A-6イントルーダーとは|遅い・不格好・機関砲なし、それでも北ベトナムに「B-52が来た」と言わせた艦上攻撃機──全天候攻撃の仕組み・型式・厚木との縁・退役の理由

A-6 イントルーダー 夜と悪天候を飛ぶ攻撃機

1966年4月18日の夜、北ベトナムの港町ハイフォンから北へ20kmほどのところにあるウォンビ発電所に、爆弾の雨が降った。

来たのは、たった2機だった。空母キティホークから飛び立った第85攻撃飛行隊(VA-85)のA-6イントルーダーで、それぞれが1,000ポンド爆弾を13発ずつ抱えていた。真っ暗な中を低空で入ってきて、全部落として、帰っていった。

翌日、北ベトナムは「アメリカがB-52で発電所を爆撃した」と発表した。

2機の艦上機の仕業だとは思わなかったのだ。夜に、レーダーだけを頼りに、戦略爆撃機と見間違えるほどの量の爆弾をまとめて当ててくる艦上機なんて、当時の常識にはなかった。

A-6という飛行機を一言で説明するなら、私はこのエピソードを選ぶ。速くないし、見た目はずんぐりしたおたまじゃくしみたいだし、機関砲すら積んでいない。それなのに、夜と悪天候という、ほかの攻撃機がまともに仕事をできない時間帯を、自分の持ち場にしていた。

ゲームから来た人もいると思う。エースコンバット8では、ミッション14で武装のないA-6に乗せられ、クリアすると機体ツリーにA-6Eが加わる。シリーズでもAC2から顔を出している古株だ。あの太い機首の飛行機が、実際にはどんな攻撃機だったのか。設計、型式、ベトナムから湾岸戦争までの実戦、厚木にいた四半世紀近く、そして退役の理由まで、順番に見ていく。

なお、胴体を延ばした電子戦機のEA-6Bは兄弟機だが、仕事も中身も別物なので、この記事では「攻撃機」のA-6に絞る。

この記事のポイント
目次

A-6イントルーダーとは|「夜でも雨でも当てる」ために作られた艦上攻撃機

湾岸戦争期、砂漠上空を飛ぶA-6Eイントルーダー(1991年)。
湾岸戦争期、砂漠上空を飛ぶA-6Eイントルーダー(1991年)。
写真・素材:Tech. Sgt. Rose Reynolds, USAF/Wikimedia Commons(Public domain)

A-6イントルーダーは、アメリカのグラマン社が開発した艦上攻撃機だ。イントルーダー(Intruder)は「侵入者」という意味。米海軍と米海兵隊が1963年から使い始め、海兵隊は1993年、海軍は1997年に退役させた。生産数は試作機を含めて693機とされる。

戦闘機ではない。空中戦をするための飛行機ではなく、敵地に入り込んで地上や海上の目標を叩くための飛行機だ。速度は海面高度で時速1,040km前後と音速には届かず、機関砲も持っていない。そのかわり、主翼の下に4か所、胴体の下に1か所ある搭載ステーションに、合計でおよそ8トンの爆弾やミサイルを吊るせた。

同じ「攻撃機」でも、地上部隊のすぐ近くで戦車を撃つA-10サンダーボルトIIとは性格がまるで違う。A-6の持ち味は、レーダーとコンピューターを組み合わせた攻撃・航法システムにあった。目で見えなくても、レーダーで地形と目標をとらえ、自分の位置を割り出し、爆弾を放すタイミングを計算する。晴れた昼間にしか仕事ができない攻撃機が多かった時代に、A-6は夜と悪天候を本業にしていた。「全天候攻撃機」と呼ばれるのはそのためだ。

項目 A-6E
乗員 2名(操縦士、爆撃手兼航法士)
全長/全幅 16.69m/16.15m(主翼を折りたたむと幅7.67m)
最大離陸重量 27,397kg(陸上運用時)
エンジン P&W J52-P-8B ターボジェット×2(推力各約41kN)
最大速度 時速約1,040km(海面高度)
搭載量 5か所・合計約8,200kg
固定武装 なし
運用期間 海軍1963〜1997年、海兵隊1963〜1993年

なぜ生まれたのか|朝鮮戦争の夜、プロペラ攻撃機では足りなかった

A-6の出発点は、朝鮮戦争の戦訓にあるとされる。当時の海軍の主力攻撃機はプロペラ機のA-1スカイレイダーで、頑丈で爆弾もたくさん積めたが、夜や悪天候では目標を見つけられなかった。そして敵の補給部隊は、まさにその時間を選んで動く。

海軍は1950年代半ばに全天候で飛べるジェット攻撃機の要求をまとめ、1957年2月に各社へ提案を求めた。8社から11案が集まり、1958年1月2日、グラマンのG-128案が選ばれる。最初の名前はA2F-1だった。

試作機YA2F-1が初めて飛んだのは1960年4月19日。1962年9月には陸海空軍の機種名称がひとつにまとめられ、A2F-1はA-6Aになった。1963年2月から訓練飛行隊のVA-42に機体が届き始め、同じ年の秋には第75攻撃飛行隊(VA-75)が最初の実戦飛行隊になっている。

ちなみにグラマンは、ワイルドキャット、F6Fヘルキャット、アベンジャーと、太平洋戦争で日本海軍をさんざん苦しめた艦上機を量産した会社だ。頑丈な機体ばかり作るので「グラマン鉄工所」とあだ名された。大日本帝国海軍びいきの私としては複雑な気持ちになるが、艦上機の作り方を知り尽くした会社が、戦後のジェット時代に出した答えがA-6だった、と考えるとしっくりくる。

設計の中身|おたまじゃくしの頭に「目」と「頭脳」を詰め込んだ

正面から見たA-6。幅広い機首に、2人が横に並ぶ操縦席を備える。
正面から見たA-6。幅広い機首に、2人が横に並ぶ操縦席を備える。
写真・素材:Acroterion/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)
要点

あの太い頭には、当時としては最先端の電子機器が詰まっていた。A-6Aの攻撃・航法システムは「DIANE(ダイアン)」と呼ばれ、捜索用と追尾用の2つのレーダー、慣性航法装置、ドップラー航法レーダー、そして弾道計算用のコンピューターを組み合わせていた。地形を映しながら低空を這うように進み、目標をつかまえ、爆弾を放す点を割り出す。いまならスマホ1台にも負ける計算能力だが、1960年代の艦上機にデジタルコンピューターで攻撃を組み立てる発想を持ち込んだのは大きかった。

もっとも、最初のうちはよく壊れた。整備の手間もかかったし、ベトナムの初期にはシステムが本調子でない機体も多かったという。それでも、のちに海軍少将になった元乗員は「A-6Aにはシステムの問題があった。だが、あの戦争で唯一の本物の全天候機だった」と振り返っている。

機体の形にも、空母で使うための工夫がいくつもある。主翼は途中から折りたためて、幅16mの翼がたたむと8m弱になる。主翼の端は後ろ半分が上下に割れて、スピードブレーキになる。風防の前には空中給油用のプローブが角のように突き出していて、これがA-6一家の顔になった。

試作のころには、エンジンの排気口を下向きに傾けて短い距離で離陸する仕組みも試された。量産初期の6機にはこれが付いていたが、手間のわりに効果が薄いと判断され、下向き7度で固定されている。こういう「やってみたけど、やめた」痕跡が残っているのも、この時代の飛行機らしくて好きなところだ。

2人目の乗員は「九七艦攻の偵察員」だった

A-6のコクピットは、2人が横に並んで座る。左が操縦士、右がB/N(Bombardier/Navigator、爆撃手兼航法士)で、B/Nの席は少しだけ低く、後ろにずらしてある。戦闘機のように前後に座るのではなく、隣同士。いざとなれば手振りでも話が通じる距離だ。

B/Nの仕事は、レーダーを操作して自分の位置と目標を見つけ、攻撃のための情報をシステムに入れ、兵器を放つことにある。操縦士が飛行機を目標まで運び、B/Nが当てる。ベトナムで飛んだ元乗員は「B/Nはパイロットと同じくらい、戦果に責任を負っていた」と語っている。

これを読んで、私は真っ先に九七式艦上攻撃機を思い出した。九七艦攻は3人乗りで、真ん中の席の偵察員が航法を受け持ち、水平爆撃では照準器をのぞいて投下の指示を出した。操縦する者と当てる者を分ける、という艦上攻撃機の考え方は、海の向こうで20年たっても生きていたことになる。

違うのは、九七艦攻の偵察員が目と照準器で見ていたものを、A-6のB/Nはレーダーとコンピューターで見ていたことだ。だから夜も、雲の下も関係なかった。帝国海軍の艦攻乗りがこのコクピットを見たら、うらやましがったのか、それとも「目で見ずに当てるのか」と首をかしげたのか。そんな想像をすると、ちょっと楽しい。

型式の系譜|A-6EとKA-6D、そしてEA-6Bとの関係

空中給油型KA-6D。攻撃型A-6から派生した給油機。
空中給油型KA-6D。攻撃型A-6から派生した給油機。
写真・素材:U.S. Navy/Wikimedia Commons(Public domain)

A-6は30年以上使われる間に、いくつもの型に枝分かれした。主なものを表にしておく。

型式 役割 ざっくりした中身
A-6A 初期量産型 DIANEを積んだ最初の型。約480機
A-6B 対レーダー攻撃 敵の対空ミサイル陣地のレーダーを狙う型。A-6Aから19機を改造
A-6C 夜間阻止攻撃 赤外線センサーと微光テレビで、ホーチミン・ルートのトラックを探す型。12機を改造
KA-6D 空中給油機 攻撃用の電子機器を降ろし、給油装置を積んだ型
A-6E 決定版 レーダーを1基の多機能型にまとめ、コンピューターも一新。新造と改造で445機
A-6E TRAM A-6Eの改良 機首下に赤外線カメラとレーザー照準器のターレットを追加(1979年〜)
A-6E SWIP A-6Eの改良 精密誘導兵器を幅広く使えるようにした1990年代の改修
A-6F 発展型(中止) エンジンをF404に換え、電子機器を一新。5機作られたが中止
EA-6A/EA-6B 電子戦機 A-6を土台にした電子戦型。EA-6Bは胴体を延ばした4人乗りで、事実上の別機

主役はA-6Eだ。A-6Aでは捜索用と追尾用に分かれていたレーダーを、1基の多機能レーダー(AN/APQ-148)にまとめた。1970年代に入るとA-6Aの多くがE型に作り替えられ、新造機と合わせて445機がE型になっている。

そのA-6Eをもう一段化けさせたのが、1979年から付いたTRAMだ。機首の下に小さな丸いターレットが付き、中に赤外線カメラ(FLIR)とレーザー測距・照準器が入っている。レーダーで目標のいる場所まで行き、最後は赤外線の映像で目標を確かめ、レーザーを当ててレーザー誘導爆弾を落とす。夜の「だいたいこの辺」が、夜の「この建物のこの窓」になった。

さらに1990年代初めのSWIP改修で、対艦ミサイルのハープーン、その対地型のSLAM、対レーダーミサイルのHARM、空対地ミサイルのマーベリックといった誘導兵器を使えるようになった。爆弾トラックとして生まれた機体が、晩年には精密誘導兵器の発射台になっていたわけだ。

地味だが、空母航空団にとって欠かせなかったのがKA-6Dだ。攻撃用の機器を降ろし、胴体後部にホースとドローグの給油装置を積んだタンカーで、空の上で艦上機に燃料を分けた。発艦したばかりの戦闘機に燃料を足し、着艦をやり直す機体に燃料を渡す。空母の「空飛ぶガソリンスタンド」として、湾岸戦争にも出ている。

EA-6Bとの関係もここで整理しておく。EA-6Bは、A-6の胴体を延ばして4人乗りにし、爆弾の代わりに妨害装置を積んで敵のレーダーや通信を潰す電子戦機だ。見た目は似ていても、仕事は正反対に近い。A-6が退役したあとも2019年まで現役だった。詳しくはEA-6Bプラウラーの記事、その後継はEA-18Gグラウラーの記事で書いている。

実戦の記録|ベトナムからペルシャ湾まで30年

F-14に空中給油するA-6E(1989年)。
F-14に空中給油するA-6E(1989年)。
写真・素材:LCDR Dave Baranek, USN/Wikimedia Commons(Public domain)

ベトナム戦争|「唯一の全天候機」の代償

A-6が最初に戦場に出たのは1965年だ。空母インディペンデンスに乗ったVA-75が5月から12月まで展開し、北ベトナムへの攻撃に加わった。冒頭のウォンビ発電所への夜間攻撃は、その翌年のことになる。

北ベトナムの空は、世界でもっとも対空砲とミサイルが濃い空のひとつだった。昼間に大編隊で行けば狙い撃ちにされる。同じ空母から飛んでいたF-4ファントムIIなどが昼の空を受け持つ一方で、A-6は夜に、少数機で、低空から入っていった。1967年にハノイ攻撃に加わった乗員は「情報部は、SA-2ミサイルは高度1,500フィート以下を追えないと言っていた」と回想している。要するに、地面すれすれを飛べということだ。

代償は大きかった。ベトナム戦争でA-6は84機を失っている。内訳は、地上からの対空砲火が56機、地対空ミサイルが10機、ミグ戦闘機が2機、事故などの作戦上の損失が16機。最後の損失は1973年1月24日で、停戦のわずか数日前だった。

それでも海軍はA-6を送り続けた。夜にこれだけ正確に爆弾を落とせる機体が、ほかになかったからだ。先ほどの元乗員の少将は「A-6は、ベトナム戦争で海軍が持っていた最も効果的な攻撃機だった」とも語っている。損失の多さと、この評価は、たぶん同じ事実の裏表なのだと思う。

レバノン、リビア、ペルシャ湾|冷戦後期の「火消し役」

ベトナムのあとも、A-6は空母と一緒に世界の紛争地へ出ていった。

1983年12月4日、レバノンのシリア軍陣地を攻撃した際、A-6が1機、A-7とともにミサイルで撃墜された。操縦士は負傷がもとで亡くなり、B/Nはシリア軍の捕虜となって、翌1984年1月に解放されている。

1986年4月のリビア爆撃、エルドラド・キャニオン作戦では、空母アメリカのVA-34と空母コーラル・シーのVA-55が、ベンガジ周辺の目標を夜間に叩いた。空軍のF-111がイギリスから飛んできて首都トリポリを攻撃したのと、同じ夜の作戦だ。

1988年4月のペルシャ湾では、イランとの「プレイング・マンティス作戦」で、空母エンタープライズのVA-95がイランのフリゲート「サハンド」を撃沈し、同型艦「サバラン」に大きな損害を与えた。第二次世界大戦後のアメリカ海軍として最大規模の水上戦闘と言われる戦いで、主役を張ったのはA-6だった。艦を沈める仕事までこなせる攻撃機だったことが、ここでよく分かる。

湾岸戦争|最後の大舞台

1991年の湾岸戦争では、海軍と海兵隊のA-6が4,700回以上の戦闘出撃をこなした。空軍のF-117ナイトホークが「見えない爆撃機」として話題をさらった戦争だが、空母から夜の攻撃を担っていたのは、相変わらずこの古いおたまじゃくしだった。敵の対空ミサイルと対空砲火で3機を失っている。

海兵隊のA-6は、主にバーレーンのシェイク・イーサ基地から出撃した。日本との関係でいえば、次に触れる厚木のVA-115も、空母ミッドウェイから1月17日の開戦初日の攻撃に加わっている。日本の基地から出た部隊が初日から戦っていた一方で、日本政府は巨額の資金を出しながら「小切手外交」と批判された。その話は湾岸戦争と日本の小切手外交で書いた。

その後もイラク南部の飛行禁止空域の監視、ソマリアでの作戦支援、1994年のボスニアと出番は続いたが、ここがA-6の戦歴の終わりに近い。

厚木とイントルーダー|日本の空に四半世紀近くいた攻撃機

屋外展示のA-6。主翼を折り畳み、空母での格納に備える。
屋外展示のA-6。主翼を折り畳み、空母での格納に備える。
写真・素材:kitmasterbloke/Wikimedia Commons(CC BY 2.0)

A-6は、日本と縁の深い飛行機でもある。

要点

1987年には2つ目のA-6飛行隊、VA-185「ナイトホークス」も厚木にやってきた。こちらは湾岸戦争でペルシャ湾の海軍部隊の先陣を切って攻撃に出て、457回の戦闘任務をこなしたあと、1991年8月に解隊されている。

1991年にミッドウェイが横須賀を去ると、空母はインディペンデンスに代わり、VA-115はそのままA-6で乗り組んだ。そして1996年、F/A-18Cホーネットに機種転換してカリフォルニア州のレムーア基地へ移る。1973年から数えると、厚木にはおよそ四半世紀近くA-6がいたことになる。

海自の護衛艦がA-6を撃ち落とした日

厚木のA-6には、自衛隊ファンなら知っておきたい事件がある。

1996年6月4日(現地時間)、ハワイの西およそ2,400kmの海域で行われていた環太平洋合同演習(リムパック)で、海上自衛隊の護衛艦「ゆうぎり」が、VA-115のA-6Eを撃ち落としてしまった。A-6Eは空母インディペンデンスから飛び立ち、対空射撃訓練用の標的を曳いて飛んでいた。ところが「ゆうぎり」の20mm機関砲(CIWS)は、曳かれていた標的ではなく、A-6Eそのものに弾を浴びせた。

2人の乗員は射出座席で脱出し、「ゆうぎり」の内火艇に救助された。操縦士は顔に傷を負って手術を受けたが、2人とも命に別状はなかった。当初は機械の故障が疑われたものの、のちに人為的なミスと結論づけられている。日本は謝罪し、アメリカ側もそれを受け入れて、事件は大きな外交問題にはならなかった。

厚木のA-6がホーネットに替わる、ほんの少し前の出来事だ。厚木で20年以上飛んだイントルーダーの晩年に、まさか日本の護衛艦に落とされる一幕があったとは。私はこの話を初めて知ったとき、しばらく笑っていいのか分からなかった。

なぜ退役したのか|後継のステルス機が消え、「なんでもホーネット」の時代へ

A-6は1997年2月28日、VA-75の解隊とともにアメリカ海軍から姿を消した。最初の実戦飛行隊だったVA-75が、最後の飛行隊にもなったわけだ。海兵隊はひと足早く、1993年4月に手放している。

退役の理由をひとことで言えば、「後継がこけて、まとめて整理された」になる。

本来、A-6の後を継ぐはずだったのは、マクダネル・ダグラスとジェネラル・ダイナミクスが開発していたステルス攻撃機A-12アヴェンジャーIIだった。上から見ると真っ平らな三角形で、「空飛ぶドリトス」と呼ばれた機体だ。ところが開発費の超過と遅れが膨らみ、1991年1月、当時のチェイニー国防長官が計画を打ち切った。湾岸戦争が始まる直前のことだ。そのあとに立ち上がった後継計画のA/F-Xも、1993年の国防計画の見直しで消えてしまった。

その一方で冷戦が終わり、国防予算は削られ、国防総省は空母航空団や海兵隊の機種を減らす方向へ舵を切った。A-6はもともと設計が古く、1980年代末から入れた複合材の新しい主翼には、剛性が高すぎて胴体の疲労を早めるという副作用まであった。翼を新しくして延命しても、今度は胴体のほうが先に悲鳴を上げる。

結局、海軍の攻撃任務は、爆撃能力を持たせたF-14D「ボムキャット」と、F/A-18、そしてのちのF/A-18E/Fスーパーホーネットが引き継いだ。トップガンでおなじみのF-14トムキャットが晩年に爆弾を抱えるようになったのは、A-6の穴を埋めるためでもあった。

A-6の退役は正しかったのか

ここは、いまでも意見が分かれる。

A-6は、空母から遠くまで飛んで、たくさん積んで、夜に当てる飛行機だった。ホーネットは扱いやすく、空戦もこなせる万能機だが、航続距離と搭載量ではA-6に及ばない。A-6がいなくなって空母航空団の「腕」が短くなった、という指摘は、退役した当時からあった。

その議論は、形を変えていまも続いている。中国の対艦ミサイルが空母を沿岸から遠ざける時代になり、アメリカ海軍は艦載の無人給油機MQ-25で航続距離を補おうとし、次世代の艦上戦闘機F/A-XXの開発も進めている。言ってみれば、A-6が持っていた「遠くまで届く力」を、30年かけて別の形で取り戻そうとしているのだ。

私はこの流れを知ってから、A-6を「時代遅れで退役した古い攻撃機」とは見られなくなった。退役したのは機体であって、A-6が背負っていた仕事は、いまも空母の課題として残っている。

AC8から来た人へ|ゲームのA-6Eと実機の違い

ゲームでA-6Eに乗った人向けに、実機との違いを少しだけ書いておく。

エースコンバット8のA-6Eは「攻撃機」に分類され、ミッション14「Two on the Run」をクリアすると機体ツリーに入る。海外のファンWikiの記載を見る限り、特殊兵装は対地ミサイルのLAGMを基本に、対艦ミサイルのLASMや無誘導爆弾も選べるようだ。実機のA-6Eが晩年にハープーン対艦ミサイルを運用していたことを思えば、対艦の選択肢があるのは、なかなか分かっている作りだと思う。

大きく違うのは機関砲だ。ゲームのA-6Eは機関砲を撃てるが、実機のA-6は機関砲を一門も積んでいなかった。空中戦をする飛行機ではないと、最初から割り切っていたのだ。自衛用に空対空ミサイルのサイドワインダーを吊るすことはできたが、それも「逃げるため」の装備だった。ゲームでA-6Eに乗ってドッグファイトに勝てたなら、それは実機には到底できない芸当ということになる。

それから、ゲームでは1人で飛ばしているが、実機は右の席にB/Nがいて初めて仕事ができる飛行機だった。2人で1機。ここがA-6を理解するいちばんの勘どころだと私は思っている。

AC8に出てくる機体の実機スペックはAC8機体一覧に、ゲーム全体の最新情報はエースコンバット8最新情報まとめにまとめている。

投資の視点|グラマンはいま、ノースロップ・グラマンの中にいる

A-6を作ったグラマンは、1994年にノースロップに買収され、ノースロップ・グラマンになった。グラマンの艦上機の系譜は会社の中で生きていて、空母で使う早期警戒機E-2Dホークアイを作っているのはこの会社だ。ほかにもステルス爆撃機B-21レイダーや、次世代の大陸間弾道ミサイルなど、アメリカの抑止力の中核を握る仕事を多く抱えている。

ワイルドキャットからA-6まで艦上機ひと筋だった会社が、いまは爆撃機やミサイル、宇宙まで手がける巨大な防衛企業になっている。そう考えると、A-6を知ることは、この銘柄の「出自」を知ることでもある。業績や配当の詳しい話はノースロップ・グラマン(NOC)株の解説で整理しているので、興味があればそちらもどうぞ。

※この記事は特定の銘柄の売買を勧めるものではない。株価や業績は変動し、元本割れの可能性もある。投資判断は自己責任で。

米国株も含めて防衛関連の銘柄をチェックしたいなら、日本株と米国株の両方を扱える証券口座をひとつ持っておくと何かと便利だ。

模型と本で楽しむA-6

博物館に展示されたA-6イントルーダー。
博物館に展示されたA-6イントルーダー。
写真・素材:GreaterPonce665/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

A-6のプラモデルは、ハセガワやフジミ、イタレリの1/72、ホビーボスの1/48などが出ている。TRAMターレットの付いたA-6Eと、ベトナム時代のA-6Aとでは機首まわりの顔つきがかなり違うので、どの時代を作るか選ぶところから楽しい。

同じ空母航空団で肩を並べていたグラマンの兄弟分、F-14トムキャットと並べると、「グラマン鉄工所」の艦上機らしい空気がぐっと出る。

空母と艦載機の全体像をざっと眺めたいなら、図鑑も1冊あると便利だ。A-6がいた時代の空母航空団と、いまの航空団の顔ぶれを見比べると、退役の意味がよく分かる。

映画なら、スティーヴン・クーンツの小説を原作にした『イントルーダー 怒りの翼』(1991年)がA-6の物語だ。クーンツ自身、ベトナム戦争で空母エンタープライズからA-6を飛ばした元パイロットで、小説は1986年に米海軍協会の出版部門から出た。乗っていた本人が書いているだけあって、B/Nとの掛け合いがやけに生々しい。

よくある質問

A-6とEA-6Bの違いは?

A-6は爆弾やミサイルで目標を攻撃する2人乗りの攻撃機、EA-6Bは胴体を延ばした4人乗りの電子戦機だ。EA-6Bは敵のレーダーや通信を妨害するのが仕事で、A-6の退役後も2019年まで使われた。

A-6は自衛隊で使われたことがある?

ない。運用したのは米海軍と米海兵隊だけだ。ただし厚木基地には、1973年から1990年代半ばまで米海軍のA-6飛行隊がいた。

A-6に機関砲はある?

ない。A-6は空中戦を想定しておらず、固定武装を持たない。自衛用に空対空ミサイルのサイドワインダーを搭載することはできた。

A-6の最高速度はどれくらい?

海面高度で時速約1,040km。音速には届かない。速さではなく、夜間や悪天候でも目標を見つけて当てる能力で勝負した機体だ。

A-6はなぜ退役した?

後継のステルス攻撃機A-12が1991年に中止され、冷戦後の予算削減で空母航空団の機種を減らす方針が取られたからだ。機体の老朽化も重なり、海軍では1997年に退役し、攻撃任務はF-14やF/A-18が引き継いだ。

まとめ|A-6は「夜の空母航空団」そのものだった

A-6イントルーダーは、速さも格好よさも持たなかった。機関砲もなかった。そのかわり、2人の乗員とレーダーとコンピューターで、夜と悪天候を自分の時間に変えた。北ベトナムに「B-52が来た」と言わせ、ペルシャ湾ではイランのフリゲートを沈め、厚木からミッドウェイに乗って湾岸戦争の初日を飛んだ。

操縦する者と当てる者を分けるという考え方は、九七艦攻の時代から続く艦上攻撃機の伝統だった。A-6は、その伝統を電子の目で夜の空に持ち込んだ、最後の専用艦上攻撃機だったのだと思う。ほかの機体と強さを比べてみたい人は世界最強戦闘機ランキングを、戦闘機や攻撃機の種類の違いをざっと押さえたい人は戦闘機の種類一覧をどうぞ。

最後まで読んでくれてありがとう。長い記事を書くときのお供は、だいたいこれだ。

出典・参考資料

表紙の写真素材:
写真・素材:Tech. Sgt. Rose Reynolds, USAF/Wikimedia Commons(Public domain)。背景・レイアウト・文字を編集。

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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