豊原空襲とは|終戦後の駅で避難民が受けた被害

豊原空襲とは
目次

白旗の駅に、列車が着いた直後に

白旗の駅に、列車が着いた直後に

11時50分ごろ、ソ連機が来た。3機とも6機とも言われる。爆弾と焼夷弾を落とし、低空から銃撃し、旋回してまた戻ってきた。空襲は20分ほど続いた。駅前広場と周辺で100人以上が死んだとされる。400戸が焼けた。

同じ8月22日、東海岸の知取では、第88師団長の峯木十一郎中将がソ連軍代表と停戦協定に署名していた。

停戦の日に、白旗と赤十字を掲げた駅前広場が爆撃された。そこで死んだのは、すでに一度、二度と、爆撃と砲撃から逃げてきた人々だった。そして、その人々が何人死んだのかは、今も分からない。

この記事では、なぜ避難民が豊原駅に集まっていたのか、当日何が起きたのか、なぜ死者数が確定しないのか、誰がこの出来事を記録したのかを追う。樺太全体の戦況は樺太の戦いで、同じ日に留萌沖で起きた事件は三船殉難事件で書いている。

豊原とは|樺太の首都と、駅の位置

駅のホームにまとめた荷物
駅のホームにまとめた荷物。

豊原は樺太庁の所在地で、人口は約4万人だった。碁盤の目に区画された市街地は札幌をモデルに設計され、樺太庁、裁判所、神社、学校、百貨店が並んでいた。樺太で最も内地に近い都市生活があった町である。

豊原駅は、樺太の鉄道網の結節点だった。東海岸を南北に走る樺太東線が、南の大泊から北の敷香、古屯まで通じ、豊原はその中間にある。西海岸の真岡とは豊真線で結ばれ、山を越える路線が豊原駅に入ってくる。樺太のどこから逃げてきても、大泊の港へ向かうためには豊原駅を通ることになる。

大泊までは約43キロ。稚内行きの連絡船が出る港である。緊急疎開が始まってから、豊原駅は「大泊行きの列車を待つ場所」になった。

8月13日から22日|なぜ避難民は駅に集まったのか

子どもの靴と旅の荷物
子どもの靴と旅の荷物。

8月13日に樺太庁が緊急疎開を始めてから、豊原には三方向から人が流れ込んだ。

北からは、国境に近い敷香、内路、上敷香の住民が、東線の列車で南下してきた。8月11日にソ連軍が国境を越えて以来、北の町は順に危険になっていた。

西からは、恵須取と塔路の住民が来た。8月16日と17日にソ連軍が上陸して町を焼いたため、住民は内陸の内路へ抜ける山道を徒歩で逃げ、内路から東線の列車に乗った。数日かけて歩いた人々が豊原に着いたのは、20日前後だった。

南西からは、真岡の住民が来た。8月20日の真岡上陸で港からの疎開が断たれ、豊真線の列車と徒歩で山を越え、逢坂を経て豊原を目指した。逢坂の市街地は21日には避難民の流れが途絶え、ソ連機の空襲を受けて22日には市内各所から火の手が上がった。

豊原に着いた人々は、大泊行きの列車を待った。しかし列車の本数は限られ、大泊の港も稚内の受け入れも限界に近づいていた。乗れない人が駅前広場にあふれた。樺太庁は広場に救護所を設け、赤十字の標示を掲げた。

8月22日の駅前広場にいたのは、豊原の住民ではない。敷香から、恵須取から、真岡から逃げてきて、最後の出口である大泊へ向かう列車を待っていた人々である。彼らは、すでに一度、あるいは二度、爆撃と砲撃から逃げてきていた。

8月20日|白旗を掲げても、止まらなかった

豊原への空襲は、22日が最初ではない。20日の時点で、白旗を掲げた豊原駅に対する空襲がすでに始まっていた。真岡が上陸された日、豊原の空にもソ連機が来ていた。

樺太庁は町中に白旗を掲げさせた。民家の屋根には大きな白い布が広げられ、駅にも救護所にも、「ここには戦闘員はいない」という標示が並んだ。日本本土では8月15日に戦闘が終わっていた。樺太庁の人々は、白旗を掲げれば空襲は止まると考えた。国際法上、それは正しい考えだった。

白旗は、止めなかった。

空襲した側と、守れなかった側

木箱に収められた野戦電話
木箱に収められた野戦電話。
空襲した側と、守れなかった側

対する日本側には、樺太に迎撃戦闘機がなかった。第5方面軍の航空部隊は北海道に置かれ、樺太は対米戦の想定から外れていたため、防空の備えはほぼない。豊原にも大泊にも、まとまった高射砲陣地はなかった。ソ連機は、撃ち返されることのない空を飛んでいた。

だから樺太庁は、白旗に頼るしかなかった。町中に白布を掲げ、駅と救護所に標示を出し、「ここは戦っていない」と空に向かって示すこと以外に、豊原の人々に空襲を防ぐ手段はなかった。8月20日の空襲は、その手段が効かないことを示していた。それでも22日、駅前広場には白旗が掲げられたままだった。他に方法がなかったからである。

8月22日 11時50分|20分間

22日の空襲は、列車の到着直後に始まった。列車から降りた人々が駅前広場に出て、乗り換えや荷物の整理をしていた時刻である。広場は最も混雑していた。

ソ連機は数次にわたって飛来を繰り返した。爆弾と焼夷弾が落ち、低空からの銃撃が加えられた。広場の避難民には隠れる場所がなかった。駅舎に逃げ込んだ人、線路の脇に伏せた人、広場の端に走った人がいた。焼夷弾で駅前の建物に火がつき、逃げ場はさらに狭まった。

20分ほどで空襲は終わった。駅前広場と周辺で100人以上が死んだとされる。より多くの死者を数える証言もある。焼失家屋は400戸。

『戦史叢書』には日本軍の記録としてこの空襲が記されているが、ソ連側の記録では、この日の豊原空襲の目的や機数は確認できていない。ソ連軍が「軍事目標」と認識していたのか、避難民の集まる広場と知って攻撃したのかは、資料の上では判断できない。

分かっているのは、駅に白旗があり、救護所に赤十字の標示があり、広場に避難民がいて、そこに爆弾が落ちたということである。撃つ側は、低空で銃撃できる高さまで降りていた。広場に何があるかは、見えていたはずである。

豊原だけではない|樺太で空襲を受けた町

豊原だけではない
日付状況
8月16日塔路上陸に先立つ空襲と艦砲射撃。炭鉱の町が焼ける
8月16〜17日恵須取空襲と砲撃で市街地が焼失。住民が内路へ徒歩で逃避
8月20日真岡艦砲射撃と空襲の中で上陸。市街戦
8月20日豊原駅への空襲が始まる。白旗を掲げる
8月21〜22日逢坂真岡からの避難路上の町が反復空襲を受け、22日に市街各所から出火
8月22日豊原駅前広場への空襲。避難民100人以上が死亡

この表を見ると、空襲が避難民の移動経路と重なっていることが分かる。恵須取からの逃避行、真岡から逢坂を経て豊原へ向かう道、そして豊原駅前。ソ連機が攻撃したのは、日本軍の陣地だけでなく、人が逃げていく道だった。

駅前広場にいた人の記録から

豊原空襲の記録は、そこにいた人の証言でできている。証言の細部は人によって違うが、引揚者の記録に繰り返し現れる内容を整理すると、次の四点になる。

一つは、白旗を信じていたということである。20日の空襲のあと、樺太庁は町中に白旗を掲げさせた。豊原に着いた避難民は、屋根の白布と駅の白旗を見て、ここは戦闘の外にあると受け取った。駅前広場に留まったのは、安全だと思ったからだった。

二つ目は、列車の到着と空襲の重なりである。空襲は列車到着の直後に始まったとされ、降りたばかりの人と、大泊行きを待って広場にいた人が、同時に爆撃の下にいた。広場は開けていて、走って逃げる先がなかった。

三つ目は、焼夷弾による火である。爆弾だけでなく焼夷弾が使われたため、駅前の建物に火がつき、広場の周囲が燃えた。荷物を持って逃げた人は荷物を捨て、子どもを抱えた人は子どもだけを抱えて走った。

四つ目は、それでも列車が動いていたことである。空襲の後も大泊行きの列車は出ており、広場に残った人々は死者を運び、負傷者を救護所に残して、乗れる者は乗ったとされる。しかし大泊の港は23日に閉鎖され、24日にはソ連軍が上陸する。豊原から大泊へ向かった人の多くは、船に乗れないまま占領を迎えた。

証言には、死者の数を語る言葉が少ない。「たくさん」「広場じゅうに」という表現が繰り返され、数字が出てこない。数える余裕も、数える立場も、誰にもなかった。

同じ日、知取で停戦協定が結ばれていた

通信のための電信機と机
通信のための電信機と机。
同じ日、知取で停戦協定が結ばれていた

停戦交渉が進んでいる日に、航空部隊が首都の駅前を爆撃した。これをどう理解すればよいか。

一つの説明は、指揮系統の分離である。地上の停戦交渉は第16軍と第88師団の間で行われ、航空部隊は別の指揮系統にあった。停戦の連絡が航空部隊に届いていなかった、あるいは届いていても命令が変更されていなかった可能性がある。

もう一つの説明は、停戦協定が「日本軍の武装解除」を意味しただけで、「ソ連軍の作戦停止」を意味しなかったというものである。実際、22日の協定の後も、ソ連軍は24日に大泊へ上陸し、25日に豊原へ進駐している。作戦は続いていた。空襲も、その作戦の一部として続いていたと考えることもできる。

どちらの説明であっても、結論は同じである。ソ連軍の指揮系統は、停戦交渉の最中に、白旗を掲げた都市への空襲を止めなかった。止める意思があったのか、止める能力がなかったのか、資料は答えていない。しかし、止めなかったという事実は動かない。そして、8月16日にソ連軍参謀本部が「日本の降伏は一般的宣言にすぎず、作戦を継続する」と宣言していたことを踏まえれば、豊原の空襲は「止め損ねた」のではなく、方針どおり続けられたと見るほうが自然である。

樺太の停戦後もソ連軍の作戦が続いた政治的な背景は、8月15日後も続いた日ソ戦で書いている。

白旗と赤十字は何を意味していたか

豊原の人々が掲げた白旗と赤十字の標示は、気休めではなく、国際法に基づく意思表示だった。

1907年のハーグ陸戦規則は、防守されていない都市や村落への攻撃を禁じている。豊原には防空部隊も守備隊の陣地もなく、市街は文字通りの無防守都市だった。白旗は、戦う意思がないことと、交渉に応じる意思があることを示す標識である。赤十字の標章は、傷病者を収容する施設を攻撃から保護するためのものであり、当時のジュネーブ条約で定められていた。

8月22日の豊原駅前は、当時の国際法が「攻撃してはならない」と定めた条件をすべて満たしていた。無防守で、白旗を掲げ、赤十字の標示を出した救護所があり、そこにいたのは非戦闘員だった。

それでも空襲は行われた。国際法は、それを守る意思のある相手にしか効かない。翌年、ソ連は東京裁判の判事席に座り、日本の国際法違反を裁く側に立った。豊原の駅前で何が起きたかは、その法廷で問われなかった。ソ連の行為が東京裁判でどう扱われたかは日ソ中立条約はなぜ破られたのかで書いている。

なぜ死者数が確定しないのか|数えられなかった死者

なぜ死者数が確定しないのか

理由は、死んだ人が「豊原の住民ではなかった」ことにある。駅前広場にいたのは、敷香から、恵須取から、真岡から逃げてきた人々である。彼らは豊原の戸籍にはいない。誰が広場にいて、誰が死んだのかを、豊原の行政は把握していなかった。

さらに、樺太庁の行政機能は25日のソ連軍進駐によって停止した。死者の埋葬は住民と避難民の手で行われ、記録は残らなかった。樺太庁の公文書は持ち出せず、引揚者が内地に持ち帰れたのは記憶だけだった。

同じ8月22日の三船殉難事件では、死者・行方不明が1,708人と、一人の位まで数えられている。船には乗船者名簿があり、遺族会が戦後に名簿を突き合わせたからである。豊原駅前には名簿がなかった。船と広場の違いが、そのまま「数えられた死者」と「数えられなかった死者」の違いになった。

戦後、全国樺太連盟が引揚者の証言を集めて『樺太終戦史』(1973年)を編んだ。豊原空襲の記述も、そこに集められた証言に基づいている。証言は人によって機数も時刻も死者数も異なる。それを突き合わせて「100人以上」という下限が出された。

この不確かさは、記録の不備ではない。占領され、行政が消え、住民が全員引き揚げた土地では、死者の数さえ確定できない。豊原空襲の死者数が分からないこと自体が、樺太で起きたことの性格を示している。故郷を追われ、名前を知られないまま、通過点の駅前で死んだ人々の数を、誰も数えられなかった。

誰が記録し、どこに記憶があるのか

古い資料を調べるための机
古い資料を調べるための机。

豊原空襲を記録したのは、そこにいた人々である。避難民として広場にいた人、樺太庁の職員として救護所にいた人、駅員として列車を出していた人が、戦後に証言を残した。それを集めたのが全国樺太連盟であり、稚内市樺太記念館である。

豊原は現在、ロシア領サハリンの州都ユジノサハリンスクである。豊原駅はユジノサハリンスク駅として今も使われている。駅前の広場には、ソ連時代に建てられたレーニン像がある。1945年8月22日にそこで死んだ人々を示すものは、何もない。

1996年、樺太の北緯50度線付近のスミルヌイフ地区に、日本遺族会がサハリン州と協議して建設した「樺太・千島戦没者慰霊碑」が完成した。当時の厚生省発表には南樺太地域の戦没者概数約3,900人が示されているが、豊原空襲の内訳は記されていない。日本側では、稚内公園の「氷雪の門」(1963年)が、樺太で死んだ人々の慰霊碑として海峡の向こうを向いている。

私は、豊原空襲が真岡郵便局事件や三船殉難事件ほど知られていない理由を考えた。死者数が確定していないこと、固有名詞で語られる犠牲者がいないこと、映画が作られなかったことがある。しかし最大の理由は、死んだ人々が「どこの誰でもなかった」ことだと思う。彼らは故郷を追われ、名前を知られないまま、通過点の駅前で死んだ。記憶を置く場所が、故郷にも、豊原にも、なかった。

だからこそ、この出来事は記事として書いておく必要がある。名前のない死者の記録は、誰かが書かなければ、そのまま消える。ソ連は8月22日に彼らを殺し、占領によって彼らを数える手段を奪った。数えられなかったことを、忘れられたことにしてはならない。

8月22日という日

8月22日は、樺太にとって特別な日付である。

その日の朝、留萌沖で三隻の疎開船が撃たれ、1,708人が死んだ。その日の昼前、豊原駅前で空襲があり、100人以上が死んだ。その日のうちに、知取で停戦協定が結ばれた。そして翌日には、モスクワでスターリンが日本兵のシベリア移送を命じる決定に署名している。

真岡郵便局の交換手たちが死んだ8月20日と、この8月22日の間には、2日しかない。この3日間に、樺太とその周辺で数千人の日本人が死んだ。日本本土では、8月15日から1週間が過ぎ、戦争は終わったものとして日々が動いていた。

豊原の駅前広場にいた人々は、その1週間の間、ずっと逃げていた。逃げた先の駅で、白旗の下で死んだ。

判定|豊原空襲は「戦闘の一部」ではない

三段階で判定する。

事実の判定。1945年8月22日11時50分ごろ、樺太庁所在地の豊原駅前広場がソ連機の爆撃と銃撃を受け、避難民を中心に100人以上が死亡し、400戸が焼失した。駅には白旗、救護所には赤十字の対空標示があり、同日には知取で日ソの停戦協定が結ばれていた。20日にも豊原駅への空襲が始まっていた。

意図の判定。空襲の目的をソ連側の記録で確認することはできない。しかし、白旗と赤十字の標示がある無防守都市への空襲が、停戦交渉の最中に、地上作戦と並行して行われたことは、ソ連軍が「日本の降伏」を作戦停止の理由と見なしていなかったことを示している。8月16日の作戦継続宣言を踏まえれば、豊原空襲は止め損ねたのではなく、方針どおりに続けられた攻撃の一つである。

歴史の判定。豊原空襲の死者は、故郷を追われて逃げてきた避難民であり、その多くは名前も数も記録に残らなかった。占領によって行政が消え、住民が全員引き揚げた土地では、死者を数えることさえできない。この出来事が知られていないのは、被害が小さかったからではなく、記録する人と場所を奪われたからである。数えられなかった死者を、いなかった死者にしてはならない。

豊原駅前にいた人々が、その後どうやって島を出たのか、あるいは出られなかったのかは、樺太からの引き揚げで書いている。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。

よくある疑問

豊原空襲の死者は何人ですか

100人以上とされるが、正確な数は確定していない。死者の多くが豊原の住民ではなく他地域からの避難民だったため、行政が把握できず、記録が残らなかった。より多くの死者を伝える証言もある。

豊原空襲はいつ起きましたか

1945年8月22日11時50分ごろ、列車の到着直後に始まり、20分ほど続いた。20日にも豊原駅への空襲が始まっていたとされる。

豊原に日本軍の防空部隊はいなかったのですか

樺太には迎撃戦闘機がなく、豊原にまとまった高射砲陣地もなかった。第5方面軍の航空部隊は北海道に置かれ、樺太は対米戦の想定から外れていたためである。樺太庁が白旗に頼ったのは、他に防空の手段がなかったからである。

停戦協定の日になぜ空襲があったのですか

地上の停戦交渉と航空部隊の指揮系統が分かれていた可能性と、停戦協定が日本軍の武装解除を意味しただけでソ連軍の作戦停止を意味しなかった可能性がある。どちらにせよ、ソ連軍は停戦交渉の最中に白旗を掲げた都市への空襲を止めなかった。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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