記事一覧
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戦史・作戦史
占守島の戦いは何を止めたのか|降伏3日後、戦車連隊長が突撃した4日間と北海道
1945年8月18日午前1時30分、千島列島最北端の占守島にソ連軍が上陸した。日本の降伏公表から3日後、守備隊は戦車の砲を外して武装解除の準備を進めていた。第5方面軍の「断乎反撃」の命令を受けた第91師団は応戦し、戦車第11連隊長・池田末男大佐は訣別電を打って突撃し、戦死した。日本軍は優勢のまま軍命で21日に停戦し、将兵はシベリアへ送られた。この戦いは何を止めたのか。 -
人物・軍人
山本幡男の遺書はなぜ暗記で運ばれたのか|ラーゲリで死んだ男と、それを持ち帰った仲間たち
1954年8月25日、ハバロフスクの収容所で山本幡男が死んだ。45歳。ソ連の裁判でスパイ罪など25年の刑を受け、1950年の「帰還完了」宣言の後も帰されなかった長期抑留者の一人である。死の1か月半前、彼は一晩で約4,500字の遺書を書いた。だが帰国時の検査で紙は没収される。仲間たちは遺書を分割して暗記し、1957年、6人が別々に妻のもとへ届けた。なぜ紙が持ち帰れなかったのか、映画『ラーゲリより愛を込めて』は何を変えたのか。 -
歴史的事件
シベリアに抑留された女性たち|看護婦・挺身隊・軍属、記録に残る367人と残らなかった人々
シベリア抑留は男の話として語られてきた。だが57万5千人の中に、数百人の女性がいた。ロシア側の記録に残るだけで367人、研究によっては千人近い。従軍看護婦、女子挺身隊、女子軍属、電話交換手。佳木斯第一陸軍病院の看護婦たちはハバロフスク地方の収容所に送られ、日本人抑留者の看護をさせられ、目の前で男たちが死んでいくのを看取った。なぜ女性が連行されたのか、なぜ語られなかったのか。 -
歴史的事件
シベリア抑留はなぜ起きたのか|「ダモイ」と告げられて北へ運ばれた57万5千人の11年
1945年8月23日、スターリンは武装解除した日本軍将兵50万人をソ連領内で働かせる決定に署名した。兵士たちは「ダモイ(帰国)」と告げられて貨車に乗り、列車は北へ向かった。約57万5千人が約2,000の収容所に送られ、最初の冬に死者が集中し、約5万5千人が帰らなかった。最後の帰国船は11年後の1956年12月。なぜ起きたのか、誰が連れて行かれたのか、日本は何をしたのかを、決定から補償まで順に追う。 -
歴史的事件
二日市保養所とは|引き揚げ女性たちが受けた処置の記録
1946年3月、福岡県二日市温泉に一つの施設が開かれた。満洲や北朝鮮からの引き揚げの途上でソ連兵らの性暴力を受け、妊娠して帰国した女性たちの中絶手術を行うための施設である。堕胎罪があった時代に、京城帝国大学の医師たちが超法規的に処置を行い、記録は最小限にとどめられた。手術を受けた女性は400〜500人。彼女たちは名前を残さず、施設は1年半で閉じ、忘れられた。何が行われ、誰が加害者で、誰が記憶を守ったのか。 -
歴史的事件
満蒙開拓団の逃避行|27万人の開拓民に何が起きたのか
1945年8月、満洲の国境近くに、女性と子どもと老人だけの村が800あった。開拓団27万人のうち男性4万7千人は7月の根こそぎ動員で召集され、残された22万人はソ連軍の侵攻を知らされないまま、徒歩で数百キロを逃げた。襲撃、自決、収容所での病死。8万人が死んだ。誰が彼らを国境に置き、誰が置き去りにし、誰が殺したのかを整理する。 -
歴史的事件
豊原空襲とは|終戦後の駅で避難民が受けた被害
1945年8月22日昼前、樺太の首都・豊原の駅前広場がソ連機の爆撃と銃撃を受けた。駅には白旗、救護所には赤十字の標示があり、広場には島内各地から逃げてきた避難民がいた。同じ日、知取では日ソの停戦協定が結ばれている。なぜ避難民は駅に集まっていたのか、なぜ死者数は今も分からないのか、誰がこの日を記録したのか。 -
歴史的事件
三船殉難事件とは|樺太の疎開船を襲ったソ連潜水艦の攻撃
1945年8月22日、北海道留萌沖。樺太からの疎開者を乗せた小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸がソ連潜水艦L-12・L-19に撃たれ、1,708人が死亡・行方不明になった。泰東丸は白旗を掲げて停船していた。47年間「国籍不明」とされた理由、留萌上陸作戦に先立つ「敵船舶撃滅」命令書、慰霊と海底調査まで。 -
歴史的事件
真岡郵便局事件とは|九人の電話交換手と樺太の終戦
1945年8月20日朝、日本が降伏を公表して5日後、白旗を掲げた樺太・真岡の町にソ連軍が艦砲射撃を加えて上陸した。郵便局2階に残っていた12人の女性交換手のうち10人が青酸カリを飲み、9人が死んだ。町では約1,000人の民間人が死に、局の殉職者は19人。残留の経緯、当日の時間経過、九人の名前と年齢、生き残った人、映画『氷雪の門』がソ連の圧力で封印された経緯まで。 -
戦史・作戦史
樺太の戦いとは|ソ連軍の侵攻と住民避難、終戦後の戦闘
1945年8月11日、ソ連軍は北緯50度線を越えて南樺太に侵攻した。国境の半田で丸一日持ちこたえた約100人、古屯・八方山で師団規模の攻撃を止めた歩兵第125連隊、塔路・真岡への上陸、熊笹峠、そして8月25日の豊原進駐まで。戦線の動きと40万人の住民避難がどう連動していたのかを、日付と地名で追う。