サマール沖海戦とは|大和が生涯で唯一、敵艦に主砲を撃った海戦で、なぜ戦艦4隻・重巡6隻の栗田艦隊は、たった7隻の駆逐艦に止められたのか――ジョンストンの単艦突撃、「謎の反転」、特攻の初戦果、世界最深の沈没船まで

サマール沖海戦 記事表紙
要点

1944年10月25日の朝、戦艦大和が生涯で一度だけ、敵の艦に向かって主砲を撃った。相手は空母だった。ただし正規空母ではなく、商船建造の技術を生かして新造した護衛空母で、それを守っていたのは駆逐艦3隻と護衛駆逐艦4隻。栗田健男の第一遊撃部隊は、戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦11隻。数でも砲でも装甲でも、比較にならない。

それで、日本側は勝てなかった。護衛空母を1隻沈め、駆逐艦を3隻沈めて、重巡を3隻失い、正午すぎに北へ反転した。米海軍は今もこの海戦を「タフィ3の戦い」として士官教育で教えている。

私は旧軍ファンとして、この海戦を書くのが一番つらくて、一番面白い。書く。

目次

30秒でわかるサマール沖海戦

サマール沖で煙幕を張る米駆逐艦と護衛駆逐艦(1944年10月25日)
サマール沖で煙幕を張る米駆逐艦と護衛駆逐艦(1944年10月25日)。
資料:U.S. Navy/出典・利用条件(Public domain)
30秒でわかるサマール沖海戦

栗田艦隊は前日にシブヤン海で武蔵を失いながらサンベルナルジノ海峡を突破し、夜明けにタフィ3と遭遇した。栗田は相手を正規空母を含む機動部隊と誤認し、追撃戦に入った。タフィ3の駆逐艦は煙幕を張り、魚雷を撃ち、護衛空母の艦載機は爆弾がなくても飛び続けた。約2時間半の戦闘で、栗田艦隊は護衛空母1隻と駆逐艦3隻を沈めたが、重巡3隻を失い、午前9時すぎに集結を命じ、午後0時半すぎにレイテ湾突入を断念して北へ反転した。

同じ日の午前中、関行男大尉の敷島隊が護衛空母セント・ローに突入して撃沈した。神風特別攻撃隊の最初の戦果は、サマール沖の海だった。

先に、両軍の顔ぶれと、この朝の時計を置いておく。

栗田艦隊(第一遊撃部隊)

  • 戦艦4:大和、長門、金剛、榛名
  • 重巡6:羽黒、鳥海、熊野、鈴谷、筑摩、利根
  • 軽巡2:矢矧、能代
  • 駆逐艦11

タフィ3(第77.4.3任務隊)

  • 護衛空母6:ファンショー・ベイ、セント・ロー、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、キトカン・ベイ、ガンビア・ベイ
  • 駆逐艦3:ホーエル、ヒーアマン、ジョンストン
  • 護衛駆逐艦4:デニス、ジョン・C・バトラー、レイモンド、サミュエル・B・ロバーツ

10月25日の時計

  • 06:45ごろ:大和がマストを視認
  • 06:59:大和、主砲発射
  • 07:10ごろ:ジョンストン単艦突撃、熊野に魚雷命中
  • 07:35ごろ:スプレイグが駆逐艦・護衛駆逐艦に雷撃を命令
  • 08:00前後:ヒーアマンの魚雷を回避して大和が北へ走る
  • 09:00前後〜10時すぎ:ホーエル、ガンビア・ベイ、ロバーツ、ジョンストンが順次沈没
  • 09:11:栗田、全軍集結を命令
  • 10:50ごろ:敷島隊がセント・ローに突入、沈没
  • 12:36ごろ:栗田艦隊、北へ反転

なぜ栗田艦隊は、そこにいたのか

サマール沖で行動する大和と日本の重巡洋艦
サマール沖で行動する大和と日本の重巡洋艦。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

捷一号作戦の骨格は単純だ。空母がもう戦力にならない日本海軍は、残った空母を囮にして米機動部隊を北へ釣り出し、その隙に戦艦と重巡の水上部隊でレイテ湾に突っ込み、上陸船団を砲撃で潰す。小沢治三郎の囮艦隊が北から、栗田艦隊がサンベルナルジノ海峡から、西村艦隊がスリガオ海峡から。

そして囮は成功した。10月24日夕方、米第3艦隊のハルゼーは小沢艦隊を発見し、正規空母と新鋭戦艦を全部連れて北へ向かった。サンベルナルジノ海峡の出口には、誰もいなくなった。ハルゼーは「栗田艦隊はシブヤン海で叩いて撤退させた」と信じていたし、海峡を見張る戦艦部隊(第34任務部隊)を編成する「つもり」の電文を出していたので、周りも編成済みだと思い込んでいた。

つまり10月25日の朝、レイテ湾の北側は空いていた。そこに栗田艦隊が出てきた。日本海軍が3年間夢に見てきた「敵の上陸船団を戦艦で叩く」場面が、本当に来た。

前日の地獄――シブヤン海と、海に落ちた司令長官

ただし、栗田艦隊はまともな状態ではなかった。

10月23日未明、パラワン水道で米潜水艦の襲撃を受け、旗艦の重巡愛宕と摩耶が沈み、高雄が大破して後退した。栗田自身、沈む愛宕から海に飛び込んで駆逐艦に拾われ、大和に移乗している。司令部の幕僚も一部を失った。

前日の地獄――シブヤン海と、海に落ちた司令長官

そして25日の未明、スリガオ海峡では西村祥治の艦隊が、待ち構えていた米旧式戦艦部隊のレーダー射撃と魚雷で全滅していた。扶桑、山城、最上、駆逐艦3隻。西村自身も戦死した。後続の志摩艦隊は損害を見て反転した。三方向からレイテ湾を挟む捷一号の南側の腕は、栗田が海峡を抜けた時点で、もう存在しなかった。栗田はそれを、正確には知らないまま夜明けを迎えている。

25日の夜明けの時点で、栗田は3日間ほとんど寝ていない。旗艦を失い、海に落ち、部下を失い、武蔵を失い、それでも海峡を抜けた。この人が愚将かどうかの議論は後でするが、この状態で朝を迎えていたことは、先に押さえておいてほしい。

06:45「マスト見ゆ」――誤認から始まった追撃戦

10月25日午前6時45分ごろ、大和の見張りが東の水平線にマストを発見した。空母の飛行甲板が見える。巡洋艦らしい艦影もある。栗田艦隊は、相手を正規空母を含む米機動部隊の一群だと判断した。

これは誤認だった。目の前にいたのは護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻のタフィ3で、機動部隊はハルゼーと一緒に北へ行っている。だが、護衛空母の飛行甲板を遠くから見て正規空母と区別するのは難しいし、護衛駆逐艦を巡洋艦と見誤るのも、朝の光と距離を考えればありうる。何より、「敵機動部隊がいるはずがない場所にいる」という前提が、目を狂わせる。

午前6時59分、大和が主砲を撃った。距離約32,000メートル。大和が敵艦に向かって46センチ砲を撃ったのは、この日が最初で最後だ。金剛、榛名、長門も続いた。

栗田はここで、艦隊の陣形を組み直さず、「全軍突撃」を命じた。各艦が最大速力で追いかける形になり、艦隊はばらけた。空母相手なら、逃げられる前に足の速い重巡が先に取り付くべきだ、という判断だったと思う。だがこの結果、戦艦と重巡と駆逐艦がそれぞれ別の場所で戦うことになり、統一した砲撃ができなくなった。

タフィ3とは何だったのか――技術屋が見る「ジープ空母」

煙幕を張る護衛空母セント・ローと僚艦
煙幕を張る護衛空母セント・ローと僚艦。
資料:RAN/出典・利用条件(Public domain)

ここで、相手の正体を技術の話として書いておく。

護衛空母は、正規空母ではない。タフィ3の6隻はすべてカサブランカ級で、商船の設計をもとに飛行甲板を載せた小型空母だ。排水量は約8,000トン、速力は18ノット程度、搭載機は30機弱、装甲はほぼなく、武装は艦尾に5インチ砲が1門。米海軍の水兵は「ジープ空母」「ベビー・フラットトップ」と呼んでいた。任務は船団護衛と、上陸部隊への近接航空支援と、対潜哨戒。つまりこの日、彼らの艦載機に積んであった爆弾は、地上の日本軍陣地を叩くための爆弾や対潜用の爆雷で、軍艦の装甲を貫く徹甲爆弾ではなかった。

護衛の駆逐艦3隻はフレッチャー級で、5インチ砲5門と魚雷10本を持つ、当時の米駆逐艦の主力だ。護衛駆逐艦4隻はもっと小さい。排水量1,300トン、5インチ砲2門、魚雷3本、速力24ノット。対潜用に安く大量に造られた船で、水上戦を想定していない。

栗田艦隊の金剛型戦艦の主砲は36センチ、大和は46センチ。護衛駆逐艦の5インチ砲は12.7センチ。射程も威力も、勝負になる組み合わせではない。

それでも、タフィ3は逃げるだけではなかった。

ジョンストン――単艦で艦隊に向かった駆逐艦

就役当日の駆逐艦ジョンストン(1943年10月27日)
就役当日の駆逐艦ジョンストン(1943年10月27日)。
資料:米海軍/修復:Adam Cuerden/出典・利用条件(Public domain)

午前7時すぎ、駆逐艦ジョンストンが、命令を待たずに反転し、単艦で栗田艦隊に向かって突撃した。艦長はアーネスト・エヴァンス中佐。チェロキーの血を引く人で、就役のときに乗員に「この艦は戦うために造られた。戦いを避けたい者は今のうちに降りろ」と言ったという話が残っている。

ジョンストンは煙幕を張りながら距離を詰め、約9,000メートルで魚雷10本を全部撃った。1本が重巡熊野の艦首に命中し、熊野は艦首を吹き飛ばされて戦列を離れた。旗艦だった熊野の離脱で、第七戦隊の指揮は鈴谷に移り、その鈴谷も空襲で損傷して離脱する。

反撃の砲弾がジョンストンに集中した。金剛の36センチ弾と巡洋艦の弾が命中し、エヴァンスは指を失い、上半身を裸にして艦尾の手動操舵で指揮を続けた。ジョンストンは砲を撃ち続け、駆逐艦の雷撃を阻止するために日本の駆逐艦隊の前に割り込み、午前10時すぎに沈んだ。エヴァンスは行方不明。死後、名誉勲章を受けている。

ジョンストンの突撃には、もう一つ意味があった。日本側から見ると、駆逐艦が単艦で戦艦の艦隊に向かってくるのは、後ろに主力がいる証拠に見える。護衛空母部隊の護衛駆逐艦が自殺的な突撃をするとは、栗田艦隊の誰も考えなかった。エヴァンスの突撃は、熊野の艦首を吹き飛ばしただけでなく、栗田の「正規空母の機動部隊と戦っている」という誤認を、行動で補強してしまった。相手が強いと思い込んでいる側に、強い相手がやりそうな行動を見せる。これは戦術というより心理戦で、エヴァンスがそこまで計算していたかはわからないが、結果として一番効いた。

ジョンストンに続いて、スプレイグが駆逐艦の雷撃を命じた。ホーエル、ヒーアマン、そして護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ。ロバーツの艦長コープランド少佐は乗員に「これから雷撃に向かう。結果は疑わしいが、我々は義務を果たす」と艦内放送で告げて突入した。ロバーツは重巡鳥海に魚雷を当て、5インチ砲2門で650発のうち600発以上を撃ち尽くし、砲弾が切れると照明弾と対空弾まで撃った。船体の薄い護衛駆逐艦は、砲弾が貫通して爆発しないこともあった。最後は金剛の36センチ弾3発で機関室を抉られ、沈んだ。「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」と呼ばれる。

ジョンストン――単艦で艦隊に向かった駆逐艦

護衛空母の側も逃げるだけではなかった。艦尾の5インチ砲1門で日本の巡洋艦に撃ち返し、ホワイト・プレインズの砲員が「もう少しでやつらを引きつけて雷撃できる」と怒鳴ったという話が残っている。実際に護衛空母の5インチ砲弾が鳥海に命中したという証言もある。ガンビア・ベイは隊列の最後尾で日本の重巡の砲撃を集中して受け、機関室に浸水して速度を失い、午前9時すぎに沈んだ。米海軍の空母で、水上艦の砲撃だけで沈められたのは、この1隻だけだ。カリニン・ベイも十数発の命中弾を受けながら、生き残っている。

大和が北へ走った10分

この雷撃戦の中で、日本側から見て最も痛い場面が起きた。

ヒーアマンが撃った魚雷の群れが大和に向かい、大和は回避のために北へ転舵した。魚雷は大和の両側を並走する形になり、大和は魚雷が走り切るまで進路を変えられなかった。約10分間、大和は戦場から離れる方向に全速で走った。

この10分で、栗田は戦況を見失った。旗艦が戦場を離れ、各艦がばらばらに追撃していて、煙幕とスコールで視界が悪い。無線は混乱している。大和が戻ってきたとき、栗田の頭の中の戦場地図は、現実からずれていた。

技術屋として言えば、これは魚雷という兵器の本質だ。当たらなくても、相手の進路を奪える。ヒーアマンの魚雷は大和に1本も当たっていないが、栗田艦隊の指揮を10分間止めた。それで十分だった。

煙幕とスコール――見えない敵を撃つということ

砲撃を受ける護衛空母ホワイト・プレーンズ周辺の海面
砲撃を受ける護衛空母ホワイト・プレーンズ周辺の海面。
資料:Australian armed forces/出典・利用条件(Public domain)

この海戦を語るとき、私が一番強調したいのは「視界」だ。

タフィ3の駆逐艦は、戦闘開始とともに化学煙幕と煙突の重油煙で、護衛空母の後方に濃い幕を張った。そこにスコールが重なった。日本側の砲手は、光学測距儀で目標を見て撃つ。煙とスコールで目標が消えれば、撃てないか、当たらない。逆に米側は射撃レーダーで、幕の向こうの日本艦の距離と方位を取れた。

栗田艦隊の砲撃が、あれだけの数の砲で2時間半撃ってガンビア・ベイ1隻しか沈められなかった最大の理由は、ここにある。金剛型の36センチ砲も大和の46センチ砲も、見えない相手には当たらない。1944年の海戦で、光学照準の艦隊がレーダー射撃の艦隊に「見えている側」として戦うことは、もうなかった。技術屋として言えば、サマール沖は砲の口径ではなく、センサーの世代差で決まった戦いだ。

爆弾のない飛行機が、重巡を沈めた

爆弾のない飛行機が、重巡を沈めた

彼らには軍艦を沈める爆弾がほとんどなかった。だから機銃掃射をし、対潜爆雷を落とし、爆弾を使い切った機は模擬攻撃を繰り返して日本艦の回避運動を強いた。回避運動をすれば速度が落ち、砲撃の照準が狂う。そして本物の爆弾や魚雷を持って戻ってきた機が、隙を突いた。

重巡筑摩が航空魚雷で航行不能になり、鳥海が空襲で沈み、鈴谷も空襲で火災を起こして沈んだ。熊野は艦首を失って離脱。栗田艦隊の重巡6隻のうち、この朝で3隻を失い、1隻が大破した。前日までの愛宕・摩耶・高雄を含めると、捷一号作戦に参加した重巡10隻のうち、健在で残ったのは利根と羽黒だけになる。高雄型4隻は、この作戦で事実上壊滅した。

日本側から見れば、正規空母の機動部隊に襲われているのと区別がつかない。栗田の誤認は、戦闘の途中でも解けなかった。

09:11「集結せよ」、12:36「反転」――謎の反転を、私はこう読む

午前9時11分、栗田は全艦に集結を命じた。追撃戦を打ち切り、ばらけた艦隊をまとめる。この時点で、栗田艦隊は護衛空母ガンビア・ベイを砲撃で沈め、ジョンストン、ホーエル、ロバーツにも重大な損害を与えていた。タフィ3の残りの護衛空母は南へ逃げていて、レイテ湾まではあと数時間の距離だった。

集結後、栗田はしばらく南へ、レイテ湾方向へ進んでいる。そして午後0時36分ごろ、北へ反転した。レイテ湾には入らなかった。

これが「謎の反転」だ。80年たっても決着はついていない。挙げられている理由を並べる。

  • 北方に別の米機動部隊がいるという電報(内容が不正確で、後に誤報とされる)を受け、そちらを叩くべきと判断した
  • レイテ湾の上陸船団はすでに揚陸を終えて空船になっており、湾に突入しても戦果は乏しいと判断した
  • 湾内で座礁と航空攻撃と潜水艦の三重の危険にさらされて全滅するより、艦隊を保全すべきと考えた
  • 燃料が限界に近づいていた
  • 3日間の戦闘と不眠で、司令部の判断力が落ちていた

私の読み方を書く。栗田は、朝の追撃戦で「正規空母と戦っている」と信じたまま、重巡を3隻失った。その認識のまま南へ進めば、レイテ湾の入口で「もう一つの機動部隊」に挟まれる。艦隊を全滅させて上陸船団の空船を沈めるのが作戦の目的なのか。そう考えたとき、栗田の中で「突入」より「保全」が勝った。これは合理的な判断であり、同時に、捷一号作戦の趣旨そのものを否定する判断だった。作戦は、艦隊を捨てて船団を叩くために組まれていたからだ。小沢は囮になって空母を全部失い、西村はスリガオで全滅している。栗田だけが、艦隊を持ち帰った。

愚将かどうかは、愚将10人の検証記事でも書いたが、私はこう思う。栗田は、あの朝に見えていたものに対しては、間違った判断をしていない。間違っていたのは見えていたものの方で、それを正す情報を、日本海軍は栗田に届けられなかった。

反転のあと――帰路でも沈み続けた

反転した栗田艦隊は、サンベルナルジノ海峡へ戻る途中も空襲を受け続けた。翌26日には軽巡能代が沈み、駆逐艦も失った。ブルネイに帰り着いたとき、捷一号作戦に出撃した第一遊撃部隊は、戦艦4隻を除けば、艦隊の形をなしていなかった。その後、長門は本土に帰って浮き砲台になり、金剛は11月に台湾沖で潜水艦に沈められ、榛名は呉で空襲を受けて着底し、大和は翌年4月、沖縄へ向かう途中で沈んだ。サマール沖に並んだ4隻の戦艦は、それぞれ別の場所で終わっている。

栗田自身は、戦後ほとんど語らなかった。晩年に戦史家の取材に応じた際、反転の理由について「あのときは疲れていた」という趣旨のことを口にしたと伝えられている。合理的な理由を後から並べることはできる。だが本人の口から出たのは、その一言だった。私はこれを、言い訳とは思っていない。3日間不眠で、旗艦を沈められて海に落ち、武蔵を失い、重巡を3隻失った人間の正直な言葉として、そのまま受け取っている。栗田は1977年に87歳で亡くなった。

ハルゼーはどこにいたのか

サマール沖の間、米第3艦隊の主力は300キロ以上北で、小沢艦隊を追っていた。小沢の空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)はこの日、エンガノ岬沖で全部沈められている。囮としては完璧に機能した。

レイテ湾の第7艦隊司令長官キンケイドは、朝からハルゼーに繰り返し救援を求めた。「タフィ3が戦艦の砲撃を受けている」「第34任務部隊はどこか」「至急、高速戦艦をサンベルナルジノへ」。ハルゼーは小沢の空母を沈めることを優先し、すぐには戻らなかった。真珠湾のニミッツからも問い合わせが飛んだ。それが「第34任務部隊はどこにいるのか、世界が知りたがっている」の電文で、後半の「世界が知りたがっている」は暗号のパディングだったのに本文と誤解され、ハルゼーは帽子を床に叩きつけて激怒したと伝えられる。

ハルゼーが戦艦部隊を南へ返したのは午前11時すぎで、サンベルナルジノ海峡に着いたのは翌未明だった。栗田艦隊はもう海峡を抜けていた。もし栗田がレイテ湾に突入していたら、湾の入口で待っていたのはハルゼーではなく、スリガオから戻ってきた旧式戦艦部隊だったはずだ。栗田が「北の機動部隊」を恐れて反転したとき、その機動部隊は、実はまだ遠くにいた。

特攻の初戦果は、この海だった

午前10時50分ごろ、サマール沖から南へ逃げていたタフィ3の護衛空母に、零戦5機が突入した。関行男大尉の敷島隊だ。セント・ローの飛行甲板を突き破った1機が格納庫で誘爆を起こし、セント・ローは沈んだ。

特攻がなぜ始まったのかは別の記事で書いた。ここで言いたいのは、栗田艦隊が空母を1隻沈めるのに戦艦4隻と重巡6隻で2時間半かかった同じ日に、零戦5機が空母を1隻沈めた、という事実の重さだ。この対比を海軍の上層部がどう受け止めたかを考えると、特攻がその後どう拡大していったかの理由が、サマール沖に一つ埋まっている。

数字で見るサマール沖

サマール沖海戦の生存者の救助(1944年10月26日)
サマール沖海戦の生存者の救助(1944年10月26日)。
資料:U.S. Army Private William Roof/出典・利用条件(Public domain)

米側の損失は、護衛空母2隻(ガンビア・ベイが砲撃で、セント・ローが特攻で)、駆逐艦2隻(ジョンストン、ホーエル)、護衛駆逐艦1隻(サミュエル・B・ロバーツ)。タフィ3の死者・行方不明者は千人を超えた。ロバーツの生存者は救命筏で50時間漂流してから救助されている。

日本側の損失は、重巡3隻(鳥海、筑摩、鈴谷)沈没、重巡熊野大破。戦艦は全艦健在で帰投したが、栗田艦隊がその後、艦隊としてまともに戦うことは二度となかった。

護衛空母ガンビア・ベイは、米海軍史上、水上艦の砲撃で沈められた唯一の空母だ。

技術屋の補足――大和の砲弾は、なぜ効かなかったのか

大和の46センチ砲弾は、戦艦の装甲を貫くために設計された徹甲弾だ。それを、装甲のない護衛空母や護衛駆逐艦に撃つと、船体を貫通して反対側に抜けてしまい、信管が作動しないことがあった。ロバーツの乗員の証言に「日本の砲弾が艦を素通りした」というものがある。護衛空母の側にも、命中弾が甲板を突き抜けて海に落ちた例がある。大和の徹甲弾は、大和が想定していた相手に対しては最強だったが、この日の相手には「強すぎた」。

もう一つはレーダーだ。タフィ3の駆逐艦はレーダー射撃で煙幕とスコールの向こうの日本艦を撃てたが、日本側は光学照準で、視界が悪くなると当たらなくなった。ソロモンの夜戦で日本の夜戦神話が崩れたのと同じ技術差が、昼間のスコールの中で再現された。

そして無線。ハルゼーは小沢を追って北へ行き、レイテ湾のキンケイドからの救援要請が届いても、しばらく戻らなかった。有名な「第34任務部隊はどこにいるのか、世界が知りたがっている」という電文は、暗号のパディングが本文と誤解された事故で、ハルゼーはこれを読んで激怒したと伝えられる。日本側の誤認と、米側の通信混乱。サマール沖は、両軍の情報系がどちらも壊れていた海戦だった。

勝ったのはどちらか

戦術的には日本の勝ちだ。沈めた隻数でも、失った隻数でも、日本側が優勢に見える。護衛空母1隻と駆逐艦3隻に対して重巡3隻という交換は、艦の価値を考えれば日本側の損失のほうが重いが、それでも「数で圧倒する側が数で圧倒された側に勝った」形ではある。

戦略的には完敗だ。作戦の目的はレイテ湾の上陸船団を叩くことで、栗田艦隊はそれをしなかった。タフィ3は、栗田艦隊を2時間半足止めして、その間に上陸船団への進路を塞ぎ続けた。護衛駆逐艦4隻と駆逐艦3隻の雷撃と煙幕が、戦艦4隻の艦隊に「正規空母と戦っている」と信じ込ませ、反転させた。目的を達したのはタフィ3で、達しなかったのは栗田艦隊だ。

日本海軍が日本海海戦以来40年間待ち続けた艦隊決戦は、来なかった。来たのは、量産型の護衛空母と対潜用の小型艦だった。そしてそれに勝てなかった。日本海軍はなぜ敗れたのかという問いへの、サマール沖は最も残酷な答えの一つだと思う。

ここで一冊。レイテ沖海戦は、日本軍の組織的失敗を分析した古典が扱う六つの事例の一つで、栗田の反転を「指揮官個人の問題」ではなく「目的が共有されていない組織の問題」として読む視点を与えてくれる。サマール沖を語るなら、これを読んでからのほうがいい。

米海軍が今も教えている理由

ジョンストン就役式のアーネスト・エヴァンス艦長(1943年)
ジョンストン就役式のアーネスト・エヴァンス艦長(1943年)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

米海軍は、サマール沖を「タフィ3の戦い」として、士官教育でも水兵教育でも繰り返し教えている。理由は明快で、「圧倒的に不利な状況で、命令がなくても任務を果たすために動いた」例だからだ。エヴァンスの単艦突撃、コープランドの艦内放送、爆弾のない機で模擬攻撃を続けたパイロット。米海軍が自分たちの理想像として持っている「駆逐艦乗り」の姿は、この海戦で完成した。

2021年、ジョンストンの沈没船がサマール沖の深さ約6,460メートルで発見され、艦番号が確認された。翌2022年には、サミュエル・B・ロバーツが約6,900メートルで見つかった。世界で最も深い場所にある沈没船として記録されている。艦は二つに折れて斜面に横たわり、5インチ砲は今も右舷、日本艦隊がいた方向を向いているという。

日本側では鳥海が2019年に発見されている。筑摩、鈴谷、ホーエル、ガンビア・ベイの現在の発見状況は、今回確認できていない。フィリピン海溝の深さを考えれば、見つかるとしてもさらに深い場所になる。80年前の朝に同じ海面で撃ち合った艦が、今は深さ数千メートルの斜面に散らばっている。

投資家メモ――護衛空母50隻を1年で造った国と戦っていた

投資家の目で見ると、サマール沖の本当の敵は、タフィ3ではなく、タフィ3を造った工場だった。

カサブランカ級護衛空母は、実業家ヘンリー・カイザーの造船所で、1943年7月から1944年7月までの1年間で50隻が就役した。1週間に1隻のペースだ。商船建造で培った技術を使い、部品を規格化し、溶接で組んだ。日本が大和と武蔵の2隻を造るのに使った年月で、米国は使い捨てに近い空母を50隻造り、その中の6隻がサマール沖にいた。

日本海軍は艦の「質」で戦い、米海軍は「量」で戦った、とよく言われる。だがサマール沖で日本を止めたのは、量産艦に乗った人間の質でもあった。量と質は対立しない。量産できる国は、人を訓練する余裕も持てる。

今、米国の造船業は衰退していて、中国海軍との比較で最大の弱点は造船力だと言われている。80年前に1週間で空母を1隻造った国が、今は駆逐艦の建造が遅れて悩んでいる。日本の造船と防衛産業に米国から発注が来始めているのは、この文脈だ。防衛関連銘柄の投資ガイドで個別企業を整理してあるので、興味があれば。

ただし、これは私個人の見方であり、投資を勧めるものではない。防衛関連株は政策と地政学で大きく動く。投資判断はご自身の責任で、必要なら専門家に相談してほしい。

海上自衛隊に残っているもの

海自ファンとして一つ。海上自衛隊の水上戦闘艦が「護衛艦」と呼ばれる理由は、発足時に「駆逐艦」という旧軍の名を避け、船団護衛を任務の柱にした経緯があるからだ。そして海自の歴代の護衛艦は、対潜と船団護衛を主任務として設計されてきた。サマール沖で栗田艦隊を止めた護衛駆逐艦と護衛空母は、まさにその「護衛」の艦だった。

海自の艦隊が想定しているのは、大和が撃つような艦隊決戦ではなく、シーレーンを守り、輸送を通し、潜水艦を狩る戦いだ。それは太平洋戦争で日本が最も軽視して、最も苦しんだ領域でもある。海上自衛隊の艦艇一覧を眺めると、護衛艦の系譜が、サマール沖の「勝った側」の思想から始まっていることがわかる。旧軍の「負けた側」の子孫が、勝った側の設計思想で艦隊を組んでいる。私はそこに、海自の成熟を見ている。

模型で並べる栗田艦隊

サマール沖は、模型で並べると一番「わかる」海戦だと思う。大和、長門、金剛、榛名の4戦艦が同じ海面にいて、相手が小さな護衛空母と駆逐艦だという対比が、艦の大きさそのもので伝わるからだ。

長門と榛名には、捷一号作戦時の姿を再現したキットがある。対空兵装が増設され、迷彩や塗装が開戦時とは違う、1944年10月の艦だ。この二隻を並べて、そこに大和を置くと、サマール沖の朝の日本側の陣容がほぼ揃う。

護衛空母や護衛駆逐艦のキットは国内では入手しにくいが、フレッチャー級駆逐艦なら各社から出ている。ジョンストンとして仕上げて、大和の隣に置いてみてほしい。大きさの差を見ると、エヴァンスが何をしたかが、資料を読むより早くわかる。

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本と映像で深掘りする

日本側から読むなら、まず前に挙げた『失敗の本質』のレイテの章。栗田艦隊の側の記録としては、戦史叢書や、大和の乗員の手記が複数ある。米側から読むなら、ジェームズ・ホーンフィッシャー『The Last Stand of the Tin Can Sailors』が決定版で、ジョンストンとロバーツの乗員の視点でこの朝を再構成している。英語だが、平易で読みやすい。

映像なら、東宝の映画『連合艦隊』(1981年)がレイテ沖海戦を大和の視点で描いていて、特撮の大和が主砲を撃つ場面がある。サマール沖そのものの映画は、今のところない。私はこの海戦こそ映画にすべきだと思っているが、たぶん米国で作られる。

長文の戦史を読む時間がなければ、オーディオブックで聴くのも手だ。私は通勤中に戦史を聴くことが多い。

よくある疑問に、私なりに答えておく

深海で確認されたサミュエル・B・ロバーツの艦首(2022年6月22日)
深海で確認されたサミュエル・B・ロバーツの艦首(2022年6月22日)。
資料:Victor Vescovo(Vlvescovo)/出典・利用条件(CC BY-SA 4.0)

栗田はなぜ護衛空母を正規空母と誤認したのか

距離30キロ超からの視認で、飛行甲板を持つ艦を正規空母と区別するのは難しい。加えて、日本側は「機動部隊は北へ行った」という情報を持っていなかった。小沢の囮が成功したという報告は、栗田に届いていない。「ここに機動部隊がいるはずがない」と思えなければ、目の前の空母は機動部隊に見える。情報が届かなかったことが、誤認の根本にある。

もし栗田が突入していたら

上陸船団の大半は揚陸を終えていて、湾内には空船と、スリガオで西村艦隊を全滅させた米旧式戦艦部隊が戻ってきていた。突入しても得られる戦果は限定的で、栗田艦隊は湾内で全滅していた可能性が高い。ただし「作戦の目的に照らせば突入すべきだった」という批判は、それでも成り立つ。捷一号は、艦隊を捨てる作戦だったからだ。

大和の主砲は当たったのか

ガンビア・ベイの沈没には大和の砲撃が寄与したとされるが、致命傷を与えたのは巡洋艦の砲撃だという見方が有力だ。大和の46センチ砲弾が敵艦に命中したことは確かだが、「大和が沈めた」と言い切れる艦はない。生涯で一度の砲戦で、大和は空母を仕留め損ねている。

タフィ1とタフィ2は何をしていたのか

タフィ3の南にいたタフィ2は、艦載機を次々にサマール沖へ送り込み、日本艦隊への空襲の主力になった。筑摩と鈴谷を沈めた航空攻撃には、タフィ2の機が多く含まれている。さらに南のタフィ1は、この日の朝、ミンダナオ方面から来た別の特攻機の攻撃を受けていて、サマール沖への支援は限定的だった。つまり栗田艦隊を叩いた「機動部隊の空襲」の正体は、護衛空母3群から飛んだ小型空母の艦載機だった。

特攻とサマール沖は、同じ日の出来事なのか

同じ日だ。栗田艦隊がタフィ3と撃ち合っていた午前中、ルソン島のマバラカットを発進した敷島隊は、タフィ3の護衛空母を発見して突入した。セント・ローが沈んだのは、栗田が集結を命じてから1時間半ほど後で、反転を決める前だ。栗田艦隊とサマール沖で戦っていた護衛空母群が、その直後に特攻で1隻失う。10月25日という日は、艦隊決戦の終わりと、特攻の始まりが、同じ海面で数時間差で起きた日だった。

タフィ3の指揮官スプレイグはどうなったのか

クリフトン・スプレイグはこの戦いで海軍十字章を受け、戦後は中将まで昇進した。ただ、本人は生涯「あの朝は運が良かっただけだ」という趣旨のことを言い続けたという。タフィ3の生存者たちも同じで、彼らは自分たちを英雄と呼ばれることを好まなかった。それでも米海軍は、彼らを英雄として教え続けている。

サマール沖海戦が今の私たちに残したもの

サマール沖は、日本海軍が40年間夢見た「戦艦で敵を叩く」場面が、本当に来た海戦だ。そして来てみたら、相手は量産型の護衛空母と対潜用の小型艦で、それに止められた。

止められた理由は、艦の性能ではない。情報が届かなかったこと、目的が共有されていなかったこと、そして相手の側に、命令を待たずに任務のために動く人間が何人もいたことだ。ジョンストンが単艦で反転した瞬間に、この海戦の結果は半分決まっていたと私は思う。

大和が唯一撃った砲戦は、こうして終わった。46センチ砲は護衛駆逐艦の薄い船体を素通りし、艦隊は北へ帰り、その日の午前中に零戦5機が空母を1隻沈めた。日本海軍のその後は、この日の午前中に全部書いてある。

ジョンストンとロバーツは、今もサマール沖の深さ6,000メートル超の海底で、栗田艦隊がいた方向を向いている。鳥海は2019年に発見された。筑摩と鈴谷の現在の発見状況は、今回確認できていない。

基本情報の参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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