F-105サンダーチーフとは|核爆弾1発を抱えて超音速で突っ込むはずだった「サッド」は、なぜベトナムで爆撃とミサイル狩りを背負ったのか──設計、D型とF/G型の年表、派生型を解説

F-105 サンダーチーフ 設計と任務がすれ違った巨人

F-105サンダーチーフほど、生まれたときの役目と、実際に背負わされた仕事がかけ離れた戦闘機は珍しい。

もともとF-105は、核爆弾を1発だけ胴体の中に抱え、低い高度を超音速で飛んで敵地に突っ込むための機体だった。ヨーロッパで大きな戦争が起きたとき、ソ連側の飛行場や拠点に核攻撃をかける。それがアメリカ空軍がこの機体に求めた役目だった。

ところが実際にF-105が戦った相手は、北ベトナムの対空砲火と地対空ミサイル、そしてミグ戦闘機だった。核爆弾の代わりに通常の爆弾を翼の下にずらりと吊るし、来る日も来る日も北ベトナムへの爆撃に出た。さらに後には、対空ミサイルの陣地を狩り出す危険な任務まで任されることになる。

この記事では、F-105の当初の設計と、その後の任務の変化を軸に、主力のD型と、複座のF型、ワイルド・ウィーゼル(対空陣地制圧)用のG型を年表で整理していく。ベトナム戦争の全体像ではなく、F-105という一機種がたどった道の話だ。

この記事のポイント
目次

F-105サンダーチーフとは|基本情報(F-105D)

外部兵装を搭載して飛ぶF-105Dサンダーチーフ。
外部兵装を搭載して飛ぶF-105Dサンダーチーフ。
写真・素材:USAF/Wikimedia Commons(Public domain)
項目 内容
開発 リパブリック・アビエーション、設計の中心はアレクサンダー・カルトベリ
初飛行 試作機YF-105Aが1955年10月22日
配備開始 F-105Bが1958年、主力のF-105Dが1960年
生産 B型71機、D型610機、F型143機など、計833機
全長/全幅 約19.6m/約10.6m
最大離陸重量 約24トン
エンジン プラット・アンド・ホイットニーJ75(アフターバーナーと水噴射で約12トンの推力)
最大速度 マッハ2.1前後(高空)
武装 M61バルカン20mm機関砲、爆弾など最大約6.3トン
愛称 サッド(Thud)、リード・スレッド(鉛のそり)など

当初の設計|「核爆弾1発を、超音速で、低空から」

防空網制圧型F-105Gを下から見る。複座型も単発エンジンを備える。
防空網制圧型F-105Gを下から見る。複座型も単発エンジンを備える。
写真・素材:Service Depicted: Air Force Camera Operator: A1C SHERYL D. BARNETT/Wikimedia Commons(Public domain)

生まれた時代

F-105の設計は、朝鮮戦争のさなかの1951年、リパブリック社で始まった。設計の中心にいたのは、第二次世界大戦のP-47サンダーボルトを手がけたアレクサンダー・カルトベリだ。

当時のアメリカ空軍は、ソ連との全面戦争になれば、核兵器で一気に相手の戦力を叩くことを考えていた。大型の爆撃機だけでなく、戦闘機ほどの大きさの機体でも核攻撃ができれば、より柔軟に戦える。F-105は、そんな「戦術核攻撃機」として構想された。

戦闘機なのに爆弾倉がある

F-105のいちばんの特徴は、胴体の中に爆弾倉を持っていたことだ。普通の戦闘機は爆弾を翼や胴体の下に吊るすが、F-105は核爆弾1発を胴体の中に収め、空気抵抗を減らしたまま超音速で飛べるように作られた。低い高度を高速で飛んで敵のレーダーをかいくぐり、目標に核爆弾を投下して逃げる。それが設計の前提だった。

もっとも実際の運用では、核爆弾を積むことはなく、この爆弾倉には追加の燃料タンクを入れて使うことが多かった。生まれた目的の痕跡だけが、胴体の中に残ったわけだ。

大きく重い、単発の機体

F-105は、当時の単座・単発の戦闘機としては、とびきり大きく重かった。最大離陸重量は約24トン。第二次世界大戦の双発爆撃機に迫る重さを、1基のJ75エンジンで押していた。

低空を高速で飛ぶために、主翼は小さく薄い後退翼にしてある。小さな翼は低空での揺れを抑え、高速には向くが、旋回や離着陸は得意ではない。パイロットたちが「鉛のそり」と呼んだのも、この重さと翼の小ささゆえだ。

外観の見分けどころ

F-105は、一目で分かる特徴をいくつも持っている。

  • 主翼の付け根にある空気取り入れ口が、前に向かって斜めに切れ込んだ独特の形をしている
  • 胴体の中ほどが、くびれたように細くなっている。超音速での空気抵抗を減らす「エリアルール」に従った形だ
  • 尾部の排気口のまわりに、花びらのように4枚に開くエアブレーキがある

特に、斜めに切れ込んだ空気取り入れ口は、F-105を見分ける決め手になる。

D型とF/G型の年表

F-105の歩みを、型の変化を中心に年表にまとめておく。

年 出来事
1951年 リパブリック社で設計開始。低空を超音速で侵攻する戦術核攻撃機として構想
1955年10月 試作機YF-105Aが初飛行
1958年 最初の量産型F-105Bが配備される
1959年6月 主力のF-105Dが初飛行。全天候で目標を狙える航法・爆撃装置を備える
1960年9月 F-105Dの配備開始
1962〜63年 沖縄の嘉手納、福岡の板付の航空団がF-105Dに機種転換
1963年6月 複座のF-105Fが初飛行。本来は訓練用
1965年3月 北ベトナム爆撃「ローリング・サンダー作戦」開始。タイの基地からF-105Dが主力として出撃
1966年1月 F-105Fを改造したワイルド・ウィーゼル機が初飛行。6月に初出撃
1967年 ワイルド・ウィーゼルのF-105Fに乗ったパイロットが、2人続けて名誉勲章を受ける
1960年代後半 F-105Fをさらに改造した対空陣地制圧専用のF-105Gが登場
1968年 ローリング・サンダー作戦が終わる
1970年ごろ F-105Dが東南アジアの第一線から退く。F-105Gはその後も残る
1972年 北ベトナムへの爆撃再開(ラインバッカー作戦)でもF-105Gが出撃
1983年5月 最後のF-105Gが州空軍から退役
1984年2月 予備役のF-105Dが最後の飛行を行い、F-105の歴史が終わる

D型|主力の単座型

要点

F型|訓練用の複座型

F-105Fは、D型の胴体を延ばして後ろにもう一つ座席を加えた複座型だ。本来は、パイロットの訓練に使うための機体だった。ところが、この「後ろの席」があったことが、F-105の運命を大きく変える。

G型|ミサイル狩りの専用機

F-105Gは、ワイルド・ウィーゼル任務のためにF-105Fを本格的に改造した機体だ。敵のレーダー波を探知して方向を割り出す装置、自分を守る電波妨害装置、そしてレーダー波をたどって飛ぶ対レーダーミサイルを積んだ。数十機のF型がG型に改造され、ベトナム戦争の最後まで、そして戦後も州空軍で長く使われた。

任務の変化①|ベトナムの「爆撃の主力」へ

展示されたF-105Dの側面。
展示されたF-105Dの側面。
写真・素材:Zala/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

1965年、アメリカは北ベトナムへの本格的な爆撃に踏み切った。この「ローリング・サンダー作戦」で、空軍の爆撃の中心を担ったのがF-105Dだった。

F-105Dは、タイのコラートやタクリの基地から飛び立ち、空中給油機から燃料を受け取って、北ベトナムの橋や鉄道、工場、補給路を爆撃した。核爆弾1発のために作られた爆弾倉は燃料タンクになり、代わりに胴体の下や翼の下に通常爆弾をずらりと吊るした。機体の大きさとエンジンの力が、重い爆弾を運ぶ仕事にはかえって向いていたのだ。

ハノイの近くには、F-105のパイロットたちが目印にした山並みがあり、「サッド・リッジ(サッドの尾根)」と呼ばれた。F-105がどれほど日常的に北ベトナムの空を飛んでいたかを物語る名前だ。

爆撃機でありながら、空中戦でも戦果を挙げている。F-105は公式に27.5機のミグ17を撃墜したとされ、その多くは機関砲によるものだった。

しかし、代償はあまりにも大きかった。北ベトナムは、ソ連や中国の支援で、対空砲と地対空ミサイル、ミグ戦闘機を組み合わせた強力な防空網を築いていた。低い高度で目標に向かうF-105は、対空砲火の格好の的になった。生産された833機のうち、東南アジアで失われたのは380機前後にのぼる。生産数の半分近くだ。

なぜこれほど失われたのか。F-105は低空を高速で一直線に突っ込む核攻撃のための機体で、何度も同じ空域に通い、対空砲火の中で爆弾を落とし続けるような戦い方は想定していなかった。それに加えて、同じような時間帯、同じようなルートで繰り返し出撃させられたことも、損害を大きくしたと言われている。設計の前提と、実際の使われ方のずれが、これほど大きな犠牲につながった例は多くない。

任務の変化②|「ワイルド・ウィーゼル」の主役へ

北ベトナムの地対空ミサイルは、アメリカ軍にとって大きな脅威だった。そこで生まれたのが、ミサイルの陣地を探し出して叩く専門の任務、「ワイルド・ウィーゼル」だ。

ワイルド・ウィーゼルの機体は、攻撃隊より先に敵地に入り、敵のレーダーが電波を出すのを待つ。電波を探知したら、その方向に向かって対レーダーミサイルを撃ったり、爆弾を落としたりして陣地を黙らせる。いわば、わざと敵に狙わせて、狙ってきた相手を逆に仕留める任務だ。標語は「最初に入り、最後に出る」。危険きわまりない仕事だった。

この任務に、F-105Fの「後ろの席」がぴったりはまった。前の席のパイロットが機体を操り、後ろの席の電子戦士官がレーダー波を読み解いて、敵の陣地の位置を割り出す。1966年に最初のワイルド・ウィーゼル用のF-105Fが出撃し、のちに専用のG型へと発展していった。

1967年には、ワイルド・ウィーゼルのF-105Fに乗ったパイロット2人が、アメリカ軍で最高の勲章である名誉勲章を受けている。訓練用の複座型として生まれた機体が、もっとも危険な任務の主役になったのだ。

ワイルド・ウィーゼルの考え方は、その後の電子戦や敵防空網の制圧の任務に受け継がれていく。同じベトナム戦争の時代に、海軍・海兵隊の側で電波妨害の役目を担ったのがEA-6Bプラウラーだ。現代の電子戦機の顔ぶれについては世界の電子戦機一覧で整理している。

F-4との交代

ベトナム戦争の後半になると、空軍の戦闘爆撃の主力は、より万能なF-4ファントムIIへと移っていった。F-105の生産は1960年代半ばに終わっており、失われた機体を補うことができなかったことも大きい。

要点

日本の空とF-105

F-105Dの機首と操縦席。
F-105Dの機首と操縦席。
写真・素材:Zala/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

F-105は、日本ともつながりがある。1960年代、沖縄の嘉手納基地の第18戦術戦闘航空団と、福岡の板付基地の第8戦術戦闘航空団が、F-105Dに機種転換した。ベトナム戦争の時代、F-105は日本の基地から東南アジアへと展開していった。

当時の航空自衛隊は、F-104Jを主力の迎撃機に据えていた。同じ時代に、同じ日本の空を、核攻撃のために作られた巨大な単発機が飛んでいたことになる。在日米軍の基地の今の姿については在日米軍基地一覧にまとめている。

一式陸攻と重なる「想定外の使われ方」

F-105の歴史を読んでいると、私は旧日本海軍の一式陸上攻撃機を思い出す。

一式陸攻は、長大な航続距離で敵の艦隊に雷撃を仕掛けるために作られた機体だった。その長い足を手に入れるために、燃料タンクの防弾は後回しにされた。ところが戦争が進むと、一式陸攻は艦隊攻撃だけでなく、陸上の目標への爆撃や輸送にまで使われ、厳しい防空網の中で多くの機体と搭乗員を失っていった。

どちらも、ある任務のためにとがった設計をした機体が、想定とは違う戦い方を長く強いられ、大きな損害を出した。兵器は、設計の前提と使われ方がずれたとき、その弱点がいちばん残酷な形で表に出る。F-105と一式陸攻は、国も時代も違うが、同じ教訓を残しているように思う。

リパブリックの「サンダー」の系譜

正面から見たF-105D。
正面から見たF-105D。
写真・素材:Zala/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

F-105を作ったリパブリック社は、「サンダー」の名を受け継いだ機体を作り続けた会社だった。

機体 時代 特徴
P-47サンダーボルト 第二次世界大戦 重く頑丈な戦闘機。地上攻撃でも活躍
F-84サンダージェット/サンダーストリーク 朝鮮戦争の時代 リパブリック初のジェット戦闘爆撃機
F-105サンダーチーフ ベトナム戦争 戦術核攻撃機から戦闘爆撃機へ
A-10サンダーボルトII 冷戦後期〜現在 近接航空支援の攻撃機(フェアチャイルド・リパブリック)

重く、頑丈で、地上を攻撃する。リパブリックの機体には、時代を超えて共通する性格がある。この系譜の最後に連なるA-10サンダーボルトIIが、今も「地上攻撃の名機」として語られているのは偶然ではないだろう。

投資家目線|名門リパブリックのその後

リパブリック社は、F-105の生産が終わったあとの1965年、フェアチャイルドに買収された。その後、フェアチャイルド・リパブリックとしてA-10を生み出したが、1980年代に航空機の製造から退いている。

P-47とF-105、そしてA-10。名機を三つも世に出した名門でも、次の大型の契約を取れなければ、会社として生き残ることは難しい。防衛産業では、一つの機種の成功が会社の未来を保証してくれるわけではないことを、リパブリックの歴史は教えてくれる。

※この記事は特定の銘柄の売買を勧めるものではない。株価や業績は変動し、元本割れの可能性もある。投資判断は自己責任で。

模型で「サンダー」の系譜を並べる

残念ながら、F-105のキットはまだこのブログで紹介できる商品がない。代わりに、リパブリックの「サンダー」の原点、P-47サンダーボルトを紹介したい。同じ設計者の手による、重く頑丈な戦闘機の先輩だ。

F-105と入れ替わるように、ベトナムの空の主役になったのがF-4ファントムIIだ。同じ時代の空を思い浮かべながら作るのも楽しい。

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よくある質問

F-105サンダーチーフはどんな機体?

もともとは、核爆弾1発を胴体内に収め、低い高度を超音速で飛んで敵地に突っ込む戦術核攻撃機として作られた、単座・単発の大型の機体だ。ベトナム戦争では、通常爆弾を積む戦闘爆撃機として北ベトナム爆撃の主力になった。

F-105DとF-105F、F-105Gの違いは?

D型は主力の単座型で、最も多く作られた。F型は訓練用に作られた複座型で、後ろの席を生かしてワイルド・ウィーゼル任務にも使われた。G型は、そのF型を対空陣地制圧の専用機に改造したものだ。

ワイルド・ウィーゼルとは?

敵の地対空ミサイルの陣地を探し出して制圧する任務、またはその任務につく機体のことだ。わざと敵のレーダーに狙わせ、電波の出どころを突き止めて攻撃する。F-105F/Gはその代表的な機体だった。

なぜ「サッド」と呼ばれた?

由来には諸説ある。大きく重い機体が地面にぶつかる音を表したという説などがあるが、はっきりしたことは分かっていない。パイロットたちは、半ば愛情を込めてこの名で呼んだ。

F-105は日本にもいた?

いた。1960年代に、沖縄の嘉手納基地と福岡の板付基地のアメリカ空軍の航空団がF-105Dを使っていた。航空自衛隊がF-105を導入したことはない。

F-105はなぜ多く失われたのか?

低空を高速で突っ込む核攻撃のために作られた機体が、強力な防空網のもとで、何度も同じような通常爆撃を繰り返すという、想定外の使われ方をしたことが大きい。生産数の半分近くが東南アジアで失われた。

まとめ|設計と任務のずれが生んだ、悲劇と名声

F-105サンダーチーフは、核爆弾1発を胴体に抱え、低空を超音速で侵攻する戦術核攻撃機として生まれた。しかし実際の戦場はベトナムで、F-105は通常爆弾を積んで北ベトナム爆撃の主力になり、生産数の半分近くを失った。その一方で、訓練用の複座型だったF型は、ワイルド・ウィーゼルという最も危険な任務の主役になり、G型へと発展していった。

D型、F型、G型の歩みをたどると、兵器が設計の前提を離れて使われたとき、何が起きるのかがよく見えてくる。F-105は、その厳しい現実を背負いながら、パイロットたちに「サッド」と呼ばれて愛された機体だった。戦闘爆撃機や攻撃機の役割の違いは戦闘機の種類一覧で整理している。

最後まで読んでくれてありがとう。長い記事を書くときのお供は、だいたいこれだ。

出典・参考資料

表紙の写真素材:
写真・素材:USAF/Wikimedia Commons(Public domain)。背景・レイアウト・文字を編集。

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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