
山口多聞は、空母「飛龍」とともにミッドウェー海戦で戦死した日本海軍の少将である。積極果敢な指揮官として語られることが多いが、その実像は単なる「猛将」では収まらない。海軍兵学校と海軍大学校で上位の成績を収め、米国留学や駐米武官を経験し、軍令部・連合艦隊・航空部隊を渡り歩いた、理論と実務の両方を知る将官だった。
そして山口の名を歴史に残したのが、第二航空戦隊司令官として臨んだミッドウェー海戦である。主力空母3隻が相次いで被弾した後、残された「飛龍」から二度の反撃隊を送り、米空母「ヨークタウン」を行動不能に追い込んだ。しかし「飛龍」も米艦載機の急降下爆撃を受け、山口は艦長の加来止男大佐とともに艦内へ残った。
- 山口多聞は、空母「飛龍」とともにミッドウェー海戦で戦死した日本海軍の少将である
- 積極果敢な指揮官として語られることが多いが、その実像は単なる「猛将」では収まらない
- 海軍兵学校と海軍大学校で上位の成績を収め、米国留学や駐米武官を経験し、軍令部・連合艦隊・航空部隊を渡り歩いた、理論と実務の両方を知る将官だった
- そして山口の名を歴史に残したのが、第二航空戦隊司令官として臨んだミッドウェー海戦である
この記事では、山口多聞の経歴、第二航空戦隊での役割、空母「飛龍」との関係、ミッドウェー海戦で下した判断、そして艦と運命をともにした最期までを整理する。記事を貫くテーマは、山口の強さが「死を恐れないこと」ではなく、限られた時間の中で攻撃の主導権を取り戻そうとした点にあった、ということである。

山口多聞の基本プロフィール
- 山口は東京市小石川区に生まれた
- 旧松江藩士の家系に連なり、1909年に海軍兵学校へ入校、1912年に第40期を次席で卒業した
- 同じ期には宇垣纏、大西瀧治郎、福留繁ら、後に太平洋戦争の作戦指導に深く関わる士官がいた
- 若い時期には砲術、水雷、潜水艦関係の勤務を経験し、第一次世界大戦中には第二特務艦隊の一員として地中海方面にも派遣された
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 山口多聞(やまぐち・たもん) |
| 生年月日 | 1892年8月17日 |
| 出生地 | 東京市小石川区 |
| 出身 | 海軍兵学校第40期、海軍大学校甲種第24期 |
| 主な職歴 | 軍令部員、連合艦隊参謀、海軍大学校教官、駐米大使館付武官、「五十鈴」艦長、「伊勢」艦長、第一連合航空隊司令官、第二航空戦隊司令官 |
| 最終階級 | 海軍中将(戦死後進級) |
| 戦死 | 1942年6月5日、ミッドウェー島近海の空母「飛龍」 |
山口は東京市小石川区に生まれた。旧松江藩士の家系に連なり、1909年に海軍兵学校へ入校、1912年に第40期を次席で卒業した。同じ期には宇垣纏、大西瀧治郎、福留繁ら、後に太平洋戦争の作戦指導に深く関わる士官がいた。
若い時期には砲術、水雷、潜水艦関係の勤務を経験し、第一次世界大戦中には第二特務艦隊の一員として地中海方面にも派遣された。その後は米国へ留学し、帰国後に海軍大学校甲種課程を修了している。1930年前後には軍令部や連合艦隊司令部で勤務し、艦隊運用と作戦立案の双方を学んだ。
1934年からは駐米大使館付武官として米国に駐在した。山口を「航空一筋の現場型提督」とだけ見ると、この経歴を見落とす。彼は米国の工業力、海軍力、社会を直接見た経験を持つ一方、海軍中央の作戦と人事にも通じていた。私は、山口を理解するには「勇猛な空母提督」より先に、「米国を見た参謀将校」という輪郭を置くべきだと考える。
水雷・参謀畑から航空部隊指揮官へ
- 山口は最初から航空関係の士官だったわけではない
- 初期には砲術、水雷、潜水艦勤務を経験し、海軍大学校卒業後は軍令部や連合艦隊の参謀となった
- 1930年のロンドン海軍軍縮会議では随員として参加し、軍備制限をめぐる海軍内部の議論にも接している
- 帰国後は軽巡洋艦「由良」副長、海軍大学校教官、駐米武官などを歴任し、1936年に軽巡洋艦「五十鈴」艦長、翌1937年には戦艦「伊勢」艦長となった
山口は最初から航空関係の士官だったわけではない。初期には砲術、水雷、潜水艦勤務を経験し、海軍大学校卒業後は軍令部や連合艦隊の参謀となった。1930年のロンドン海軍軍縮会議では随員として参加し、軍備制限をめぐる海軍内部の議論にも接している。
帰国後は軽巡洋艦「由良」副長、海軍大学校教官、駐米武官などを歴任し、1936年に軽巡洋艦「五十鈴」艦長、翌1937年には戦艦「伊勢」艦長となった。艦長として大型艦の組織を動かした経験は、後の航空戦隊指揮にもつながった。航空母艦は飛行科だけで戦う艦ではない。航海、機関、整備、通信、兵器、応急、補給を同時に回し、飛行甲板上の数分を作り出す巨大なシステムである。戦艦や巡洋艦での勤務歴は、そのシステムを理解する土台になった。
1938年に少将へ進級した山口は、第五艦隊参謀長を経て、1940年1月に第一連合航空隊司令官となった。中国大陸方面で陸上攻撃機部隊を指揮し、長距離航空作戦の運用に関わっている。同年11月1日、海軍辞令公報によって第二航空戦隊司令官に補された。公文書上でも、第一連合航空隊司令官から第二航空戦隊司令官へ転じた事実が確認できる(JACAR Ref.C13072079300)。
この転任によって、山口は「蒼龍」「飛龍」を中核とする実戦空母部隊を率いる立場になった。第二航空戦隊は、のちに第一航空艦隊へ編入され、南雲忠一中将が率いる機動部隊の一角を占める。ここから山口の名は、空母航空戦の歴史と切り離せなくなる。
第二航空戦隊とは何だったのか
- 第二航空戦隊、略して二航戦は、開戦時に空母「蒼龍」と「飛龍」を基幹としていた
- 両艦は「赤城」「加賀」より小型だが、30ノットを超える速力と実用的な航空運用能力を持ち、機動部隊の攻撃力を構成した
- ただし、二航戦を山口個人の私兵のように捉えるのは誤りである
- 艦そのものは各艦長が指揮し、飛行隊には飛行隊長、分隊長、搭乗員がいる
第二航空戦隊、略して二航戦は、開戦時に空母「蒼龍」と「飛龍」を基幹としていた。両艦は「赤城」「加賀」より小型だが、30ノットを超える速力と実用的な航空運用能力を持ち、機動部隊の攻撃力を構成した。
ただし、二航戦を山口個人の私兵のように捉えるのは誤りである。艦そのものは各艦長が指揮し、飛行隊には飛行隊長、分隊長、搭乗員がいる。さらに二航戦は第一航空艦隊司令長官の指揮下にあり、作戦全体は連合艦隊の計画に拘束された。山口が自由に攻撃時機や目標を決められたわけではない。
それでも航空戦隊司令官には、所属空母の戦力をまとめ、訓練水準をそろえ、戦闘時に攻撃隊をどう使うかを判断する責任があった。山口は猛訓練で知られ、後世の回想では「人殺し多聞丸」という苛烈な異名も伝えられる。ただし、この呼称は公式文書上の称号ではなく、戦後の回想や人物評を通じて定着したものだ。事故の危険が高い母艦航空隊で訓練を強化した事実と、刺激的な異名とは分けて考える必要がある。
日本海軍の空母戦力は、艦の数だけでは測れない。搭乗員、整備員、甲板作業員、兵装転換の手順、編隊運用、通信、索敵、護衛戦闘機の配分まで含めて、初めて一つの攻撃力になる。山口が二航戦で重視したのは、この一連の動きを反復し、発艦までの時間を縮めることだったと考えられる。空母戦では、火力の大きさより先に「何分早く敵を見つけ、何分早く攻撃隊を出せるか」が勝敗を決めるからである。

真珠湾攻撃と「第二撃」論をどう見るか
- 1941年12月、第二航空戦隊は第一航空艦隊の一部として真珠湾攻撃に参加した
- 「蒼龍」「飛龍」の航空隊も第一次・第二次攻撃隊へ加わり、オアフ島の飛行場や真珠湾内の艦艇を攻撃している
- 日本側の作戦準備と攻撃経過は、防衛研究所『戦史叢書 ハワイ作戦』にまとめられている
- 真珠湾攻撃後の山口については、南雲司令部へ再攻撃を促したという逸話が有名である
1941年12月、第二航空戦隊は第一航空艦隊の一部として真珠湾攻撃に参加した。「蒼龍」「飛龍」の航空隊も第一次・第二次攻撃隊へ加わり、オアフ島の飛行場や真珠湾内の艦艇を攻撃している。日本側の作戦準備と攻撃経過は、防衛研究所『戦史叢書 ハワイ作戦』にまとめられている。
真珠湾攻撃後の山口については、南雲司令部へ再攻撃を促したという逸話が有名である。「第二撃準備完了」と信号したことを、燃料施設や修理施設への第三波攻撃の具申と見る説明もある。一方で、攻撃準備の状況を上級司令部へ報告する通常の信号だったという証言もあり、山口が明確に再攻撃を要求したと断定するには慎重さが要る。
そもそも再攻撃には、残存する米軍機、所在不明の米空母、日没までの収容、燃料、搭乗員の疲労、損傷機の整備といった問題があった。後知恵で「山口の主張を採用すれば米太平洋艦隊を完全に再起不能にできた」と言い切ることはできない。燃料タンクや工廠への攻撃が大きな効果を生む可能性はあったが、攻撃隊が同じ規模で帰還できた保証もない。
私は、この逸話の価値は「南雲は臆病、山口は勇敢」という人物対比にあるのではなく、二人が異なる時間軸を見ていた可能性にあると思う。南雲は予定された空襲を終え、機動部隊を無事に帰投させる任務を重く見た。山口は、敵が混乱している短い時間に次の打撃を加える価値を強く意識した。後のミッドウェーでも、山口は同じく「敵が整う前に攻撃する」方向へ傾く。
開戦後の第二航空戦隊と空母「飛龍」
- 真珠湾から帰投した二航戦は、ウェーク島攻略支援、蘭印方面作戦、ダーウィン空襲、インド洋作戦へと続けて投入された
- 日本海軍の空母部隊は、開戦から半年足らずの間に太平洋からインド洋まで動き続けたことになる
- 1942年春のインド洋作戦では、日本機動部隊がセイロン島方面を攻撃し、英空母「ハーミーズ」などを撃沈した
- 「飛龍」の戦闘詳報には、1942年3月26日から4月22日までのインド洋機動戦について、計画、経過、戦果、被害、戦訓が記録されている(JACAR Ref.C08030581600)
真珠湾から帰投した二航戦は、ウェーク島攻略支援、蘭印方面作戦、ダーウィン空襲、インド洋作戦へと続けて投入された。日本海軍の空母部隊は、開戦から半年足らずの間に太平洋からインド洋まで動き続けたことになる。
1942年春のインド洋作戦では、日本機動部隊がセイロン島方面を攻撃し、英空母「ハーミーズ」などを撃沈した。「飛龍」の戦闘詳報には、1942年3月26日から4月22日までのインド洋機動戦について、計画、経過、戦果、被害、戦訓が記録されている(JACAR Ref.C08030581600)。この史料からも、「飛龍」が単にミッドウェーで最後に残った空母ではなく、開戦以来の連続作戦を戦い抜いた艦だったことが分かる。
一方、作戦の連続は搭乗員と整備員を消耗させた。艦載機部隊は出撃するだけでなく、塩害を受ける機体の整備、着艦事故への対応、損傷機の修復、爆弾・魚雷の搭載を繰り返す。勝利が続いたことで日本側に楽観が生まれた反面、熟練者を休ませ、補充員を部隊へなじませ、索敵や防空の弱点を見直す時間は乏しかった。
山口と「飛龍」の組み合わせを語るとき、艦の美しさや最期の奮戦だけに目を奪われやすい。しかし実戦の「飛龍」は、半年間の高速作戦で人と機械をすり減らしながらミッドウェーへ向かった。その疲労を抱えた状態でも攻撃隊を組み直せた点に、二航戦の練度が表れている。
ミッドウェー作戦で山口に与えられた役割
- 1942年6月のミッドウェー作戦で、南雲機動部隊は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4空母を中核としていた
- 山口は第二航空戦隊司令官として「蒼龍」「飛龍」を率いたが、機動部隊全体の指揮官は南雲忠一中将であり、山口はその麾下にあった
- 作戦の狙いはミッドウェー島を攻略し、米空母部隊を誘い出して撃滅することだった
- しかし米側は日本海軍の暗号情報から作戦を察知し、空母「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」を待ち伏せ位置へ進出させた
1942年6月のミッドウェー作戦で、南雲機動部隊は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4空母を中核としていた。山口は第二航空戦隊司令官として「蒼龍」「飛龍」を率いたが、機動部隊全体の指揮官は南雲忠一中将であり、山口はその麾下にあった。
作戦の狙いはミッドウェー島を攻略し、米空母部隊を誘い出して撃滅することだった。しかし米側は日本海軍の暗号情報から作戦を察知し、空母「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」を待ち伏せ位置へ進出させた。日本側は米空母が近くにいる可能性を十分に織り込まないまま、島の航空基地攻撃と敵艦隊への備えを同じ空母甲板上で処理しなければならなくなった。
6月5日朝、日本側攻撃隊はミッドウェー島を空襲した。帰還報告は再攻撃の必要を示し、南雲司令部は予備攻撃隊の兵装を対艦用から対地用へ転換する。一方、索敵機は米艦隊を発見し、兵装を再び対艦用へ戻す必要が生じた。さらにミッドウェー基地から発進した米軍機が断続的に来襲し、日本空母は回避運動と戦闘機の発着を続けた。
よく「日本空母の格納庫には爆弾と魚雷が散乱し、まさに一発で誘爆する状態だった」と単純化されるが、近年の研究では兵装転換の実態や甲板上の状況について再検討が進んでいる。重要なのは、どこに何発置かれていたかだけではない。日本側の飛行甲板は、ミッドウェー攻撃隊の収容、防空戦闘機の発着、次の攻撃隊準備という複数の仕事で詰まっていた。空母の弱点は装甲の薄さだけでなく、飛行甲板を使えない時間がそのまま攻撃力の停止につながることである。
「直ちに攻撃すべきだった」は正しかったのか
- 米艦隊発見後、山口が準備できた機体から直ちに攻撃隊を出すべきだと主張した、という話が知られている
- 完成した大編隊を待つより、少数でも先に敵空母へ向かわせる発想である
- これは山口の積極性を象徴する場面として語られてきた
- ただし、現実の判断には難点もあった
米艦隊発見後、山口が準備できた機体から直ちに攻撃隊を出すべきだと主張した、という話が知られている。完成した大編隊を待つより、少数でも先に敵空母へ向かわせる発想である。これは山口の積極性を象徴する場面として語られてきた。
ただし、現実の判断には難点もあった。護衛戦闘機が足りず、攻撃隊が小さければ米戦闘機と対空砲火に各個撃破される危険がある。敵艦隊の位置情報も完全ではなく、航続距離と帰投時刻を考えれば、ただ早ければよいわけではない。先に出した部隊と後続部隊の攻撃が分散すれば、敵の防空を一時に圧倒する効果も薄れる。
それでも、空母戦では敵に先に甲板を使わせないことが決定的な意味を持つ。攻撃を受ける前に発艦できれば、母艦を失っても航空機は敵へ向かえる。反対に完全な編隊を作ろうとして甲板上に機体を集めたまま被弾すれば、攻撃力をまとめて失う。山口の考えは危険だったが、敵空母が存在する以上、待つことにも同じかそれ以上の危険があった。
私はここに、山口の指揮官としての核心を見る。彼は危険を好んだのではない。敵に選択権を渡したまま時間を消費することを、最大の危険と見ていたのである。ただし山口は機動部隊司令長官ではなく、南雲の命令を越えて二航戦だけを独断で発進させる立場にはなかった。彼の積極論を評価する場合も、指揮系統という制約を外して英雄化してはならない。

赤城・加賀・蒼龍被弾後、飛龍だけが残った
- 米空母から発進した雷撃隊は大きな損害を受けながら日本空母へ接近し、日本側の零戦を低空へ引きつけた
- その後、上空へ到達した米急降下爆撃隊が「赤城」「加賀」「蒼龍」を攻撃する
- 3空母は短時間のうちに重大な損傷を受け、航空作戦を継続できなくなった
- 「飛龍」は位置関係などからこの一撃を免れ、南雲機動部隊に残された唯一の稼働空母となった
米空母から発進した雷撃隊は大きな損害を受けながら日本空母へ接近し、日本側の零戦を低空へ引きつけた。その後、上空へ到達した米急降下爆撃隊が「赤城」「加賀」「蒼龍」を攻撃する。3空母は短時間のうちに重大な損傷を受け、航空作戦を継続できなくなった。
「飛龍」は位置関係などからこの一撃を免れ、南雲機動部隊に残された唯一の稼働空母となった。山口はここで後退せず、敵空母への反撃を決める。防衛研究所『戦史叢書 ミッドウェー海戦』も、第六章で「飛龍」の第一次強襲、第二次強襲、「飛龍」被爆、全空母喪失を連続した局面として扱っている。
この時点で日本側は、3空母を失い、上空警戒や通信も混乱していた。敵空母の数と位置も確実ではない。それでも「飛龍」には、発進可能な九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機、零式艦上戦闘機が残っていた。山口は一度に全機をそろえるのではなく、使用可能な兵力を二段階で投入した。
敵空母を放置すれば、次の空襲で「飛龍」が狙われる。山口の反撃は報復ではなく、敵の発艦能力を先に奪おうとする防御でもあった。
飛龍の第一次攻撃隊がヨークタウンを爆撃
「飛龍」から最初に発進したのは、小林道雄大尉が率いる九九式艦上爆撃機隊を中心とする攻撃隊だった。零戦の護衛を伴って米空母部隊へ向かい、「ヨークタウン」を発見して急降下爆撃を行った。
「ヨークタウン」は珊瑚海海戦で損傷し、真珠湾で急速修理を受けてミッドウェーへ出撃していた。日本側はその参加を正確に把握していなかった。第一次攻撃によって同艦は複数の爆弾を受け、飛行甲板や煙路などに損傷を生じ、一時的に速力を失った。
しかし米側の応急修理は早かった。火災を抑え、機関と飛行甲板の機能を部分的に回復し、短時間のうちに再び航行可能な状態へ近づけた。米海軍の「ヨークタウン」戦闘報告は、攻撃時の防空、損傷、消火、燃料系統の処置、艦の復旧過程を記録している。日本側から見れば、最初の攻撃で撃破したはずの空母が、次の攻撃時には再び動いていたことになる。
第一次攻撃隊は大きな損害を受けた。攻撃を成功させても、搭乗員と機体が戻らなければ次の一撃は弱くなる。山口は残存する艦攻隊をさらに出す必要に迫られた。ここでは、勝利の報告を待って戦果を確認する余裕はない。敵空母を完全に止めるまで、残る戦力を投入するしかなかった。
第二次攻撃隊と友永丈市の雷撃
続いて「飛龍」は、友永丈市大尉が率いる九七式艦上攻撃機隊を発進させた。友永は同朝のミッドウェー島攻撃を指揮して帰還したばかりで、搭乗機も損傷していたとされる。それでも雷撃隊を率いて再出撃した。
第二次攻撃隊は米空母を発見し、雷撃を敢行した。「ヨークタウン」は魚雷を受けて大きく傾斜し、航行不能となる。米側は総員退去を進めたため、日本側攻撃隊は新たな空母を撃破したと判断した。実際には、第一次・第二次攻撃隊が狙ったのは同じ「ヨークタウン」だった。
この誤認は、搭乗員の能力不足というより空母航空戦の情報限界を示す。広い海上で敵艦隊へ接近し、戦闘機に追われ、対空砲火を浴びながら艦型と損傷状態を識別するのは難しい。しかも最初の攻撃で停止したはずの艦が再び航行していれば、別艦と判断しても不自然ではない。
なお、「飛龍」航空隊が「ヨークタウン」を撃沈したという表現には注意が必要である。山口の攻撃隊は同艦を重大損傷させ、放棄に追い込んだが、「ヨークタウン」は直ちには沈まなかった。その後、曳航と復旧が試みられ、6月6日に日本潜水艦伊号第168潜水艦の雷撃を受け、翌7日に沈没した。したがって「飛龍」はヨークタウンを行動不能にしたが、最終的な沈没には潜水艦攻撃が関わっている。

米艦載機の反撃で飛龍も被弾
二度の攻撃によって「ヨークタウン」を止めた一方、米側は残る日本空母の位置をつかんだ。「エンタープライズ」を中心に発進した急降下爆撃機隊が「飛龍」へ到達し、同艦に複数の爆弾を命中させた。
「飛龍」の飛行甲板前部では大火災が発生し、艦内にも損害が広がった。空母は航空燃料、爆弾、魚雷、弾薬、航空機を抱えるため、火災が続けば二次爆発の危険が高い。乗員は消火と応急処置を続けたが、機関や操舵を含む艦の機能は回復せず、航空母艦としての戦闘継続は不可能になった。
「飛龍」戦闘詳報は、ミッドウェー作戦における飛行隊の行動、攻撃経過、損害を記録している(JACAR Ref.C08030040600)。戦後の米国戦略爆撃調査団は、日本側の生存者からも事情を聴取しており、米海軍歴史部門は「飛龍」関係者の尋問記録を公開している。日米双方の記録を照合すると、「飛龍」が孤立しながら二度の攻撃を行い、その後の米急降下爆撃で致命傷を負った大筋は一致する。
ただし、二度の反撃で日本側の作戦全体を挽回できたわけではない。山口は米空母1隻を行動不能にしたが、他の3空母を失った戦局を反転させるには遅すぎた。
山口多聞はなぜ飛龍に残ったのか
消火と復旧の見込みが失われると、「飛龍」では退艦が進められた。山口は第二航空戦隊司令官として旗艦に乗っており、加来止男艦長とともに艦内へ残った。乗員の多くは駆逐艦へ移乗し、のちに「飛龍」は日本側駆逐艦の魚雷によって処分された。
山口が残艦した理由を、本人の確実な言葉だけで説明することは難しい。艦隊決戦に敗れ、多数の部下と航空機を失った責任を負ったこと、旗艦を離れないという軍人倫理、すでに生還を望まなかったことなどが考えられる。しかし、それらは生存者の証言や後世の解釈を通して推測される部分を含む。
山口と加来が最後に杯を交わした、乗員へ帽子を振った、といった情景も伝えられるが、細部は資料によって異なる。確実なのは、山口が退艦せず、加来艦長とともに「飛龍」に残ったことである。
この選択を無条件に美化するべきではない。経験豊富な将官が生還し、敗戦の原因を報告し、次の航空戦力再建へ関わる道もあった。山口ほど米国と航空戦を知る指揮官を失ったことは、日本海軍にとって大きな損失だった。責任を取ることと、死ぬことは必ずしも同じではない。
それでも当時の山口が、部下だけを退艦させて自ら生き残る道を選ばなかった事実は重い。私はその最期を「理想の指揮官像」として薦めるより、日本海軍が有能な指揮官にまで死による責任の完結を選ばせた一場面として読む。英雄的な光景の背後には、敗北を検証する人材まで失う組織文化があった。
山口多聞は名将だったのか
山口は、判断が速く、攻撃精神が強く、部下の訓練に厳しい指揮官だった。米国留学と駐米武官の経験、参謀勤務、艦長勤務、陸上航空部隊と空母部隊の指揮を経験しており、経歴の幅も広い。ミッドウェーで残存兵力を二度に分けて出撃させ、「ヨークタウン」を行動不能にした点は、危機下の戦術指揮として高く評価できる。
一方で、山口一人を南雲より優れた万能の空母提督とする評価には無理がある。山口は第一航空艦隊全体を指揮した経験がなく、ミッドウェー作戦の立案者でもなかった。索敵計画、兵力分散、暗号解読への無警戒、敵情判断、空母の防空と被害局限といった問題は、個人の勇気だけでは解決できない。
また、猛訓練は高い練度を生む一方、事故と疲労の危険を伴う。精鋭搭乗員に依存した日本海軍航空隊は、開戦初期に強力だったが、損失を補う大量養成と部隊再建の仕組みでは米国に劣った。山口が二航戦を鍛え上げたことと、日本海軍全体が長期戦に耐えられる航空人事を作れなかったことは、同時に成立する。
山口の長所は、劣勢下でも主導権を取り返そうとした点にある。短所というより限界は、その能力が個人と精鋭部隊に集中し、組織全体の再現可能な仕組みにならなかった点だろう。強い一個航空戦隊は作れても、失われた搭乗員と空母を短期間で再生する国家的システムまでは作れなかった。
山口多聞は名将だったのか。私は「戦術指揮官としては傑出していたが、彼一人で日本海軍の構造的欠陥を覆せる存在ではなかった」と評価する。ミッドウェーの「飛龍」は山口の能力を証明すると同時に、能力ある個人が最後の一隻で孤軍奮闘しなければならなかった作戦設計の失敗も証明している。
よくある質問
山口多聞の読み方は?
「やまぐち・たもん」と読む。「多聞」は楠木正成の幼名「多聞丸」を連想させる名としても知られる。
山口多聞が指揮した空母は飛龍だけ?
山口は<span class="swl-marker mark_green">第二航空戦隊</span>司令官であり、開戦時には「蒼龍」「飛龍」を基幹とする戦隊を指揮した。ミッドウェー海戦では両艦が参加したが、「蒼龍」が先に被弾した後、「飛龍」が残存空母として反撃を行ったため、山口と「飛龍」の結び付きが特に強く記憶されている。
真珠湾で山口多聞は再攻撃を主張した?
「第二撃準備完了」の信号を再攻撃の催促と見る説がある一方、定められた準備報告にすぎなかったという証言もある。山口が明確な再攻撃命令を要求したと断定せず、複数の証言がある逸話として扱うのが妥当である。
山口多聞はヨークタウンを撃沈した?
「飛龍」の二度の攻撃は「ヨークタウン」に爆弾・魚雷を命中させ、同艦を行動不能にした。ただし直ちに沈没したわけではなく、後に伊号第168潜水艦の雷撃を受け、1942年6月7日に沈没した。したがって「飛龍航空隊が撃破し、潜水艦攻撃を経て沈没した」と表現するのが正確である。
山口多聞の最終階級は?
ミッドウェー海戦時は海軍少将で、戦死後に海軍中将へ進級した。公的な戦死日は日本側の日付で1942年6月5日とされる。
まとめ
山口多聞は、海軍兵学校と海軍大学校を優秀な成績で卒業し、米国留学、軍令部、連合艦隊参謀、駐米武官、艦長、陸上航空部隊司令官を経て、第二航空戦隊司令官となった海軍将官である。開戦後は「蒼龍」「飛龍」を率い、真珠湾、ウェーク島、蘭印、ダーウィン、インド洋の作戦を戦った。
ミッドウェー海戦では、「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾した後、残された「飛龍」から二度の攻撃隊を出し、「ヨークタウン」を行動不能にした。しかし米艦載機の反撃で「飛龍」も致命傷を受け、山口は加来止男艦長とともに艦へ残った。
山口の本質は、単に勇敢だったことではない。空母戦で最も貴重な資源が時間であると理解し、敵が次の攻撃を整える前に主導権を奪い返そうとした点にある。だが、最後の一隻による反撃では、暗号、索敵、作戦設計、防空、補充制度まで含む組織的な不利を覆せなかった。
「飛龍」の最期は、一人の闘将の英雄譚であると同時に、日本海軍が精鋭と個人の決断へ過度に依存した限界を映す。山口多聞を知ることは、勇気の価値だけでなく、勇気を最後の手段にしない組織をどう作るかを考えることでもある。
参考史料・参考文献
1. 海軍大臣官房「海軍辞令公報(部内限)第五百五十号」1940年11月1日、JACAR Ref.C13072079300 2. 軍艦飛龍「飛龍戦闘詳報 第九号 印度洋機動戦」JACAR Ref.C08030581600 3. 軍艦飛龍「飛龍戦斗詳報第十号『ミッドウェー』作戦」JACAR Ref.C08030040600 4. 防衛研修所戦史室『戦史叢書 第10巻 ハワイ作戦』 5. 防衛研修所戦史室『戦史叢書 第43巻 ミッドウェー海戦』 6. U.S. Navy, USS Yorktown Action Report, 18 June 1942 7. U.S. Strategic Bombing Survey, Battle of Midway: Interrogations of Japanese Officials 8. 山口宗敏『父・山口多聞 空母「飛龍」の最後と多聞「愛」の手紙』光人社NF文庫
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編集引き継ぎ(本文外)
- 判定: new_article
- メインKW: <span class="swl-marker mark_yellow">山口多聞</span>
- 検索意図: <span class="swl-marker mark_yellow">山口多聞</span>の経歴、<span class="swl-marker mark_green">第二航空戦隊</span>での役割、<span class="swl-marker mark_orange">空母飛龍</span>とミッドウェー海戦での最期を人物軸で理解する
- 読者層: 太平洋戦争・日本海軍の人物史に関心がある一般読者、空母戦の指揮判断を知りたい軍事ファン
- HUB候補: 日本海軍人物、太平洋戦争の指揮官
- クラスタ候補: <span class="swl-marker mark_green">第二航空戦隊</span>、<span class="swl-marker mark_orange">空母飛龍</span>、ミッドウェー海戦、南雲機動部隊
- 拾わないKW: <span class="swl-marker mark_orange">空母飛龍</span>の性能諸元の網羅、ミッドウェー海戦全体の時系列完全解説、南雲忠一の人物評、零戦・九九艦爆・九七艦攻の機体性能詳細
- 収益軸: <span class="swl-marker mark_orange">空母飛龍</span>プラモデル、ミッドウェー海戦関連書籍・映像作品
- 収益化候補: pochipp_id=2756(フジミ 1/700 <span class="swl-marker mark_orange">空母飛龍</span>)、pochipp_id=4237(映画『ミッドウェイ』Blu-ray)、pochipp_id=2835(『失敗の本質』)
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