山口多聞と南雲忠一──ミッドウェーを分けた二人の提督の決定的な違い

空母戦の作戦図を前に異なる判断を検討する二人の海軍指揮官

1942年6月4日、ミッドウェー北西の海上で、日本海軍の空母機動部隊は数時間のうちに主力空母4隻を失った。その指揮官が第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将であり、配下の第二航空戦隊を率いていたのが山口多聞少将である。

二人の違いは、よく「慎重な南雲、勇猛な山口」と説明される。だが、それだけではミッドウェーで何が起きたのかを見誤る。南雲が求めたのは、帰還機を収容し、兵装を整え、護衛戦闘機を付けた「完成した攻撃隊」だった。山口が求めたのは、編成が不完全でも、使える機体を先に出して敵空母の発艦能力を奪うことだった。

判断を分けた核心
私は、二人を分けた核心は勇気の量ではなく、「30分を使って攻撃隊を完成させるか、不完全な攻撃隊で30分を買うか」という判断の違いだったと考える。しかも敵空母の攻撃隊は、その議論をしている時点ですでに日本艦隊へ向かっていた。

海戦全体の経過は、ミッドウェー海戦の全体像と敗因で整理しています。

比較点南雲忠一山口多聞
ミッドウェーでの立場第一航空艦隊司令長官。4空母を含む機動部隊全体の指揮官第二航空戦隊司令官。飛龍・蒼龍を指揮
海軍兵学校36期40期
主な経歴水雷畑、第一水雷戦隊司令官、水雷学校長、海軍大学校長など軍令部、海大教官、第一連合航空隊司令官、第二航空戦隊司令官など
敵艦隊発見後の発想帰還隊を収容し、対艦兵装と護衛を整えて大兵力で攻撃現在使える機体を最短時間で発進させる
引き受けようとした損失発進を遅らせる時間的リスク攻撃隊の損耗、護衛不足、帰還隊の燃料切れリスク
3空母被弾後機動部隊全体の立て直しを図る飛龍から小規模な攻撃隊を連続発進させる
判断の特徴戦力をまとめて一撃を作る主導権を失う前に一撃を出す
目次

南雲の兵装転換は、本当に「優柔不断」だったのか

ミッドウェーの南雲を語るとき、必ず出てくるのが「魚雷を爆弾へ、また魚雷へと何度も兵装転換させた」という話だ。これだけ聞けば、敵前で命令を二転三転させた指揮官に見える。

しかし最初の兵装転換には、それなりの理由があった。

6月4日午前4時30分ごろ、日本側は赤城・加賀・蒼龍・飛龍から計108機を発進させ、ミッドウェー島を攻撃した。ところが島の航空基地は完全には沈黙しない。攻撃隊指揮官の友永丈市大尉からも、第二次攻撃が必要であるとの報告が届く。

さらに日本艦隊自身も、ミッドウェーから飛来したTBF雷撃機やB-26爆撃機などの攻撃を受けた。命中弾こそなかったが、南雲にとって「いま目の前にある脅威」は米空母ではなく、繰り返し航空機を送り出してくるミッドウェー基地だった。

そこで午前7時15分ごろ、南雲は対艦攻撃用に温存していた予備機を、ミッドウェー再攻撃用へ兵装転換させる。

この時点では、敵空母はまだ発見されていない。

米海軍の研究資料でも、南雲の判断は単なる優柔不断ではなく、「現実に攻撃してきている基地航空隊」と「まだ発見されていない空母」のどちらを先に処理するかという選択だったと評価されている。南雲は前者を選んだ。

問題は、その判断を下した数十分後に戦場の前提そのものがひっくり返ったことだった。

敵艦発見──山口多聞が「直ちに発進」を求めた理由

午前7時40分ごろ、重巡洋艦「利根」の索敵機から「敵らしきもの10隻」を発見したとの報告が入る。南雲は兵装転換の中止を命じ、まだ魚雷を降ろしていない機体はそのままにし、対艦攻撃へ戻す準備を始めた。

そして午前8時20分ごろ、報告に「空母らしきもの」が加わった。

この段階で、戦場の意味は変わる。

陸上基地は、多少損傷しても滑走路を修復できる。だが空母は飛行甲板に数発の爆弾を受ければ、その瞬間から航空機を発進させられなくなる可能性がある。しかも敵空母を発見したということは、相手もこちらを発見し、すでに攻撃隊を出している可能性を考えなければならない。

実際には、エンタープライズとホーネットは午前7時台から攻撃隊を発進させていた。南雲が米空母の存在を確信するより先に、米軍機は日本空母へ向かっていたのである。

ここで第二航空戦隊司令官の山口多聞は、南雲司令部に「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と進言したと伝えられている。

ただし、「直ちに」という言葉を、飛行甲板に並んだ数十機が次の瞬間に飛び立てる状態だったと理解してはいけない。

当時の日本空母は、敵機を迎撃する零戦の発進・収容を繰り返しながら回避運動を続けていた。格納庫の艦爆を飛行甲板へ上げ、機体を並べ、エンジンを始動し、風上へ向けて発艦させるには時間がかかる。さらにミッドウェーを攻撃した友永隊が燃料を消費して帰ってくる。飛行甲板を攻撃隊の発進に使えば、その間は帰還機を収容できない。

山口案は「ボタンを押せば即発進」という案ではない。

意味はむしろ、対艦兵装への統一、完全な護衛戦闘機、4空母そろった大編隊を待つことをやめ、使える艦爆を中心に最短時間で敵空母へ向かわせる、というものだった。

そこには当然、攻撃隊が大損害を受ける危険がある。さらに発進作業を優先すれば、燃料の少ない友永隊の一部が着艦できず、海上へ不時着する可能性さえあった。

山口は、その損失を受け入れてでも時間を取るべきだと考えた。

南雲は受け入れなかった。

帰還機の収容と攻撃隊の発進準備が重なる航空母艦の飛行甲板
帰還機の収容と攻撃隊の発進は、同じ飛行甲板を奪い合う

二人の差は「性格」だけではない──立場と航空部隊経験が違った

南雲忠一は1887年生まれ、海軍兵学校36期。国立国会図書館が公開する経歴では、軍令部勤務のほか、第一水雷戦隊司令官、海軍水雷学校長、海軍大学校長などを歴任し、1941年4月に第一航空艦隊司令長官となった。

いわゆる「水雷畑」の提督である。

ただし、ここから「航空の素人を空母部隊の長官にしたから負けた」と一直線に結論づけるのも乱暴だ。第一航空艦隊には源田実ら航空畑の参謀がおり、南雲一人が航空戦術を考えていたわけではない。真珠湾、ダーウィン、インド洋と、南雲機動部隊は開戦後の数か月間に大規模な空母作戦を成功させている。

一方の山口多聞は1892年生まれ、海軍兵学校40期。防衛研究所の人物史料では、軍令部、海軍大学校教官、米国駐在などを経た後、1940年1月に第一連合航空隊司令官となり、同年11月には第二航空戦隊司令官として飛龍・蒼龍を率いている。

つまり山口は、ミッドウェーの約2年前から航空部隊を直接指揮していた。

人物の経歴は、山口多聞の経歴と第二航空戦隊で詳しく確認できます。

さらに重要なのが責任範囲である。

南雲は4隻の空母をまとめ、ミッドウェー攻撃隊の収容、上空直掩、敵艦隊への反撃、艦隊全体の位置取りまで背負っていた。山口は第二航空戦隊司令官として、飛龍・蒼龍という自分の部隊から「いま何機を出せるか」をより直接的に見ている。

同じ海面を見ていても、二人が解こうとしていた問題は完全には同じではなかった。

南雲にとっては、四空母の航空戦力を一度組み直し、まとまった一撃を敵へ叩き込むことが合理的だった。山口にとっては、その一撃を完成させるまで敵が待ってくれる保証がないことの方が重大だった。

空母戦では、この違いが致命的になる。

「運命の5分間」はなかった──敗北は発進直前の一瞬ではない

空母機動部隊へ複数方向から航空隊が接近するミッドウェー海戦
敵空母を確認した時点で、米攻撃隊はすでに空中にあった

戦後長く、ミッドウェーは「あと5分あれば日本側の攻撃隊が発進し、勝敗は逆転していた」と語られてきた。

この「運命の5分間」は、現在ではそのまま史実として扱うことが難しい。

決定的な米急降下爆撃隊が日本空母上空へ現れたのは午前10時20分台だった。エンタープライズとヨークタウンから飛来したSBDドーントレスが、加賀、赤城、蒼龍へ相次いで急降下する。

この瞬間、日本側の飛行甲板に対艦攻撃隊が完全な発進隊形でずらりと並び、あと数分で全機が飛び立つところだった、という単純な状況ではなかった。

米海軍歴史遺産司令部の近年の解説でも、日本側は決定的な攻撃を受けた時点で、攻撃隊の発進準備完了までなお相当の時間を必要としていたと整理されている。日本側の戦闘詳報を検討した研究からも、「5分だけ遅ければ日本が先に撃てた」という劇的な物語は支持されにくい。

むしろ重要なのは、その約3時間前から日本側が時間を失い続けていたことである。

日本軍の作戦計画は、米空母がミッドウェー近海に待ち伏せしている可能性を低く見積もっていた。索敵範囲には穴があり、潜水艦による哨戒線も米空母部隊の進出を事前に捕捉できなかった。一方、米軍は日本海軍の暗号情報を利用して作戦目標と時期を予測し、先回りして3隻の空母を配置していた。

南雲が午前7時台に判断を誤ったから突然敗北したのではない。

午前7時台、すでに日本側は「敵空母がどこにいるか分からない状態」で基地攻撃と艦隊決戦を同時に処理しなければならず、米側は「日本空母がどこから来るか」をかなり絞り込んで待っていた。

個人の決断以前に、情報条件が対称ではなかった。

3空母被弾後、山口多聞は本当に「時間優先」で戦った

空母飛龍から少数の攻撃隊が緊急発進する場面
飛龍は大編隊の完成を待たず、残存機を二波に分けて送り出した

山口の考え方を最もはっきり示すのは、南雲への進言そのものではない。

赤城・加賀・蒼龍が被弾した後の飛龍である。

午前10時20分台の米軍急降下爆撃で3空母が炎上したとき、飛龍だけは攻撃を免れた。ここから航空攻撃の主導権は、実質的に山口の手へ移る。

山口は、4空母の航空隊を再編して大攻撃隊を作ろうとはしなかった。そもそも、そんな時間も戦力も残っていない。

飛龍に残っていた九九式艦上爆撃機18機と零戦6機を中心とする第一波を、米軍の攻撃から約15分後には発進させた。雷撃機の準備完了を待たず、まず急降下爆撃隊だけを出したのである。

この攻撃隊はヨークタウンを発見し、激しい迎撃を受けながら3発の爆弾を命中させた。ヨークタウンは一時航行不能となる。

しかし米空母の応急修理能力は高かった。ヨークタウンは短時間で機関を復旧し、再び航行を始める。後続の日本側は、最初に攻撃した艦と同じヨークタウンを別の空母だと誤認した。

それでも山口は、雷撃機がそろうと第二波を出した。

午後1時30分ごろ、九七式艦上攻撃機10機と零戦6機が飛龍を発進する。攻撃隊はヨークタウンへ接近し、2本の魚雷を命中させた。艦は大きく傾斜し、乗員には退艦命令が出される。

18機の艦爆が準備できたら18機で出す。

雷撃機が10機しか残っていなければ10機で出す。

戦爆雷をそろえた理想的な大編隊を作るより、相手が次の攻撃隊を出す前にこちらの一撃を届けることを優先した。

ここに、ミッドウェーで山口が南雲へ求めた判断の実物がある。

飛龍の戦闘経過は、空母飛龍が行った最後の反撃で詳しく扱っています。

では、山口多聞の進言を採用していれば日本は勝てたのか

作戦図と時計を前に異なる選択肢を検討する海軍司令部
完全な攻撃隊を作る時間と、先に一撃を出す機会の交換

ここは、山口を評価するほど慎重に考えなければならない。

結論から言えば、「山口案ならミッドウェーに勝てた」とまでは言えない。

第一に、山口が即時攻撃を求めた時点でも、攻撃隊を物理的に即発進させられたわけではない。飛行甲板では直掩機の運用が続き、格納庫から艦爆を上げて発進位置へ並べる必要があった。

第二に、護衛の零戦を十分に付けられない可能性があった。米空母上空には戦闘機がいる。少数の九九艦爆だけを送り込めば、目標へ届く前に大きく削られる危険がある。

第三に、ミッドウェーから帰還する友永隊の問題がある。彼らは燃料を消費しており、飛行甲板を発進作業で塞げば着艦できない。山口案は、場合によっては味方搭乗員に海上不時着を強いるほど苛烈な選択だった。

第四に、米軍空母は1隻ではない。日本側が確認した情報以上に、エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウンの3隻が存在した。仮に山口案の第一撃が1隻へ損害を与えても、残る空母から攻撃隊が来る。

そして何より、米攻撃隊の一部はすでに空中にあった。

したがって、山口案の採用を「勝利への確定ボタン」のように扱うことはできない。

それでも私は、米空母の存在が確認された段階では、山口の考え方の方が空母戦の現実に適合していたと見る。

理由は単純で、敵空母が発見された以上、「こちらが攻撃準備をしている間、敵も準備している」と考えるのでは遅いからだ。「敵はすでに発進させたかもしれない」と考える必要がある。そしてミッドウェーでは、本当に発進していた。

南雲が求めた完成度は、攻撃が始まれば強い。

山口が求めた速度は、攻撃を始める権利そのものを奪い合う局面で強い。

この海戦では後者の価値が急激に上がっていた。

山口多聞と南雲忠一の決定的な違い──何を失う覚悟だったのか

史料から強く言えるのは、南雲と山口が敵艦隊発見後に異なる優先順位を示したことである。

南雲は、ミッドウェー攻撃隊を収容し、兵装を対艦用へ整え、護衛を伴う大規模な攻撃隊を作ろうとした。4空母を預かる司令長官として、残存航空戦力をまとめて最大の一撃を作る判断だった。

山口は、その準備時間こそが最も危険だと見た。完全な攻撃隊を作る前に、使える艦爆を出して敵空母の飛行甲板を叩く。味方攻撃隊の損耗や帰還機の不時着という損失まで引き受け、主導権を取り返そうとした。

編集上の評価を下すなら、米空母の存在が確認された後の局面では山口案に分がある。空母同士の戦いでは、敵の飛行甲板へ一撃を先に届ければ、相手の次の攻撃そのものを止められる可能性があるからだ。実際、3空母を失った後の飛龍で山口は、兵力をそろえるより先に小規模な攻撃隊を出し、ヨークタウンを二度にわたって行動不能へ追い込んだ。

ただし、それで日本の勝利まで確定するわけではない。ミッドウェーの敗北には、暗号を読まれていたこと、米空母の待ち伏せを想定できなかったこと、索敵の不足、基地攻撃と艦隊決戦を同時に求めた作戦設計など、南雲一人では解決できない条件が重なっていた。

山口多聞と南雲忠一を「名将と愚将」に分けるだけでは、この海戦から最も重要な部分が抜け落ちる。

二人が本当に違ったのは、危機の中で何を守ろうとしたかだ。

南雲は戦力の完成度を守ろうとした。

山口は時間を守ろうとした。

そして1942年6月4日のミッドウェーでは、失った時間を取り戻す手段だけが存在しなかった。

参考資料

  • アジア歴史資料センター「ミッドウェー海戦 ~命運をかけた戦い~」
  • アジア歴史資料センター所蔵「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦」
  • 防衛省防衛研究所「史料のなかの軍人たち 海軍中将 山口多聞」
  • 防衛省防衛研究所「南雲忠一 1887~1944年」
  • 国立国会図書館「南雲忠一関係文書」
  • U.S. Naval History and Heritage Command, “Battle of Midway”
  • U.S. Naval History and Heritage Command, “H-Gram 006: Battle of Midway 75th Anniversary”
  • U.S. Naval History and Heritage Command, “The Japanese Story of the Battle of Midway”
  • Jonathan Parshall and Anthony Tully, Shattered Sword: The Untold Story of the Battle of Midway, Potomac Books, 2005.
  • Craig L. Symonds, The Battle of Midway, Oxford University Press, 2011.
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