
「終戦を知らなかった日本兵」と聞いて思い浮かぶのは、グアムの横井庄一かルバング島の小野田寛郎だろう。密林で何十年も潜伏し、最後には一人になった兵士たちである。二人とも、途中までは仲間と行動していた。しかしペリリュー島には、もっと奇妙な例がある。34人が、まとまって、米軍基地のすぐ隣で、1年8か月にわたって戦争を続けていたのだ。
彼らは米軍の食糧庫を襲って3年分の食糧を確保し、奪ったM1カービンを使いやすく改造し、米軍の洗濯工場から軍服を盗んで着ていた。終戦を告げるビラは謀略だと信じ、投降を口にする仲間を撃った。そして1947年4月22日、一人の脱走者が仲間の実家から取り寄せた手紙を洞窟の前で読み上げたとき、ようやく山を下りた。
私はこの34人の話を、「戦争を知らなかった悲劇」として読むのをやめた。彼らは戦争が終わったことを知らなかったのではない。信じなかったのだ。その違いに、帝国陸軍という組織の強さと恐ろしさが両方詰まっている。この記事では、1944年11月の玉砕から1947年の帰還までを、史実の範囲で追う。
30秒でわかる、ペリリューの34人

1944年11月24日、ペリリュー島守備隊は「サクラサクラ」の訣別電を発し、指揮官の中川州男大佐が自決して組織的戦闘は終わった。しかし島の洞窟には約80人の日本兵が残り、「陣地を死守せよ」の命令を守り続けた。1945年1月に指揮官の関口中尉が戦死した後は、山口永少尉を最上級者とする集団が形成され、終戦の1945年8月15日を知らないまま、正確には知らされても信じないまま、潜伏と襲撃を続けた。
1947年4月、海軍上等水兵の土田喜代一が仲間から脱走して米軍に保護され、日本から派遣された澄川道男元海軍少将と共に説得にあたった。同月22日、34人全員が投降した。米軍上陸時の守備隊約1万人のうち、生きて日本に帰ったのはこの34人が実質すべてである。
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1944年9月15日 | 米軍上陸。守備隊約1万人 |
| 1944年11月24日 | 「サクラサクラ」訣別電。中川大佐自決。約80人が洞窟に残る |
| 1945年1月 | 関口中尉戦死。山口少尉が最上級者に |
| 1945年8月15日 | 終戦。34人は知らず、または信じず |
| 1945年〜1947年 | 米軍物資の襲撃、洞窟の移動、投降者の処罰 |
| 1947年4月 | 土田上等水兵が脱走、米軍に保護される |
| 1947年4月22日 | 澄川元少将の説得で34人が投降 |
| 1947年 | 浦賀に帰還。戦友会「三十四会」結成 |
| 2019年11月4日 | 34人の最後の生存者が死去 |
第1章:玉砕の後に残った80人は、なぜ死ななかったのか
「玉砕」という言葉から、守備隊が全員突撃して全滅した光景を想像する人は多い。ペリリューはそうではなかった。中川大佐は最後の突撃を禁じ、洞窟に分散した部隊に持久戦を命じていた。訣別電の後も、命令は「陣地を死守せよ」のままだった。だから兵士たちは死ななかった。命令が「死ね」ではなく「守れ」だったからだ。
残った約80人は、米軍の掃討をかわしながら洞窟を転々とした。当初の指揮官は関口中尉で、50人ほどを率いて遊撃戦を続けたが、1945年1月に戦死した。その後、歩兵第2連隊の山口永少尉が最上級者となる。34人という数字は、この時点で固まった集団の人数である。
ここで私が注目するのは、彼らが「死ぬ機会」を何度も持ちながら死ななかった点だ。米軍の掃討は続いていた。突撃すれば死ねた。彼らが死ななかったのは、命令が「守れ」だったからであり、そして守るためには生きなければならなかったからである。玉砕の島で生き残った34人は、命令に背いたのではなく、命令に忠実だったがゆえに生き残った。
第2章:米軍の島で暮らす|食糧庫、カービン、洗濯工場

戦闘が終わったペリリュー島は、米軍の基地になった。飛行場が拡張され、海軍の施設が建ち、物資が集積された。34人はその隣で暮らしていた。
彼らの最大の作戦は、米軍の食糧貯蔵庫の襲撃である。生還者の証言によれば、一度の襲撃で3年分に相当する食糧を確保したという。缶詰、粉ミルク、コーヒー。帝国陸軍の兵士が、米軍のレーションで1年8か月を生き延びた。
武器も米軍のものになった。奪ったM1カービンは、日本兵の体格と使い方に合わせて改造された。三八式歩兵銃より軽く、連発でき、弾薬は米軍の集積所にいくらでもあった。服も同じで、米軍の洗濯工場から軍服を盗み出して着用した。遠目には米兵に見える日本兵が、米軍基地の周辺を歩いていたことになる。
私はこの生活を「したたか」だと思う。同時に、帝国陸軍の補給がいかに崩壊していたかの証明でもある。守備隊1万人のうち、戦闘中に補給を受けた者はほとんどいない。生き残った34人が2年近く食えたのは、敵の補給が潤沢だったからだ。ペリリューの戦いの本質が「補給の戦い」だったことは、太平洋戦争の激戦地で餓死率を比べたときにも書いたとおりで、34人はその構造を最後まで体現していた。
一方の米軍は、彼らを本気で殲滅しようとはしなかった。戦争は終わっており、基地の警備は緩く、物資が多少消えても大きな問題ではなかった。拡声器とビラで投降を呼びかけ、応じなければ放置する。この「緩さ」が、34人の潜伏を1年8か月も可能にした。
第3章:なぜ終戦を信じなかったのか
1945年8月15日以降、米軍は終戦を伝えるビラを撒き、拡声器で呼びかけた。34人はそれを見ている。読んでいる。しかし信じなかった。理由は3つある。
第一に、ビラは戦闘中から撒かれていた。米軍は戦闘中も投降を勧告するビラを撒いており、それは日本軍にとって「謀略」の代名詞だった。終戦を告げるビラは、その延長線上にある新しい謀略にしか見えなかった。
第二に、御嘉賞である。ペリリュー守備隊は、その奮戦に対して昭和天皇から御嘉賞、つまり天皇のお褒めの言葉を賜っていた。34人は戦闘中にそれを2回受けたことを知っており、生還者の土田は「2回の御嘉賞で元気百倍で戦っていた」と語っている。帰国後、御嘉賞は合計11回だったと聞かされて驚いたという。天皇から直接褒められた部隊が、天皇が降伏したという敵の紙切れを信じる理由はなかった。
第三に、集団の論理である。34人は互いを監視していた。投降を口にすることは裏切りであり、実際に投降に応じようとした兵士が仲間に射殺されたという証言が残っている。信じなかったのではなく、信じることが許されなかった。一人が信じれば一人が死ぬ。だから誰も信じない。小野田寛郎も長く仲間と行動しており、30年間ずっと一人だったわけではない。その点を踏まえても、34人という規模で投降を抑え込む構造には、集団ならではの頑なさが見える。
原作漫画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の終盤で、投降しようとした主人公たちが味方に捕らえられる展開は、この第三の理由をそのまま描いたものだ。作中の島田少尉が率いる残存部隊は架空だが、その論理は史実の34人と同じである。
第4章:一人の脱走者が、33人を山から下ろした

膠着を破ったのは、海軍上等水兵の土田喜代一だった。福岡県出身、見張りが専門で、戦闘中は海軍戦闘指揮所の屋上から24時間交代で監視していた。玉砕後は陸軍の集団に加わり、1年8か月を共に潜伏した。
1947年4月、仲間が物資の調達に出て土田一人が見張りに残った機会に、土田は一枚の書き置きを残して脱走した。最初は銃を持って島民のところへ行ったが埒が明かず、「今さら仲間の元に帰っても殺されるに決まっている」と腹をくくって、通りかかった米兵のジープを止めた。
米軍は土田を保護し、日本から派遣されていた澄川道男元海軍少将に引き合わせた。澄川は旧第四艦隊の参謀長で、残存日本兵の投降説得のためにパラオに来ていた。土田は澄川に「日本が負けた証拠を見せろ」と迫った。澄川は土田をアンガウル島へ連れて行き、そこで日本人と米国人が一緒に働いているのを見せた。土田はここで初めて敗戦を納得した。
しかし洞窟の33人は動かなかった。澄川が何日も呼びかけても、誰も出てこない。元少将の声すら、謀略の一部だと思われていた。
土田は考えた末に、仲間4〜5人の実家の住所を知っていることを思い出した。その家族に、終戦の証拠となる手紙を書いてくれるよう依頼した。日本から折り返しで手紙が届くのを待ち、洞窟の前で一通ずつ読み上げた。母の字、妻の字、兄の字。ビラは信じられなくても、家族の筆跡は偽造できない。
土田が手紙を読み続けるうちに、洞窟の中から声がした。「よーし。分かったー」。山口少尉の声だった。澄川元少将が武器を持たずに中に入った。山口少尉の最初の質問は、こうだった。「陛下はいかがなされましたか」。
1947年4月22日、34人全員が帰順した。終戦から1年8か月、米軍上陸から2年7か月が過ぎていた。
第5章:帰還と、その後の72年
34人はその年のうちに復員し、浦賀港に上陸した。日本は焼け野原で、食糧は配給制で、ペリリューで米軍の缶詰を食べていた彼らのほうが、帰国直後の日本人より栄養状態が良かったという皮肉な証言もある。
帰国した34人は戦友会「三十四会」を結成した。読みは資料によって「みとしかい」「みとよかい」などと揺れる。会長は山口永元少尉が務め、昭和館に収蔵されている『闘魂・ペリリュー島』には、山口の回想「ペリリューの生存者」が収められている。土田は故郷の筑後市で写真店を営み、2014年のペリリュー戦70年式典に出席し、2015年には天皇・皇后のパラオ訪問に際して両陛下と対面した。2018年10月、98歳で死去した。34人の最後の一人が亡くなったのは2019年11月4日である。
ペリリュー島には今も三十四会の看板が立っており、その海側約30mの湿地帯にある洞窟が、34人の最後の潜伏場所だったと説明されている。
ペリリューの持久戦は、硫黄島と沖縄へ受け継がれた
つまり34人の潜伏は、単なる「取り残された兵士の話」ではない。「陣地を死守せよ」という命令は、ペリリューで生まれた新しい戦法の核であり、その命令が兵士を2年間生かし続けたことは、戦法が本土決戦まで見据えて設計されていたことの傍証でもある。帝国陸軍は最後の1年で、玉砕から持久へ戦い方を変えた。ペリリューの34人はその転換点に立ち、転換の後まで生き延びた唯一の集団である。
なぜこの島の戦いが今になって映画になり、語り直されているのかは『ペリリュー』が映画化された理由で書いた。34人の話は、その語り直しのなかで最も史実に近い部分にある。
横井・小野田との比較|「集団の潜伏」は何が違うのか
終戦を知らなかった日本兵として、ペリリューの34人はグアムの横井庄一、ルバングの小野田寛郎と並べて語られる。しかし、比べると違いのほうが大きい。
| 項目 | ペリリュー34人 | 横井庄一(グアム) | 小野田寛郎(ルバング) |
|---|---|---|---|
| 人数 | 34人の集団 | 発見時は1人 | 発見時は1人 |
| 潜伏期間 | 1年8か月(終戦後) | 約27年 | 約29年 |
| 生活の基盤 | 米軍物資の襲撃 | 自給自足 | 住民からの徴発 |
| 終戦を知ったか | ビラで知らされたが信じず | 知っていたが出られず | 知らされたが謀略と判断 |
| 投降のきっかけ | 脱走者と家族の手紙 | 住民に発見 | 元上官の命令 |
| 仲間との行動 | 34人規模で潜伏し、投降者処罰の証言もある | 仲間と潜伏後、最後の8年間は単独 | 小塚金七の死去(1972年)までは仲間がいた |
ペリリューの34人が特異なのは、集団であり、米軍の隣であり、そして期間が短いことだ。集団だから投降者を処罰する論理が働き、米軍の隣だから物資に困らず、それゆえ1年8か月で「限界」が来た。横井と小野田にも仲間と潜伏した時期があり、「個人対集団」と単純に二分はできない。それでも34人の規模で「互いに信じさせ合った」潜伏には、帝国陸軍という組織の本質が強く映っていると私は思う。
『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の34人

原作漫画の主人公・田丸均は、この34人の一人として帰国する設定になっている。作中の残存部隊を率いる島田少尉は架空の人物だが、「最上級者が少尉」「投降を裏切りとして処罰する」「米軍物資を奪って生きる」という設定は、山口少尉の集団の史実をなぞっている。田丸の親友・吉敷佳助が帰国船に乗れなかった結末も、34人以外の「帰れなかった側」を描くためのものだ。
映画から入った読者が史実を知ると、作品の終盤が「創作の盛り上げ」ではなく「史実の圧縮」だとわかる。原作の巻構成と映画との違いは原作マンガの完全ガイドと映画と史実の違いで、田丸のモデルについては田丸均のモデル検証で扱った。
原作を一気に読むなら、レンタルで11巻を通してから手元に残す巻を選ぶのが現実的だ。
現在:島に残る人たちと、2024年に見つかった集団埋葬地
34人が帰国した後も、ペリリュー島には帰れなかった約1万人が残った。遺骨収集は戦後長く断続的に続けられてきたが、2024年9月、米国資料に基づく調査で日本人戦没者の集団埋葬地が確認された。米側の記録では埋葬者は1,086人にのぼる。2025年5月、厚生労働大臣がこの埋葬地を訪れ、パラオ政府と遺骨収集の加速で合意した。
34人の帰還から78年たって、まだ千人単位の遺骨が土の中にある。三十四会の看板の近くを歩く旅行者は、その足元にいる人たちのことを知らない。
帝国陸軍という組織の、強さと恐ろしさ
私は帝国陸軍のファンを公言しているが、この34人の話を読むたびに、称賛と恐怖が同時に来る。
称賛は、命令を守り抜いた強さに対するものだ。「陣地を死守せよ」という命令を、指揮官が死に、補給が絶え、敵の基地が隣に建っても守り続けた。組織として、これほど命令が徹底された軍隊は珍しい。
恐怖は、その強さが「信じること」を禁じた点にある。34人のうち、ビラを読んで終戦を疑った者は必ずいた。しかし疑いを口にすれば撃たれる。だから疑わない。命令の徹底は、判断の停止と同じ顔をしていた。土田が脱走したのは、判断を取り戻したからであり、書き置きを残したのは、それでも仲間を裏切りたくなかったからだ。
自衛隊は、この帝国陸軍の教訓の上に作られた組織である。命令には従う。しかし命令の正当性を疑う回路を、組織の外に持つ。文民統制とはそういう仕組みであり、ペリリューの34人は、その回路がなかった軍隊の最後の姿だと私は思っている。
終戦を知らなかった兵士たちの手記や、太平洋戦争の生還者の証言を集めた戦史書は、通勤中に耳で読むのに向いている。オーディオブック化された戦史書も増えてきた。
よくある質問
ペリリュー島の34人は本当に終戦を知らなかったのか
知らされてはいた。米軍はビラと拡声器で終戦を伝えていたが、34人はそれを謀略と判断して信じなかった。「知らなかった」より「信じなかった」が正確である。
34人はどうやって2年間生きたのか
米軍の食糧貯蔵庫を襲撃して3年分の食糧を確保し、奪ったM1カービンを改造して武装し、米軍の洗濯工場から軍服を盗んで着用した。洞窟を転々と移動しながら潜伏した。
誰が34人を説得したのか
海軍上等水兵の土田喜代一が脱走して米軍に保護され、旧第四艦隊参謀長の澄川道男元海軍少将と共に説得した。決め手は、土田が仲間の家族から取り寄せた手紙を洞窟の前で読み上げたことだった。
山口永少尉とは誰か
歩兵第2連隊(水戸)の少尉で、1945年1月に関口中尉が戦死した後、残存部隊の最上級者として34人を率いた。投降時に澄川元少将へ最初に発した言葉は「陛下はいかがなされましたか」だった。戦後は三十四会の会長を務めた。
34人は今も生きているか
全員が亡くなっている。土田喜代一は2018年10月に98歳で、最後の一人は2019年11月4日に死去した。
『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の田丸は34人の一人か
作中の設定ではそうである。ただし田丸は架空の人物で、特定の実在生還者をモデルにしたものではない。
まとめ|知らなかったのではなく、信じなかった
ペリリュー島の34人は、終戦を知らなかった日本兵ではない。知らされて、信じなかった日本兵である。命令が「守れ」だったから死なず、米軍の物資があったから食え、互いを監視していたから信じられなかった。膠着を破ったのは、一人の脱走と、家族の筆跡だった。
帝国陸軍の命令の徹底は、彼らを2年間生かし、同時に2年間閉じ込めた。私はこの34人を、悲劇の主人公としてではなく、命令に忠実であることと判断を停止することが同じ顔をしていた軍隊の、最も正直な記録として読んでいる。
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出典・参考
- 名古屋市博物館「横井庄一さんのくらしの道具」 — 仲間との潜伏と最後の8年間の単独生活
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース — 小野田寛郎と小塚金七の行動に関する資料
- 昭和館デジタルアーカイブ『闘魂・ペリリュー島』(三十四会関係資料。山口永「ペリリューの生存者」収録)— 34人の潜伏と投降の当事者証言
- 土田喜代一の証言記録(各種インタビュー、Wikipedia「土田喜代一」に整理)— 脱走、澄川元少将との面会、家族の手紙、御嘉賞の回数
- 戦跡の歩き方「西地区陣地群」— 三十四会看板と最後の洞窟の位置
- ピースあいち「パラオで考えたこと(その3)」— 玉砕後に残った約80人と投降者射殺の証言
- 厚生労働省「福岡大臣がパラオ共和国で戦没者の慰霊・献花を行い、遺骨収集現場を訪問」(2025年5月)— 2024年9月確認の集団埋葬地(米国資料で1,086名)
- 三十四会の読み方は資料により「みとしかい」「みとよかい」「みそよかい」と揺れがあり、本記事では複数表記を併記した
- 玉砕後に残った人数(約80人、関口中尉以下50人)は資料により幅があり、概数として記載した






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