降伏から5日後、白旗の町に砲弾が落ちた
1945年8月20日の朝、樺太西海岸の港町、真岡に、ソ連の艦隊が現れた。
日本がポツダム宣言の受諾を公表してから、5日が経っていた。町は白旗を掲げていた。ソ連軍がこの5日間、玉音放送を無視して塔路を焼き、恵須取を焼いたことは、真岡の人々も知っていた。だから白旗を掲げた。それ以外に、町を守る手段はなかった。
艦砲射撃が始まった。上陸した兵士が市街に入り、銃撃が始まった。日本側は白旗を掲げた軍使を出して停戦を伝えようとしたが、軍使は射殺された。この日、真岡の町で約1,000人の民間人が死んだとされる。
その町の郵便局の2階に、12人の女性電話交換手がいた。最年少は17歳、最年長は24歳。彼女たちは、通信を続けながら、あらかじめ用意していた青酸カリを飲んだ。10人が服毒し、9人が死んだ。最後の通信は、南の泊居郵便局に届いた。「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」。
この出来事は「真岡郵便局事件」あるいは「真岡郵便電信局事件」と呼ばれ、沖縄のひめゆり学徒隊と並べて「北のひめゆり」とも呼ばれる。稚内公園には九人の乙女の碑が建ち、毎年8月20日に祈念祭が開かれている。
しかし、この事件は「乙女たちの殉職」という美談として語られすぎたために、その朝、郵便局の外で何が起きていたのかが見えにくくなっている。9人は自分で毒を飲んだ。だが、彼女たちに毒を飲ませたのは、降伏した国の白旗の町に砲弾を落とし、軍使を撃ち、市街に入って住民を撃った軍隊である。この記事では、残留の経緯から当日の時間経過、九人の名前、生き残った人、そして戦後にこの事件を描いた映画がソ連の圧力で封印された経緯までを、記録に基づいて追う。樺太全体の戦況は樺太の戦いの記事で書いており、ここでは真岡の町と郵便局の中に絞る。
真岡という町と、郵便局の役割

真岡は樺太西海岸の中心港で、人口は約2万人。日本最北の不凍港と呼ばれ、小樽への航路があり、製紙工場があり、樺太庁の支庁が置かれていた。8月15日からは、西海岸方面の疎開船が出る港として、大泊と並ぶ出口の一つになっていた。
真岡郵便局は、郵便だけでなく電信と電話を扱う「郵便電信局」だった。当時の電話は、交換手が手で回線を繋いでいた。樺太庁、警察、軍、各地の郵便局を結ぶ回線は、交換台の前に座る女性たちの手を通っていた。
8月11日にソ連軍が国境を越えてからは、国境の警察詰所、敷香、恵須取、豊原と真岡を結ぶ電話が、戦況と避難情報を伝える唯一の手段に近かった。交換手がいなければ、樺太庁は各地の状況を把握できず、疎開の指示も出せなかった。16日に塔路が焼かれ、17日に恵須取が陥落したことを真岡に伝えたのも、この回線だった。
残留志願|20人が残り、12人が朝の交換台についた

8月13日、樺太庁は老人・女性・子どもの緊急疎開を始めた。交換手たちは全員が女性であり、本来なら疎開の対象だった。しかし郵便局は、通信を維持するために交換手の一部に残留を求めた。局長からの指示があったとする証言と、局長本人はそれを否定した記録の両方があるが、いずれにせよ強制ではなく志願の形をとった。
多くの交換手が残留を志願した。職務への責任感、同僚を残して自分だけ帰れないという気持ち、そして「ソ連軍が来ても、通信は続けなければならない」という空気があった。最終的に約20人が残り、2班に分かれて24時間体制で交換台を守った。
残留志願の重さを示す話が残っている。姉妹で交換手をしていた家では、母親が局長に電話をかけ、二人とも預けたままでは引き揚げられない、どうか一人だけでも帰してほしいと頼んだ。8月18日、局長は姉妹を呼び、どちらか一人が引き揚げるようにと告げた。姉妹は互いに自分が残ると言い合い、結局、姉が母と帰った。
残った交換手たちが何を知っていたかも書いておく。塔路と恵須取が焼かれたことは、回線の向こうの同業者から聞いていた。町が焼かれ、住民が山道を逃げていることを知っていた。一方で、満洲で起きていたことは、まだ樺太には届いていなかった。彼女たちが恐れていたのは、具体的な情報に基づく恐怖というより、「次は真岡だ」という予感だった。そして、その予感は正しかった。
8月19日夜から20日朝にかけて真岡局にいた夜勤班は11人。20日早朝、ソ連軍接近の緊急連絡を受けて、もう1人が加わり、12人になった。
8月20日朝|時間で追う
当日の経過は、生存者の証言と局員の記録から、およそ次のように復元されている。時刻は概数である。
| 時刻 | 郵便局の外 | 郵便局の中 |
|---|---|---|
| 6時前 | ソ連艦隊接近の連絡が入る | 夜勤班に1人が加わり、12人が交換台につく |
| 7時ごろ | ソ連艦隊が真岡沖に現れ、艦砲射撃を開始。郵便局も被弾 | 交換手たちは通信を継続 |
| 7時台 | 上陸したソ連兵が市街に入る。銃声と砲声が郵便局に近づく。白旗を掲げた日本側の軍使が射殺される | 2階交換室が孤立。班長が最初に青酸カリを飲む |
| 同 | 市街戦。住民に死者が出始める | 班長代理をはじめ7人が続く(1人はモルヒネとされる) |
| 同 | ― | 1人が他の郵便局に「これから自決する」と連絡してから服毒 |
| 同 | ― | 残った1人が樺太内の主要郵便局と、内線で局内の電信課に連絡。最後の2人が服毒 |
| その後 | ― | 電信課の男性局員が2階に上がり、生存していた2人を救出して本館へ。押し入れに隠れていた女性局員4人と別の生存者1人が港の倉庫へ移動 |
| 昼前後 | ソ連兵が郵便局に入る | 男性局員が応対。時計や万年筆を取られる |
| この日のうち | 残留していた局員や非番の職員が、ソ連兵の手榴弾と銃撃で死亡 | ― |
左の列と右の列を、並べて読んでほしい。右の列で起きたことは、左の列で起きたことの結果である。艦砲射撃が始まり、郵便局が被弾し、軍使が撃たれ、市街で住民が撃たれている。その音が2階に届いていた。交換手たちは、ソ連兵が交換室に踏み込んでくる直前に死んだのではない。外で何が起きているかを回線と窓から知りながら、順に服毒した。
九人の名前と年齢
死んだ9人は、次の通りである。年齢は資料により1歳前後の差があるため、最も多く引用される数値を示す。
| 名前 | 年齢 | 備考 |
|---|---|---|
| 高石ミキ | 24 | 班長。最初に服毒 |
| 可香谷シゲ | 23 | 班長代理 |
| 志賀晴代 | 22 | 20日早朝に加わった1人 |
| 伊藤千枝 | 22 | 泊居局に最後の連絡を入れた |
| 吉田八重子 | 21 | |
| 高城淑子 | 19 | |
| 沢田キミ | 18 | |
| 松橋みどり | 17 | 最後に服毒した2人のうちの1人 |
| 渡辺照 | 17 | 他局に連絡してから服毒 |
17歳が2人、18歳と19歳が1人ずつ。半数近くが10代だった。彼女たちは職業婦人として給料をもらい、家族を支えていた。真岡の町で生まれ育ち、あるいは近隣の村から出てきて、郵便局の寮や実家から通っていた人々である。
私は、この表を書くときに、名前の横に「備考」を書くことをためらった。誰が最初で誰が最後だったかは、記録として意味がある。しかし、彼女たちは順番のために生きたわけではない。この表は、9人が9つの名前を持った個人だったことを示すためのものであって、それ以上のものではない。
生き残った人と、局の19人

12人のうち10人が服毒し、9人が死んだ。服毒した10人目は、電信課の男性局員に救出されて生き残った。服毒しなかった2人も助かった。生存者は3人である。
そして真岡局の死者は、9人ではない。交換手以外の残留局員や、当日は非番だった職員の中から、ソ連兵の手榴弾と銃撃による死者が出ている。真岡局の殉職者は合わせて19人にのぼる。9人の交換手が語られるとき、残りの10人の名前はほとんど語られない。だが、この10人は自分で毒を飲んだのではない。ソ連兵に殺された。
郵便局の外では、約1,000人の町の人が死んでいた。逃げる途中で撃たれた人、家の中で砲弾を受けた人、港で船を待っていた人。真岡の民間人の死者は、樺太全体の民間人死者3,500人以上のうち、最も大きな部分を占める。郵便局の2階は、その町の中の一つの部屋だった。
生存者たちは戦後、長く沈黙した。自分だけが生き残ったという思いは、証言を難しくした。彼女たちが語り始めるのは、事件から数十年後、ジャーナリストの取材に応じてからである。当事者の一人は2025年の時点で97歳になり、今も証言を続けている。
なぜ死を選んだのか|誰が彼女たちを追い詰めたか
事件について最も議論されてきたのは、「誰かが死ねと命じたのか」という点である。
結論から言えば、軍や局が自決を命じた記録はない。青酸カリがあらかじめ交換室にあったことは事実だが、「飲め」という命令があったとする証言はない。生存者の証言も、命令ではなく、班長の判断に続いたという内容である。
では、なぜ死を選んだのか。要因は三つ重なっている。
第一に、恐怖である。塔路と恵須取が焼かれたことを、彼女たちは回線を通じて知っていた。窓の外では艦砲射撃が始まり、軍使が撃たれ、住民が撃たれていた。「捕まったら何をされるか」という恐怖は、根拠の有無にかかわらず、交換室に満ちていた。
第二に、職務意識である。彼女たちは、通信を最後まで守るために残った。ソ連兵に交換室を占拠されれば、その職務は終わる。「最後まで職務を全うしたうえで、捕まる前に死ぬ」という判断は、当時の教育と空気の中では、飛躍ではなかった。
第三に、集団の力である。班長が最初に飲んだ。次に班長代理が続いた。孤立した部屋で、上司と先輩が次々に死んでいく中で、17歳の交換手が一人だけ違う選択をすることは、ほとんど不可能だった。
私は、この三つの要因のどれかを「真の理由」として選ぶことに意味はないと思う。恐怖も職務意識も集団の力も、すべて本当だった。しかし、この三つのすべてを作り出したものが何であったかは、はっきりしている。日本が降伏を公表した5日後に、白旗を掲げた港町に艦砲射撃を行い、白旗の軍使を撃ち、市街に入って住民を撃った軍隊である。恐怖を生んだのはその軍隊であり、職務を「守り抜くもの」に変えたのはその軍隊の接近であり、17歳の少女を先輩の後に続かせたのは、外で鳴り続けていた砲声だった。
彼女たちが自決を「選んだ」責任を、彼女たち自身や、局や、当時の教育に求める前に、その朝に砲撃を始めた側の責任が問われるべきである。9人は自分で毒を飲んだ。だが、その毒を飲む以外の選択肢を、外の軍隊が奪った。
「これが最後です」は誰の言葉か
碑に刻まれた「皆さん これが最後です さようなら さようなら」は、事件を象徴する言葉として知られている。この言葉がどう発せられたかは、証言によって細部が異なる。
最も広く受け入れられている経過はこうである。班長と班長代理が服毒したあと、交換手の一人が他の局を呼び出し、これから自決すると伝えた。その後、伊藤千枝が樺太内の主要局を順に呼び出し、最後に泊居局に向けてこの言葉を残した。泊居局の交換手がそれを聞き取り、戦後まで記憶し、証言した。碑文は、その記憶に基づいている。
つまり、これは遺書ではない。交換台についたまま、通信として発せられた言葉である。受け取った側は、電話線の向こうで何が起きているかを知りながら、回線を切ることも、駆けつけることもできなかった。
言葉の細部が証言によって異なることは、この言葉の価値を下げない。むしろ、それが作られた名文句ではなく、砲声の中で実際に発せられ、聞き取られ、記憶された言葉であることを示している。
美談化と検証|「北のひめゆり」が隠したもの

事件は戦後しばらく知られていなかった。生存者が沈黙し、真岡は占領され、記録は持ち出せなかった。1960年代に入って、引揚者の証言と逓信関係者の記録から事件が知られるようになり、「北のひめゆり」という言葉とともに、殉職の美談として語られ始めた。
美談化には功罪がある。功の側は、碑が建ち、映画が作られ、9人の名前が残ったことである。罪の側は、「命令もなく、迷いもなく、従容として死んだ乙女たち」という物語が、実際の交換室の恐怖と、郵便局の外で起きていた殺戮を覆い隠したことである。美談は、彼女たちの死を「立派な死」として完結させる。完結させれば、誰が彼女たちをそこまで追い詰めたのかを問わずに済む。
その物語に対して、1980年代末にジャーナリストの川嶋康男が生存者への取材と資料の発掘によって検証を行った。『「九人の乙女」はなぜ死んだか』(1989年)として出版され、後に『九人の乙女 一瞬の夏』として増補された。そこで示されたのは、服毒が段階的に、ためらいを伴いながら起きたこと、生き残った人がいること、局全体の死者が19人であること、そして「これが最後です」が発せられた文脈だった。
美談を検証することは、9人の死を軽くすることではない。従容として死んだのではなく、恐怖の中で、順番に、17歳の少女が先輩に続く形で死んだのだと知るとき、その死の重さは増す。そして、その恐怖を作った側の責任も、重くなる。
映画『樺太1945年夏 氷雪の門』と封印
事件を描いた映画『樺太1945年夏 氷雪の門』は、1973年に撮影され、1974年に全国公開される予定だった。ソ連の中立条約違反、8月15日以降も続く侵攻、停戦軍使の射殺、民間人の逃避行、残留した交換手たちの自決という主要な筋は、おおむね史実に沿っている。
公開直前、ソ連側がこの映画を「ソ連国民とソ連軍を中傷する反ソ映画」と論評した。タス通信がそう報じ、ソ連の映画関係者からも批判の発言が出た。配給元の東宝は「営業政策の変更」を理由に、上映直前に全国配給を中止した。上映されたのは、北海道と九州の一部の映画館で、2週間ほどだった。監督の村山三男は後に、「上映問題での障害」が理由だったと書き残している。
事実上の封印である。日本の映画が、ソ連側の一言で全国公開を止められた。1974年の日本には、それを受け入れる空気があった。ソ連は1945年に真岡を砲撃し、1974年には真岡を描くことを止めた。二度、この町の記憶を封じた。
映画はその後、各地の公民館などで細々と自主上映され、2006年に靖国神社遊就館で特別上映されたのち、2010年、36年ぶりに全国公開された。
映画と史実には差もある。映画は、交換手たちがソ連兵の乱入を目前にして死を選ぶ場面を強調するが、史実では砲撃下で交換室が孤立した状態で服毒が段階的に始まっている。また映画は9人を中心に描くため、生存者3人と、局の他の死者10人はほとんど描かれない。映画を見るなら、この記事で示した経過と合わせて見てほしい。映画が作った感情と、記録が示す事実は、矛盾するのではなく、重ねて読むものである。
九人の乙女の碑|稚内公園から樺太を望む

1963年、稚内公園に「九人の乙女の碑」が建立された。碑には「皆さん これが最後です さようなら さようなら」の言葉が刻まれている。碑が立つ丘からは宗谷海峡が見え、晴れた日には樺太の島影が見える。隣には、同じ年に建てられた樺太島民の慰霊碑「氷雪の門」が立つ。
1968年、昭和天皇と香淳皇后が北海道百年記念式典の際に稚内を訪れ、碑の前で九人を悼んだ。皇后はこのとき「樺太に 命をすてし たをやめの 心思へば むねせまりくる」と詠んだとされ、その歌碑も同じ公園にある。
事件が今の形で知られるまでには、いくつもの段階があった。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1945年 | 事件。生存者は沈黙し、真岡は占領される |
| 1963年 | 稚内公園に九人の乙女の碑が建立される |
| 1968年 | 昭和天皇・香淳皇后が碑を訪れる。「北のひめゆり」として全国に知られる |
| 1973〜74年 | 映画『氷雪の門』が製作されるが、ソ連側の批判を受けて全国公開が中止される |
| 1989年 | 川嶋康男の検証本が出版され、生存者の証言と段階的な経過が明らかになる |
| 2010年 | 映画が36年ぶりに全国公開される |
| 2018年 | 稚内市樺太記念館が開館し、常設展示に加わる |
事件から碑まで18年、検証まで44年、映画の公開まで65年。事件そのものは1時間ほどの出来事だった。それが知られ、正しく理解されるまでに、人の一生に近い時間が必要だった。理由は、生存者の沈黙と、真岡が占領されて誰も現場に行けなかったことと、そして事件を語ることが「ソ連を刺激する」と見なされた時期が長く続いたことである。
毎年8月20日、稚内では「氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」が開かれている。真岡は現在、ロシア領サハリンのホルムスクである。郵便局の建物は残っていない。9人が死んだ部屋は、地図の上にしかない。碑は、その部屋の代わりに、海峡のこちら側に置かれている。
判定|真岡郵便局事件は「殉職」ではなく「被害」である
三段階で判定する。
事実の判定。1945年8月20日朝、日本が降伏を公表した5日後、白旗を掲げた真岡の町にソ連軍が艦砲射撃を加えて上陸し、白旗の軍使を射殺し、市街戦で約1,000人の民間人が死んだ。その砲撃と銃撃の中で、真岡郵便局2階の12人の女性交換手のうち10人が青酸カリ等を服毒し、9人が死亡した。3人が生存し、局全体ではソ連兵の手榴弾と銃撃による死者を含めて19人が殉職した。自決を命じた記録はない。
意図の判定。交換手たちが死を選んだ要因は、恐怖、職務意識、集団の力の三つだが、その三つのすべてを作り出したのは、降伏した国の白旗の町に砲弾を落とし、軍使を撃ち、住民を撃った軍隊である。ソ連軍は8月16日に「作戦を継続する」と宣言しており、真岡の砲撃は偶発ではなく、その方針の実行だった。9人が毒を飲む以外の選択肢を奪ったのは、外にいた軍隊である。
歴史の判定。事件は長く「殉職の美談」として語られ、1974年にはそれを描いた映画がソ連の批判で封印された。ソ連は1945年に真岡を砲撃し、1974年には真岡の記憶を封じた。1980年代末の検証によって、生存者の存在、段階的な経過、局の19人の死者が明らかになり、美談の裏にあった恐怖と殺戮が知られるようになった。9人の死を正確に記憶するとは、彼女たちを「立派に死んだ乙女」として完結させることではなく、彼女たちをそこまで追い詰めた側の名前を、一緒に覚えておくことである。
真岡上陸を含む樺太全体の戦況は樺太の戦いで、同じ8月に樺太から逃げた人々の記録は樺太からの引き揚げで書く。真岡上陸の2日後、留萌沖で疎開船が撃たれた事件は三船殉難事件で書く。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。
よくある疑問
真岡郵便局事件の生存者はいますか
12人のうち3人が生存した。服毒したが救出された1人と、服毒しなかった2人である。生存者はその後長く沈黙し、1980年代以降に取材に応じて証言を残した。当事者の一人は2025年時点で97歳で、今も証言を続けている。
「九人の乙女」は命令で自決したのですか
軍や局が自決を命じた記録はない。青酸カリは事前に交換室に用意されていたが、「飲め」という命令があったとする証言はなく、班長の判断に他の交換手が続いたとされる。
真岡では交換手以外にも死者が出たのですか
出ている。真岡局の殉職者は、ソ連兵の手榴弾と銃撃による死者を含めて19人。町全体では約1,000人の民間人が死んだとされ、樺太の民間人死者の中で最も大きな部分を占める。
映画『氷雪の門』はなぜ公開されなかったのですか
1974年の公開直前、ソ連側がこの映画を「反ソ映画」と批判し、配給元の東宝が全国配給を中止した。北海道と九州の一部で2週間ほど上映されただけで、全国公開は2010年、36年後になった。







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