弱く、被弾すると燃えやすいと言われた。烈風では、燃料タンクの防弾など、パイロットと機体を守る工夫も取り入れられていたとされる。速さと運動性だけでなく、生き残るための設計に目が向けられていたことも、零戦の時代からの大きな変化だった。

烈風が間に合わなかった、本当の理由

ここまでの話を整理すると、烈風が間に合わなかった理由は、一つではない。私は、少なくとも4つの理由が重なっていたと思っている。

一つ目は、開発の始まりが遅れたことだ。零戦が勝ち続けていたせいで、後継機の開発は後回しにされた。

二つ目は、要求が欲張りすぎたことだ。速度も運動性も航続距離も、全部ほしいという要求が、機体を大きく重くし、強力なエンジンへの依存を強めた。

三つ目は、エンジンの選択だ。三菱が望んだハ43ではなく、誉を使わせたことで、開発は大きく遠回りした。

四つ目は、日本の工業力そのものの限界だ。たとえ最初からハ43で開発していたとしても、エンジンの量産、材料、燃料、熟練した工員の不足という問題は残った。そして、地震と空襲が、その弱い土台を壊してしまった。

よく語られるのは三つ目のエンジンの話だが、私は四つ目が一番根深い問題だったと思う。どれだけ優れた設計でも、それを大量に、安定した品質で作り続けられなければ、戦争の役には立たない。烈風は、日本の航空機の設計の力が、それを支える工業の力を追い越してしまった時代の象徴だったのかもしれない。

日本の戦闘機全体の中で烈風がどんな位置にあったかは、日本の戦闘機一覧で見渡せる。

もし烈風が間に合っていたら

戦史好きなら、どうしても考えてしまう「もしも」がある。もし烈風が、1943年ごろに完成して、空母の上に並んでいたらどうなっていたか。

烈風の性能は、カタログの上では、アメリカの主力艦上戦闘機F6Fヘルキャットと十分に渡り合えるものだった。F6FについてはF6Fヘルキャットの解説で書いている。運動性ではむしろ烈風のほうが上だったかもしれない。

でも、私は、烈風が間に合っていても、戦争の流れそのものは大きくは変わらなかっただろうと思っている。

アメリカは、F6Fを1万機以上も生産した。それを飛ばすパイロットを大量に育て、空母も次々に造った。日本が烈風を何百機か揃えられたとしても、それを飛ばす熟練したパイロットは、すでにミッドウェーや南太平洋の戦いで大勢失われていた。燃料も足りなかった。どれほど優れた戦闘機でも、それ一つで戦争の形勢をひっくり返すことはできない。

ただ、それでも烈風が実戦に出ていれば、本土の防空や、空母の護衛で、何人かの若いパイロットの命を救えたかもしれない。そう考えると、やはり惜しい機体だったと思う。

よくある疑問に短く答える

烈風と紫電改は、どちらが強かったのか

カタログの性能だけで見れば、最高速度はほぼ同じくらいで、運動性と航続距離では、艦上戦闘機として設計された烈風のほうが優れていたと考えられる。一方の紫電改は、実際に量産されて部隊に配備され、343航空隊などで実戦を戦った。「強さ」を実戦の記録で測るなら、戦った紫電改と、戦わなかった烈風は、そもそも比べようがない。

烈風の実物は残っているのか

完成した烈風は少数で、戦後の混乱の中で失われたと見られ、現存する機体は確認されていない。だからこそ、写真や図面、模型を通してしか、その姿を知ることができない。これも「幻の戦闘機」と呼ばれる理由の一つだ。

烈風は空母で運用されたのか

烈風は艦上戦闘機として設計されたが、完成したころには、日本海軍が烈風を載せて戦えるだけの空母と熟練の搭乗員は、ほとんど残っていなかった。仮に量産されていたとしても、多くは陸上の基地から本土の防空に使われることになったはずだ。

投資家目線:エンジンが作れない国の弱さは、今も続いている

整備台に固定したターボファンエンジンの点検
整備台に固定したターボファンエンジンの点検。

ここで、少し現代の話をさせてほしい。

烈風の物語を一言でまとめるなら、「機体は作れたが、それに見合うエンジンが足りなかった」ということになる。そして、この問題は、実は戦後の日本にもずっと残り続けた。

戦後の日本は、戦闘機の機体を作る力はある程度取り戻したが、戦闘機用の強力なジェットエンジンは、長いあいだアメリカなど海外の設計に頼ってきた。航空自衛隊のF-15JやF-2のエンジンも、海外のエンジンを日本の企業がライセンスで生産したものだ。

その流れが、ようやく変わろうとしている。IHIは、次の戦闘機向けに、国産の強力な戦闘機用エンジンの研究を進めてきた。そして日本は今、イギリス、イタリアと共同で、次期戦闘機GCAPの開発に取り組んでいる。烈風の時代から80年。日本はようやく、戦闘機の心臓であるエンジンを、自分たちの力で作る段階に近づきつつある。

防衛関連の銘柄を見るとき、私はいつも烈風のことを思い出す。華やかな機体の設計より、地味なエンジンや部品、それを安定して作り続ける工場の力のほうが、最後にものを言う。日本の軍用エンジンを作る企業については日本の軍用航空エンジンメーカーの解説、GCAPに関わる企業はGCAP関連企業一覧にまとめた。

堀越二郎という人

最後に、烈風を設計した堀越二郎のことにも触れておきたい。

堀越は、零戦、雷電、烈風という、海軍の主力戦闘機を次々に設計した技術者だ。でも、その戦闘機の多くが、多くの若いパイロットを乗せて戦場に飛び立ち、戻らなかった。堀越自身、戦後に書き残したものの中で、技術者としての誇りと、戦争への複雑な思いをにじませている。

2013年には、堀越の半生をもとにしたスタジオジブリの映画『風立ちぬ』が公開され、その名前は一気に広く知られるようになった。映画は史実そのままではなく、作家の堀辰雄の小説の世界と重ね合わせた物語だが、美しい飛行機をつくりたいという技術者の夢と、それが戦争の道具になってしまう苦さは、よく描かれていたと思う。

戦後、堀越は、日本で戦後初めての国産旅客機YS-11の開発にも関わった。戦闘機を造った技術が、今度は人を運ぶ飛行機に生かされたのだ。

零戦がどのようにして生まれ、どのように戦ったのかを、設計者自身の言葉で知りたいなら、この本がいい。烈風が生まれた背景も、零戦の設計の考え方から見えてくる。

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烈風を手元に置くなら

三菱みなとみらい技術館に展示された烈風の模型。2022年撮影。
三菱みなとみらい技術館に展示された烈風の模型。2022年撮影。 Brakeet / CC0 1.0(ライセンス)

烈風は量産されなかったが、模型の世界では人気のある機体だ。大きな主翼と太い胴体は、零戦と並べるとその違いがよくわかる。烈風のキットは、模型店や公式通販で探してみてほしい。

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零戦と並べて飾ると、後継機としての烈風の大きさと力強さが、ぐっと実感できる。比べる相手としての零戦なら、タミヤの1/32が決定版だ。

同じ「幻の戦闘機」の仲間として、震電、秋水、橘花の記事もある。どれも、日本の技術者たちが、戦争の終わりぎりぎりまで新しい空の兵器を追い求めた記録だ。実戦の空に間に合わなかった機体たちには、間に合った機体とはまた違う物語がある。

出典・参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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