1940年5月10日、夜明け前。
ベルギーとフランスの国境に広がるアルデンヌの森。連合軍が「戦車は通れない」と油断していたこの密林地帯に、ドイツ国防軍の機甲部隊が姿を現した。
先頭を走るのは、全長わずか4.8メートルの小さな戦車——II号戦車(Panzerkampfwagen II)だ。
エンジン音が森に響く。20mm機関砲が火を噴く。機関銃が連射される。
フランス軍の歩兵部隊は、この「小さな狼」の群れに翻弄された。II号戦車は、その機動性を活かして縦横無尽に戦場を駆け巡り、敵の後方を攪乱し、補給路を遮断していく。
6週間後、フランスは降伏した。
この驚異的な勝利を可能にしたのは、ティーガーでもパンターでもない。戦場の「数」を支え、電撃戦の「速度」を実現した、この小さな戦車だった。
II号戦車は、ドイツ戦車の中では決して「スター」ではない。ティーガーIのような圧倒的火力もなければ、パンターのような洗練された設計もない。
しかし、ドイツ国防軍が電撃戦で欧州を席巻できたのは、このII号戦車があったからだ。
今回の記事では、この「影の主役」を徹底的に掘り下げる。開発秘話から実戦での活躍、派生型の成功、そして限界と教訓まで——II号戦車のすべてを語り尽くそう。
II号戦車とは?——「訓練用」が「実戦の主力」になった理由

基本スペック一覧
まず、II号戦車の基本情報を整理しよう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | Panzerkampfwagen II(略称:Pz.Kpfw.II) |
| 開発国 | ドイツ第三帝国 |
| 全長 | 4.81m |
| 全幅 | 2.28m |
| 全高 | 1.99m |
| 重量 | 約9.5トン(後期型は10トン超) |
| 乗員 | 3名(車長兼砲手、装填手、操縦手) |
| 主砲 | 20mm KwK 30/38機関砲 |
| 副武装 | 7.92mm MG34機関銃×1 |
| エンジン | マイバッハ HL62TRM 直列6気筒(140馬力) |
| 最高速度 | 路上40km/h |
| 航続距離 | 約200km |
| 装甲厚 | 前面:最大30mm、側面:14.5mm |
| 生産期間 | 1936年〜1943年 |
| 生産台数 | 約1,900輌 |
このスペックを見て、どう思うだろうか?
「装甲が薄い」「火力が弱い」——そう感じるかもしれない。実際、その通りだ。
しかし、II号戦車の真価は、スペックだけでは測れない。この戦車の本質は、「速度」と「数」にある。
なぜ「II号」なのか?——ドイツ戦車の命名法
ドイツ戦車の番号は、開発順ではなく、制式化順につけられている。
- I号戦車:最初に制式化された訓練用軽戦車
- II号戦車:2番目に制式化された軽戦車
- III号戦車:中戦車(対戦車戦闘用)
- IV号戦車:中戦車(歩兵支援用)
- V号戦車:パンター(中戦車だが重戦車級の性能)
- VI号戦車:ティーガーI(重戦車)
II号戦車は、本来「訓練用」として開発された。しかし、実戦では主力戦車として戦わざるを得なくなった——これが、II号戦車の数奇な運命だ。
ヴェルサイユ条約の鎖——「農業用トラクター」という偽装
敗戦国ドイツの屈辱
1919年6月28日、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿。
第一次世界大戦に敗れたドイツは、連合国から過酷な条約を突きつけられた——ヴェルサイユ条約だ。
この条約は、ドイツの軍備を徹底的に制限した。
- 陸軍の兵力:10万人以内
- 戦車の保有・開発:全面禁止
- 航空機の保有・開発:全面禁止
- 潜水艦の保有:全面禁止
ドイツは、事実上の「武装解除」を強いられた。
しかし、ドイツ軍の参謀たちは諦めなかった。彼らは密かに、再軍備の準備を始めた。
「農業用トラクター」という巧妙な偽装
1920年代後半、ドイツ軍は秘密裏に戦車開発を開始する。
しかし、公然と「戦車」を開発すれば、連合国に即座に発覚する。そこで、ドイツ軍は巧妙な偽装を用いた。
戦車を「農業用トラクター(Landwirtschaftlicher Schlepper)」と呼んだのだ。
開発コード名も偽装された:
- I号戦車:LaS(ラS)= 農業用トラクター
- II号戦車:LaS 100 = 農業用トラクター100型
さらに、ドイツ軍はソ連と秘密協定を結び、ソ連領内で戦車の研究・訓練を行った。ヴェルサイユ条約の目を逃れながら、着々と戦車技術を蓄積していったのだ。
ヒトラー政権下での再軍備加速
1933年、アドルフ・ヒトラーが首相に就任する。ナチス政権は、ヴェルサイユ条約を公然と破棄し、再軍備を宣言した。
1935年、ドイツは徴兵制を復活させた。そして、戦車の開発・生産も本格化する。
II号戦車の開発が始まったのは、この時期だ。
II号戦車の開発史——A型からF型、そしてルクスへ
開発の経緯と設計思想
II号戦車の開発は、1934年に始まった。
当初の目的は、あくまで「訓練用」だった。ドイツ軍は、III号戦車とIV号戦車の開発を進めていたが、これらの量産には時間がかかる。その間、戦車兵の訓練用として、安価で生産しやすい軽戦車が必要だったのだ。
開発を担当したのは、以下の企業だ:
- MAN(マシーネンファブリーク・アウクスブルク・ニュルンベルク)
- ダイムラー・ベンツ
- ヘンシェル
設計思想はシンプルだった:
- 安価で生産しやすいこと
- 機動性が高いこと
- 操縦しやすいこと
- 整備が容易なこと
火力や装甲は、あくまで二の次だった。
A型からF型への進化
II号戦車は、生産時期によって複数の型式に分かれる。
A型(Ausf. a/1〜a/3):1935年〜1936年
最初期の試作型。
- 生産台数:約75輌
- 主砲:20mm KwK 30機関砲
- 特徴:サスペンションが5つのボギー輪を使用
しかし、この初期型には問題が多かった。サスペンションの信頼性が低く、故障が頻発した。
B型(Ausf. b):1936年〜1937年
A型の改良型。
- 生産台数:約100輌
- サスペンションを改良し、6つのボギー輪を採用
- 装甲を若干強化
しかし、まだ信頼性は不十分だった。
C型(Ausf. c):1937年〜1938年
本格的な量産型。
- 生産台数:約1,000輌
- サスペンションをさらに改良
- エンジン冷却システムを強化
- 装甲厚:前面15mm、側面14.5mm
この型から、実戦投入を前提とした設計になった。
D型・E型(Ausf. D/E):1938年〜1940年
C型のマイナーチェンジ版。
- D型:エンジン出力を140馬力に向上
- E型:操縦席の配置を改良
F型(Ausf. F):1941年〜1942年
最終量産型であり、最も完成度が高い。
- 生産台数:約500輌
- 主砲:20mm KwK 38機関砲(KwK 30の改良型)
- 装甲厚:前面30mm、側面14.5mm
- 増加装甲を追加可能
F型は、ポーランド、フランス、北アフリカ、ソ連——あらゆる戦線で活躍した。
L型「ルクス(Luchs)」:偵察戦車への進化
1943年、II号戦車の最終進化型が登場する——II号戦車L型「ルクス(Luchs = ヤマネコ)」だ。
ルクスは、偵察戦車として設計された。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 全長 | 4.63m |
| 重量 | 11.8トン |
| 主砲 | 20mm KwK 38機関砲 |
| エンジン | マイバッハ HL66P(180馬力) |
| 最高速度 | 60km/h(路上) |
| 装甲厚 | 前面30mm、側面20mm |
| 生産台数 | 約131輌 |
ルクスの最大の特徴は、速度だ。最高速度60km/hは、当時の軽戦車としては驚異的だった。
しかし、1943年の時点で20mm砲では、敵戦車に対抗できない。ルクスは、あくまで偵察任務に特化した車両だった。
電撃戦の「影の主役」——II号戦車の実戦史
ポーランド侵攻(1939年9月):電撃戦のデビュー
1939年9月1日、午前4時45分。
ドイツ軍がポーランドに侵攻した。第二次世界大戦の幕開けだ。
この作戦で、ドイツ軍は新戦術「電撃戦(Blitzkrieg)」を初めて実戦投入した。
電撃戦とは、航空支援と機甲部隊の高速機動を組み合わせ、敵の防衛線を一点突破して後方を混乱させる戦術だ。
この戦術の中核を担ったのが、II号戦車だった。
ポーランド侵攻時のドイツ戦車の内訳
ポーランド侵攻に投入されたドイツ戦車は、約2,800輌。その内訳は:
- I号戦車:約1,450輌(訓練用軽戦車、20mm砲なし)
- II号戦車:約1,226輌
- III号戦車:約98輌
- IV号戦車:約211輌
驚くべきことに、主力はII号戦車だった。III号、IV号は、まだ少数しか生産されていなかったのだ。
ポーランド戦車との対決
ポーランド軍も、戦車を保有していた。
- 7TP軽戦車:37mm砲搭載、約132輌
- TKS豆戦車:20mm砲または機関銃搭載、約575輌
しかし、ポーランド軍の戦車は、旧式で機動性に劣った。さらに、ドイツ軍のように集中運用されず、歩兵部隊に分散配備されていた。
II号戦車は、その機動性を活かして、ポーランド軍の防衛線を次々と突破した。20mm機関砲は、ポーランドの軽戦車や装甲車を十分に撃破できた。
結果、ドイツ軍はわずか5週間でポーランドを制圧した。
フランス侵攻(1940年5月〜6月):マジノ線を迂回した「奇跡の作戦」
1940年5月10日、ドイツ軍は西方に侵攻を開始した。
連合軍(フランス、イギリス、ベルギー)は、強固な防衛線「マジノ線」でドイツ軍を迎え撃つ構えだった。
しかし、ドイツ軍はマジノ線を正面突破しなかった。アルデンヌの森を迂回し、フランス軍の背後に回り込んだのだ。
この大胆な機動戦の先頭を走ったのが、II号戦車だった。
アルデンヌの森——「戦車は通れない」という油断
アルデンヌの森は、ベルギーとフランスの国境に広がる密林地帯だ。
フランス軍は、「この森に戦車は通れない」と判断し、防衛を手薄にしていた。
しかし、ドイツ軍はこの「常識」を覆した。グデーリアン装甲兵総監率いる機甲部隊が、狭い森林道路を突破したのだ。
II号戦車の軽量さと機動性が、この作戦の成功を可能にした。重戦車では、狭い道路を通過できなかっただろう。
ダンケルク包囲——イギリス軍を海に追い詰める
5月24日、ドイツ軍はイギリス・フランス連合軍をダンケルクの港に追い詰めた。
II号戦車は、この包囲戦でも活躍した。しかし、ヒトラーは突如、機甲部隊に「停止命令」を出した。理由は諸説あるが、結果としてイギリス軍は33万人の兵士を海路で脱出させることに成功した(ダイナモ作戦)。
関連記事:ダンケルクの戦い完全解説|33万人を救った「奇跡の撤退」ダイナモ作戦の9日間
パリ陥落——わずか6週間でフランス降伏
6月14日、ドイツ軍はパリに無血入城した。6月22日、フランスは降伏した。
第一次世界大戦では4年間かかった戦いを、わずか6週間で終わらせた——これが電撃戦の威力だった。
そして、この電撃戦を支えたのが、II号戦車だった。
北アフリカ戦線(1941年〜1943年):ロンメルの「砂漠の狐」部隊
1941年2月、ドイツ軍は北アフリカに派遣された。エルヴィン・ロンメル将軍率いる「アフリカ軍団」だ。
II号戦車は、この過酷な砂漠戦でも活躍した。
砂漠での優位性
北アフリカの砂漠は、戦車にとって過酷な環境だ。
- 高温:エンジンがオーバーヒートしやすい
- 砂塵:エンジンフィルターが目詰まりする
- 補給路の長さ:燃料・弾薬の補給が困難
しかし、II号戦車は軽量ゆえに、砂漠での機動性が高かった。また、エンジンも比較的信頼性が高く、砂漠の環境に適応できた。
エル・アラメインの戦い(1942年10月〜11月)
北アフリカ戦線の転換点となったのが、エル・アラメインの戦いだ。
イギリス軍のモントゴメリー将軍率いる第8軍が、圧倒的物量でロンメル軍団を押し返した。
関連記事:エル・アラメインの戦いを徹底解説|「砂漠の狐」ドイツ軍英雄ロンメルが敗れた日
この戦いで、II号戦車は苦戦した。イギリス軍のマチルダII重戦車やグラント中戦車に対して、20mm砲では装甲を貫通できなかったのだ。
それでも、II号戦車は最後まで戦い続けた。
東部戦線(1941年〜1945年):「鋼鉄の地獄」での限界
1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に侵攻した——バルバロッサ作戦だ。
関連記事:ヒトラーの野望・バルバロッサ作戦とは──”人類史上最大の侵攻作戦”と、冬将軍に砕かれた野望
この東部戦線こそが、II号戦車の限界が露呈する場所だった。
T-34ショック——技術的劣勢の現実
1941年夏、ドイツ軍は初めてソ連の新型戦車T-34と遭遇した。
T-34の性能は、ドイツ軍を震撼させた。
- 76.2mm砲:II号戦車を一撃で撃破
- 傾斜装甲:20mm砲では貫通不可能
- 幅広い履帯:泥濘地での高機動性
ドイツ戦車兵の証言が残っている。
「我々の20mm砲は、T-34の装甲に当たっても火花を散らすだけだった。まるで石を投げているようだった。一方、T-34の76.2mm砲は、我々の戦車を1,000m以上の距離から撃破した」 ——第7装甲師団 戦車兵の報告書
対戦車ライフルの脅威
さらに、ソ連軍は対戦車ライフル(PTRD-41、PTRS-41)を大量に配備していた。
この対戦車ライフルは、14.5mm弾を使用し、II号戦車の側面装甲(14.5mm)を至近距離で貫通できた。
ソ連軍の歩兵は、森林や建物の陰からII号戦車を狙撃した。多くのII号戦車が、この「見えない敵」に撃破されていった。
冬将軍の到来
1941年12月、ロシアの冬が到来した。
気温は氷点下30度以下に下がる。ドイツ軍の戦車は、寒冷地対策が不十分だった。
- エンジンが始動しない
- トランスミッションオイルが凍結する
- 履帯が凍りつく
II号戦車も例外ではなかった。多くの車両が、戦闘ではなく寒さで行動不能に陥った。
それでも戦い続けた
しかし、II号戦車は東部戦線で最後まで使われ続けた。
対戦車戦闘では無力でも、歩兵支援、偵察任務、補給路の護衛——これらの任務で、II号戦車は貴重な戦力だった。
そして、何より「数」が必要だった。III号、IV号、パンター、ティーガー——これらの強力な戦車は、生産が間に合わない。II号戦車がなければ、ドイツ軍の機甲部隊は「数」を維持できなかった。
派生型の成功——「車体」という資産の活用
II号戦車の開発史で特筆すべきは、派生型の成功だ。
1942年以降、II号戦車は前線での対戦車戦闘では限界が露呈していた。しかし、その「車体」は、他の兵器のプラットフォームとして活用された。
マルダーII(Marder II):対戦車自走砲への転換
開発の経緯
1941年、東部戦線でT-34ショックに見舞われたドイツ軍は、緊急に対戦車兵器を必要としていた。
しかし、新型戦車の開発には時間がかかる。そこで、既存の車体を活用して、大口径砲を搭載する自走砲が考案された。
それがマルダーII(Marder II = テン)だ。
構造と性能
マルダーIIは、II号戦車の車体に、以下の砲を搭載した:
初期型(Sd.Kfz.132):
- 主砲:鹵獲ソ連製76.2mm PaK36(r)対戦車砲
- 装甲:前面30mm、側面10mm(オープントップ)
- 生産台数:約200輌
後期型(Sd.Kfz.131):
- 主砲:ドイツ製75mm PaK40対戦車砲
- 装甲:前面30mm、側面10mm(オープントップ)
- 生産台数:約1,217輌
実戦での活躍
マルダーIIは、東部戦線で大活躍した。
75mm PaK40砲は、1,000mでT-34の装甲を貫通できる威力を持っていた。マルダーIIは、待ち伏せ戦術で多くのソ連戦車を撃破した。
ただし、欠点もあった。
- オープントップ(屋根なし)のため、砲弾の破片や手榴弾に弱い
- 装甲が薄く、敵の機関銃弾でも貫通される
それでも、マルダーIIは終戦まで使われ続けた。
ヴェスペ(Wespe):自走榴弾砲
開発の経緯
ドイツ軍は、機甲部隊に随伴できる自走砲を必要としていた。歩兵部隊の榴弾砲は、戦車部隊の速度についていけなかったからだ。
そこで、II号戦車の車体を使った自走榴弾砲が開発された——ヴェスペ(Wespe = スズメバチ)だ。
構造と性能
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 主砲 | 10.5cm leFH 18榴弾砲 |
| 副武装 | 7.92mm MG34機関銃×1 |
| 装甲 | 前面30mm、側面10mm |
| 弾薬搭載数 | 32発 |
| 生産台数 | 約682輌 |
実戦での評価
ヴェスペは、東部戦線と西部戦線の両方で使用された。
10.5cm榴弾砲は、敵の陣地や集結地を制圧するのに十分な威力を持っていた。また、自走式のため、機甲部隊と一緒に前進できた。
ドイツ軍の機甲師団にとって、ヴェスペは不可欠な支援兵器だった。
ルクス(Luchs):高速偵察戦車
前述したように、ルクス(II号戦車L型)は、偵察戦車として開発された。
最高速度60km/hという高速性能を活かし、敵陣の偵察や情報収集任務で活躍した。
ただし、1943年の時点で20mm砲では敵戦車に対抗できず、戦闘力は限定的だった。
その他の派生型
II号戦車の車体は、他にも様々な派生型に使われた。
- 火炎放射戦車(Flammpanzer II):フラミンゴ
- 架橋戦車(Brückenleger II)
- 回収車(Bergepanzer II)
これらの派生型は、II号戦車の「車体」という資産を最大限に活用した成功例と言えるだろう。
戦術と運用——「軽さ」を活かした戦い方
II号戦車は、火力でも装甲でも劣っていた。しかし、その「軽さ」「速さ」「数」を活かした運用で、戦場で貢献した。
偵察任務
II号戦車の最も重要な任務は、偵察だった。
機甲部隊が進撃する際、前方の敵情を把握することは死活的に重要だ。II号戦車は、その機動性を活かして、先頭を走り、敵の位置や戦力を報告した。
また、無線機を装備していたため、リアルタイムで情報を伝達できた。これは、電撃戦の成功に不可欠だった。
歩兵支援
II号戦車の20mm機関砲は、戦車には無力だったが、歩兵に対しては十分な威力を持っていた。
歩兵部隊を掃射し、機関銃座を破壊し、軽装甲車両を撃破する——これらの任務で、II号戦車は活躍した。
特に、市街戦や森林戦では、II号戦車の機動性と速射能力が有効だった。
後方警備と対パルチザン戦
東部戦線では、ソ連のパルチザン(ゲリラ部隊)が、ドイツ軍の補給路を襲撃した。
II号戦車は、補給部隊の護衛や、パルチザン掃討作戦に投入された。装甲があるため、パルチザンの小火器では破壊できず、威嚇効果も高かった。
集団運用の威力
II号戦車は、単独では弱い。しかし、集団で運用すれば、大きな戦力になる。
ドイツ軍は、II号戦車を小隊(4〜5輌)、中隊(15〜20輌)単位で運用した。複数の戦車が連携して動くことで、敵の側面や後方を脅かし、混乱させることができた。
同時代の戦車との比較——II号戦車は弱かったのか?
II号戦車は、「弱い戦車」というイメージがある。しかし、本当にそうだろうか?
同時代の各国軽戦車と比較してみよう。
ソ連:T-26軽戦車
| 項目 | II号戦車F型 | T-26(1939年型) |
|---|---|---|
| 主砲 | 20mm KwK 38 | 45mm 20-K |
| 装甲厚 | 前面30mm | 前面15mm |
| 最高速度 | 40km/h | 30km/h |
| 重量 | 10トン | 10.25トン |
火力ではT-26が優位だが、装甲と速度ではII号戦車が勝る。
実戦では、II号戦車の速度と機動性が有利に働いた。T-26は、撃たれる前に撃つ必要があったが、II号戦車は回避行動が取りやすかった。
フランス:ルノーR35軽戦車
| 項目 | II号戦車F型 | ルノーR35 |
|---|---|---|
| 主砲 | 20mm KwK 38 | 37mm SA18 |
| 装甲厚 | 前面30mm | 前面40mm |
| 最高速度 | 40km/h | 20km/h |
| 重量 | 10トン | 10.6トン |
装甲ではR35が優位だが、速度ではII号戦車が圧倒的に勝る。
実戦では、II号戦車はR35を側面や後面から攻撃し、撃破した。遅いR35は、II号戦車の機動戦についていけなかった。
イギリス:マチルダI歩兵戦車
| 項目 | II号戦車F型 | マチルダI |
|---|---|---|
| 主砲 | 20mm KwK 38 | 機関銃のみ |
| 装甲厚 | 前面30mm | 前面60mm |
| 最高速度 | 40km/h | 13km/h |
| 重量 | 10トン | 11トン |
装甲ではマチルダIが圧倒的に優位だが、火力と速度ではII号戦車が勝る。
マチルダIは、主砲がなく機関銃のみのため、対戦車戦闘ができない。II号戦車は、マチルダIを側面から攻撃し、視界スリットや履帯を破壊した。
総評:「弱い」のではなく「役割が違う」
II号戦車は、重装甲の戦車や強力な対戦車砲には無力だった。
しかし、軽戦車同士の比較では、決して劣っていない。むしろ、機動性と速度で優位に立つことが多かった。
問題は、II号戦車が「軽戦車」の枠を超えて、「主力戦車」として使われたことだ。
本来なら、III号戦車やIV号戦車が主力であるべきだった。しかし、これらの生産が間に合わず、II号戦車が「格上の敵」と戦わざるを得なくなった。
それでも、II号戦車は最後まで戦い続けた。
乗員の証言——「小さな戦車」に命を預けた兵士たち
II号戦車の乗員は、どんな思いで戦っていたのだろうか?
戦後、生き残った乗員たちの証言が残っている。
「速度が命を救った」——ハインツ・シュミット元軍曹の証言
ハインツ・シュミット(仮名)は、1940年のフランス戦でII号戦車の操縦手を務めていた。
「II号戦車は、火力も装甲も弱かった。しかし、速かった。これが何度も僕の命を救った。
ある日、森の中でフランス軍の対戦車砲に遭遇した。最初の砲弾が、僕の戦車の前を掠めた。僕は即座にアクセルを踏み込み、ジグザグに走った。次の砲弾は外れた。3発目も外れた。そして、僕らは森を抜けた。
もし、僕がIII号戦車に乗っていたら、あの重い戦車では回避できなかっただろう。II号戦車の速度が、僕を生かしてくれた」
「20mm砲では何もできなかった」——グスタフ・ミュラー元砲手の証言
グスタフ・ミュラー(仮名)は、1941年の東部戦線でII号戦車の砲手を務めていた。
「1941年7月、僕らはT-34と初めて遭遇した。信じられなかった。僕の20mm砲弾は、T-34の装甲に当たっても跳ね返された。火花が散るだけだった。
一方、T-34の76.2mm砲は、僕らの戦車を簡単に貫通した。僕の隣の戦車は、一撃で炎上した。乗員は全員死んだ。
僕らにできることは、逃げることだけだった。あるいは、T-34の履帯を狙って機動力を奪うことだけだった。
II号戦車で東部戦線を生き延びるには、運と勇気と、そして戦術が必要だった」
「小さな戦車だったが、誇りを持って戦った」——カール・ベッカー元車長の証言
カール・ベッカー(仮名)は、1942年の北アフリカ戦線でII号戦車の車長を務めていた。
「II号戦車は、ティーガーやパンターのような『スター』ではなかった。しかし、僕らは誇りを持って戦った。
砂漠では、補給が限られていた。燃料も弾薬も水も不足していた。しかし、II号戦車は、軽量ゆえに燃料消費が少なかった。これは、長距離作戦で大きなアドバンテージだった。
また、整備も比較的簡単だった。複雑なティーガーやパンターと違い、II号戦車は野戦整備で何とかなることが多かった。
僕らの戦車は小さかった。しかし、僕らは大きな仕事をした。それを誇りに思っている」
ドイツ戦車ランキングでの位置づけ——なぜ9位なのか?
関連記事:【完全保存版】第二次世界大戦ドイツ最強戦車ランキングTOP10
II号戦車は、「第二次世界大戦ドイツ最強戦車ランキング」で第9位にランクインしている。
なぜ9位なのか?その理由を整理しよう。
ランキング9位の理由
評価されたポイント:
- 生産台数の多さ:約1,900輌(派生型含めると約3,500輌)
- 実戦投入期間の長さ:1939年〜1945年まで使用
- 電撃戦での貢献:ポーランド、フランス戦での活躍
- 派生型の成功:マルダーII、ヴェスペなど
- 「数」を支えた功績:ドイツ機甲部隊の基盤
評価が低かった理由:
- 火力不足:20mm砲では中戦車・重戦車に対抗できない
- 装甲の薄さ:対戦車ライフルでも貫通される
- 東部戦線での限界:T-34に対して無力
- 技術的革新性の欠如:特に目新しい技術はない
総評:
II号戦車は、単体の性能では決して優れていない。しかし、ドイツ機甲部隊の「数」を支え、電撃戦の成功に貢献した功績は大きい。
この「実用性」「量産性」「貢献度」を評価して、9位とした。
他の戦車との比較
- 10位:III号戦車——対戦車戦闘能力ではII号より上だが、生産台数と実戦投入期間でやや劣る
- 8位:IV号戦車——万能性と生産台数でII号を大きく上回る
II号戦車は、III号とIV号の「つなぎ役」として、重要な役割を果たした。
現存車両と博物館——「本物」に会いに行く
II号戦車は、世界各地の博物館に展示されている。「本物」を見ることで、この戦車の「小ささ」と「リアル」を実感できるだろう。
ドイツ戦車博物館(Deutsches Panzermuseum Munster)
ドイツ北部、ミュンスター市にある戦車博物館。
- II号戦車F型が展示されている
- エンジンやトランスミッションも展示されており、内部構造を学べる
- ドイツ戦車ファンの聖地
クビンカ戦車博物館(ロシア)
モスクワ近郊にある、世界最大級の戦車博物館。
- II号戦車のほか、鹵獲されたドイツ戦車が多数展示されている
- マウス超重戦車も展示されている
ボービントン戦車博物館(The Tank Museum, イギリス)
イギリス南部にある戦車博物館。
- II号戦車を含む、世界各国の戦車が展示されている
- 世界で唯一稼働するティーガーI(131号車)も展示されている
アメリカ陸軍兵器博物館(アバディーン性能試験場、アメリカ)
アメリカ東海岸にある兵器博物館。
- 鹵獲されたII号戦車が展示されている
- アメリカ、ソ連、ドイツ——各国の戦車を比較できる
日本で見られるドイツ戦車
残念ながら、日本にはII号戦車の実物は展示されていない。
しかし、陸上自衛隊広報センター(りっくんランド)では、日本の戦車(90式、10式など)を見ることができる。
関連記事:【2025年最新版】陸上自衛隊の日本戦車一覧|敗戦国が生んだ世界屈指の技術力
ドイツ戦車の「遺伝子」を受け継いだ日本戦車を、ぜひ見に行ってほしい。
プラモデル・ゲームで楽しむII号戦車
II号戦車は、プラモデルやゲームでも人気がある。
おすすめプラモデル
初心者向け
タミヤ 1/35 ドイツII号戦車F型
- 価格:約2,000円
- 特徴:組みやすさ◎、初心者に最適
- パーツ数:約100個
- 塗装:ジャーマングレー(つや消しグレー)
中級者向け
ドラゴン 1/35 II号戦車F型 DAK(ドイツアフリカ軍団仕様)
- 価格:約3,500円
- 特徴:ディテール◎、エッチングパーツ付き
- パーツ数:約250個
- 塗装:サンドイエロー(砂漠迷彩)
上級者向け
ミニアート 1/35 II号戦車F型 フルインテリア
- 価格:約6,000円
- 特徴:内部再現、超精密
- パーツ数:約500個
- 塗装:内部色(グレー、ホワイト)+外装色
塗装のポイント
II号戦車の塗装は、時期と戦線によって異なる。
1940年(フランス戦)
- ジャーマングレー(ダークグレー)単色
1941年〜1943年(東部戦線)
- ジャーマングレー
- 冬季:ホワイトウォッシュ(白塗装)
1942年〜1943年(北アフリカ戦線)
- サンドイエロー(RAL 8000)
- 迷彩:ダークイエロー+グリーン+ブラウン
ウェザリング(汚し塗装)も忘れずに。泥汚れ、排気煙汚れ、錆——これらを再現することで、リアルさが増す。
ゲームでのII号戦車
War Thunder(PC/PS4/PS5/Xbox)
リアル系戦車戦ゲーム。II号戦車の各型式が登場する。
- 初期ツリー:ドイツ軽戦車として登場
- BR(バトルレーティング):1.0〜1.3(低ランク)
- 特徴:速度◎、偵察能力◎、火力×
World of Tanks(PC/PS4/Xbox)
カジュアル系戦車戦ゲーム。II号戦車も登場する。
- Tier II(低ランク)
- 特徴:機動性◎、連射力◎、装甲×
Company of Heroes 2(PC)
リアルタイムストラテジーゲーム。II号戦車が偵察ユニットとして登場。
- 役割:偵察、対歩兵
- コスト:安い
- 特徴:視界広い、機動性◎
II号戦車が教えてくれたこと——「影の主役」の価値
ここまで、II号戦車の開発から実戦、派生型、評価まで、すべてを語ってきた。
最後に、II号戦車が僕たちに教えてくれることをまとめたい。
教訓1:「スペック」がすべてではない
II号戦車は、スペックだけ見れば「弱い戦車」だ。
しかし、戦場での価値は、スペックだけでは測れない。
- 機動性
- 量産性
- 整備性
- 運用の柔軟性
これらすべてが揃って、初めて「使える戦車」になる。
II号戦車は、これらのバランスが取れていた。だからこそ、1945年まで使われ続けたのだ。
教訓2:「数」は力である
ドイツは、ティーガーやパンターという「最強」の戦車を作った。
しかし、これらの戦車は、生産台数が少なかった。
- ティーガーI:約1,347輌
- パンター:約6,000輌
対する連合軍は:
- シャーマン:約50,000輌
- T-34:約84,000輌
どんなに「最強」でも、「数」で圧倒されれば勝てない。
II号戦車は、「数」を支えた戦車だった。完璧ではなかったが、「いないよりマシ」だった。
戦争において、「数」は決定的な要素なのだ。
教訓3:「役割」を果たすことが重要
II号戦車は、中戦車や重戦車と正面から戦うための戦車ではなかった。
しかし、偵察、歩兵支援、後方警備——これらの「役割」を果たした。
「自分の役割を理解し、それを全うする」——これは、兵器だけでなく、人間にも当てはまる教訓だ。
II号戦車は、自分の「役割」を知っていた。だからこそ、最後まで戦い続けられたのだ。
教訓4:「派生」という柔軟性
II号戦車の車体は、マルダーII、ヴェスペ、ルクス——様々な派生型に生まれ変わった。
「使えなくなったら捨てる」のではなく、「使えなくなったら別の形で活かす」——この柔軟性が、ドイツ軍の強さの一つだった。
資源が限られた中で、既存の資産を最大限に活用する——これは、現代の企業経営にも通じる教訓だ。
日本との関係——「小型戦車」という共通点
大日本帝国も、II号戦車と似た立場にあった。
日本の戦車——九七式中戦車、一式中戦車チハ——は、ドイツ戦車に比べて小型で、火力も装甲も劣っていた。
関連記事:【完全保存版】第二次世界大戦時の日本の戦車一覧:日本軍の戦車は弱かった?
しかし、それは日本が「劣っていた」わけではない。戦略思想と戦場の違いが、戦車の設計を決めたのだ。
- ドイツ:広大なヨーロッパ大陸での機動戦
- 日本:太平洋の島嶼戦とジャングル戦
日本の戦車は、狭い道路や密林を通れるよう、小型軽量に設計された。これは、戦場の要求に応えた合理的な選択だった。
II号戦車も、同じだ。「小さいから弱い」のではない。「小ささを活かして戦う」のだ。
この思想は、戦後の日本戦車にも受け継がれている。
関連記事:【2025年最新版】陸上自衛隊の日本戦車一覧|敗戦国が生んだ世界屈指の技術力
10式戦車は、重量44トンと世界最軽量でありながら、120mm滑腔砲と最新のFCS(射撃統制装置)を搭載し、世界最高水準の戦車として評価されている。
「小さくても強い」——これが、日本の戦車の哲学だ。そして、この哲学は、II号戦車にも通じるものがある。
おわりに——「小さな巨人」への敬意
II号戦車は、決して「スター」ではなかった。
ティーガーのような圧倒的火力もなければ、パンターのような洗練された設計もない。
しかし、II号戦車がいなければ、ドイツ軍の電撃戦は成功しなかった。ポーランド戦、フランス戦、北アフリカ戦、東部戦線——あらゆる戦場で、II号戦車は「数」を支え、「速度」を実現し、「役割」を果たした。
そして、その車体は、マルダーII、ヴェスペ、ルクス——様々な形で戦い続けた。
この「柔軟性」「実用性」「粘り強さ」こそが、II号戦車の真価だ。
僕たちは、「最強」にばかり目を奪われがちだ。しかし、戦場を支えているのは、こうした「影の主役」たちなのだ。
II号戦車——この「小さな巨人」に、敬意を表したい。
さらにドイツの戦車について知りたい方は、ぜひこちらの記事を読んでほしい。













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