記事一覧
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戦史・作戦史
8月15日後も続いた日ソ戦|樺太・千島の戦闘を年表で追う
玉音放送の翌日、ソ連軍参謀本部は「天皇の声明は一般的宣言にすぎない」として攻撃の継続を宣言した。塔路上陸、占守島、真岡、留萌沖の三船、豊原駅前、そして降伏文書調印の翌日に始まった歯舞群島占領まで。8月15日から9月5日までの22日間に、誰が何を決め、誰が死んだのかを日付で追い、ソ連がなぜ止まらなかったのかを明らかにする。 -
国際情勢・ニュース
ハバロフスクの対日戦勝記念碑問題|日本が撤去を求める理由
2026年9月4日、ロシア・ハバロフスクで除幕された対日戦勝記念碑は、菊の紋章を刻んだ日本の国境標石をソ連兵が銃床で砕く像だった。ロシア側は「軍国主義の象徴」と説明する。菊花紋章は何を表すのか、あの標石はどう置かれ、誰が越えたのか、なぜ抑留死者の慰霊の拠点であるハバロフスクなのか。日本が撤去を求める理由と、現実的な見通しを整理する。 -
戦史・作戦史
ソ連の対日侵攻と日本人被害|満洲・樺太・千島・抑留の記録
1945年8月9日のソ連参戦から、満洲の逃避行、樺太の上陸、千島の占領、シベリア抑留まで。日本人の死者は30万人を超える。どこで、いつ、誰が、何を失ったのかを一枚の表と地域別の記録で示し、被害が広がった構造と、戦後この記憶がどう扱われたかを整理する。特集25本の入口記事。 -
歴史的事件
中国残留孤児はなぜ生まれ、なぜ帰国が遅れたのか|親を失った子どもと、動くのが遅かった国
1945年8月、ソ連軍の侵攻から逃げる満洲の逃避行の中で、数千人の子どもが親と引き離された。死んだ親、生きるために子を預けた親、中国人に拾われた子。彼らは中国人として育ち、文化大革命では「日本鬼子」として迫害された。国の公開調査は1975年に始まり、訪日調査は1981年、敗戦から36年後に実現した。認定された孤児2,818人のうち身元が判明したのは1,284人、帰国後は日本語が通じず、訴訟を経て2007年に新たな支援策が決まり、2008年に実施された。誰が彼らを作り、誰が放置したのか。 -
歴史的事件
ソ連の北海道占領計画は実在したのか|スターリンの書簡から8月22日の中止命令まで、史料で追う
「ソ連は北海道を占領しようとしていた」は本当か。1945年8月16日、スターリンはトルーマンに釧路と留萌を結ぶ線以北の占領を要求した。18日、トルーマンは拒否した。だが19日、ソ連海軍は24日未明の留萌上陸を予定し、第87狙撃軍団2個師団の投入が準備された。22日、スターリンは中止を命じた。何が史料で確認でき、何が推測なのか。中止の理由は何だったのか。実行されていたら日本はどうなっていたのか。 -
歴史的事件
舞鶴はなぜ13年間、船を待ち続けたのか|66万人と1万6千柱を迎えた引揚港と「岸壁の母」
1945年10月7日、舞鶴港に最初の引揚船・雲仙丸が着いた。最後の白山丸が着いたのは1958年9月7日。13年間、延べ346回の入港で、約66万人の引揚者と1万6千柱の遺骨。全国18の引揚港のうち、1950年以降も開いていたのは舞鶴だけだった。なぜ13年もかかったのか。ソ連からの抑留者の帰還と、中国などからの引き揚げをたどる。岸壁で息子を待ち続けた母、お茶と蒸かし芋で迎えた市民、白樺の皮の日記が世界の記憶になるまで。 -
歴史的事件
祖父はシベリアのどこにいたのか|抑留記録の調べ方、厚労省の名簿から遺骨のDNA鑑定まで
祖父がシベリアに抑留されていた。だが本人は語らず、亡くなった。どの収容所にいたのか、いつ帰ったのか、帰らなかったならどこに埋葬されたのか。調べる方法はある。本籍地で取れる軍歴証明、厚生労働省に申請できるロシア提供の個人資料(身上調査票の翻訳付き)、ネットで検索できる抑留中死亡者名簿と埋葬地の座標、遺骨のDNA鑑定。手順を順に、何が分かり何が分からないかも含めて整理する。 -
歴史的事件
黒川開拓団の女性たち|ソ連兵への「接待」とは何だったのか
1945年9月、満洲の黒川開拓団は現地住民の襲撃に包囲され、集団自決の瀬戸際にいた。団はソ連軍に警護を頼み、ソ連兵は見返りに女性を要求した。数え18歳から21歳の未婚女性15人が約2か月、「接待」の名で性暴力を受け、4人が性病や感染症などで現地で亡くなった。帰国後、彼女たちを待っていたのは中傷だった。1982年に建った碑には説明がなく、事実が碑文に刻まれたのは2018年。ソ連兵が何をしたのか、団が何をしたのか、村が何をしたのか。 -
歴史的事件
麻山事件とは|哈達河開拓団の集団自決はなぜ起きたのか
1945年8月12日、満洲東部の麻山。国境から40キロの哈達河開拓団約1,300人は、3日間の逃避行の末にソ連軍の狙撃師団と戦車旅団に追いつかれ、先頭集団が壊滅し、退路を失った。団長の判断で、家族ごとに整列し、40数人の男性団員が妻と子を銃で撃った。1時間、銃声が続いた。犠牲者は外務省調査で421人、2026年公開の名簿で500人以上。旧南郷村出身者81人では54人が1〜20歳だった。なぜ自決が選ばれ、誰が彼らをそこまで追い詰めたのか。 -
歴史的事件
葛根廟事件とは|避難民1,000人がソ連軍戦車に襲われた日
1945年8月14日、玉音放送の前日。満洲西部の興安街から4日間歩いて逃げてきた約1,300人の日本人避難民が、葛根廟の丘でソ連軍の戦車14両とトラック20台の歩兵に襲われた。白旗を掲げた引率の参事官は機銃で撃たれ、戦車は隊列に何度も突入し、歩兵が生存者を銃剣で刺した。襲撃は約2時間続いたとされ、自決なども含む犠牲者は1,000人以上。多くが女性と子どもだった。生き延びたのは百数十人。誰が彼らを置き去りにしたのか。