戦艦扶桑・山城とは|扶桑型の違い・性能・スリガオ海峡の最後を解説

戦艦扶桑・山城とスリガオ海峡の最後を解説するアイキャッチ画像
戦艦扶桑・山城とスリガオ海峡の最後を解説するアイキャッチ画像
戦艦扶桑・山城は、巨大なパゴダマストと35.6cm砲12門で知られる扶桑型戦艦である。

戦艦扶桑・山城とは、日本海軍の扶桑型戦艦1番艦と2番艦であり、35.6cm砲12門と高層のパゴダマストを備えた主力戦艦である。

扶桑と山城は、写真で見るとすぐ分かるほど個性的な艦だ。艦橋は塔のように積み上がり、主砲塔は前後だけでなく船体中央にも配置されている。インターネットでは「違法建築」と呼ばれることもあるが、あの外観は単なる奇抜さではない。扶桑型戦艦は、1910年代の大艦巨砲主義と1930年代の近代化改装がそのまま形になった艦なのである。

この記事の結論
目次

戦艦扶桑・山城とは何か

戦艦扶桑は1912年に呉海軍工廠で起工し、1915年に竣工した。戦艦山城は1913年に横須賀海軍工廠で起工し、1917年に竣工した。どちらも扶桑型戦艦に属し、日本海軍が超弩級戦艦の時代に建造した本格的な主力艦である。

扶桑型の最大の特徴は、35.6cm連装砲を6基、合計12門も搭載したことだ。同時期の戦艦としては非常に強い砲力を持ち、日本海軍は「数で劣るなら一隻あたりの火力で補う」という発想を主力艦に込めていた。後の戦艦長門戦艦大和と比べると主砲口径では劣るが、12門という門数は扶桑型ならではの魅力である。

項目扶桑山城
艦級扶桑型戦艦1番艦扶桑型戦艦2番艦
建造所呉海軍工廠横須賀海軍工廠
起工1912年3月11日1913年11月20日
進水1914年3月28日1915年11月3日
竣工1915年11月8日1917年3月31日
主砲35.6cm連装砲6基12門35.6cm連装砲6基12門
最後1944年10月25日、スリガオ海峡で沈没1944年10月25日、スリガオ海峡で沈没

扶桑・山城を理解する入口は、「古くて弱い艦」と決めつけないことだ。竣工時の扶桑型は、強力な砲力を持つ新鋭戦艦だった。しかし、太平洋戦争が本格化する1940年代には、航空機、レーダー、対空火力、艦隊防空、燃料事情が戦艦の価値を左右するようになっていた。扶桑型は、その変化の狭間に置かれた艦だった。

扶桑型戦艦の性能|35.6cm砲12門の大火力

扶桑型戦艦の設計思想は分かりやすい。敵戦艦との艦隊決戦で、片舷に強烈な主砲火力を集中することを狙った艦である。35.6cm砲12門は、砲塔数が多いぶん弾着観測や装填、砲塔配置の難しさも伴ったが、単純な投射量では大きな迫力があった。

一方で、6基の主砲塔を船体に並べる設計には無理もあった。とくに船体中央部の砲塔は、機関部や上部構造物と近く、射界や重量配分の制約を受けやすい。扶桑型は火力を追求した結果、艦内配置と改装余地に悩まされることになった。

性能要素特徴読み解きポイント
主砲35.6cm連装砲6基12門扶桑型最大の個性。門数は非常に多い
速力竣工時は23ノット前後、改装後は24ノット台高速戦艦というより中速の主力戦艦
艦橋大改装で高層のパゴダマスト化測距・射撃指揮・見張りを上へ積み上げた
防御装甲強化と対魚雷バルジを追加改装で粘りを増したが、航空魚雷には限界がある
航空運用艦尾にカタパルトと水上機運用設備索敵・弾着観測を補助するための装備

1930年代の近代化改装では、機関更新、船体延長、対魚雷バルジ、装甲強化、主砲仰角の拡大、艦橋の高層化が行われた。扶桑は1933年の公試で24.682ノット、山城は1934年の公試で24.6ノットを記録している。つまり、少なくとも数字のうえでは、扶桑型は旧式のまま放置された艦ではなかった。

扶桑型を見るときは、竣工時と最終時の姿を分けて考える必要がある。1910年代の扶桑型は新鋭の大火力戦艦であり、1944年の扶桑型は改装を重ねた旧式戦艦だった。同じ艦でも、時代によって評価軸が変わる。

パゴダマストはなぜ「違法建築」と呼ばれるのか

扶桑・山城の外観で最も有名なのが、塔のように積み上がった艦橋である。日本戦艦の高層艦橋は「パゴダマスト」と呼ばれることが多く、扶桑型はその代表格だ。ファンの間では、増築に増築を重ねたような姿から「違法建築」と冗談めかして呼ばれることもある。

ただし、これは単に見た目を面白くするための構造ではない。戦間期の戦艦は、遠距離砲戦を行うために高い位置の測距儀、射撃指揮所、見張り所、探照灯、通信設備を必要とした。新造戦艦を自由に増やせない軍縮条約期には、既存艦の上部構造へ機能を追加することが合理的な選択だった。

その結果、扶桑型の艦橋は非常に高く、複雑な姿になった。模型で見るとよく分かるが、扶桑型の魅力は主砲だけではない。測距儀、探照灯座、電探、支柱、プラットフォームが積み重なる艦橋こそ、扶桑・山城を見分ける最大の見どころである。

パゴダマスト

仏塔のように高く積み上がった戦艦の艦橋・前部マストの通称。日本戦艦では長門型、伊勢型、扶桑型などで特徴的に見られる。

射撃指揮所

主砲や副砲を有効に撃つため、測距・観測・方位計算などを行う指揮設備。遠距離砲戦では艦の戦闘力を左右する。

対魚雷バルジ

魚雷への防御力と復原性を高めるため、船体側面に追加された膨らみ。扶桑型の近代化改装でも重要な要素だった。

扶桑と山城の違い|見分け方は第3砲塔と艦橋

扶桑と山城は姉妹艦なので、基本的な性能はほぼ同じである。しかし、改装時期や細部装備には違いがある。写真や模型で見分けるなら、第3砲塔の向き、艦橋の段構成、電探の配置に注目するとよい。

とくに模型ファンにとって重要なのが、1944年時点の姿だ。扶桑は第3砲塔が前向きに改められた姿で語られることが多く、山城は後ろ向きの第3砲塔と、艦橋の塊感が印象的である。ここを押さえるだけで、扶桑・山城の作例はかなり見分けやすくなる。

見分けポイント扶桑山城
第3砲塔最終時は前向きの姿が特徴後ろ向きの姿が特徴
艦橋縦に伸びる塔の印象が強い後方への張り出しや塊感が目立つ
電探煙突上の13号電探などが識別点になる21号・22号・13号の搭載位置に注目
模型の選び方扶桑らしい前向き第3砲塔と艦橋密度を楽しむスリガオ海峡時の旗艦として作り込みやすい
印象細く高いパゴダの異形感重く沈み込むような最終時の迫力

この違いは、単なる外見上の個性ではない。改装の順序、搭載装備、運用時期の違いが艦の姿に現れている。扶桑型は同型艦でも、年次を決めて見るとかなり表情が変わる。だからこそ、プラモデルでも「扶桑を作るのか、山城を作るのか」「何年時の姿にするのか」が大きな楽しみになる。

扶桑型は弱い戦艦だったのか

「扶桑型は弱いのか」という疑問は検索されやすい。しかし、答えは単純ではない。扶桑型は、竣工時点では強力な砲力を持つ主力戦艦だった。問題は、太平洋戦争後半の戦場が、扶桑型の想定した戦い方から大きく変わっていたことにある。

扶桑型の強みは、35.6cm砲12門による大火力、改装で強化された砲戦指揮能力、戦艦としての重い存在感である。一方、弱点は中速であること、中央部砲塔による配置上の癖、航空攻撃やレーダー主導の夜戦に対する限界だった。つまり、扶桑型は艦そのものが無価値だったのではなく、設計年代と戦場環境がずれていった艦なのである。

評価軸扶桑型の強み1944年時点の限界
火力35.6cm砲12門はなお強力敵を主砲戦距離に捉えること自体が難しい
速力旧式戦艦としては改装で改善機動部隊や高速部隊との協同には不利
防御装甲強化とバルジ追加で粘りを増した複数魚雷・航空爆弾・火災の複合被害には弱い
指揮装置高層艦橋で測距・見張りを強化米軍のレーダー射撃と夜戦管制には差があった
運用艦隊決戦の戦力として温存された燃料不足と航空主兵化で出番が限られた

この構図は、戦艦伊勢・日向とも通じる。伊勢型は航空戦艦化という別の道を進んだが、扶桑型には本格的な航空戦艦改装は行われなかった。太平洋戦争中盤以降、日本海軍は空母戦力の喪失を補うために旧式戦艦の活用を模索したが、扶桑・山城は最終的に戦艦としてレイテへ向かった。

扶桑型を「弱い」とだけ言い切ると、設計当時の評価と1944年の戦場環境を混同してしまう。戦艦は単艦スペックだけでなく、航空優勢、索敵、レーダー、燃料、護衛、指揮系統まで含めて評価する必要がある。

太平洋戦争での扶桑・山城|温存された主力戦艦

太平洋戦争の開戦後、扶桑・山城はすぐに派手な砲戦を行ったわけではない。日本海軍の主力戦艦は、決戦兵力として温存される傾向が強く、燃料事情や航空優勢の問題もあって出撃機会は限られた。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の主役は空母機動部隊であり、戦艦の主砲が戦局を決める時代はすでに揺らいでいた。

扶桑は1943年、陸奥爆沈時に救助や事故調査の拠点として関わった。山城も訓練や輸送任務に使われ、戦争後半まで大規模な艦隊砲戦の主役にはなっていない。これは扶桑型だけの問題ではなく、第二次世界大戦の日本戦艦・空母全体に共通する流れだった。

1944年になると、戦局は急速に悪化する。マリアナ沖海戦で日本の空母航空戦力は大きな打撃を受け、フィリピン方面で米軍を止めるため、残存艦艇を投入する必要が出てきた。その中で、扶桑・山城は西村祥治中将の部隊に組み込まれ、レイテ湾を目指すことになる。

スリガオ海峡夜戦|西村艦隊の最後

扶桑・山城の最後は、1944年10月のレイテ沖海戦の一局面、スリガオ海峡夜戦で訪れた。西村艦隊は、戦艦山城を旗艦とし、扶桑、重巡最上、駆逐艦時雨、山雲、満潮、朝雲などで構成された。目的はスリガオ海峡を北上し、レイテ湾方面へ突入することだった。

しかし、米第7艦隊はスリガオ海峡で待ち構えていた。PTボート、駆逐艦、巡洋艦、戦艦が段階的に迎撃する布陣であり、レーダーを使った夜戦管制によって日本側の進路を捕捉していた。西村艦隊は狭い海峡を縦隊で進み、正面から多層的な雷撃と砲撃を受けることになった。

時刻主な出来事意味
10月22日 15時30分西村部隊がブルネイを出撃レイテ湾突入を目指す
10月24日 午前米空母機の攻撃を受ける扶桑・山城とも損害を受ける
10月25日 02時台PTボートと駆逐艦の攻撃が始まる日本側の陣形と速度が乱される
03時09分ごろ扶桑が魚雷を受けて落伍西村部隊の戦列から外れる
03時20分以降山城・駆逐艦にも魚雷命中部隊の戦闘力が急速に低下
03時50分台米戦艦・巡洋艦が砲撃を開始山城は米戦艦部隊と砲火を交える
04時19分ごろ山城が沈没西村艦隊は壊滅する

スリガオ海峡夜戦は、しばしば「最後の戦艦同士の砲戦」として語られる。ただし、扶桑・山城の最期を「戦艦同士が正面から撃ち合ったロマン」とだけ見るのは危うい。実際には、レーダー、魚雷、地形、夜間管制、米軍の多層迎撃が日本側を圧倒した戦いだった。

山城は最終局面で米戦艦や巡洋艦の砲撃を受けながら反撃した。だが、すでに魚雷被害で速力と姿勢を失い、複数方向からの砲雷撃を受ける状況だった。扶桑も山城も、単艦の火力を発揮できる形では戦えなかったのである。

扶桑の大爆発説は本当か|現在の見方

扶桑の沈没については、長く「大爆発を起こして真っ二つになった」と説明されることがあった。検索でも「扶桑 大爆発」「扶桑 真っ二つ」といった疑問は出やすい。しかし、現在はこの説明をそのまま採用するのは慎重であるべきだ。

Anthony Tullyらの整理では、扶桑は魚雷命中後、右舷側に傾き、速度を落としながら艦首を沈めていったとされる。2017年11月、Paul Allen氏の調査チームがRV Petrelで扶桑の沈没地点を調査した結果、扶桑は水深約200mの海底で上下逆さまに横たわり、船体は大きく折れ曲がっているものの、従来言われたような「遠く離れた二つの大きな船体部分」ではないことが示された。

つまり、扶桑は大爆発で完全に二つに吹き飛んだというより、浸水・転覆・沈降の過程で船体が大きく座屈した可能性が高い。油火災や爆発音、パゴダマストの倒壊、夜間戦闘の混乱が、従来の劇的な説明を生んだと考える方が自然である。

扶桑沈没の見方

この点は、扶桑・山城の記事で特にアップデートしておきたい部分である。戦史は一度書かれたら終わりではない。海底調査、証言、戦闘詳報の再検討によって、沈没の実像は少しずつ更新される。扶桑の最期は、まさにその好例だ。

山城の沈没|西村祥治中将と旗艦の最期

山城は西村艦隊の旗艦としてスリガオ海峡へ入った。24日の空襲で至近弾を受け、25日未明には駆逐艦群の魚雷、米戦艦・巡洋艦の砲撃を受ける。03時台から04時台にかけて、山城は速力と戦闘能力を失いながらも前部主砲で反撃を続けた。

山城は04時19分ごろ、スリガオ海峡で転覆・沈没した。CombinedFleetの記録では、山城では約1,636名が失われ、西村祥治中将と篠田勝清艦長も艦と運命を共にしたとされる。日本に戻った生存者は非常に少数だった。

ここで重要なのは、山城の最期を美談だけにしないことだ。西村艦隊の突入は、戦略的には非常に厳しい条件下で行われた作戦だった。米軍は海峡内で待ち構え、日本側は狭い水路を北上しなければならなかった。山城の奮戦は事実として重いが、同時に、旧式戦艦をそのような条件で投入せざるを得なかった日本海軍の限界も見えてくる。

現在の扶桑・山城|海底調査と記憶

扶桑と山城の沈没地点は、長く謎や議論を含んでいた。2001年には山城とみられる沈没船が確認され、2017年にはRV Petrelの調査によって扶桑・山城を含むスリガオ海峡の日本艦艇が改めて確認された。いずれも水深約200m前後の海底にあり、容易に引き揚げたり公開展示したりできるものではない。

海底の扶桑・山城は、単なる「沈没船」ではない。多くの乗員が命を落とした場所であり、戦争の記憶そのものでもある。沈没地点や海底映像に関心を持つことは大切だが、同時に墓標としての性格を忘れてはならない。

個人的には、扶桑型の面白さは「かっこよさ」と「痛ましさ」が同居しているところにあると思う。写真や模型では圧倒的に魅力的な艦だが、その最後を知ると、単なる兵器美だけでは見られなくなる。だからこそ、数字、構造、戦闘経過、乗員への敬意を分けずに扱う必要がある。

艦これ・アズレンで扶桑・山城を知った人向けの見方

扶桑・山城は、艦これやアズールレーンなどのゲームを通じて知った人も多い艦である。ゲームではキャラクター性や演出が前面に出るため、史実そのものとは違う部分もある。しかし、元になった艦の特徴を知ると、デザインや台詞の見え方が変わる。

注目したいのは、扶桑型の「積み上がった艦橋」「古いが大火力」「改装を重ねた戦艦」「姉妹艦で最後を共にした」という要素である。これらはゲーム的な個性に変換しやすく、史実を知るほどキャラクターの背景が立体的に見えてくる。

ただし、ゲームの印象だけで扶桑型を「不幸なだけの艦」「弱いだけの艦」と見るのはもったいない。実艦の扶桑・山城は、1910年代の戦艦建造競争、軍縮条約期の改装、太平洋戦争後半の航空主兵化、レイテ沖海戦の戦略的破綻までを一隻の中に抱え込んだ艦である。

扶桑・山城のプラモデルを選ぶポイント

扶桑・山城は、艦船模型として非常に作りがいがある。理由は明快で、パゴダマスト、6基の主砲塔、艦尾航空設備、電探、対空機銃、張り線など、見どころが多いからだ。完成後のシルエットも強く、1/700でも「塔の戦艦」らしさが出やすい

初心者が選ぶなら、まずは1/700のウォーターラインまたはフルハルモデルが現実的である。大型スケールは迫力があるが、艦橋の段数、手すり、機銃、マスト、張り線の難度が一気に上がる。最初は1/700で扶桑型の形をつかみ、慣れてからディテールアップへ進む方がよい。

選び方おすすめの見方注意点
初めて作る1/700を選び、素組み中心で全体形を楽しむ艦橋を無理に細密化しすぎない
扶桑を作る第3砲塔の向きと煙突周辺の装備に注目年次設定を確認する
山城を作るスリガオ海峡時の旗艦として最終時を意識艦橋と後部構造物の差を確認する
中級者以上手すり、電探、張り線、木甲板で密度を上げるパゴダマストの破損に注意
並べて楽しむ扶桑と山城を同スケールで比較する同じ扶桑型でも細部差を作り分ける

扶桑型の模型は、歴史解説を読んでから作ると楽しい。第3砲塔の向き、艦橋の段差、電探の位置、艦尾のカタパルトを確認しながら組むと、「なぜこの艦がこういう姿になったのか」が手元で理解できる。艦船模型は、ただ組むだけでなく、構造を読む作業でもある。

艦船模型をまとめて探す場合は、模型メーカー公式ショップやホビー系通販も選択肢になる。扶桑・山城そのものだけでなく、塗料、ニッパー、接着剤、ディスプレイケースまで合わせて揃えると作業が進めやすい。

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関連記事|日本戦艦とレイテ沖海戦をさらに読む

扶桑・山城を理解するには、同じ日本戦艦の記事や、最後の戦場となったレイテ沖海戦の記事を合わせて読むと全体像がつかみやすい。

戦艦扶桑・山城のFAQ

戦艦扶桑と山城の違いは何ですか?

基本性能は同じ扶桑型戦艦だが、改装時期や艦橋の細部、第3砲塔の向き、電探の搭載位置などに違いがある。模型や写真では第3砲塔とパゴダマストの形を見ると判別しやすい。

扶桑型戦艦は弱い戦艦だったのですか?

弱いと断定するのは正確ではない。竣工時は35.6cm砲12門を持つ強力な戦艦だったが、太平洋戦争後半には航空機、レーダー、対空火力、速力の面で時代の変化に苦しんだ。

扶桑の大爆発・真っ二つ説は本当ですか?

従来はそのように語られることがあったが、2017年以降の海底調査では、扶桑の船体は大きく折れ曲がりながらも全体として一体性を残しているとされる。現在は「大爆発で完全に二つに吹き飛んだ」とは断定しにくい。

山城はどのように沈没しましたか?

山城はスリガオ海峡夜戦で魚雷と砲撃を受け、1944年10月25日04時19分ごろ沈没した。旗艦として米戦艦・巡洋艦部隊と砲火を交えたが、複数の魚雷被害と砲撃で戦闘継続が困難になった。

パゴダマストはなぜあそこまで高くなったのですか?

遠距離砲戦のための測距儀、射撃指揮所、見張り所、対空指揮設備などを既存艦に追加したためである。新造制限のある時代に、既存戦艦を強化するため上へ積み上げていった結果だった。

扶桑・山城は航空戦艦にならなかったのですか?

扶桑型を航空戦艦化する案は検討されたが、実現しなかった。航空戦艦として改装されたのは伊勢・日向であり、扶桑・山城は最後まで基本的には戦艦として運用された。

扶桑・山城のプラモデルは初心者にも作れますか?

1/700スケールなら初心者でも挑戦しやすい。ただしパゴダマストや対空機銃が細かいため、最初は素組みで全体形を楽しみ、慣れてからエッチングパーツや張り線に進むのがおすすめである。

扶桑・山城を知るならどの記事から読むべきですか?

まず本記事で扶桑型の特徴を押さえ、次にレイテ沖海戦、日本戦艦一覧、伊勢・日向、長門、大和の記事へ進むと、日本戦艦の流れと太平洋戦争後半の戦艦運用が理解しやすい。

参考資料

まとめ|扶桑・山城は「弱い」では片づけられない戦艦である

戦艦扶桑・山城は、35.6cm砲12門と高層パゴダマストを持つ、きわめて個性的な日本戦艦である。大艦巨砲主義の時代に生まれ、軍縮条約期に改装を重ね、最後は航空機・レーダー・魚雷が支配する1944年の戦場へ投入された。

扶桑型を「弱い戦艦」とだけ見ると、歴史の面白さを取り逃がす。むしろ扶桑・山城は、戦艦という兵器が最も輝いた時代と、戦艦が時代に追い越された瞬間の両方を背負った艦である。パゴダマストの異形、6基12門の主砲、スリガオ海峡での最後、そして海底調査で更新される沈没像まで、知るほどに奥行きが増していく。

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