乃木希典とは、日露戦争で旅順要塞を落とし、明治天皇の大喪の日に妻とともに自刃した陸軍大将だ。
いま「乃木」という名を聞いて最初に思い浮かぶのは、東京・赤坂の坂の名か、その坂の名を冠したアイドルグループかもしれない。乃木坂は、この将軍が自刃した屋敷の前の坂で、1912年に彼の死を悼んで改名された。つまり乃木坂という地名は、一人の軍人の死から始まっている。
乃木希典の生涯には、評価が真っ二つに割れる出来事が二つある。一つは旅順攻囲戦。約6万人の死傷者を出して要塞を落としたこの戦いは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』以来「無能な将軍が兵を無駄死にさせた」典型として語られてきたが、近年の研究は要塞戦としては世界標準の損害だったと反論している。もう一つは殉死。妻を道連れにした自刃は、当時の日本人を感動させ、漱石と鴎外に小説を書かせ、同時に「時代錯誤の野蛮」という批判も呼んだ。
私はこの記事で、乃木を愚将とも軍神とも決めつけない。西南戦争で軍旗を失った27歳の青年将校が、35年間その恥を抱え、二人の息子を日露戦争で失い、天皇に死を止められ、天皇の大喪の日に死んだ。その一本の線を追うことで、この人物が日本人にとって何だったのかを考える。
プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生没 | 1849年12月25日〜1912年9月13日(62歳) |
| 出身 | 江戸・麻布の長府藩邸(長州藩の支藩) |
| 家族 | 妻・静子、長男・勝典、次男・保典(二人とも日露戦争で戦死) |
| 主な役職 | 歩兵第14連隊長、台湾総督、第3軍司令官、学習院院長 |
| 最終階級 | 陸軍大将、伯爵 |
| 名を残すもの | 乃木坂(東京・赤坂)、乃木神社(東京・京都・栃木・山口ほか) |
年表

写真:国立国会図書館/Wikimedia Commons/出典(パブリックドメイン)
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1849年 | 江戸の長府藩邸に生まれる。幼名は無人(なきと) |
| 1877年 | 西南戦争で歩兵第14連隊長心得。連隊旗を薩軍に奪われる |
| 1878年 | 静子と結婚 |
| 1887年 | ドイツ留学。帰国後、質素と規律の人へ一変 |
| 1894年 | 日清戦争で旅順を1日で攻略 |
| 1896年 | 台湾総督。2年で辞任 |
| 1904年 | 日露戦争で第3軍司令官。旅順攻囲戦。長男・次男が戦死 |
| 1905年 | 旅順陥落。水師営の会見。奉天会戦 |
| 1907年 | 学習院院長。後の昭和天皇の教育を担う |
| 1912年9月13日 | 明治天皇の大喪の日、妻とともに自刃 |
泣き虫の少年と、冷水の教育
乃木希典は1849年、長州藩の支藩・長府藩の江戸屋敷に生まれた。幼名は無人(なきと)。体が弱く泣き虫で、父はその性格を鍛えるため、冬の朝に冷水を浴びせ、暗い夜道を一人で歩かせたと伝えられる。少年時代に師事した玉木文之進は吉田松陰の叔父で、松陰を育てた厳格な教育者だった。乃木の生涯を貫く「自分を許さない」性格は、この幼少期に形作られた。
西南戦争——軍旗を奪われた27歳
1877年、西南戦争が起きる。乃木は歩兵第14連隊長心得として熊本へ向かい、田原坂周辺の戦闘で薩軍の攻撃を受け、天皇から下賜された連隊旗を奪われた。軍旗は天皇の分身と教えられ、旗を失うことは部隊の全滅に等しい恥とされていた。乃木は戦闘中、わざと弾の前に身をさらして死に場所を探したとも、戦後に自決を図って児玉源太郎に止められたとも伝えられる。負傷で入院しても病院を抜け出して前線に戻ろうとし、「脱走将校」の異名を取った。
この軍旗喪失が、乃木の35年後を決める。1912年の遺書で、彼は自刃の第一の理由として、西南戦争で軍旗を失った罪を挙げた。私はここに、乃木という人物の最も分かりにくく、最も重要な部分があると思う。彼は27歳で「死ぬべきだった日」を持ってしまい、その後の人生をその日への負債として生きた。
放蕩と、ドイツからの変身
軍旗を失った後の乃木は、酒に溺れた。母の勧めで1878年に薩摩藩士の娘・静子と結婚したが、祝言に遅れるほど遊興は続いた。この時期の乃木は、後の質素で厳格な「乃木大将」の像とはかけ離れている。
転機は1887年のドイツ留学だった。乃木はドイツ陸軍の規律と、将校が私生活でも軍人であり続ける文化に強い印象を受け、帰国後は人が変わったように質素と規律の人になった。以後、乃木は常に軍服を着用し、贅沢を避け、自分にも部下にも武士としての規範を求めた。乃木大将のイメージは、放蕩を経た40歳前後の変身から生まれている。
日清戦争——1日で落とした旅順
1894年の日清戦争で、乃木は第1旅団長として旅順を攻めた。清国軍の要塞は堅固に見えたが、守備は弱く、乃木の旅団は1日で旅順を落とした。この成功が、10年後に彼の運命を狂わせる。ロシアが要塞化した旅順を前にして、乃木も参謀本部も「前回は1日だった」という記憶を捨てきれなかった。
台湾総督——向いていなかった仕事
1896年、乃木は第3代台湾総督に就任した。抗日ゲリラとの戦闘が続く島の統治は軍政の仕事で、清廉だが融通の利かない乃木には向いていなかった。汚職の摘発には熱心だったが行政は停滞し、乃木は2年で辞任し、一時は休職して栃木の那須で農業に打ち込んだ。この時期の乃木は「終わった将軍」に近く、日露戦争が始まらなければ、歴史に名を残さずに終わっていた可能性がある。
旅順の死傷者と、日露戦争で失った二人の息子

「1万人で落ちる」はずだった要塞
1904年2月、日露戦争が始まる。乃木は第3軍司令官に任じられ、任務は10年前と同じ旅順の攻略だった。ただし旅順はもう10年前の旅順ではない。ロシアは永久要塞を築き、コンクリートの堡塁、機関銃、要塞砲を並べていた。乃木は出征前、「戦死者1万人ほどで落とせるだろう」と語ったと伝えられる。日清戦争の記憶が、その見積もりの根拠だった。
8月、第1回総攻撃。日本軍は正面から堡塁に突撃し、6日間で約1万5,000人の死傷者を出して失敗した。10月の第2回総攻撃も、11月の第3回総攻撃も失敗した。突撃する兵は機関銃と鉄条網の前で倒れ続け、「肉弾」という言葉がこの戦場から生まれた。国内では乃木の更迭論が高まり、東京の乃木邸には石が投げ込まれた。なお、この戦いで第3軍を支えた弾薬と食糧の補給は、鉄道と港を使って最後まで機能していた。日露戦争の兵站が40年後の太平洋でなぜ壊れたかは日本軍の兵站はなぜ崩壊したのかで扱った。
二百三高地と児玉源太郎
転機は11月末、攻撃目標を要塞正面から西側の二百三高地に移したことだった。この高地を取れば旅順港が見下ろせ、港内のロシア艦隊を砲撃できる。12月1日、満州軍総参謀長の児玉源太郎が旅順に到着し、乃木に代わって攻撃を実質的に指揮したとされる。児玉は28センチ榴弾砲を高地正面に集中させ、12月5日に二百三高地は陥落した。港内のロシア艦隊は砲撃で壊滅し、翌1905年1月1日、要塞司令官ステッセルが降伏した。
「児玉が来て初めて勝った」という通説は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で広まった。ただし近年の研究は、二百三高地への攻撃方針は児玉到着前に第3軍で決まっていたこと、28センチ砲の投入も第3軍が進めていたこと、そして要塞戦で攻撃側が守備側の数倍の損害を出すのは当時の世界標準だったことを指摘し、「乃木愚将論」に強く反論している。約6万人の死傷者は確かに膨大だが、それは乃木個人の無能の証明というより、機関銃と鉄条網の時代に要塞を正面から落とそうとした軍隊すべてが払った代償だった。10年後の第一次世界大戦で、欧州の将軍たちは同じ代償を、はるかに大きな規模で払うことになる。
勝典と保典
日露戦争の中で、乃木は二人の息子を失った。長男の勝典は1904年5月、旅順に向かう途上の南山の戦いで戦死した。次男の保典は11月30日、二百三高地の攻撃で戦死した。乃木は保典の戦死を伝えられたとき、「そうか」とだけ答えたと伝えられる。妻の静子は東京で二人の訃報を受け取った。
私はこの事実の重さを、乃木を擁護するためにも批判するためにも使いたくない。ただ、約6万人の死傷者を出した司令官が、同じ戦争で自分の二人の息子も失っていた、という事実だけを書いておく。彼が戦後の講演で「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と語ったとき、その言葉には自分の息子の分も含まれていた。
水師営の会見
1905年1月5日、乃木は降伏したステッセルと水師営で会見した。乃木は敗将に帯剣を許し、会見を武士の礼で行い、その様子は従軍記者を通じて世界に報じられた。敵将を辱めない態度は、日本が近代国家として欧米に認められる材料の一つになり、乃木は国際的にも「高潔な将軍」として知られるようになる。この会見を歌った唱歌「水師営の会見」は、戦前の日本人なら誰もが知っていた。
復命——「割腹して謝罪したい」
日露戦争が終わり、乃木は1906年1月に帰国した。国民は凱旋将軍として迎えたが、乃木自身は多くの部下を死なせた自責の念に沈んでいた。明治天皇の御前で復命書を読み上げた後、乃木は涙を流し、自分の不徳で多くの将兵を失った、この上は割腹して謝罪したいと述べたと伝えられる。天皇は、乃木の気持ちは理解するが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというなら自分が世を去った後にせよ、という趣旨の言葉で乃木を引き止めた。
この言葉が、6年後の自刃の伏線になる。乃木は天皇の命令で生かされ、天皇の死とともにその命令から解放された。私はこの復命の場面を、日本近代史の中で最も奇妙で、最も乃木らしい約束だと思っている。
学習院院長——昭和天皇の教育係
1907年、乃木は明治天皇の意向で学習院院長に任命され、迪宮裕仁親王、後の昭和天皇の教育を担った。乃木は寄宿舎で生徒と寝食を共にし、質素と忍耐を説き、皇孫にも同じ規律を求めた。昭和天皇は晩年まで乃木を「院長閣下」と呼び、敬愛していたと伝えられる。旅順で息子を失った将軍が、次の天皇を育てる仕事を最後の任務にした。
1912年9月13日——大喪の日の自刃
1912年7月30日、明治天皇が崩御した。9月13日、大喪の礼の当日、葬列を告げる号砲が鳴った夜、乃木は赤坂の自邸で軍服のまま割腹し、妻の静子も自刃した。夫妻の遺書と、遺言10か条が残されていた。遺書の冒頭で、乃木は自刃の理由として西南戦争で軍旗を失った罪を挙げ、それ以来死ぬ機会を求めていたが、天皇の恩と時勢のために今日まで生きたと書いた。旅順の死傷者への言葉もそこにある。
この殉死は、日本中に衝撃を与えた。武士の時代に禁じられていた殉死が、近代国家の陸軍大将によって行われた。夏目漱石は『こころ』で、主人公が乃木の殉死の報に触れて自らの死を決める場面を書き、森鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を数日で書き上げた。一方で、殉死を時代錯誤の野蛮と批判する知識人も多く、若い世代は理解しがたい行為として受け止めた。乃木の死は、明治という時代の終わりを日本人に実感させた出来事になった。
愚将か、軍神か——評価の振り子

乃木の評価は、時代によって大きく揺れてきた。戦前の乃木は「軍神」だった。1923年に乃木神社が建てられ、修身の教科書に載り、国民的な模範とされた。戦後、その反動として乃木の再評価が進み、1970年前後に司馬遼太郎が『殉死』と『坂の上の雲』で、旅順の乃木を無能で頑迷な将軍として描いたことで、「愚将・乃木」の像が定着した。
2000年代以降、この司馬史観への反論が相次いだ。要塞戦の損害率、第3軍の作戦の実態、児玉の役割の誇張。研究者は史料を積み上げ、乃木は少なくとも当時の標準から逸脱した無能ではなかったと論じている。私は、この振り子の両端に共通するものがあると思う。軍神論も愚将論も、乃木個人に旅順の6万人の責任を集中させる点で同じだ。責任の一部は、10年前の記憶で要塞を見積もった参謀本部にあり、要塞戦の研究を怠った陸軍全体にあり、日清戦争の成功体験にあった。組織の失敗を一人の将軍に帰す語り方は、太平洋戦争の敗因を論じるときにも、「愚将」と呼ばれた指揮官たちを裁くときにも繰り返される。40年後、真珠湾の勝者としてミッドウェーで敗れた南雲忠一が同じ語り方で裁かれたことを思えば、乃木はその語り方の最初の犠牲者だったのかもしれない。
もう一つ付け加えたい。日露戦争の勝利は、日本陸海軍に「肉弾で要塞は落ちる」「一度の決戦で戦争は終わる」という成功体験を残した。海軍が日本海海戦の呪縛から抜け出せなかったように、陸軍は旅順の記憶を白兵突撃の正当化に使い、40年後の太平洋の島々で同じ突撃を繰り返した。乃木自身は突撃の代償を誰より知っていた。その代償を知らない後世が、乃木の名で突撃を称えた。それが乃木希典という人物の、最も皮肉な遺産だと思う。
同じく組織に翻弄されながら部下と家族への思いを残した指揮官として、40年後の栗林忠道と読み比べると、日本の指揮官像の連続と断絶が見えてくる。乃木を含めた不遇の指揮官たちは不遇の軍人10選でも扱った。
乃木坂と乃木神社——今も残る名

写真:Rs1421/出典(CC BY-SA 3.0・縮小圧縮)
乃木が自刃した赤坂の屋敷の前の坂は、それまで幽霊坂と呼ばれていたが、乃木の死を悼んで1912年に乃木坂と改名された。屋敷跡は乃木公園として保存され、1923年には隣接して乃木神社が創建された。乃木神社は東京のほか、京都、栃木の那須、山口の下関などにもあり、いずれも乃木ゆかりの地に建つ。那須は乃木が台湾総督辞任後に農業をした土地で、乃木の質素な別邸が残っている。
旅順には二百三高地の頂に、砲弾の形をした「爾霊山」の碑が立つ。爾霊山は乃木が二百三高地の音に漢字を当てた名で、彼はここで戦死した将兵を悼む漢詩を詠んだ。乃木の死から100年以上経ったいま、乃木坂の名を知る人は多いが、その坂が一人の将軍の死から始まったことを知る人は少ない。
乃木神社は東京メトロ乃木坂駅の真上にあり、乃木公園の旧邸は毎年9月13日前後に公開される。旅順の二百三高地と水師営会見所は中国・大連から日帰りで訪ねられる。乃木の足跡をたどる旅を組むなら、宿は早めに押さえておくと動きやすい。
本・映画・ドラマで知る乃木希典
| 作品 | 内容 |
|---|---|
| 司馬遼太郎『坂の上の雲』 | 旅順の乃木を「愚将」として描き、後の乃木像を決定づけた |
| 司馬遼太郎『殉死』 | 乃木の生涯と殉死を、批判的な視線で追った作品 |
| 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実』 | 司馬史観への反論。要塞戦の実態から乃木を再評価 |
| 夏目漱石『こころ』 | 乃木の殉死が主人公の決断に影響する場面で知られる |
| 映画『二百三高地』(1980年) | 仲代達矢が乃木を演じ、旅順攻囲戦を正面から描いた大作 |
| NHK『坂の上の雲』(2009〜11年) | 柄本明が乃木を演じる |
『坂の上の雲』は長編だが、通勤中に耳で聞くと乃木の描かれ方と、それへの反論を対比しながら読み進められる。
『二百三高地』は動画配信で観られる時期がある。旅順攻囲戦を映像で見たい人は確認してほしい。
まとめ——「死ぬべき日」を35年抱えた男
乃木希典は、27歳で軍旗を失い、自分が死ぬべきだった日を持ってしまった。以後の35年は、その日への負債として生きた時間だった。旅順で約6万人の死傷者を出し、日露戦争で二人の息子を失い、天皇に死を止められ、次の天皇を育て、明治天皇の大喪の日に妻と死んだ。愚将と呼ぶには旅順の実態が複雑すぎ、軍神と呼ぶには本人が自分を許していなさすぎる。
私が乃木に惹かれるのは、この人が最後まで「勝った将軍」として振る舞わなかったことだ。凱旋の日に割腹を願い、講演で「諸君の兄弟を殺した乃木」と名乗り、遺書の最初に35年前の恥を書いた。自分の栄光を一度も引き受けなかった将軍の死から、乃木坂という地名は始まっている。
よくある質問
乃木希典はなぜ殉死したのか?
遺書では西南戦争で軍旗を奪われた罪を第一の理由に挙げている。加えて旅順で多くの将兵を死なせた自責と、復命の際に明治天皇から「死ぬなら自分の死後にせよ」と諭された約束が重なったと考えられている。
乃木希典は本当に無能だったのか?
司馬遼太郎『坂の上の雲』が「愚将」像を定着させたが、近年の研究は、要塞戦としての損害は当時の世界標準の範囲で、二百三高地への転換も児玉源太郎到着前に第3軍で決まっていたと反論している。
旅順攻囲戦の死傷者は?
日本側の死傷者は約5万9,000人、うち戦死者は約1万5,000人とされる。乃木の長男・次男もこの戦いで戦死した。
乃木坂の由来は?
乃木が自刃した赤坂の屋敷の前の坂で、それまで幽霊坂と呼ばれていたが、1912年に乃木の死を悼んで乃木坂と改名された。屋敷跡は乃木公園、隣に乃木神社がある。
乃木希典と昭和天皇の関係は?
1907年から学習院院長として、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育を担った。昭和天皇は晩年まで乃木を「院長閣下」と呼んで敬愛していたと伝えられる。
水師営の会見とは?
1905年1月5日、降伏したロシアの旅順要塞司令官ステッセルと乃木が会見した場。乃木は敗将に帯剣を許し武士の礼で遇し、その態度は世界に報じられた。
出典・参考
- 乃木希典(Wikipedia日本語版、経歴・年譜の照合に使用) https://ja.wikipedia.org/wiki/乃木希典
- 乃木神社「ご祭神事績」(復命の場面、明治天皇の言葉) https://nogijinja.or.jp/achievements.html
- 刀剣ワールド「乃木希典」(旅順出征前の見積もり) https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/nogi-maresuke/
- まなれき「乃木希典とは?旅順攻囲戦・殉死・軍神と呼ばれた明治の将軍」2026年6月 https://manareki.com/nogi-maresuke
- 防衛省防衛研究所 戦史史料(日露戦争関係) https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/
- 司馬遼太郎『坂の上の雲』文春文庫
- 司馬遼太郎『殉死』文春文庫
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実』PHP文庫
- 長南政義『児玉源太郎』作品社
- 福田和也『乃木希典』文春文庫







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